聖書のみことば
2020年6月
  6月7日 6月14日 6月21日 6月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月21日主日礼拝音声

 賛美と祈り
2020年6月第3主日礼拝 6月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第16章16〜40節

<16節>わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。<17節>彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」<18節>彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。<19節>ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。<20節>そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。<21節>ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」<22節>群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。<23節>そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。<24節>この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。<25節>真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。<26節>突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。<27節>目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。<28節>パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」<29節>看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、<30節>二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」<31節>二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」<32節>そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。<33節>まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。<34節>この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。<35節>朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。<36節>それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」<37節>ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」<38節>下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、<39節>出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。<40節>牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。

 ただいま、使徒言行録16章16節から40節までをご一緒にお聞きしました。16節に「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」とあります。
 「祈りの場所に行く途中」と言われています。使徒パウロと同働者シラスは、若い助手ルカとテモテを伴い、小アジアのトロアスからエーゲ海を渡りヨーロッパへ行きました。「マケドニア州に来て、私たちを助けてほしい」という幻を示されたからです。パウロ一行は、マケドニアの中心地フィリピに来ましたが、そこにはユダヤ人があまり住んでいなかったようでユダヤ教の会堂は見られませんでした。それは、この町の成り立ちとも関係しているようです。フィリピの町はローマ帝国が東から来る敵に備えて兵隊を駐屯させ、人工的に作った植民都市でした。ですからこの町の人は、外国人、特に東方面の人たち(ユダヤ人も)に対して警戒心を持っていました。それでユダヤ教の会堂がなかったのですが、パウロたちは川岸の人通りの多い場所に向かいました。ユダヤ人たちが自前の街道を持てない土地では、川岸とか広場、人が多く行き交う場所に、自分たちの祈りの場所を設けることが多かったためです。予想した通りユダヤ人が集っている場所にパウロは立ち、安息日の礼拝に集まった人たちに、会堂でするのと同じように主イエスの十字架と復活の話をしました。神はそのようなパウロの働きを用いてくださり、紫布を扱うリディアという女商人の心を開いてくださったので、リディアはパウロたちの言葉を信じて洗礼を受けることになりました。このリディアがヨーロッパで最初のキリスト者となった人物です。
 リディアは紫布を扱う商人で比較的裕福でしたので、落ち着き先の決まっていなかったパウロたちを招き入れ、後にはリディアの家がフィリピ教会の発祥の地となったと伝承されています。

 このように、この町で一人のキリスト者が与えられましたが、パウロたちはそれだけでは満足しませんでした。パウロに示された幻では、現れたマケドニア人は、「マケドニア州に来て、私たちを助けてほしい」と語っていたからです。「私たちを助けてほしい。どうか主イエスの言葉を聞かせ、救いへと導いて欲しい」という願いがあるのに、たった一人のキリスト者が生まれたことでは満足しないのです。
 リディアの家は、言うなれば、これから全ヨーロッパに福音が伝えられ、大勢の人が信じ、救われていく足掛かりのようなものです。フィリピの町で、またさらにここから始まってヨーロッパの町々に救いを望んでいる人々が大勢いることを、パウロは幻によって示されています。ですから、今は、リディアの家にいて落ち着いているような時ではありません。リディアと出会わされたように、この町の様々な場所で救いを必要として祈っている人がいるはずです。パウロたちは、そういう人たちとの出会いを求めて、町の方々にある祈りの場所を訪ねて回りました。それが「祈りの場所に行く途中」と言われていることです。
 パウロたちは、この町に小さなキリスト者の群れが生まれたということに満足するのではなく、さらに大きな群れが与えられることを、信仰によって望みみています。もちろんそれは、一足飛びに起こることではありません。今ここで信仰を与えられて生活している兄弟姉妹たちの信仰生活に注意を払いながら、焦らず、神経質にならず、しかし教会が成長していくことを来る日も来る日も祈り続け、新たな信仰者が起こされて群れに加えられるように、教会が皆で希望を持ち終わりの完成の日に向かって一緒に歩んで行けるように、パウロは願い求め待ち続けています。
 私たちも、今の時代、パウロのような祈りを持ち続けることが必要ではないかと思います。この土地に福音が根付いて、さらに多くの方々が救いに入れられますようにと祈りを捧げ続けることが、私たちにも求められていると思います。 しかしそれは、私たちが自分たちの計画によって押し進めるということではないかもしれません。神ご自身の御心が実現しますように、神がこの群れに加えてくださる魂を起こしてくださいますように、焦らず、しかし怠らず、静かに根気よく祈って待ち続けるという姿が大切だと思います。

