聖書のみことば
2019年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月12日主日礼拝音声

 新しい世界の約束
花の日・子供の日CS合同礼拝 5月12日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)
聖書/ヨハネの黙示録 第21章1〜4節

<1節>わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。<2節>更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。<3節>そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、<4節>彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」。

 教会学校のお友達と大人の人たちが、いつもは別々ですが、今日は一緒に礼拝をお捧げしています。教会はイエスさまによって神さまの家族とされた集まりなので、今朝はそのことを目に見える形で知らされて、とても嬉しく思います。

 ところで、ここには大人と子供がいますが、お互いに随分違っているのではないでしょうか。大体、見た目がとても違います。愛宕町教会には小さい赤ちゃんからお歳を召した方まで、いろいろな世代の方がいらっしゃいます。大人は大人、子供は子供です。それぞれ悩んでいる内容も違います。
 小さい人たちは「将来どんな人になろうか」と悩んだり、学校に行っていればそこでの出来事や友達との関係を考えることがあると思います。大人の人たちは、だんだん年齢が進みますと、あちこちが痛くなったり病気をしたり、自分の健康のこと、家族のこと、お仕事のことで悩んだりします。
 けれども、小さい人も大人も、同じ悩みを持つことがあります。それは、「私たちがいつかは死ぬ」、そのことについての悩みです。もちろん、人によって若くても年齢が進んでも「死ぬことなど少しも考えていないし悩んでもいない」という人もいるかもしれません。「死なんて全然へっちゃらさ。死ぬことなんか考えても仕方ないよ」と言う人もいるかもしれません。それでも、大人も子供も、同じように悩んでしまうこと、避けて通ることができないこと、自分がいつか死ぬということ、大切な人もいつかは死を迎えるということ、それは同じではないかと思います。
 私たちは死を迎えた後、どうなるのでしょうか。この世界はどうなっていくのでしょうか。歴史はいつまで続いていくのでしょうか。この世界は永遠に、またどこまでも続いていくのでしょうか。

 今朝はご一緒に、ヨハネの黙示録から神さまの言葉を聞きました。ヨハネの黙示録は、新約聖書の最後の文書、聖書全体から見ても、一番終わりの文書なのです。聖書の最初の文書は、旧約聖書の最初にある創世記です。その最初の言葉は「初めに、神は天地を創造された」という言葉でした。「神さまが全世界を造ってくださった。世界は神様のご意志、言葉から始まった」その世界に、今、私たちは生きています。けれども、この後、この世界はどうなっていくのでしょうか。
 今日の聖書の箇所、ヨハネの黙示録21章の1節には「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」とあります。これは、ヨハネという人が神さまのお導きによって見た幻の様子です。「世界が終わりを迎えて、その後に新しい天と新しい地、新しい世界がやって来る。今までの世界は去って行く」、ヨハネはそういう幻を見ました。今まであった世界とは全く違う、人間には創り出すことができない世界です。そこには「海がない」と書かれています。「もはや海もなくなった」という言葉で、神さまと人を別れ別れにしてしまう悪の力、罪の力がなくなったということを表しています。

 私たちは、新しい世界がどんな世界なのか、全部を知ることはできません。けれども、安心することができます。なぜなら、「新しい世界の中心には、教会、神さまの交わりがある」と約束されているからです。2節には「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」とあります。
 皆さんは、結婚式でドレスを着た花嫁さんを見たことがあるかもしれません。結婚式では、最近は男性もお洒落な服を着ることが多いですけれど、何と言っても花嫁さんはとても美しく輝いているように見えます。ヨハネは、「新しい世界の中に教会がある」と言って、その教会は結婚相手のために美しく整えられた花嫁さんのような姿をとると喩えています。
 教会が花嫁だとすると、結婚相手はイエスさまです。新しい世界において神さまに集められた神さまの民、教会が救い主イエスさまを尊敬し、イエスさまと一緒にされるようにして礼拝を捧げる、そういう幻をヨハネは見ました。

 今私たちは、ここで一緒に礼拝をしています。どうして毎週礼拝するのかと思ったことはありませんか? それは教会がいつもイエスさまと結婚しているように一つにされるためです。いつの日か世界が終わり、イエスさまが再び地上においでになって、新しい世界が始まります。その時には、罪赦されて完全に新しくされた神さまの民が皆で礼拝をお捧げします。私たちは、その神さまの民とされています。新しい世界の天上の礼拝を望み見て、今はこの地上で礼拝を捧げていきます。
教会にとって主イエス・キリストというお方は、どんなに大切なお方でしょうか。この方が十字架にお架かりになり、私たち皆の罪を赦してくださり、ご復活によって永遠の命へと招いてくださった救い主です。教会はこの方と一つにされて歩んでいく、そういう交わりです。

 さて、新しい世界の様子が3節と4節にも語られています。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
 やがて来る新しい世界、そこは平和な世界です。神さまが人間と一緒にいてくださいます。人間はお互い同士、平和な関係を保っています。そしてまた、人間以外の造られたすべてのもの、自然界と動物と人間が平和な関係を持っています。
神さまが人間とずっとずっと居てくださり、決して見捨てずにいてくださる、これは一体どういうことでしょうか。皆さんは悲しい気持ちで涙を流したことがあるでしょうか。その時、誰がいてくれましたか。家族や友達、教会の信仰の友達、知り合い、いろいろかもしれませんが、誰かが私たちの悲しい気持ちを知っていてくれたということがあったのではないでしょうか。そして何よりも神さまが私たち皆の悲しい気持ちを分かっていてくださっていました。ヨハネはそれをここで、「私たちの目の涙を全部すっかりぬぐい取ってくださる」と言い表しました。
 わたしはこの箇所を読んで、イエスさまがナインという町で出会った女性、夫が死んでしまい、今はたった一人の息子も死んでしまったという悲しみの中にいる女性に、イエスさまが「もう泣かなくともよい」と声をお掛けになったことを思い起こしました。新しい世界では神さまが完全に一緒にいてくださるので、死もありませんし、罪もありません。悲しみも嘆きも苦しみもありません。「もう泣かなくともよい」と神さまが私たち一人ひとりに語りかけてくださる新しい世界です。
 人と人も互いに和らいで過ごします。旧約聖書のイザヤという預言者が語ったように、狼は子羊と共に、豹は子山羊と共に、子牛はライオンと共にいます。人間の赤ちゃんも何の恐れもなく、その中にいます。麗しい平和と愛の世界が新しい世界です。
 私たちは、その世界がやってくるという約束を待ち望みつつ、今を生きています。新しい世界に生かされる、その日を期待しながら、礼拝を捧げ続けます。皆でその約束を覚えて感謝したいと思います。

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