聖書のみことば
2019年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月28日主日礼拝音声

 キリストの証人
2019年7月第4主日礼拝 7月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第5章12節〜42節

5章<12節>使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、<13節>ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。<14節>そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。<15節>人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。<16節>また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。<17節>そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、<18節>使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。<19節>ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、<20節>「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。<21節>これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。<22節>下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。<23節>「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」<24節>この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。<25節>そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。<26節>そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。<27節>彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。<28節>「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」<29節>ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。<30節>わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。<31節>神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。<32節>わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」<33節>これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。<34節>ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、<35節>それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。<36節>以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。<37節>その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。<38節>そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、<39節>神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、<40節>使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。<41節>それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、<42節>毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

 ただいま、使徒言行録5章12節から42節までをご一緒にお聞きしました。14節に「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」とあります。今日の私たちの教会の現状からしますと、羨ましくなるようなことが語られています。それだけではなく、16節には「また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった」とも述べられています。最初の頃のエルサレム教会には、男性も女性も主を信じる人が増し加えられて行きました。エルサレム市内からだけではなく、少し離れた所にある町や村からも大勢の人が集まってきていました。その人たちの中には、重い病気を抱えていて癒されたいと願っていた人たちが多くいたと記されています。中には、ペトロが往来を歩くとき、せめてその影だけでも、病人にかかるようにしてほしいと願うような人もいたことが15節に述べられています。
 「せめて影だけでも病人に」などと言われますと、私たちの感覚からすると、迷信がかっているように感じられて受け取りにくく思われる方がいらっしゃるかもしれません。けれども、今日聞いている聖書の箇所が語ろうとしていることの中心は、誕生して間もない教会が大勢の人たちを惹きつけることのできた魅力に満ちていたということと、とりわけ、病んでいる人、心を病んでいる人も癒されるような「癒しの力」に溢れていたということだろうと思います。15節のペトロの影の話というのは、こういう癒し方があったと言っているのではありません。注意して読みますと、「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」と言われているだけで、それで病気が治ったと殊更に書いてあるわけではありません。教会の中で多くのしるしと不思議な業が行われ、大勢の人たちが慰められたり勇気づけられたりして元気を回復していく、そういう様子を見た人の中に、それがまるで魔法であるかのように感じる人がいて、それで「ペトロの影でも」と思った人たちがいたのです。
 ですから、12節から16節までのところを聞いて、私たちが先ず心を向けるべきなのは、どうして初代教会には大勢の人を惹きつける力があったのだろうかということだろうと思います。またその中で、癒される経験をする人たちが多かったのはどうしてかという点を考えることになると思います。

 これらを考える前に、まず注意しておかなければならないことがあります。それは、病人たちが癒されたという記事から、私たちが癒しの出来事を自分中心に考えて、信仰を持っている人は病気に対して自分の思うように対処できると、もしそう思うならば、今日この箇所が伝えようとしている事柄を誤って受け止めてしまうことになるだろうということです。正しい信仰を持っていれば、病気というものをいつでも自分の願った通りに克服できると考えることは傲慢なことだと思います。また、実際とも違っています。現実には、本当に重い病を抱えながら、しかしなおその病床にあって神を信じ、辛抱強く病の苦しみを身に受け止めながら、しかし神を賛美して生活している、そういう信仰者がいます。病気を治せることが正しい信仰だなどと言ってはなりません。病んでいる本人も、また看護に当たられる働き手の中にも、はらはらしながら見守っている家族の中にも、辛い病気に忍耐して辛抱強く関わりながら、「十字架に架かり甦られた主イエスがここにおられる」と信じて、神を賛美している生活というものがあります。キリスト者の生活には、そういうことが有り得ると思います。
 聖書の中にもそういう人が出てきます。例えば、使徒パウロがそうです。コリントの信徒への手紙二12章で、パウロは自分がとても厄介な病気を抱えていることを告白しています。パウロ自身はもちろん、病気が治りたいという思いがあって、神に「この病気を去らせてください」と3度も祈ったのだと語られています。ところが、パウロの祈りに対して神から頂いた返事は何だったかというと「わたしの恵みは、あなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という御言葉でした。神は、私たち人間の思いや願いをいつでも都合よく叶えてくださるような、便利屋的な存在ではありません。しかしだからと言って、人間をいたずらに突き放し絶望させてしまうというお方でもないのです。私たちが病を得たり困難な状況に置かれるときに、確かに苦しみはそこにありますが、それと同時に、そこから逃れていく道を備えてくださって、真実に一人一人をその人らしい人生の中で持ち運んでくださる、それが聖書の神であることを覚えたいと思います。
 神がそのように真実にキリスト者と共にいてくださることが、今日の箇所で、大勢の人が次々とエルサレム教会に集まって来る魅力の理由であり、大勢の人たちが癒しを経験することのできる理由でもありました。