 神は今ここで、パウロたちに一つのご計画をお示しになります。それは誠に思いがけない一つの出会いから始まります。「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」、この出会いから、一つのことが始まって行きます。
 「占いの霊に取りつかれている女奴隷」とありますが、ギリシャ語の聖書によりますと「占いの霊」ではなく「ピュトンの霊」と書かれています。「ピュトン」というのは、ギリシャ神話に登場する巨大な蛇です。パイソン(錦蛇)の語源になったのがピュトンです。ギリシャ神話に出てくるピュトンは、弓の名手であるアポロンという神によって射殺されるのですが、アポロンはピュトンの死骸を丁寧に、デルフォイ神殿の深い岩の裂け目に葬りました。そこから時折異様な精気が立ち上り、それを浴びた神殿の巫女たちが神々のお告げを語るようになったという言い伝えがあり、パウロの時代、デルフォイの神託所とか、デルフォイの巫女というのは大変有名になっていたそうで、多くの人たちが、神託を求めて神殿に詣でていたようです。
 今日の箇所に出てくる「占いの霊に取りつかれている女奴隷」は、デルフォイの巫女たちと同じような霊を持っているという触れ込みになっていたのでした。その真偽のほどは定かではありませんが、この人にはある種の霊感があり、様々に語り、デルフォイの巫女と同様とみなされ、フィリピの町で知られていました。ですから、彼女のもとには、デルフォイまで行けないけれど、悩み事のある人たちの相談がたくさん持ち込まれてきたようです。 それで、彼女は多くの相談に答えなければならなかったのですが、返事をするということは大変なことで、その返事が常に良い方向へ向かうかどうかの保証はありませんので、相談に対する返事をする時にはかなり慎重なことが普通ですが、そうであってもどうなるか分からないという状況の中で、彼女はだいぶん、精神的にはすり減っていたようです。けれども、そうであっても多くの人たちに託宣を与えていく、その見返りとして、莫大な富が入ってきました。
 ところが、この富は彼女の収入にはなっていきません。彼女は奴隷ですから、彼女に支払われたものは全て、奴隷の所有者のものになります。16節に「この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」とあります。「主人たち」とありますから、彼女の主人は複数いたようです。この女占い師に関しては権利関係が複雑で、彼女は「金の卵を産むガチョウ」のようなものですから、何とかして自分もそこに一枚噛みたいと思う人が権利を主張したり、あるいは利益の分け前をその人たちに与えることで、より一層、富や権力を我がものとしたい思惑があったりして、何重にも支配され搾取されていた、そういう中に彼女は置かれていました。利益のためには人間を奴隷としてこき使い、搾取に搾取を重ねても平気である、そういう醜い動きが、一人の女奴隷を巡って起こっていたことです。

