聖書のみことば
2019年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月5日主日礼拝音声
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 遮られぬ御業
2019年5月第1主日礼拝 5月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第27章62節〜28章15節

27章 <62節>明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、<63節>こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。<64節>ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」<65節>ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」<66節>そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。28章<1節>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。<2節>すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。<3節>その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。<4節>番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。<5節>天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、<6節>あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。<7節>それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」<8節>婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。<9節>すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。<10節>イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」<11節>婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。<12節>そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、<13節>言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。<14節>もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」<15節>兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 ただいま、マタイによる福音書27章の62節から28章の15節までをご一緒にお聞きしました。最後の28章15節に「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とあります。「この話」というのは、「主イエスの弟子たちがお墓の中から主イエスの亡骸を盗み出していった」という話です。マタイによる福音書では、噂の出所は主イエスの葬られたアリマタヤのヨセフの墓を見張っていた番兵たちであると言われています。「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした」とありますから、番兵たちが事実とは違う偽りを告げ知らせたということです。「これは偽りではあるけれども、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と言われているのです。

 率直に申しまして、こういう話を聖書から聞かされますと、私たちからすればただただ戸惑ってしまうのではないでしょうか。今から2000年前に復活が起こったこと、それが事実なのかどうかを直接確かめる手立てはありませんし、あるいは墓の中から遺体が盗み出されたと、復活をデマとして噂を流されたのだと言われても、それを確かめる手立ても無いように思います。ある人は復活は事実だと言うけれど、別の人は主イエスの弟子たちが仕組んだ狂言であって本当は遺体が運び出されただけだと言う。そのように二つの話を聞かされますと、判断がつかなくなるということはないでしょうか。
 けれどもよくよく考えますと、そうではありません。というのは、実際とは違う嘘偽りを言おうとすると、どうしてもそこに矛盾したことを言ってしまうということがあるためです。
 マタイによる福音書は、教会の歴史の初めの頃、ユダヤ人たちの中でまことしやかに語られていた「復活などなかった」と言い伝えられている言葉を、ここで詳しく記すことによって、この噂がどんなに根も葉もないデタラメであるかを明らかにしようとしているのです。今日はそのところを少し丁寧に聞き取りながら聴いていきたいと思います。

 まずは、「主イエスの復活はなかった」と甦りを否定する人たちが、どういう仕方で復活を否定しようとしているかを確かめてみようと思います。根本的なことですが、ごく普通に言って「復活など起こっていない。十字架の上で処刑された主イエスは死んだのだ」ということをはっきりさせるためにはどうしたら良いか。それは復活が起こったとか起こっていないと論争したり、遺体が盗まれたと果てなく言うよりは、亡骸を見つけ出して「ほら、ここに遺体があるではないか。主イエスは復活などしていない」と言うことができたならば、主イエスの復活の話は作り話に過ぎないということがはっきりするだろうと思います。ですから、復活を否定することを主張するのであれば、当然のことながら、主イエスの亡骸があるということを指し示すことが何よりも確かなことです。
 復活など起こらなかったと主張する人たちが「主イエスの遺体は、夜の間に弟子たちによって盗み出されたのだ」と言うのであれば、当然、亡骸の捜索ということが一番最初に起こってくるに違いありません。ローマ総督のポンテオ・ピラトにしても、ユダヤの最高法院のメンバーにしても、何よりも盗み出された主イエスの体の捜索を血眼になって行うのが当たり前のはずです。そしてその際には、弟子たちが夜中に主イエスの遺体を盗んだと言われているのですから、弟子たちは連行され取り調べを受けるはずですし、また「盗まれた」と伝えた番兵たちも、呑気にこんな噂を流している場合ではないはずなのです。お墓の中から遺体が盗み出されたのであれば、普通に考えて、一番疑いをかけられるのは遺体の近くにいた人ですから、番兵たちこそが捕らえられ取り調べられなければならないはずです。
 ところが、ここではそうなっていません。番兵たちは「遺体が盗み出された」と呑気に巷に噂を流していますが、こんなことがあるはずはありません。
 またさらに言うと、「主イエスの遺体は盗み出された」という番兵たちの証言自体も辻褄が合わないところがあります。祭司長たちは言っています。13節「言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」。もしも、主イエスが納められたアリマタヤのヨセフのお墓の入口がぽっかりと口を開けていて、夜の間に誰でも自由に出入り出来る状況だったのであれば、確かにそういうことは起こったかもしれません。けれども実際には、獣たちがお墓の中に入って遺体を荒らすことがないように、非常に大きな石がお墓の入口を塞いでいました。祭司長たちがピラトのところへ行って「お墓を見張らせてほしい」と願い、お墓に行って「封印した」と言われていますから、石があったことは間違いないのです。大きな石が墓の入口を塞いでいる、そこから弟子たちが遺体を盗み出すのであれば、その大きな石を動かさなければなりません。番兵たちがぐっすりと眠っていられる程度の振動で、石を動かすことができたのでしょうか。仮に動かせたとしても、今度は、番兵たちが熟睡していたのであれば、どうしてそんなに深く眠り込んでいたにも拘わらず、亡骸を盗み出したのが主イエスの弟子だと分かったのか、これも矛盾していることです。盗み出したのが弟子たちだと分かるためには、番兵たちは起きていなければなりません。起きていたのであれば、「眠っている間に盗む」ということはあり得ないのです。

