聖書のみことば
2019年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月19日主日礼拝音声

 大伝道命令
2019年5月第3主日礼拝 5月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第28章16〜20節

<16節>さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。<17節>そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。<18節>イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。<19節>だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、<20節>あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 ただいま、マタイによる福音書28章16節から20節までをご一緒にお聞きしました。十字架の死から復活された主イエスが11人の弟子たちを山の上へと招かれ、伝道の業へと派遣して行かれます。16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」とあります。
 主イエスが弟子たちをお招きになった山がどこだったのかは、聖書に名前が出てこないため、残念ながら今日では分からなくなっています。主イエスが復活された朝、お墓で婦人の弟子たちに出会った天使も山の名前までは明言しませんでした。28章7節には天使が「『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と言っています。恐らく、天使のこの伝言を聞いただけで、11人の弟子たちは自分たちがどこに向かったら良いのかを理解することができたものと思われます。とすれば、これは、この時天使から聞いたというよりも、主イエスがまだガリラヤにおられエルサレムに向かって歩んでおられた時に、何度も何度も弟子たちにご自身の受難と復活を伝えられた、その中で、山の名も一緒に教えておられたのでしょう。主イエスは復活された後、もう一度11人の弟子たちをガリラヤへと立ち戻し、山の上へと導かれます。

 この時に主イエスが指定された山と同じ山なのかどうか定かではありませんが、かつて主イエスは弟子たちを小高い山の上に集められ、「主イエスの弟子として生活していく心得」を教えられました。マタイによる福音書5章から7章にかけて「山上の説教」として出てきますが、主イエスは山の上で「主に招かれ主に伴われて生活することがどんなに大きな恵みであるか、光栄なことであるか」を教えてくださいました。主イエスに伴われて生活する歩みは、当時のファリサイ派の人たちや律法学者たちが注意深く旧約聖書の律法を戒律として聞き、それを守って生活することよりもずっと勝って、神の御心に従って歩むことだと教えられました。
 あるいはまた、主イエスはガリラヤ地方のある山に登られ、そこで大勢の病んでいる人たちに仕えて癒しの業を行い、4000人の人々を僅かなもので養うという不思議な業も行われました。これは、マタイによる福音書15章に出てきます。さらに、フィリポ・カイサリア地方で、主イエスを「救い主である」とペトロをはじめとした12人の弟子が言い表すと、間もなく主イエスはペトロ・ヨハネ・ヤコブの3弟子を伴って高い山に登られ、そこで3人の弟子たちの前で主イエス本来の栄光のお姿をお取りになり、そこではモーセやエリヤといった旧約聖書を代表する人たちとご自身の御業について語り合われるということもありました。
 そのような様々なことが山の上で起こっていたのですが、それらすべてを踏まえた形で、主イエスはもう一度弟子たちに、「ガリラヤに立ち戻り、山の上に集まるように」と言われました。ガリラヤの山の上に弟子たちをお招きになったということは、もう一度最初からのことを弟子たちに思い起こさせ、「主イエスに伴われ御言葉に励まされつつ主の御業に生きる生活がどんなに光栄なことであるか」を覚えながら弟子たちが新しい生活を始められるようにと、主イエスが配慮してくださった出来事であると言ってよいと思います。

 私たちは毎週、教会に集められます。ここは残念ながら山の上ではなく麓ですが、しかし主イエスは私たちを、毎週この場所に集まるようにとお招きになって、ここから始まる新しい生活に私たち一人一人を遣わしてくださいます。復活の主イエスが弟子たちをガリラヤの山の上に招かれたというこの出来事は、いわば、今日ここに集められている私たちが、教会の礼拝に招かれ、主の前にひれ伏し神を礼拝して生きていく、ここから遣わされてそれぞれの生活を歩んでいく、そういう私たちの有りようの初穂の出来事、一番始まりの出来事として起こっているのです。
 そしてそれは、17節を見ますとはっきりします。弟子たちはただ山に登っただけではなく、「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」とあるように、主イエスにひれ伏しています。マタイによる福音書を読み続けてきましたが、この一番終わりのところになって、初めて、弟子たちが「主イエスにひれ伏した」という言葉が出てきます。フィリポ・カイサリアの道のりで弟子たちが主イエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時も、弟子たちは特別主イエスを拝もうとはしませんでした。あるいは高い山の上で主イエスのお姿が変わり、それに圧倒されてペトロたちが主イエスを礼拝の対象として拝むということもありませんでした。一度だけ、例外的に主イエスの前にひれ伏した人がいたことが記されているのは20章20節です。「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」。原文で見ますと単数形ですので、主イエスの前にひれ伏しているのは、ゼベダイの息子たちの母だけです。確かに母親はひれ伏しているのですが、しかしそれはある願い、魂胆があってのことでした。主イエスが栄光の王座にお着きになるときに、自分の二人の息子を主イエスの王座の左右に座らせてほしいというお願いをするために頭を下げているに過ぎないのです。この母親は、自分の願いをどうしても主イエスに聞いてもらおうと思ってひれ伏しているのですから、主イエスを、礼拝をお捧げする相手として伏し拝んでいるということとは違います。

