聖書のみことば
2019年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

7月7日主日礼拝音声

 話さずにはいられない
2019年7月第1主日礼拝 7月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第4章1節〜22節

4章<1節>ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。<2節>二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、<3節>二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。<4節>しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。<5節>次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。<6節>大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。<7節>そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。<8節>そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、<9節>今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、<10節>あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。<11節>この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。<12節>ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」<13節>議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。<14節>しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。<15節>そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、<16節>言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。<17節>しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」 <18節>そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。<19節>しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。<20節>わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」<21節>議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。<22節>このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

 ただいま、使徒言行録4章1節から22節までをご一緒にお聞きしました。
 かつて主イエスは、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と教えてくだいました。主イエスは弟子たちに「聖霊を求める者であってほしい」と願っておられます。そして主イエスは、ご自身の教会が聖霊を願い求める群れであってほしいと願っておられます。ペンテコステの日に聖霊が降っただけではなく、今日も、また世界が終わるときに至るまでずっと、「求める者に聖霊を与えてくださる」と主イエスは約束してくださっています。聖霊が働いて大きな御業が起こる、そこではいつも決まって、その前兆となる「隠れた出来事」が起こっています。すなわち「聖霊が注がれることを切に待ち望みながら信じる兄弟たちが熱心に祈り合う」ということが先に起こっているのです。

 ところで、聖霊が働いてくださるように祈るということは、「神の御心が、この地上になりますように」と祈ることです。ですから「聖霊を求める祈り」とは、自分本位な、自分にとってだけ都合の良い結果を求める祈りに置き換えることはできません。私たちは自分の祈りの生活を振り返りますと、しばしば、自分の願いや思い、計画が予定通り満たされますようにという身勝手な祈りを、聖霊が働いてくださるようにという祈りに置き換えてしまうようなところがあるように思います。私たち自身の望みや計画や損得勘定を先立たせるということではなく、「神が御心に従って行ってくださることに、私たちが自分の身を委ねることができますように」と祈ることが大切だろうと思います。聖霊を正しく祈り求めるということは、別に言うと、私たちが自分自身を神にお委ねするということに他なりません。ですから、聖霊が働いて神が御業をなさるというときには、時としてそれは、私たち人間の側から見ると、とても辛く難しい状況の中に置かれてしまったように思える、そういう場合もあるだろうと思います。しかし、そういう状況のもとでも、神はご自身の御心のままに御業をなさって行かれます。今日聞いている聖書の箇所からは、そんなことを教えられるのではないかと思います。

 ペトロとヨハネは聖霊に励まされて、エルサレム神殿の門のところで生まれつき足の不自由だった人を癒す、という神の御業に仕えました。その出来事の後で、二人は、この出来事に気づいて集まってきた大勢の人たちを前に説教を試みます。男の人が歩けるようになったという本当に不思議なこの奇跡は、ペトロとヨハネが自分たちから引き起こしたことではなく、「あなたがたが十字架につけて殺したナザレの人イエスが、この人を強めた結果起こった出来事である。主が共にいてくださる信仰が、この人を完全に癒したのだ」と伝えました。「あなたがたが十字架につけたイエスは、もはや墓の中にはいない。復活され、この男の人に働いたように力強く働かれるのだ」と伝えました。
 そして、癒しの出来事と、それに続いたペトロの説教によって驚くようなことが起こりました。4節に「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」とあります。ペンテコステの朝には、ペトロたちの説教を聞いて信じて仲間に加わった人は非常に多くて3,000人ほどだったと言われていましたが、ここでは更に多くの人が復活の主を信じるようになっています。
 けれども、120人から3,000人、3,000人から5,000人というように信じる人が増えていったからといって、何もかもが順調にいったという訳ではありません。祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来て、ペトロが語っている言葉を途中で止めさせ、そしてその場でペトロとヨハネを逮捕します。2節3節に「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」とあります。ペトロとヨハネは主イエスの出来事を公然と語りましたが、そのために留置場に入れられてしまいました。この晩、狭い留置場で二人がどう過ごしたか、聖書には何も記されていません。また逮捕の場に居合わせた人々がどのように行動したのかということも同じです。けれども、おおよその見当はつくように思います。恐らく二人は、留置場の中で大いに神に祈り、ぐっすりと眠りについたと思います。