 少し前の4章33節に「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」と述べられていました。復活された主イエス・キリストが使徒たちと共にいてくださるので、使徒たちは主イエスの復活を証しすることができました。「十字架に架かられた主イエスが死から復活して、確かに甦っておられる」という使徒たちの言葉は、甦られた主イエスご自身によって支えられていた言葉でした。このことは初代教会の頃からそうであり、今日でも同じです。今日でも教会は、礼拝をお献げするごとに何を語っているかというと、「私たちのために十字架に架かられた主イエスがおられる。その主イエスは復活して、私たちと共に歩んでくださる」ということです。どの礼拝においても、説教の中で語られることは「甦られた主イエスが生きておられる」ということです。そしてその際に、説教者の言葉を支えている力は何なのか。教会の中で語られている説教を支えているものは何か。それは「主イエス・キリストは復活され、私たちと共に生きてくださっている」という事実です。
 主イエスの復活は、神がこの地上でただ一度限り引き起こしてくださった出来事ですから、私たちが何か合理的な仕方で確かめることはできません。化学実験のようにもう一度、主イエスの十字架と同じ状況を再現して復活を起こせる、というようなものではありません。十字架に架かられた主イエスは、私たちの身代わりとなって十字架に架かってくださいました。「日頃、神抜きで平気で生きてしまう、神に背を向けてしまう私たちの罪の執り成しとして主イエスが十字架に架かってくださり、私たちの背きの罪を清算してくださった。それが本当に神の御心に適うことだったので、主イエスは十字架の死から三日目に復活させられ、私たちと共に歩んでくださっている」、そういう知らせを聞かされた私たちは、信じるほかありません。確かめて信仰を持つということではありません。私たちは、主イエスが私たちのために十字架に架かり復活なさったという知らせを聞かされて、それを信じて受け入れる、それ以外には、この出来事を受け取ることはできません。
 教会の言葉はいつでも、聖書に述べられている「主イエスの復活」を指し示す言葉ですし、主イエスが甦っておられることを証しする言葉は、不思議なことですが、復活しておられる主イエスによって支えられ、2000年の間ずっと語り続けられてきた言葉なのです。
 使徒パウロは、そのように、甦りの主イエスご自身が、教会の説教を支えてくださるという不思議な事柄を、コリントの信徒への手紙一15章14節15節で説明しています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。
 ここでパウロは自分たちが偽証人ではなかったかと反省してこう言っているのではありません。主イエスの復活は確かなことなので、自分たちは偽証人ではないと言っているのです。

 使徒たちが大いなる力を持って主イエスの復活を証ししていたと使徒言行録4章33節に語られていました。使徒たちは力を尽くし全力を傾けて、主イエスが復活したことを語り続けていました。そういうことが先にあって、今日の箇所「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」と繋がっていきます。
 そして「主イエスは確かに甦り、私たちと共に歩んでくださっている。あの十字架に架かった主イエスが私たちを生かし、生きて良いとおっしゃってくださっている」ということを懸命に伝えようとした使徒たちの手によって、多くの「しるし」が行われました。「しるし」は、具体的には様々な仕方で生じた癒しのことを指していますが、気持ちを支えられたり健康が回復する、そういう一つ一つは「しるし」だったと言われています。「しるし」であるとはどういうことかと言うと、そこに起こっている出来事を超えて、もっと大きな別のことを指し示すという意味です。
 例えば、「しるし」ということで私たちがイメージしやすいのは、教会のマークのある地図を見ながらそこへ行くと、そこにポツンと十字架が立っているということではなく、そこには、毎週日曜日になると神を賛美するために人々が集まる礼拝堂があり、日曜日には礼拝を捧げているところを見ることができる、そういう場所だということを地図上の十字架は表しています。癒しの出来事も同じように、「しるし」としての業だったと言われています。癒されることが最終目的だとか、それが全てなのではなく、復活した主イエスがそこにおられるのです。主イエス・キリストを囲み、主イエス・キリストに伴われながら主イエス・キリストに生かされる。そして主イエスに慰められ支えられ、本当にここで生きていって良いのだと新しくそこから歩みだすという現実があるのです。癒しの出来事というのは、ただ病気が治って良かったという、ただそれだけの話ではありません。「主イエスがそこにおられるので、わたしもそこで生きることができる」、そういう出来事が起こるのです。
 例えば、大変重篤な病に罹り、もう数日しか生きられないだろうと医師に宣告された患者が、しかし、主イエスがいつも自分を支え担って持ち運んでくださると心から素直に信じた結果、精神的には安らかになり、肉体は確かに弱っているけれど、主イエスに寄り頼んで生きようとした結果、5年も生き延びて周囲が驚いたというようなことも実際にはあります。あるいは、主イエスは復活して生きておられるのだから、あなたは生きることになるという聖書の言葉を素直に信じた年配の女性が、医学的には肉体の死を確認したにも拘らず、その後数分、自分が死んだことを知らないかのように息をしたというようなことも有り得るのです。本当に不思議なことですが、それは死の出来事が無くなるということではありません。病気が無くなって元気になるということではない。けれども、主イエスに信頼して、自分はここで生きて良いと思った結果、私たちはもしかすると、死の瞬間でさえ、神が生かしてくださっているということを、身を以て表すということが有り得るのです。そのようにキリスト者一人一人の人生、その命と死は、「ここに甦りの主イエスがおられる」ということを、身を以て表すようなところがあるのです。
 初代教会の使徒たちによって行われたしるしも、詳しくは分かりませんが様々なことがあったことでしょう。重い病気の人が癒されて元気になったのだろうと、私たちは簡単に考えますけれども、それはキリスト者は死なないということではありません。私たちはこの地上の生活を必ず終えますが、しかし、私たちは自分の命と体をもって、「主イエスが生きておられる」ことを証しする光栄ある務めを与えられて生かされるのです。
 主イエスが確かに復活しておられることを教会はずっと語り続け、またそれを信じて生きる人たちが慰めと勇気を与えられ、どんなに困難な状況であっても自分の人生を懸命に生き切る、そういうことを通して、今日であっても、私たちの間に癒しの出来事が起こっている、起こり続けているのです。