 マタイによる福音書の一番最後になって初めて、「主イエスの前にひれ伏し、伏し拝んでいる」11人の弟子たちの姿が現れています。実はこの姿は、私たちが毎週日曜日に教会にやって来て集まり、主イエスを通して神を礼拝している、それと同じような礼拝であり、つまりマタイ28章の最後は、私たちの礼拝の始まりの様子が記されていると言ってよいのです。
 そしてそういう場面で大変興味深いことが語られています。11人の弟子たちは主イエスに指示された山に登り、主イエスにお会いし、主イエスにひれ伏し拝んでいるのですが、しかしそこに一言「しかし、疑う者もいた」と付け加えられています。復活の主イエスに招かれ、復活の主イエスを前にして跪き礼拝しているのですから、私たちの思いからすれば、弟子たちが疑いの心など宿さずに、全き思いで主イエスを賛美し礼拝してほしいと思います。けれどもここには、はっきりと「しかし、疑う者もいた」と書かれています。格好悪いことですが、しかしこれこそが、私たち人間のありのままの姿かもしれないと思います。
 ここに語られていることは。11人の弟子たちのうちの一人か二人、疑う者がいたとか不真実な者がいたと言っているのではありません。原文を直訳すると、「主イエスを見た。彼らはひれ伏した。だが彼らは疑った」と書いてあります。つまり疑いは一人二人の問題ではないのです。「彼らがひれ伏し、彼らが疑った」のですから、この疑いは11人全員の中に宿っている疑いなのです。
 「疑い」という言葉について、少し丁寧に考えてみたいのですが、ここに語られている「疑い」という言葉は、聖書全体の中で2度しか出てこない、とても珍しい言葉です。一回はこの箇所で、もう一回は同じくマタイによる福音書で、弟子たちが湖の上で主イエスと出会うという場面です。「疑う」という言葉は、「二度置く」という言葉です。何が置かれるのかというと、それは人の心です。今日の箇所で「疑う者もいた」と言われているのは、「復活の主イエスに面と向かってお会いし礼拝したけれど、そのときに、自分の心を二度置いている人がいた」ということです。
 「二度置く」とはどういうことなのか。他にもう一回出てくる箇所と読み合わせて考えてみたいと思います。マタイによる福音書14章31節「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」とあります。夜中に逆風のため一晩中漕ぎ悩んでいた弟子たちのところに、主イエスが湖の上を歩いて訪れてくださいました。最初弟子たちは、湖の上のことですから、「人が現れる筈はない。幽霊が来た」と思って怯えました。けれども主イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださって、少し落ち着くことができました。そこでペトロが、「あなただったら、わたしに命じて、あなたのところまで行かせてください」と頼みました。ペトロは湖の上を歩いてみたいと思ったのでしょう。主イエスが「来なさい」とおっしゃって、ペトロは湖の上を歩き始め、主イエスに近づき、最初は上手く歩けていたのですが、しかし、激しい風や波に気づいて怖くなってしまいました。怖くなった途端に、ペトロは湖にズブズブと沈み込んでしまうのですが、この場面で主イエスが弟子たちにかけられた言葉が「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉でした。つまり、ペトロが「来なさい」と言ってくださった主イエスの言葉だけを頼りにしている間は、不思議ですが湖の上を歩くことができました。ところが風や波に気づいて、「自分の力で何とか乗り越えられるだろうか」と考えた途端に、ペトロは波にのまれてしまいます。「心を二度置く」とはどういうことでしょうか。主イエスの言葉を聞いて、「主に信頼すれば水の上を歩ける」と、ペトロは一度ここに心を置いたのですが、風や波を見て、「大丈夫だろうか」と、もう一度心を置き直してしまうのです。ですからこれは、聖書の中の別の言葉を使って言い直すと「二心を抱く」ということと同じことです。復活の主イエスにお会いして本当に喜んで伏し拝んだけれど、そこで二心を抱く者がいたのです。二心を抱きながら主イエスにひれ伏していたと言われているのです。
 もしかすると私たちも身に覚えがあるかもしれません。私たちは神を礼拝するために教会に来るのですが、しかし礼拝の最中に様々なことを考えてしまうということがあるかもしれません。