 さて、この女占い師が、ある日、自分の側を通って祈りの場に向かっていくパウロたちを見かけました。すると彼女の霊感が騒ぎ、パウロたちにただならないものを感じ取り、追いかけてきました。そして、17節に「彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。『この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです』」とあるように、パウロたちの行く先々で叫びました。
 一見すると良い宣伝のようですが、パウロたちにしてみれば迷惑なことでした。パウロたちはユダヤ人たちの祈りの場所で、祈りの後に旧約聖書から説き起こし、神が預言者を通して救い主を送ると約束してくださった、その救い主は主イエス・キリストであり、主イエスは十字架にかかり、死んで後、復活して私たちと共にいてくださり、終わりの時にもう一度私たち一人一人のもとを訪れてくださって神の永遠の命のもとに私たちを完成してくださるという話を、ゆっくりとしたいのです。それなのに、横あいから、ギリシャ神話の神々しか知らないピュトンの霊に取り憑かれた女占い師が口を挟みますと、話がギリシャ神話の神々の方に向き、真実の神の話から逸れてしまう、そのような状況が続いたようでした。
 それである日、パウロはこの女性に向かって宣言しました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。この女性に取り憑いていたピュトンの霊をパウロは追い出しました。それはパウロの力なのではなく、「主イエス・キリストの名によって命じる」とあるように、主イエスがお働きくださって「どうか、この女性を、占いをしなければならないという衝動から解き放ってくださるように」と祈りながら宣言したのでした。 そうしたところ、主イエスがマグダラのマリアから7つの悪霊を追い出したときのようなことが起こり、18節「すると即座に、霊が彼女から出て行った」と語られています。
 この女性はもう、託宣を語りません。これまで多くの悩み事や相談を受けて、心をすり減らしながら答えていましたが、そういう役目から解放され、この女性にとっては安堵することでした。

 けれども、この女性によって多くの利益を得ていた人たちは、当然のことながらパウロたちに憤りました。そして反撃を開始するのですが、その際に、彼らは本当の理由を言いませんでした。彼らは、パウロたちがフィリピの町の風習を乱して不穏なことを企んでいると吹聴しました。20節21節に「そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。『この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております』」とあります。彼らの本当の理由は、お金の損失を被った、期待していた利益を失ったということですが、彼らはそれを隠し、むしろ、フィリピの町が外国人に対して警戒心を持っているという住民感情に訴えるのです。パウロとシラスに「好ましくないユダヤ人」というレッテルを貼ります。それと共に、奴隷所有者たちはお金に糸目をつけずに世論を誘導します。
 その結果、フィリピの町の群衆は、奴隷所有者たちの訴えを間に受けて大いに気持ちを昂らせました。22節に「群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、『鞭で打て』と命じた」とあります。お金の力で動かされるようにして、フィリピの町の世論は傾いて行きました。町の当局者たちは世論に後押しされ、パウロとシラスに正当な弁明の機会も与えずに、いきなり二人を激しく鞭打ち、さらに牢屋に繋ぎました。これは裁判の手順とすれば明らかに瑕疵があるのですが、こういうやり方で、二人はフィリピの町の牢獄の奥深くに追いやられて行きました。
 幻を見せられヨーロッパに渡ってきた伝道者たちは、思いがけない敵に直面することになりました。この敵は宗教論争を挑んでくるのではありません。期待していた儲けが不意になってしまうことを恨み、見知らぬ外国人に対して警戒心がある、この二つの壁が二人の前に立ちはだかります。

 今日のような記事を読みますと、考えさせられます。お金の力にものを言わせたり、お金に動かされたりする、そういうことは今日でも当たり前に見られることです。あるいは、外国人に対する差別や偏見というものも、相変わらず無くなることがありません。そういう意味で、今日の記事は、私たちが頻繁に見聞きするような事柄、この世で普通に今も通用しているような事柄が、福音を伝えようとしている伝道者に対して牙を剥いていることを示しています。
 さらに読み進めますと、牢に繋がれた伝道者たちには辛い仕打ちが待っています。牢の看守が登場するのですが、看守は、鞭打たれてひどい傷を負っている二人を牢屋に受け入れると、傷の手当てをしないどころか、足に木の枷をはめ牢に繋ぎました。木の足枷は、人間の足を不自然な角度に開いておく仕掛けだったようで、そうされると眠れなかったそうです。
 看守は、パウロとシラスが憎くてそうしているのではなく、職務に忠実でした。職務上何のやましいところもない、囚人として繋がれた者には厳しく接することが正しいと思っていました。ひどい傷を負っている囚人を眠らせないように木の足枷で固定して、地下牢の一番奥の部屋に放置しました。そして自分は我が家に帰り、職務に忠実な正しい者として眠る、そういう生活をしていました。

