聖書のみことば
2020年1月
  1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月12日主日礼拝音声

 主によって豊かに
2020年1月第2主日礼拝 1月12日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)

聖書/コリンとの信徒への手紙二 第8章1〜9節

8章<1節>兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。<2節>彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。<3節>わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、<4節>聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。<5節>また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、<6節>わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。<7節>あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。<8節>わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。<9節>あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 ただいま、コリントの信徒への手紙二8章1節から9節をご一緒にお聞きしました。7節に「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」とあります。
 「あなたがたは本当に豊かな人たちなのですから」とコリンと教会の人たちに語りかけています。ここではこう聞いていますが、これまで私たちが聞いてきたことは、コリント教会には難しい問題がたくさんあるということでした。教会員の中にある罪の問題によって、教会全体が荒れる海をゆく船のように激しく揺り動かされて動揺している、そういう現状がありました。それは、この世の中でも見ないような罪の姿であったと、パウロは語っています。

 ところが、今日の箇所ではパウロは、コリント教会の人たちを「豊かな人たち、すべての点で富んでいる」と褒めています。一体教会の豊かさとは何でしょうか。コリント教会がすべての点で豊かなのはどのような点においてでしょうか。
 多くの場合、私たちは自分の欠けに目を向けて、「ここが足りない」と思い、そこを何とかして補おうと考えます。けれどもパウロはここで、コリント教会の欠けを指摘するのではなく、すべての点で豊かにされている教会の姿を語り、その上でさらに「慈善の業においても豊かな者となるように」と勧めています。豊かな上に、さらに豊かさを増すようにと語ります。
 「豊かな教会」を語るときにすぐに浮かぶことは、経済的な豊かさではないでしょうか。またそれに繋がっていますが、礼拝者の数や附属施設が豊かな実りをもたらすということもあります。教会には様々な豊かさがあると考えることができます。そして、教会の豊かさは、経済的なことだけで測ることはできないということも確かです。小さな群れが心を合わせて礼拝しているときに、そこに真実に豊かな神の恵みがあることを見ることができます。

 ここでパウロが豊かさとして挙げていますのは、「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、パウロたちから受ける愛」と言い、つまり「御言葉に耳を傾け、神の御心を知らされて、聖霊によって励まされて、互いに愛の交わりの中を生きる」、そういう信仰生活というものにおいて、「あなたがたは豊かである」と語られています。つまり、コリント教会は多くの欠けを持ちながらも、なお、神の民とされている。「あなたたちは豊かな群れとされているではないか」と、パウロはここで確認しています。
 たとえどんな境遇に置かれても、深い悩みの中で神を呼ぶという毎日であったとしても、孤独の海に投げ出されるようなことがあったとしても、罪の中で底無し沼に引き込まれそうになっているとしても、死の強大な力に飲み込まれそうになっているとしても、教会の人たちの豊かさは消え去ることはありません。山の上にある町のように隠れることなく、世の光として輝くものとされています。コリント教会はそういう意味で豊かな教会である、「あなたたちはすべての点で豊かである」と語られています。
 そしてそれは、私たちにとっても同じことであると思います。私たちには信仰生活が与えられており、このような神の救い、神の恵みの豊かさの中に入れられています。「あなたがたは豊かである」という言葉が、私たちにも語られています。それは、私たちが優れた者であるから与えられるものではないことが分かります。私たちが欠けある存在であるにもかかわらず、また様々な点で足りないところがあることを思うにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いによってすべての罪を赦され、救いへと入れていただいたという出来事がある、私たちは神の恵みをいただいて救われたという事実があるので、それが私たちの慰めであり希望であり、豊かさです。その意味で、私たちもまたコリント教会と共にパウロから、「あなたがたはすべての点で豊かな者とされている」と語りかけられていることを覚えたいと思います。

