聖書のみことば
2019年9月
  9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

9月22日主日礼拝音声

 独り座っている
2019年9月第4主日礼拝 9月22日 
 
小島章弘牧師 
聖書/哀歌 第1章1〜22節、マタイによる福音書 第14章23節

哀歌1章<1節>なにゆえ、独りで座っているのか 人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか 多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか/国々の姫君であったこの都が。<2節>夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。<3節>貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き/異国の民の中に座り、憩いは得られず 苦難のはざまに追い詰められてしまった。<4節>シオンに上る道は嘆く 祭りに集う人がもはやいないのを。シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。<5節>シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し 苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり 苦しめる者らの前を、引かれて行った。<6節>栄光はことごとくおとめシオンを去り その君侯らは野の鹿となった。青草を求めたが得られず 疲れ果ててなお、追い立てられてゆく。<7節>エルサレムは心に留める 貧しく放浪の旅に出た日を いにしえから彼女のものであった 宝物のすべてを。苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を 助ける者はない。絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている。<8節>エルサレムは罪に罪を重ね 笑いものになった。恥があばかれたので 重んじてくれた者にも軽んじられる。彼女は呻きつつ身を引く。<9節>衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。落ちぶれたさまは驚くばかり。慰める者はない。「御覧ください、主よ わたしの惨めさを、敵の驕りを。」<10節>宝物のすべてに敵は手を伸ばした。彼女は見た、異国の民が聖所を侵すのを。聖なる集会に連なることを 主に禁じられた者らが。<11節>彼女の民は皆、パンを求めて呻く。宝物を食べ物に換えて命をつなごうとする。「御覧ください、主よ わたしのむさぼるさまを見てください。」<12節>道行く人よ、心して 目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。わたしを責めるこの痛み 主がついに怒ってわたしを懲らす この痛みほどの。<13節>主は高い天から火を送り わたしの骨に火を下し 足もとに網を投げてわたしを引き倒し/荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。<14節>背いたわたしの罪は御手に束ねられ 軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ 力尽きてわたしは倒れ 刃向かうこともできない敵の手に 引き渡されてしまった。<15節>わたしのもとにいる力ある者を 主はすべて退けられた。わたしに対して時を定め 若者らを砕かれた。主は、酒ぶねを踏むかのように 娘ユダのおとめらを踏みにじられた。<16節>それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ 涙を流すがよい。慰め励ましてくれる者は、遠く去った。敵は勢いを増し わたしの子らは荒廃に落ちてゆく。<17節>シオンは手を差し出すが、慰める者はない。主は敵に命じてヤコブを包囲させられた。エルサレムは敵の中で、笑いものになっている。<18節>主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。聞け、諸国の民よ 見よ、わたしの痛みを。わたしのおとめらも若者らも 捕えられ、引かれて行った。<19節>わたしは愛した人々に呼びかけたが 皆、わたしを裏切った。わたしの祭司ら長老らは、都で息絶える 命をつなごうと、食べ物を乞いながら。<20節>御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い 内には死が待っています。<21節>聞いてください、わたしの呻きを。慰めてくれる者はありません。敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして あなたの仕打ちを喜んでいます。彼らにも定めの日を来らせ わたしのような目に遭わせてください。<22節>敵の悪事が御前に届きますように。あなたの懲らしめを受けますように。あなたに背いたわたしが こんなにも懲らしめられたように。わたしはこうして呻き続け 心は病に侵されています。
マタイによる福音書14章<23節>群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