 ペトロを始めとする使徒たち、初代教会の人たちは、「復活の主イエスがわたしと共におられる」ということを証しする証人でした。ペトロたちは、そのことで憎まれ、逮捕され、裁判の席に座らされましたが、しかしそこでも全く同じことを語り続けました。29節から32節です。「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。ペトロを始めとする使徒たちは、大勢の人たちの間でしるしを行なっている時も、憎まれ暴力的な仕方で尋問される時にも、少しも変わりません。「甦られた主イエスがわたしと共にいてくださる。わたしは今、そういう命を生きている。主イエスに慰められ励まされ、勇気を与えられて、ここにいます」という信仰から1ミリも退こうとしません。彼らは、十字架に架かってくださり甦っておられる復活の主イエスの証人として、神の御業を賛美しながら、主が甦っておられることを言葉と行動で表したのです。

 そして、そういう最初の教会に大勢の人たちが惹きつけられ、共に主イエスを仰いで生きていこうという志を与えられました。
 そのように聖書が語っているのだとすると、私たちも同じことなるのではないでしょうか。復活の主イエスは、初代教会の人たちだけと一緒におられたのではありません。今日もなお、21世紀に生きている私たちと共にいてくださいます。私たちの生活を根底から支え、私たちそれぞれの人生を意味あるものとして持ち運ぼうとしてくださいます。たとえ他者から何と言われようと、どうけなされようとも、神はわたしの命を喜んでくださる。上手くいかないと思うことがあったとしても、それでも「あなたは神さまに喜ばれ、生きるようにと、生かされている者なのだよ」と、復活の主イエスが教えてくださるのです。「あなたは神抜きで生きてしまいがちな者、神さまと関わりのないように生きてきたけれど、そんなあなたのために、わたしが十字架に架かって、あなたの神への背きの罪をすべて引き受ける。だからあなたは、十字架に架かったわたしを見ながら、罪は赦されたのだと信じて、もう一度、神さまのものとして生きていきなさい。きっと神さまが人生を祝福し支えてくださるのだから、どんなに困難で、また暗い道に置かれているとしても、あなたはそこで、今日与えられている命を生きることができるのだよ」と、甦られた主イエスが語ってくださるのです。

 「たとえ今は上手くいっていないように見えても、神は最後には全てを完成してくださる。そして『この命は素晴らしい命である』と、感謝し喜んで受け止めることができるようにしてくださる」、私たちは、そのことを信じて生きるようにと招かれています。ペトロもヨハネも他の使徒たちも、そのような主イエスが共に歩んでくださることを感謝しながら、「主イエスが復活しておられる」ことを宣べ伝えて、歩んでいました。

 それから2000年を経て、私たちも全く変わらないと思います。聖書を通してですが、「主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、復活しておられる」という知らせを聞かされています。「甦りの主イエスがわたしと共に歩んでくださるのだ」ということを信じて、主イエスが共にいてくださることに力を与えられ、慰めと勇気を与えられて、それぞれの今日の生活を精一杯生きてよいと呼びかけられています。
 そして、私たちが信じ、主イエスに従って生活しようとするとき、きっと私たちの手の業も、主は用いてくださるに違いありません。有益な良い働きを、私たちは、今のこの人生において行うことができるに違いありません。たとえ私たちが死の床に横たわっていて、もう社会的には何もできない、そういう時であっても、そこに私たちがいることに意味がある、そういう時が訪れるに違いありません。

 キリストがここにいる私たちのために十字架に架かり、復活しておられるのです。私たちは、一面では、主イエスを十字架に架けなければならなかったほどに不甲斐ない弱い、自分中心な頑なな者ですが、しかしもう一方では、主の十字架に執りなされ、甦りの主イエスを信じ、主が共に生きてくださるこの地上の人生を生きる者とされています。そういう私たちを用いて、神がこの地上に御業をなさり、私たちが与えられたそれぞれの命を喜んで生きてよいと語りかけてくださいます。
私たちは、その神の御業のために働けますようにという、平らな思いと祈りをもって、ここから歩み出したいと願うのです。

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