 教会の人たちが、救われた者として、すべての点で豊かであるということを確認した後で、「それだからこそ、更に豊かになるように」と、パウロは、あることを勧めています。それは、エルサレム教会の貧しいキリスト者たちへの献金の勧めでした。実は、コリント教会が取り組むよりも前に、マケドニア州の教会、フィリピ、テサロニケ、べレアの各教会が既に、この献金に取り組んでいたということが分かります。パウロは、マケドニア州の教会が献げている献金について、「神の恵みの出来事である」と語ります。1節2節に「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」とあります。
 マケドニア州の各教会は、エルサレム教会のために献金をお献げして、自分たちの持っているものを失うという経験をしました。献げる前よりも貧しくなるという経験です。そして、そのようにして教会が他の教会をお支えするという業が、神から与えられた恵みだとパウロは語ります。しかも、マケドニア州の各教会は、創立当初から迫害を受けていたことが知られています。使徒言行録にもそのように記されています。「苦しみによる激しい試練」という言葉があり、激しい迫害を経験していたばかりか、極度の貧しさの中にもあったと記されています。

 ですから、マケドニア州の教会は、余裕ある有り余る中から、大きな規模の教会から献げたのではなく、必要でないものを痛みを覚えることなく献げたのでもなく、迫害で自分たちが大変苦しい状況にある中で、また極度の貧さの中で、惜しまずに献げました。最初の教会がそういう姿を取っていたということを、私たちはここから知ることができます。
 そして、「私たちは神の恵みに与った、救われた」という喜びに満たされて、エルサレム教会を支えようと考えました。救いをいただいた教会、神の恵みを知った教会が、救われた恵みを仕舞い込むのではなく、自分たちだけのものにするのではなく、何とか表そうとしている、そういう姿を見ることができます。自分たちが経済的に非常に貧しくても、迫害の中で苦しい状況に置かれていたとしても、それを覆って余りある救いの喜びの中に生きて、エルサレム教会を支える献げものをしたのです。
 パウロはここで、「満ち満ちた喜び」という言葉を使っていますが、本当に救いに与った教会の喜びというものがこの言葉に表されていると思います。更にマケドニア州の各教会は、「力に応じて、また力以上に献げ、その献げる業に参加したいと強く願った」ことが3節4節に記されています。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」とあります。「聖なる者たち」というのがエルサレム教会の人たちを指しています。「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」というのは、慈善と奉仕に自発的に関わることを、マケドニア州の各教会が願ったということです。
 「慈善の業」と訳されている言葉は、元々「恵み」という言葉であり、4節にも6節にも7節にも同じ言葉が使われていますが、すべて「恵み」という言葉です。つまり、「エルサレム教会を支えることは、恵みの出来事だった」ということを、パウロは言い表そうとしています。

 教会がなぜ、そこまでしてエルサレム教会を支えたいと願ったのか。エルサレム教会の困窮した状況があったからですが、もちろん、自分たちには力があると思っていたわけではないことは分かります。自分から進んで、献げる業、恵みの業に加わりたいと願いましたが、それは自信や余裕があったからではありません。「自分たちが持っているものは与えられたものである。自分たちが独占するものではないし、好き勝手にできるものでもない。すべては神からいただいたものである。御手より受けたのだから、御業のために用いられるようにぜひ献げたい。神のために、神にお仕えして献げたい」と願いました。

 献金の讃美歌に「献げまつるものはすべて 御手より受けたる賜物なり」という歌詞がある通り、「神からすべてを受けた、救いの恵みに与った」という信仰に立って、教会は献げる思いを現していました。その姿をパウロは、「自分を献げる」という言い方で表しています。5節に「また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので」とあります。
 考えてみますと、「自分自身を献げる」という言葉に最も相応しいお姿をお取りになるのは、主イエス・キリストそのお方です。ご自分を献げてくださったというのは、イエス・キリストのお姿を表す言葉です。テモテへの手紙にも「この方は、すべてにおいて、すべての人の贖いとして御自身を献げられました」という言葉があります。「主イエス・キリストが御自身を私たちのために献げてくださった。私たちの救いのためにご自分を犠牲にしてくださった」と、御言葉は語っています。私たちの救いのためにすべてを献げてくださった主なる方がおられるので、この方からいただいた大きな贈り物をもって、この方にお仕えしようとして、私たちも生きようとしています。救いをいただいた、その中から、他の教会のために献げものをするというあり方が生まれています。「献げる恵みに富ませていただける」、それが、救いを与えられた者の大変大きな喜びであると思います。