 何故一人で座っているのか。という書き出しで「哀歌」が始まっています。
 今年2月より、「聖書に親しむお母さんの集い」で、哀歌を取り上げ7月で終わりました。旧約聖書から御言葉を聞くことは、あまりありませんでしたから、非常に養われましたし、良い時を持つことができました。参加してくださった方はどうだったのでしょうか。
 今日礼拝の時を与えられましたので、皆さんに哀歌のすばらしさを知ってほしいと願い、今読んでいただいた哀歌に聞いてみたいと思いました。哀歌は文語訳聖書では、ご存知の方もおられるかもしれませんがエレミヤ哀歌となっていました。ですから。素直にエレミヤ書の続編としていました。内容的にはそれでよいと思いますが、著作者がエレミヤではないということでエレミヤ書から除かれたようです。一部のものはエレミヤが記したものとみられるので、そのままでもよかったと思いますが、わたしたちの聖書ではエレミヤが除かれていますので、これも素直に受け入れてよいと思います。
 哀歌は弔いの歌です。弔歌といってもいいかもしれません。しかも覚えやすいようにヘブライ語のいろは歌になっています。ヘブライ語のABCは22語ですから、22行詩になっていますので多少技巧的になっているようです。 1、2、4章が22行詩になっています。3章は3倍の66節、5章は22行ですが、ABCの詩にはなっていません。 町、ユダ、シオンの娘、エルサレムなどが、擬人化されて記されています。
 この詩人は孤独のさまを2節以下に描いています。エルサレムの終焉を「やもめ」として語っています。多くの民の女王が、奴隷となっている。国に君臨していた者が奴隷にまで身を持ち崩して、夜もすがら泣き崩れ、とめどもなく泣き、それをぬぐうことなく流れるままにしている。 彼女を愛した者たちすら誰も近づかず、友は声もかけない。彼女を馬鹿にし、尊敬しない。
 ユダを擬人化して「貧しく、重い苦役の末に捕囚となっていく。それは異国であるがゆえに、知る者もなく、苦しみと痛みだけが体を痛め続ける。苦痛だけが追い詰める」。シオンも擬人化して「巡礼の道に慰めがない。シオンの城門はすべて荒廃し、祭司たちはただ呻く。それを見ている者らは、さらに痛みを深くする。神がいないかのように思われる。栄光は光を失い、君侯、兵士たちは普段威張りくさっているが、野をうろつく鹿のように頭を下げ高貴さを失い、食べ物を探しうろつくが、青草もなく、疲れ果てて追い立てられていく。笑いものになり、宝物を奪い取られてしまう。エルサレムは罪を重ねて笑いものにされ、恥を暴かれ軽蔑される。罪を重ね、石を投げられつばきされている。衣の裾が汚れ惨めさは目を覆うものとなった。異国の民は聖所を汚し、礼拝することも許されない。パンのために宝物を差し出す。惨めさの極みである」。

 けれども、この詩人は、我に返ったよう、自分を取り戻したのでしょうか。これまで水平の次元にのみ目を向けていたのです。そこはまさに悲惨な状況に満ちていました。何もかもが否定的で、救いがなく、手の施しようがなかったのです。しかし、12節以下に聞いてみましょう。
 「道行く人よ、心して、目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。わたしを責めるこの痛み、主がついに怒ってわたしを凝らす。この痛みほどの。」 上を見上げたのです。水平だけ見ていたのでは、神が見えないのです。どん底に落ちたときに知ることができたのです。「目を留めてください」という言葉は、哀歌全体にわたって出ています。それは祈りでもあります(哀歌1:9,11,20,2:20,3:59~61)。哀歌の詩人は「目を留めてください」と言うことで、自分の苦しみ悩みを訴えているようです。これまでに擬人化したものが諸々のことを描いてきましたが、それを神に訴えることで救いを求めているわけです。哀歌を歌っている共同体を活気づかせ、希望をもって生きることを共有しているのです。

 もう30年も前のことになりますが、英和の中高を卒業し、医学部に学び、山梨医大でインターンをしているさ中に、進行性のがん病に見舞われ余命いくばくもないという宣告を受けた方がいました。ご両親はまるで交通事故に遭ったようだと嘆いておられました。ご両親共医者でしたが、医学の無力さを嘆き、娘を救うことができない辛さを語っておられました。
 彼女は病床でも必死で生きようとしていました。死後発見された紙切れに、「まだ字が書ける」「まだ歩く力が残っている」と書いていました。娘の死を覚悟した母親は、「あなただったらどの神様に委ねるの?」と聞いたそうです。娘は即座に「中学、高校時代に知ったイエス・キリスト」と答えたそうです。そこで、わたしが呼ばれ、病床での洗礼がなされました。夜9時を過ぎておりました。病院は異様な静寂に包まれておりましたが、その場には光と平安が差し込んでいたように思います。その時に、これこそが「神が共なる孤独」だと思いました。

 最後に、この詩に盛んに出てくるのが「背き、罪」です。つまりこの詩人は、自分の孤独状態を単なる淋しさとして捉えていないで、罪の自覚を持っていたということです。
 1章全体に、罪のことに言及していることに気づきます。8節に「罪に罪を重ね」、14節に「背いたわたしの罪は御手に束ねられ 軛とされ」、18節に「わたしが主の口に背いたのだ」、20節に「わたしは背きに背いたのです。内には死が待っています」、22節にも「あなたの懲らしめを受けますように。あなたに背いたわたしが…心は病に侵されています」と。
 孤独を単なる感傷的、情緒的にとらえずに、信仰的に受け止めようとしていることに、この哀歌が共同体の回復を担うものになったことは否めないところではないかと思われます。また個人的にも、生きることを切に求める者に力を与えるものとなったと言えるでしょう。明日を信じる者への応援歌となったといってもよいのではないでしょうか。

 イエス・キリストは、たびたび一人祈るということがあったと福音書は伝えています。イエスさまは、神との時間を大切にされておられたということだと思います。この時がイエスさまの力となり慰めであったということでしょう。十字架への道を進む力になったことは言うまでもありません。私たち救うために、主イエスが十字架にまで進まれ死なれたのだということを改めて思います。

 哀歌は弔いの詩ですが、この詩に聴くことから、「弔いの中に、平安がある」ということを受け止めたいと願いました。

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