 この始まりのところから、私たちは教えられるのではないでしょうか。聖霊が働いて神が御業を行われる、そこでは、私たちが喜ぶような気に入ることも起こりますが、同時に気に入らないようなことも起こるのです。聖霊はもともと、その器として選んだ人を戦いのために装わせるようなところがあります。予想されるあらゆる抵抗に備えて準備させるのです。ペトロも他の弟子たちも聖霊に力づけられて、信仰の戦いをよく戦い抜くように、整えられていきます。けれども、ペトロもヨハネも他の弟子たちも、いつも平穏な安泰な中に置かれ続けていたというわけではないのです。二人が捕らえられたところから、この度の癒しの出来事を巡る一つの戦いが始まります。そしてそれは、二人にとってとても危険な状況へと持ち運ばれることでした。
 一夜が明け朝になりました。最高法院の議員たちが召集されます。それだけではなく、先の大祭司アンナス、今の大祭司カイアファ、さらにはヨハネとアレクサンドロと大祭司の一族も集まっていたと言われています。ヨハネ、アレキサンドロという名はあまり馴染みがありませんが、恐らく、カイアファの次に大祭司になったヨハナンのことだろうと想像する人もいます。つまり、ペトロとヨハネは、当時のエルサレムの最高権力者たちが勢揃いしている中に引き出されています。
 そして、この場は、ただ最高法院の場だというだけではなく、何と言っても、数ヶ月前にペトロとヨハネにとって先生であり主であった方に死刑が宣告された、そういう場所です。主イエスが取り調べを受け死刑を宣告された時、ペトロは何をしていたでしょうか。あの時のペトロは、聖霊の助けがないままに、夜陰に紛れ篝火に当たっていました。「お前は主イエスの弟子ではないか」と言われると、「そんなことはない」と呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスとの関係を拒絶していました。そして鶏が鳴いたのでした。けれども、今は違っています。8節に「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」とあるように、今のペトロは、聖霊の励ましのもとに置かれています。
 聖霊が降ったとき、弟子たちが経験したことは何だったか。それは「新しい言葉」が弟子たちにもたらされるという経験でした。聖霊が降ると地上が様変わりして、その人に新しい言葉がやって来る。しかもその言葉が、まるで自分の主人のように、自分の中にどんと座るようになるのです。ペトロ自身は何も変わりません。昔のままのペトロです。ところが、今ここで最高法院の真ん中に立たされているペトロは、数ヶ月前のようなおずおずした卑怯な様子は微塵もありません。今、彼はまっすぐ最高法院の法廷に立っています。そして、そういうペトロを圧倒できる人は一人もいません。