 このことをパウロは、大変印象深い言葉で言い表しました。9節に「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」とあります。ここは「あなたがたは知っています。恵みを」という文章です。その恵みは、ただ幸せとか環境が整っているとか、状況が十分だということではなく、「救いを知り、罪の赦しを受けている。永遠の命へと招かれている」という恵みです。私たちを救いに入れるために、主イエスが父なる神の許からおいでになり、神の子としての豊かさ、栄光を捨てて、私たちのために飼い葉桶の幼子となってくださいました。罪なきお方であるにもかかわらず、罪ある者と共にあり、十字架の道を歩んでくださる貧しさの中を生きてくださいました。天で持っておられたご栄光を捨てて、私たちのため、全人類のため、十字架の苦しみを経験してくださり、罪と死の支配から私たちを解放してくださいました。すべては私たちのため、私たちを救い出すため、私たちを豊かにしてくださるためでした。

 さて、実はコリント教会もこの業に加わっていたことが、6節から分かります。テトスがコリント教会を訪問した際に、この業に加わることが改めて決められ始められたのではないかと言われています。そして6節に「わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました」とパウロは語っています。エルサレム教会への援助、奉仕、献げものを引き続き行うようにと、パウロが励ましています。テトスが訪問する前には、この業がコリント教会から無くなっていたという事情があったからかもしれません。それは、パウロとコリント教会との関係が悪くなっていて、教会の問題が解決できないまま、コリント教会がパウロから心を離してしまっていたからかもしれません。けれども、テトスの訪問の際に、エルサレム教会への援助を始めたからにはやり遂げるようにと勧めたということです。

 このように、「自分自身を献げるようにして教会に献げものをすることが、神の恵みをよく表し、また豊かな教会となることである。主の十字架と復活のお姿をよく表すことである」とパウロは語りますが、献金の心、献げる心を教えられる御言葉だと思います。
  「あなたたちは豊かな者である」と、御言葉は主にある教会に対して語りかけています。それは、「救いに与っている、その豊かさの中から、他者に献げる生き方も生まれて来る」のですし、「こうして更に豊かにされるように」と、パウロは勧めました。
 私たち自身の事情を考えますと、倒れて疲れて、勢いを失って屈み込むようなこと、つまずいたり弱り果てるような日々が、私たちにとって身近な親しいものであるような時に、神が語りかけてくださる御言葉を思い起こします。イザヤ書40章27節以下です。「ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。
 私たちの日常が、この御言葉とは反対に疲れ果て、つまずき倒れるような、勢いを失うように思える、見えるようなものであったとしても、神の現実は違います。「救いの光が私たちを覆い、包み、『あなたは豊かなものとされている』そういう新しい力を得ている。空高く伸びやかに飛ぶ鷲のように、身許に行くことができ、身許に憩うことができる。走っても歩いても弱ることなく、疲れない」と、御言葉によって励まされ支えられています。

 主が共にいてくださり、主が持ち運んでくださるからであるというこの現実を、私たちはもう一度、自分たちに与えられた現実として受け取り直す、そういう者でありたいと願います。そして、「あなたがたは豊かな者とされている」という御言葉を心に留めて、マケドニア州の諸教会やコリント教会のように、神の恵みに感謝し、喜んで献げものをし、教会のために更に豊かにされる、そういう群れとされたいと願います。

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