聖書のみことば
2019年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月14日主日礼拝音声

 あなたがたは手紙
2019年7月第2主日礼拝 7月14日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)
聖書/コリントの信徒への手紙二 第3章1節〜11節

3章<1節>わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。<2節>わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。<3節>あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。<4節>わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。<5節>もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。<6節>神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。<7節>ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、<8節>霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。<9節>人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。<10節>そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。<11節>なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

 ただいま、コリントの信徒への手紙二3章1節から11節までをご一緒にお聞きしました。3節に「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」とあります。「あなたがたは、キリストがお書きくださった手紙です」と、パウロがコリント教会の人たちに語りかけたこの言葉は、今朝、私たちに向けて届けられています。私たちが手紙であるとすると、書いてくださった方がおられ、また誰かの元へと届けられ、手に取って読まれるものであるということが分かります。そしてこの手紙をお書きになったのは、イエス・キリストであると書かれています。
 手紙には、手紙を書いた人の声が聞こえるようなところがあります。ですから、私たちが生活するときに、そこにキリストの御声が響いて周囲に届けられるようなものだということになります。私たちがキリストの手紙であるということは、私たちが生きることを通して、そこにキリストの御声が聞こえるようなものである。私たちの信仰生活を通してキリストの声が聞こえてきて、キリストの言葉が語られ、キリストの香り漂うようであるということです。
 けれども、私たちはこのような言葉に戸惑いを感じずにはいられません。誰かに指摘されるのを待つまでもなく、私たちは欠けだらけで、その欠けを一つ一つ数えればきりがなく耐えられないような思いになってしまいます。それでいて、自分の弱さに目をつむって見ないふりをすることもありますし、また全く気付かぬままに罪の海の中を泳いでいるようなところがあります。ですから、キリストの手紙として公にされていると言われますと、誰か他の人の話のように感じるのです。

 けれども、今朝もう一度、「救いに入れられ、洗礼を授けられ、主のものとされ、生ける神の霊に宿っていただいている私たちであり、キリストの手紙と呼ばれるものである」ことを思い起こしたいと思うのです。「あなたは、主の十字架の贖いに与って、すべての罪を赦されて、新しい人、神の僕とされたのではなかったか。キリストの十字架以外に誇るものはない。全てをお委ねして、御心に全幅の信頼を置き従っていく、そういう決意をした者ではなかったか。そのような私たちが、キリストのお書きくださったキリストの手紙と呼ばれることが有り得ないと片付けることはできないではないか」。私たちのうちに、何か新しいことが始まっています。私たちのうちに主キリストが善い業をお始めくださっています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と、パウロは語りました。
 手紙は、必ず宛先を持つものです。私たち自身が届けられていく場所は、この世です。この世に対し、人間の世界に対して公にされ、すべての人々から知られ読まれています。かつて主イエス・キリストが「山の上にある町は隠れることができない」とおっしゃいましたように、私たちは身を隠してコソコソ暮らす者ではないのだと思います。もちろん、自信はありませんが、パウロには確信がありましたし、私たちにも確信があります。主がお立てくださったのだということに間違いありません。足りないところがあっても、この私たちを選び、この世から取り分けて聖なるものとしてくださいました。そもそも手紙は読まれるために書かれています。私たちは公にされて、すべての人に読まれるために、この世に送り出されている一人一人であり、教会です。

 それでもなお、尻込みする思いが強くなる者に、パウロは、「あなたがたは、墨ではなく生ける神の霊によって書きつけられた手紙です」と語って、霊なる方のお働きによって手紙とされているということを思い起こさせようとしています。
 頑なな心を打ち砕いてキリストの香りを放つ麗しい手紙とするのは、人間の力ではありません。私たちは人間の資質によって、力によって、どんなに努力を重ねても、決してキリストの手紙となることはできません。「あなたのうちに霊を注ぐ」とおっしゃる方が、私たちのうちに聖なる霊を注いでくださって、風のように吹いてくださり、私たちの頑なさに打ち勝ってくださって、私たちの心にキリストを刻みつけ、キリストを宿らせてくださいます。
 パウロは、同じコリント教会に宛てた手紙の中で、「あなたがたはもはや、自分自身のものではない。神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であることを知らないのですか」と語りました。「聖霊が宿ってくださる神殿」、それをここでは「生ける神の霊によってキリストがお書きになった手紙」と言い換えていると言えるでしょう。私たちがどのような手紙であるかを知ったことで、私たちの生き方は、主なる神に向けて定められるようなところがあります。