 ところで主イエスは、弟子たちがそのように疑いを宿していることをお責めにはなりませんでした。むしろ、そういう弟子たちの前で宣言をなさいます。28章18節「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている』」。水に沈みつつあるペトロを水から力強く引き上げてくださった時のように、主イエスは今、ひれ伏しながら二心を抱く弟子たちのそば近くに来てくださいます。もちろんそれは、弟子たちが疑いの中で溺れ死なないようにするためです。そして「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われました。主イエスのおっしゃっている言葉を心に留めたいと思います。
 主イエスは「世界の権能」とは言わず「天と地の一切の権能」とおっしゃっています。私たちが普段、世界とか宇宙とか言っている、その全体を表すのに「天と地」という二つの言葉で表されました。「全世界」「全宇宙」という一言ではなく「天と地」、対極にある言葉を横に並べて使い、二つの言葉で全体を表されました。これは、私たち人間には、神がお創りになる全領域のことを理解することができないからだろうと思います。「全世界」「全宇宙」と言っても、多分、私たちが想像できることは限られています。無限と言ってもただの広がり、永遠と言っても長い時間のことを思うでしょう。けれども神は、時間も空間もお創りになったお方で、それらの外におられるのです。そしてさらに、神は、別の領域もお創りになれるのです。
 ですから、私たち人間の理性で分かることというのは、神からご覧になればごく一部のことでしかありません。神がお造りになったこの地上のことであればある程度は分かるかもしれませんが、天上で神がどのような永遠の時を過ごしておられるのか、私たちには分からないことです。ですから主イエスは、すべてのことをおっしゃる時に、「全世界」「全宇宙」と私たちが思い描けるような一言ではおっしゃらず、「天と地」と、私たちには到底理解できない未知の領域があることを表されました。「わたしは地においても、地を超えた天においても、一切の権能を授かっている」。言葉では言い表せないのですが、主イエスは、「すべての主なるお方である」と、ご自身をお示しになるのです。なお私たちには、主イエスのおっしゃっていることを理解することは難しいのですが、「主イエスがすべてにおいてすべてを満たしてくださっている」のです。そして、「そのようなお方である主イエスに伴われて生活するように」と、弟子たちを招いてくださっているのです。

 続く19節20節に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とあります。
 主イエスは、目の前にいる11人の弟子たちに「あなたはわたしの弟子である」と言ってくださいます。たとえ疑いを宿していても、二心を抱いていても、「それでもあなたは、わたしの弟子である」と言って近づいてくださり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と御言葉を与えて励ましてくださるのです。そして、そういう弟子たちを、目の前の11人以外にも求めたいのだとおっしゃるのです。
 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃるのは、目の前にいる11人を弟子と認めてくださっているからに他なりません。「わたしはすべての人を弟子にしようと思っている。あなたがたは弟子なのだから、行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられるのです。主イエスがこのようにおっしゃる、それが教会の伝道の根拠です。ですから、私たちはただ自分たちだけの仲間を増やすということであってはなりません。主イエスがここでおっしゃってくださったことを、教会の群れの中で保ち続けるということでなければなりません。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主イエスは言われます。招かれた一人ひとりが教会の群れの中にしっかりと結びつくようにと言われるのです。

 では、私たちが教えること、主イエスが「命じておいたこと」とおっしゃっていることは何でしょうか。私たちは、主イエスが何をわたしに命じておられるのか、急に言われても思い当たらないのではないでしょうか。マタイによる福音書を読み返してみても、はっきりとは分かりません。それはどうしてかと言いますと、主イエスは「あれを守れ、これを守れ」とおっしゃっていないからです。主イエスのご命令は、「この掟を守らなければ」というような自由を失わせるものではありません。主イエスは、「あなたがたの義が、ファリサイ派や律法学者たちの義に勝っていなければならない」という言葉で教えられました。それは何でしょうか。
 あれこれ一つ一つを守ったというやり方ではなく、「主イエスが私たちに与えてくださっている新しい生き方を生きなさい」とおっしゃってくださるのです。数々の律法を守ることに代わる新しいあり方を、主イエスは与えようとなさいました。このことは、ヨハネによる福音書13章34節では「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という主イエスのご命令として語られています。主イエスはここで、十字架にかかることも厭わないほどに、私たちを愛してくださいました。そして、その主イエスの愛に留まって、主イエスに感謝し、「お互いの間でも愛を持ち合うような生活をするように」と弟子たちにお命じになるのです。