 そして何よりも、遺体の盗難が偽りであることがはっきりするのは、どうしてこの晩、番兵たちがお墓にいたのかという理由によります。その経緯は、27章62節から66節に語られています。「明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、「自分は三日後に復活する」と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは死者の中から復活した」などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。』ピラトは言った。『あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。』そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた」。ここを読みますと明らかなことですが、アリマタヤのヨセフのお墓の入口を守っていた番兵たちは、「主イエスの弟子たちが遺体を盗み出すかもしれない」という噂があって、その噂に対応するために、つまり「遺体が盗み出されないように」、お墓を守っていたのです。
 しかも66節の言葉は新共同訳聖書では正確に訳されておらず、原文では、お墓を見張っていたのは番兵たちだけではなく、祭司長やファリサイ派の人たちのうちの誰か、ピラトのもとに行った人たちも一緒にお墓を見張っていたと66節には書いてあるのです。また、昨年秋に聖書協会共同訳という聖書が出版されましたが、それには「そこで、彼らは行って石に封印をし、番兵と共に墓を見張った」と訳されています。これが一番原文に近い翻訳です。「彼ら」とは、ピラトのもとに行った祭司長とファリサイ派の人たちです。ですから、番兵に見張らせていたけれど番兵の手抜かりで居眠っている間に遺体が盗み出されたということではありません。このお墓については、祭司長やファリサイ派の人たちも非常に神経を尖らせていて「その場に居た」と言われているのです。なぜそれほどに神経を尖らせてそこに居たかというと、弟子たちが遺体を盗み出すかもしれないという予断を持って見張っていたからです。

 そうであるならば、復活が起こった後、言い訳のように「弟子たちが夜の間に来て、番兵が眠っている間に遺体を盗み出した」などということが起こるでしょうか。そんなことは決して考えられないのです。主イエスが復活した時、番兵も祭司長やファリサイ派の人たちも決して眠ってなどいませんでした。むしろ実際には、28章4節に言われている通りだったのです。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。恐ろしさを感じているということは、眠ってなどいないということです。ですから、「番兵たちが眠っている間に弟子たちによって主イエスの遺体が盗まれた」ということは、全く事実と違うことです。それは流言飛語に過ぎないということを、当時、それに関わった人たちの言葉を正確に記すことを通して、マタイによる福音書は伝えているのです。
 ピラトの前で祭司長やファリサイ派の人たちは、主イエスのことを「人を惑わすあの者」と言っていました。けれども実際には、嘘偽りを言って意図的に人々を惑わそうとしたのは、むしろ、祭司長やファリサイ派の人たちでした。
 主イエスは確かに復活されました。祭司長やファリサイ派の人たちが主イエスというお方に恐れを覚えて、自分たちが十字架につけて殺しても、なお猜疑心に駆られてお墓を見張らせたということは、結果から見ると逆効果になっています。弟子たちが遺体を盗み出さないように見張りを置いたということは、実は見張っていた人たち自身が主イエスの甦りの場所に立ち会わされることになって、そして恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになり、「復活が起こってしまった」ということを否定できない、そういう立場に追い込まれたということです。神の御業の前では、人間の小賢しい企ては力を失って、復活が本当に起こったということを際立たせる、そういう結果にしかならなかったのです。

 けれども、マタイによる福音書が伝えている事態の深刻さというのは、祭司長やファリサイ派の人たちが真実を語っていないということに止まりません。より重大なのは、28章15節に語られている事柄です。「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」。主イエスの復活は決して遺体の盗難などではない、もっと別の不思議な出来事が起こったということを、祭司長やファリサイ派の人たちも分かっていました。だからこそ、彼らは深く恐れたのでした。そして恐れた結果、弟子たちに手出しが出来なかったのです。「遺体が盗まれた」と強弁するならば、口先だけではなく形の上でも弟子たちを逮捕して出来事をでっち上げることもできたはずです。ところが、弟子の一人も逮捕することは出来なかったのはなぜかというと、本当に恐れたからです。本当に「復活が起こった」からです。起こってしまったからには、ここでなお、弟子たちを捕らえて形の上だけ「遺体が盗まれた」ということにしたとしても、自分たちは神に撃たれてしまうかもしれないという不安と恐れに囚われたので、祭司長たちは弟子たちを捕らえることができませんでした。明らかに偽りだと分かっていながら、「主イエスは復活などしていない。遺体は盗まれたのだ」と、ただ口先だけで言うだけでした。