 パウロは「石の板」と「心の板」という喩えを出して語っていきます。3節に「石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」とあります。「石の板」というのは、モーセがシナイ山で授けられた十戒、出エジプト記に記されている「神の指で記された十戒」が刻まれていたものです。石の板ではなく人の心の板に記された手紙であるということは、律法の板ではなく、新しい契約、福音の上に刻み付けられた手紙であるということです。預言者エレミヤは「新しい契約を民の心に記す」と語りましたが、キリストの救い、神の恵みのもとに書きつけられた手紙であるということを言っています。
 パウロが以前、石の板である律法に全てを捧げ、全てを賭けて、熱心なユダヤ教徒として生きてきたということは、よく知られています。けれども、復活の主イエスとの出会いを通してパウロは、律法によって生きるのではなく、福音に全てを賭ける者へと変えられていきました。自らの義によらず、神の義によって、キリストの十字架によって罪を赦され救われた者として、また全てを上より受けた者として、新しく出発しました。私たちはユダヤ教徒ではありませんから、パウロのような石の板、律法に全てをかけるというようなものを持っていないように思いますが、私たちにとっての石の板は、生まれながらの罪を背負った頑なな心のことかもしれません。罪があることを指摘され、罪の姿のまま自分の力によってはどうすることもできずにもがいている私たちです。けれども、キリストが「あなたの罪は赦された。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と呼びかけてくださって、十字架の下に招かれる者とされました。「頑なな心ではなく、聖霊によって柔らかくされた心を与えられた、そういう手紙としてあなたがたは生かされている」とパウロは語りかけています。

 けれども、この言葉を語りかけられたコリント教会の人たちは、決して素直にキリストに従っていく人たちではなかったと思います。パウロのことも、福音を伝える伝道者として重んじていたというよりは、使徒としての資格がないのではないかと否定することがある人たちでした。今日の箇所の1節に「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」と書かれていますが、この言葉は、「パウロは自分を推薦している。信用ならない人だ」と非難する人たちがいたことを想像させる言葉です。また、コリント教会は分裂の問題を抱えていた教会であること知られています。キリストの体として一つになるということに困難を抱えて、「わたしはアポロに、わたしはケファに」と別れ別れになっていた傷んだ教会の姿があります。そうした欠けある教会の交わりに対して、パウロは「あなたがたこそキリストの手紙とされている」と語ります。「あなたがたはイエス・キリストの十字架によって贖われ、聖霊によって命を与えられている群れなのだから」という、パウロの確信が土台となっています。
 私たちの群れも、様々な欠けを抱えつつも主によって新しくされ、キリストの手紙として世に送り出されています。広く公にされ、キリストの手紙として誰もが読むことのできる美しい、麗しい手紙とされています。交わりにおいても、互いにキリストの手紙とされた者であることを忘れることなく、感謝を持って受け止めたいと願います。
 その上で、4節以下に記される御言葉を聞きますと、パウロがキリストの手紙として生きるキリスト者の姿というものを更に丁寧に描き出している言葉に出会うことができます。4節5節に「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです」とあります。「キリストによって確信を抱いている。私たちがもはや自分のものではなく、聖霊によって御支配いただいている神の宮であるという確信を、私たちはキリストによって抱いている」とパウロは語ります。そしてこのことを、ある人は、「キリストは運河のような存在であって、神さまの恵みは全てイエス・キリストを通って私たちのところに流れてくるのだ」と説明しています。全てのことは主なる神から与えられたことです。私たちの側には、何の資格もありません。ただ、上よりの恵みをいつも深く知り、確信を持ち、お委ねして信仰生活を歩むだけです。

 ところで、このような私たちの姿を、もっとよく知ることができるように、パウロは「あなたは新しい契約に仕える者、霊に仕える者なのであって、律法に仕えたり文字に仕えたりする者ではないのだ」という対比を語り出して、「あなたがたキリスト者はこう生きるのだ」と語り出します。それが6節です。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。
 イエス・キリストと出会う前のパウロは、古い契約、つまり律法の文字に仕えていた人でした。律法に仕える時、突き詰めると、律法を完全に守って行っていくということはできませんので、罪がより一層はっきりと示されて、罪の中で滅びに至るということになります。それで「文字は殺します」という言い方がされています。律法は命を与えないということです。
 けれども、復活の主とお会いして改心を経験し、全く新しい人として救いの道を歩み始めたパウロは、新しい契約、つまりキリストの十字架の贖いによって罪赦され救われるという約束に仕える者とされ、聖霊によって生きる命の道を歩み出しました。パウロがなぜここで、「新しい契約に仕える資格」と「古い契約、人を罪に定めるものとしての契約」という対比を語っていくのかは、はっきりとは記されていませんが、コリント教会の中に、ユダヤ人として以前は古い契約、律法に仕えていた人たちがいたからかもしれません。先ほども言いましたように、私たちはユダヤ人ではありませんが、福音に出会うまでは新しい契約を知らなかったという点では同じかもしれません。多分、私たちの人生は、新しい契約、福音に仕えるか、それとも古い契約、律法に仕えて生きるか、そのどちらかでしかないのです。パウロはコリント教会の人たちに「あなたたちは、キリストの福音以外のものに寄り頼んでいないだろうか。福音に仕える生き方を通して、主によって罪赦され救いに入れられたのに、それ以外のものに頼って、それ以外のところに立ってはいないだろうか」と語りかけました。同じ問い掛けを、私たちも受けています。