 私たちは、「愛」という言葉を聞きますと、しばしば過ちをおかしてしまう気がします。愛の業を自分本位に考えて、自分中心の独りよがりな行いが愛なのだと言い張ってしまったりします。けれども、主イエスは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。つまり、私たちが毎日の生活の中で、お互いの中で愛を持ち合っていく、誰かを愛して生きていく、その愛は常に、十字架にお架かりになった主イエスの愛の光に照らされているのだということを、私たちは知らなければなりません。私たちが十字架を忘れ自分だけで生きようとしてしまう時には、自分のことをあまりよく分からないのではないかと思います。どんなに自分が愛に乏しく、惨めな者であるかを、私たちはなかなか気づきません。もしかすると、自分は愛が豊かだと思ってさえいるかもしれません。自分の思いのままに、自分の好きなものを愛で、嫌いなものを見ないで過ごす、人間とはそういうものだと思っていますし、そういう中で誰かを気に入ったことが愛なのだと思ったりするのです。
 しかし、そのような自分本位でわがままなあり方こそが、主イエスの十字架の光に照らされているのだということを、私たちは聖書から繰り返し繰り返し聞かされるのです。主イエスは自分の好きな人だけのために十字架に架かったのか、そうではありません。自分のやりたいことだけを行なって十字架に架かったのか、そうではありません。そもそも十字架になど架かりたいわけはないのです。主イエスは、それが「相手にとって必要なこと」だから、「相手は愛を知らずにいるけれど、その人が愛に抱かれて生きることが必要」だからこそ、私たちのために身代わりとなって十字架に架かってくださったのです。

 そういう十字架の光に照らされる時に、私たちは、自分がどんなに愛に乏しい者でしかないかということを知らされるようになります。そしてまた、そういう私たちにとって、弟子たちにとって、主イエスがお命じになった「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということがどんなに難しいことかと思わずにはいられません。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。それがわたしの掟だ。それをあなたがたの間で互いに守り合うようにと教えるのだよ」とおっしゃっています。一体、私たちにできることでしょうか。

 けれども、そうであるからこそ、主イエスが一番最後におっしゃった言葉がどんなにか大事かということに、私たちは気付かされるのではないでしょうか。28章の一番最後です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主イエスは「あなたが本当に愛を行なって生きることができるように、そのためにわたしはいつでもあなたと共にいる」と言ってくださいます。それはただ口先だけでおっしゃっているのではありません。甦りの主イエスは、確かに私たちに触れてくださいます。甦りの主イエスが弟子たちに触れ、弟子たちを清めてくださいます。「主イエスが共にいてくださる」と信じる者を、主イエスは水で洗い、聖霊を送り、「それは確かなことだ」という確信を私たちに与えてくださるのです。弟子たちは、そのためにも仕えるようにと招かれています。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と、主イエスは言われました。
 「洗礼」というのは、単なる儀式、教会に入会するためのセレモニーではありません。私たちは、洗礼の水に与りながら、確かに自分の罪を洗われて、罪が滅ぼされ、新しい人間に甦らされていくのです。
 もちろん、洗礼を受けたからといっても、私たちは自分自身の肉体に弱いところをたくさん持っていますから、洗礼を受けた途端に天使のようになるということではありません。けれども、復活された主イエスが弱い私たちと共にいてくださって、私たちを善い業へ、本当の愛へと向けてくださるのです。主イエスが常に「あなたと一緒にいる」という恵みを、私たちは、洗礼のしるしによってこの身に受けるのです。
 洗礼を受けるということは、私たち人間の側から言えば、私たちが自分の人生のどこかの時点で「主イエスがわたしと共にいてくださる。共に歩んでくださる」と信じさせていただいたしるしになります。主イエスの側から言えば、「この人をわたしのものとした。この人は一度死んで、甦っているわたしと共にいるのだ」という、甦りの命を与えてくださっているしるしなのです。私たちは、そのような洗礼のしるしに与っている者として、もう一つのしるしである「パンとぶどう酒の礼典」にも与って生活するのです。

 主イエスが真実に私たちと共にいてくださる、私たちの上に、この教会の群れを通して働いてくださる。そして愛を注いでくださって、私たちを真実の愛に生きる者へと作り変えてくださる。そのことを信じ覚えたいと思います。
 主イエスに結ばれている者として、私たちの内から出てくる愛は貧しいものにすぎませんが、私たちの愛の豊かさによってではなく、「主イエスが私たちの上に大きな愛を注いでくださっているがゆえに、私たちも愛の業に押し出される」、そういう幸いな者とされたいと願います。

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