 看守が帰った後、パウロとシラスは血を流したまま牢に繋がれています。眠ることもできません。ですから、人間的な言い方をすれば、この晩のパウロとシラスは本当に辛い事情のもとに置かれていました。一体この二人は、この晩をどのように過ごしたのでしょうか。辛い時、苦しい時に、どのようにしてこの状況を越えていったのでしょうか。
 この晩、同じ牢に繋がれていた囚人たちは、夜更けに二人が歌う賛美の声を耳にしています。また、二人が神に保護と導きを祈っている祈りの言葉も耳にしました。辛く苦しく痛んでいる時、信仰者にとって賛美と祈りは確かに力になります。困難な状況のもとに置かれて手も足も出ない、本当に無力だと思い知りながら、しかしそのままで自分を神にお委ねする。そこにあることが賛美でありお祈りです。深い嘆きや苦しみの中に置かれて眠れない、そういう経験をした方が、そこで神に祈り、「わたしは本当にどうにもならないけれど、神さまは、このようなわたしをご存知です。どうか、わたしを持ち運んでください」と、自分を神に委ねたという経験を持っているキリスト者は少なくないと思います。どうしようもなく気持ちが落ち込んで塞ぎ込んでしまう時、讃美歌を口ずさみ、「わたしは決して一人ではない、同じ賛美を歌う兄弟姉妹がいる」と慰めと勇気を与えられた経験を与えられた方もおられることでしょう。そのようにして、キリスト者は、本当に困難な時、貧しく乏しい自分自身を神にお委ねして、そして神が、今この状況のもとでわたしの上に御業をなさってくださることを待ち望むのです。そういう意味で、賛美とお祈りは、キリスト者にとって身近に与えられている武器だと言って良いと思います。賛美やお祈りは、決して魔術のように、神を自分に従わせる道具ではありません。逆に神のなさりようを待ち望みながら、今の自分を神に委ねて過ごす、そういう生活の中に祈りがあり賛美があるのです。
 二人はこの晩、自分たちを救いの御業のためにこの町にお遣わしになった神に、自分たちを委ねました。

 そして、そのようにして神を賛美し祈っていた姿が、牢屋に囚われていた他の囚人たちにも強い印象を与えたようです。この後、地震が起こり牢屋が壊れたのですが、囚人たちは一人もその場から逃げなかったという、大変不思議なことが述べられています。そういうことが起こったのは、一番奥の牢に捕らえられている二人の人が神にすっかり信頼して、牢の中にいても外にいる時にも、自分は神のものであり確かにそこに置かれているのだと委ねている姿を見聞きしていたことと関わりがあったと思われます。
 真夜中に大地震が起こり、牢の戸が全て開きました。足枷の鎖も皆外れました。牢の看守は家にいましたが牢にやって来て、牢の扉が皆開いているのを見て、当然囚人は逃げ出したと思い込み、早合点して自害しかけました。けれども、パウロがそれを思いとどまらせ命を助けました。28節に「パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる』」とあります。
 ここでの出来事は何だったのでしょうか。思いがけず地震が起こったことが奇跡だったのでしょうか。それともパウロとシラスが苦しい中で喘ぎながらも賛美を絶やさなかったということが奇跡なのでしょうか。しかし本当の奇跡は、実は、看守の上に起こっています。 すなわち、それまでこの看守は、職務を忠実に果たし、社会の歯車としてきちんと務めを果たしてさえいれば自分は正しく間違いないと思い込んで生きて来ました。自分の人生はこれで良いと思っていた。けれども、実は自分は失われていた人間、自分は救いを必要とする人間だったと気が付いた、その点が本当の奇跡なのです。
 神はこのことを起こそうとして、この場の出来事を行っておられるのです。看守はパウロに命を助けられて叫んでいますが、その叫びは、これから自分の処遇はどうなるのかというような叫びではありません。30節に「二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか』」とあります。自分には救いが必要だと、看守は気付きました。それまで自信に満ちた人生を送って来た、硬く冷たい心が、ここで砕かれています。
 この地震がどうして起こったのか分かりませんが、ある人たちは、パウロとシラスを滅ぼそうとする悪の力のあがきだったと言っています。悪の力は二人を滅ぼそうとして、ヨーロッパに渡って来た二人を地下牢にまで追いやり、地震を起こして瓦礫の下で殺してしまおうとしたのに、神は、そういう悪の力を逆手にとって、むしろこの地震の中で二人を保護し、たとえどんなに困難そうに思える時にも、本当に命と死を支配しているのは神ご自身なのだということを明らかになさったのです。地震の中で全ての囚人の命が守られただけではありません。看守の命も神は守ってくださり、看守にまことの救いを与え、また看守の家庭に救いをお与えになりました。主なる神は、滅ぼそうとする者の力より強く、拝金主義や差別主義、あるいは当たり前のように自分を正当化する人間の罪の思いよりも力強くおられるのです。