 「ところで」という言葉を語って、7節から11節では「神の栄光に包まれている私たち」という話題に進んで行きます。7節8節に「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか」とあります。「モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであった」という出来事は、旧約聖書の出エジプト記34章29節以下に記されています。29節30節に「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」とあります。シナイ山で律法を預かったモーセは、それが記された2枚の石の板を手に山から下ってきました。その際、「モーセの顔が光り輝いていた。主なる神と語る間に、モーセの顔に光が宿り輝き出していたからである」、それで30節にあるように、イスラエルの民は「恐れて近づけなかった」と記されています。律法が与えられた時に神のご栄光が現されました。神ご自身がお示しになって、「モーセの顔にご栄光が命と力を持って映し出された。モーセがご栄光に包まれた」と語られています。
 しかしそれは、律法という、私たちに自らの罪を教えるものが与えられる際の出来事でした。「律法によってご栄光が現されるのだとすれば、福音という命に至らせる道は、なおさら、主なる神のご栄光をより一層輝き出させるに違いない」とパウロは9節で語っています。9節に「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています」とあります。
 それでは、神の栄光とは何でしょうか。「神の栄光に満たされる、栄光を帯びる、栄光に包まれる」とは、どういうことでしょうか。十戒の石の板を受け取ったモーセの顔には束の間の栄光が輝いていたと7節に記されていますから、モーセは確かご栄光を現す者となりましたが、それは一時的な、束の間のことであったということになります。しかも人々は、出エジプトの際の記事によれば、輝きを帯びたモーセの顔を見て恐れて近づけなかったというのですから、神のご栄光は人々を恐れさせ、神から離れさせるものであったということも分かります。
 パウロが、モーセに宿った神の栄光と異なるものとして対比させるのは、イエス・キリストによって示される栄光です。そしてそれは、束の間の栄光ではなく、永遠の契約に基づく永遠の栄光です。また、人々を恐れさせ近づき難くするようなものではなく、人々を招き、受け入れてくださり、招きに応えて近づく者に主の栄光を、主の命と力をお与えくださるものです。それは遥かに優れた栄光であり、永続するものだと、10節11節に記されています。
 「罪ある私たちが、主の憐れみにより、キリストの贖いの御業によって聖なる霊に満たされて栄光に包まれる」、こういう言葉もまた、私たちを戸惑わせるのに十分な言葉です。「そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです」。ここでもまた、私たちの資質や資格が重要ではないということを知らされます。ただ上より与えられる大いなる恵みにより、私たち一人ひとりに罪の赦しが与えられています。頑なな私たちの心を滅ぼして、気難しく不機嫌な心を葬り去って、復活の主が私たちのうちに生きて住んでくださっています。「あなたがたの体は、神からいただいた、聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは神の栄光を現す器である。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きてくださる」とパウロが語っていく通りです。

 「あなたがたはキリストの手紙」と語りかけられていました。主なるキリストがどんな思いでこの手紙をお書きくださったのかを考えてみますと、ご自身の命を与えて私たちを世に送り出すために、憐れみと慈しみを持って記してくださったに違いないと考えることができます。ご自身の十字架による救いをすべての人にお伝えになるために、私たちをお選びくださり、この世に派遣してくださっています。もしそうであるとしたら、私たちは尻込みし、キリストの手紙であることをいつまでも隠し、隠れるように暮らすところから、表に出ていくようにと背中を押されて「語りなさい。伝えなさい」と促されているのだと思います。
 私たちに何の力もないことを私たち以上にご存知の方がおられて、それでも「あなたは行くように。わたしの僕として生きるように。すべての人が読む手紙として、わたしが生きていることをすべての人が知るように。栄光に包まれて生活するように」と励ましてくださっています。

 さらに私たちは、この務めを孤独の中で負っているのではないことを知らされています。教会の交わりの中に入れられて、キリストの体として一つにされて、この務めに就いています。

御言葉に与り、主の体と血に与り、主の聖霊の導きに促されて、今朝また共に遣わされて参りたいと願います。
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