 裁判が始まり、裁判官が厳しく尋問します。7節に「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」とあります。それに対してペトロは明瞭に答えます。8節です。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。『民の議員、また長老の方々』」、ペトロはよく通る声で呼びかけて、今自分の前に立っている人たち、自分を裁こうとしている人たちがどういう人たちなのかを、まず明らかにします。ここに集まっている人は決して個人的な気分や好き嫌いで集まっているのではなく、「公の、神の民イスラエルを代表するという立場にある人たちである」とペトロは言っています。「民の議員、また長老の方々、あなたたちはイスラエルを代表する者としてここに座っている」とはっきり言った後で、ペトロは、この逮捕と裁判がどんなに不当であるかをはっきりと証言するのです。つまり、逮捕されたり裁かれるのは、悪事を働いた人に対してするべきである。しかし今、私たちがどうしてここにいるのか。病人に対する善い行いをしたために、ここに連れて来られ、裁判を受けていると堂々と語ります。
 そして、それに続けて、「あなたたちが今裁こうとしている事柄について、殊にこの点についてだけははっきりと責任を持ってもらいたい」と語りました。10節です。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。さらにペトロは言葉を継いで、詩編110編の言葉を引用して「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」と語ります。そしてペトロはダメを押すように、最後に宣言しました。12節です。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。「民の議員、また長老の方々よ。救いに至る道はただ一つだけだけれど、救いに至る門は狭い。ナザレのイエスというお方だけなのだから、その方以外に救い主を期待してはいけない」と、ペトロは極めて明瞭に最高法院の法廷で証言しました。「神さまは今、あなたがたに御手を差し伸べておられる。あなた方がナザレのイエスを信じて、神さまに堅く結ばれて生きる生活を歩むようにと、神さまの方からあなた方に招きを与えておられる。あなた方はそれを拒否なさるのか。今や決断の時です。これはあなたの個人的な問題ではない。イスラエル全体に関わる問題です。民の議員、また長老の方々よ、あなた方は、このことをどう受け止めるのですか」と、ペトロはまるで裁かれる側ではなく、裁く側にいるかのようですが、非常にはっきりと焦点になっている事柄を白日の元に晒して見せました。

 この日のペトロの法廷証言は、まるで説教のようですが、このペトロの言葉を聞いた裁く側の人たちに動揺が生まれました。一方では、キリストについては何も聞く気のない人がいますが、他方には、少しでも不安を感じる人たちが出て来るのです。「いったいこれはどういうことだろう。今、私たちの目の前に連れてこられたこの二人は、無学なただの人に過ぎないではないか。魚を獲るという知識以外に、神さまのことについて専門的に勉強した様子もない。それなのに、なぜ神さまの事柄をこのように語れるのだろうか。あるいは、生まれながらに足の不自由な人を癒すことができたのだろうか。そんなことがあるはずはない」という気持ちが生じます。権力者たちはすっかり戸惑い、14節に言われていますが、「しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」のです。また16節で「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない」とも言っています。権力者にしてみると、ペトロとヨハネを厳しく取り調べる結果として、「今回のことでは、民衆は皆騙されていたのだ」という結論を出したいところです。そしてペトロとヨハネを厳しく処罰して闇から闇に葬りたいところなのです。ところが実際には、足を癒していただいた人が側に立っているという事実は否定し難く起こったということが、証人を伴ってそこに示されています。そしてこの人が、生まれつき足が不自由で40年間神殿の門のところに置かれてきた人だということも、エルサレムの町の人たちはよく分かっており、またその人が今は歩けるようになっているということを皆承知しているのです。
 ペトロは、この度起こったことが、「この議員たちによって死刑を宣告されたナザレのイエスによって引き起こされた出来事だ」と主張しています。事実はあまりに明白です。どうしても否定しようがありません。議員たちがどんなに気に食わなくても、現にナザレの人イエス・キリストという名を信じて、癒され、立ち上がり歩んでいる人がこの場所にいるのですから、もはやどんな策略を用いても、これを無かったことにはできません。

 それで権力者たちはどうしたでしょうか。物事の道理や策略でごまかすのではなく、直に力を使って脅すほかありません。何といっても、この議員たちは、当時のユダヤ宗教界の最高指導者たちです。その権威をもってペトロたちに口止めさせようとて、「今後あの名によってだれにも話すな」と申し渡しました。
 ところが、そう言っている人たちは、今自分たちがどなたの前に立っているのかを、よく分からないでいるのです。権力者たちの目に見えているのは、ただの人に過ぎない漁師のペトロとヨハネです。無学な普通の人と向き合っていると思っています。ところが、実際にはペトロたちは、聖霊にすっかり満たされているのです。聖霊に満たされて、その人が自分自身を神さまに明け渡している結果、ペトロの中には主イエスその方がおられるのです。ペトロたちはそのことを明らかにして、いかに最高法院の議員や大祭司の命令であろうとも、口止めの命令に従うわけにはいかないと返事をしました。19節20節に「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」とあります。このように返事をしたために、ペトロとヨハネはさらに脅しをかけられることになりますが、その後、釈放されました。権力者たちは、民衆を恐れていたので二人に手出しができなかったと21節に言われています。