 そしてそういうことは、当時のエルサレムのユダヤ人たちの間では、よく分かったはずです。ユダヤ人たちも「本当に遺体が盗み出されたのならば、こんな決着になるはずはない」と分かっていたはずです。けれども、分かったはずであるのに、ユダヤ人たちの間では「遺体は盗み出された」ということが受け入れられ、この噂が広まっている、このことがとても深刻なことなのです。
 どう深刻なのか。復活は間違いなく起こったらしいにも拘らず、そのことをどうしても受け入れようとしない人間が沢山いるということを、この箇所は語っています。そして、主イエスの復活の知らせというのは、いつの時代も、「復活が起こった」ということを信じたくない人間の間に宣べ伝えられていくものなのです。それは最初からそうだったと、ここに語られています。
  世の中で「主イエスが甦った」ということが受け入れられないのは、判断がつかないからではありません。そうではなくて、たとえ「これは、復活したに違いないのだろう」と思ったとしても、それでもやはり、神が自分たちの上に働きかけて何かをなさるということはとても不安で、そんなことは受け入れたくない、考えたくないという人間が大勢いるのです。神の力がこの世界に働いていると信じて生きるよりは、神などどこかに押しやっておいて、自分が自分の思いで暮らしていくことがこの世の在り方だと思って生きていきたい人間が大勢いるのです。
 主イエスの復活が起こった時、このような事態だったと聖書は語っていますが、しかしこれは、それから2000年経った今日でも同じだろうと思います。主イエスの復活など受け入れたくないと最初から思っている人たちがたくさんいる社会の中に、私たちは暮らしています。主イエスの十字架と復活の出来事が起こってからもう2000年になりますが、この2000年の間、教会がどうしてこの地上に立ち続けてくることができたのでしょうか。それは、マタイが言っているように、主イエスの復活が真実だからです。そして、甦った主イエスがいつの世も教会と共にいてくださって、主イエスの復活を信じて生きる人たちを励ましてくださっているからです。「主イエスは甦られた」と毎週毎週、日曜日に教会で語り続けられ、それが本当だと信じる人たちはそれを確かに覚え、勇気を与えられ力を与えられて、「わたしはこう生きて良いのだ」と思って生きていく。そういう人たちが綿々と続いてきたからこそ、2000年経っても私たちは、今日ここで主イエスの甦りの話を話題とし、礼拝しているのです。

 主イエスの復活の現実に触れさせられ、そうだろうと思いながらも、それを無視できると考えて、「主イエスの復活など起こらなかった」と言い張る人たちは、いつの時代にもいます。そして、そういう人たちが大勢いる中に囲まれると、復活を知らされ信じた人たちも「本当に復活したのだろうか…」と、時にたじろいでしまうことがあります。
 けれども、このマタイによる福音書は、「主イエスは復活しなかった」という偽りの風評の中で、しかし教会は、主イエス・キリストの甦りを伝え続け、またそれを信じて強められてきたのだということを語っています。
 私たち教会は2000年の間このことを語り続け、覚え続けてきました。今日はこれから聖餐式がありますが、聖餐の中で私たちが目にすることは何かというと、「主イエス・キリストが私たちの罪を清算するために肉を裂き血を流してくださった。十字架の上で死んでくださった。それによって私たちは新しいものにされている」ということです。聖餐に与る時、パンを食べ杯を飲むときに、私たちは、「主イエスの復活などあるはずがない」という声がこの世の中に満ちていたとしても、それでも「確かに主イエスは、私たちと共にいてくださる。わたしを確かに強めてくださり、甦りの主イエスと共にある者として生かしてくださる」ということを新たに教えられるのです。

 もちろん、私たちが復活を知っているというのは、すべてを分かっているということではありません。あるいはこの先どのようにこの状況が導かれていくのか、終わりに向かっていくのかを知っているわけではありません。けれども、「主イエスが復活された。このことは動かし難い事実なのだ。そしてわたしの確かな希望になってくださっているのだ」ということを見上げながら、私たちは、主イエスが甦り私たちと共にいてくださる、この世界に伴ってくださっているのだということに希望を与えられ生きていく、そういう群れとされていることを覚えたいのです。
 私たちは一人一人、本当に様々な問題に取り囲まれて、難しさや困ったことが多くあるかもしれません。けれども、私たちの世界がどんなに混乱し見通しが利かなくても、主イエスは確かに私たちの只中に歩んでくださり、私たちの罪を清算して十字架にかかってくださり、「もう一度、神の前に生きてよいのだ」という命を私たちに与えてくださっていることを、私たちは、聖餐に与るたびに知らされています。
  人間的な見通しや、人間の理性だけで物事を判断するのではなくて、神が私たちの世界の上に御業をなさってくださっている、その中に私たちも抱かれて今日を生きるようにされている、そのことを信じ、勇気を与えられて、ここから一歩一歩、私たちがなすべき歩みに歩みだしていきたいと願います。

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