 この夜から朝にかけて、次々と闇に対して光が勝利するようなことが起こって行きました。かつては自分の正しさを確信して周りの人たちには冷淡であり、そしてまた、ミスをしてしまったら、もう終わりだと思って自害を図るような、大変脆さを抱えていた一人の看守が、ひざまづいて洗礼を受けました。それまでこの人は、上辺だけ、自分は正しいと思って生きて来ましたが、そうではなく「祝福された罪人」として、キリスト者の群れに加えられて行きました。
 そして、この看守が主イエスを信じたことで、パウロたちの傷口も洗われきちんと手当てがされます。家に招かれ食卓が用意され、パンが裂かれ杯が回されます。「主イエス・キリストがこの家にも来てくださった」、その喜びがこの家庭の中に満ち溢れました。34節に「この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」とあります。
 やがて朝が訪れ、パウロたちが実はローマの市民権を持つ者だったことが知られて行きます。前日には、騒々しい騒ぎの中で、「この二人はユダヤ人である。ローマ帝国に逆らう者だ」と言って、きちんとした詮議もせずに乱暴な処置をしてしまったのですが、実は牢屋に囚われているのもローマの市民だったということが明らかになって、前日の不当な処置に対する詫びが入れられました。フィリピの町に朝が訪れ、解放は、パウロたちが解放されたということだけではなく、占いの霊に取り憑かれた女奴隷も解放され、牢の看守も解放され、さらに多くの人にとっての解放の朝が訪れてくるのです。
 パウロたちがリディアの家に立ち寄り、兄弟姉妹に御言葉を語って励ました後、さらに先へと進んで行きます。それは、この町で、リディアの家でお世話になって満足する、そういう幻を見たのではなかったからです。さらに多くの人々を、それこそヨーロッパ全体に福音を伝えるという務めを与えられて、パウロたちはこの町にやって来たのでした。ですから、パウロたちは先へと進んで行きます。

 今日私たちが聖書から聞かされた一晩の出来事は、本当に困難と思えた一夜でしたが、しかし神は、その夜の間に、フィリピの町で救われる人々を起こしてくださいました。
 私たちも、今、この日本社会の中にあって、しばしば伝道が困難だと言われますけれども、しかしまさにその困難さの中にあって、神が働いてくださることを信じる者とされたいと願います。私たちも、落ち着きを与えられ、神がご計画を私たちの教会の上になさってくださることを信じて待ち望みながら、祈り賛美して、神のなさりようを讃えて歩む者とされたいと願います。

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