 さて、ここに述べられていることは、単なる古い裁判の記録というのではありません。この裁判では、当時のイスラエルの権力者たちが神の民イスラエルの代表として決断を求められています。「イエスさまを通して、あなたがたに救いの手が差し伸べられている。あなたがたはそれを信じて受け止めるのか。それとも振り払うのか」と問われています。「ここに実際に癒された人がいる。この人は『主の名によって』強められている。主が共にいてくださることを信じて、歩けなかったはずなのに歩ける者とされている。そしてそれは、あなたがたが十字架につけて殺したナザレのイエスによる出来事なのだ」と、ペトロとヨハネは裁判の場にいたすべての人に語りました。二人が語った場は最高法院の場ですから、直接話を聞いたのは最高法院の議員であり、大祭司の家の者たちです。しかし、実はこの問いかけは、ペトロの目の前にいた人たちにだけ語られている言葉ではないと思います。私たちは、聖書を通してですが、この同じ言葉を聞かされているのです。
 私たちはペトロの証言を聞かされ、同じように問われているのではないでしょうか。「イエスさまが共にいてくださることを信じて生きるようにされている」のは、この足の不自由だった男の人、一人限りではないはずです。ここにいる私たちもそれぞれに、「主がきっとわたしと共にいてくださる。どんな時にも、どんなにわたしが行き詰まってしまったとしても、イエスさまは決してわたしをお見捨てにはならず、共にいてくださる。だからわたしは生きて行って良いのだ」ということを信じるがゆえに、困難なところもその道を渡ってくることができている、そういう一人一人ではないでしょうか。
 もちろん、最高法院の議員たちやサドカイ派の人たちのように、事実を見ないようにして、絶対にキリストなど信じないという人もいるかもしれません。「世の中のキリスト者は皆、偽善者だ。上辺では復活したイエスが共にいてくださると言っているけれど、それはポーズだけで、実際にイエスと共に歩んでいるなんてことはない」と、キリストが人間を生かす、歩かせることなどないと決めてかかっている人もいることでしょう。しかし実際に主イエスに出会わされ、主イエスに救われ、信仰生活を歩んでいる人たちにとっては、事実は事実であると分かるのではないでしょうか。

 私たちは、十字架にかかって復活なさったお方が、「わたしはあなたと共に歩む。だからあなたはわたしに従って来なさい。あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださっているので、毎週教会に来て礼拝を捧げ、それぞれに生活することができているのではないでしょうか。私たちが繰り返し教会に集められ、礼拝を守りながら自分の人生を生きているということ、このことは、誰に何と言われようと、どう脅されようと「主イエスがわたしを救ってくださり、神との確かな結びつきの元に置いていてくださっているのだ」ということを言い表していることの現れなのです。毎週私たちが教会に来て喜んで礼拝をしているとは、どういうことなのか。それは、十字架に磔にされ殺された主イエスが確かに復活しておられ、わたしに出会ってくださり、「どんな時にもあなたと共にいるから、わたしを信じて生きていきなさい」と招いてくださり、そして私たちが「信じて生きています」ということを表している行いなのです。

 ペトロとヨハネがどんなに脅されても、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と返事をしたように、私たちも「主イエスが復活して、わたしと生きてくださるのだ」と聞かされ、慰められ勇気を与えられているからこそ、毎週毎週教会で礼拝を捧げるのです。

 私たちはこの礼拝で、主イエスの御声に慰められ、勇気と力を与えられ、聖霊に満たされて、ここからの一周りの歩みに送り出されていく一人一人であることを覚えたいと思います。
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