聖書のみことば
2019年12月
12月1日 12月8日 12月15日 12月22日 12月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月8日主日礼拝音声

 イエスと名付けよ
2019年12月第2主日礼拝 12月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第1章18〜25節

<18節>イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。<19節>夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。<20節>このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。<21節>マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」<22節>このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<23節>「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。<24節>ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、<25節>男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 ただいま、マタイによる福音書1章18節から25節をご一緒にお聞きしました。18節から21節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」とあります。
 私たちは、何年かに一度はこの箇所を耳にすると思います。聴き慣れた記事のようにも思いますが、この記事を聴くたびに思います。私たちは果たして、聖書がここで語ろうとしている事柄を本当に聞き取れているでしょうか。この箇所を聴くとき、私たちはしばしば覗き趣味のような受け取り方で接してしまいがちではないでしょうか。私たちの思いの方が先に立ってしまって、聖書自体が語っている事柄にはなかなか気づかない、耳を澄まし心に入ってくるということにならないところがあると思います。

 例えば、18節の最後にはっきり言われています。「母マリアは」と言って、「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と語られています。聖書は、「マリアの身ごもりは聖霊の出来事である。マリアの受胎は聖霊によって生じた出来事だ」とはっきり語っています。ところが、私たちはなかなかこの点を受け止めることができていないように思います。聖霊によって受胎したと言われても素直に受け入れるのではなく、様々に取り沙汰してしまう、人間の普段の出来事に引き寄せて、納得できないと気が済まないところがあるのです。そして、いつの間にか、私たちがあれこれと想像を逞しくした方を本当のことらしく思ってしまって、本当のことを受け止められないようなところがあります。そのように、私たちの側にはこの箇所への近づきにくさがあるのですが、しかし、聖書がここで語っていることは、「マリアの受胎は聖霊による」ということです。
 そして、ヨセフの夢に出てくる天使も、このことをはっきり告げています。20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである』」とあり、この天使もやはり、「マリアの受胎は聖霊による」と言っています。
 私たち人間の理性によっては、「聖霊によって子供が女性の体内に宿る」というのは、受け取りにくいことです。しかし、たとえそうであっても、聖書が私たちに伝えようとしていることは、「聖霊の出来事である」ということです。
 ですから、この箇所の中心は、天使を通して私たちに聞かされていることだろうと思います。天使はどう言っているかというと「恐れるな。マリアの受胎は聖霊の働きの結果だから、疑わず心配しないで、マリアを迎えなさい」と言っています。それが、まずここで語られている第一のことだろうと思います。

 そして、第一のことと並べて、もう一つのことを天使はヨセフに告げています。それは、身ごもったマリアがもうすぐ産む幼子の名前についてです。21節に「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」とあります。
 今日の箇所は、「マリアが乙女だったのに受胎した」という不思議の方に興味関心がひきつけられがちな箇所ですから、そのために天使の言葉が注意深く聞かれないようなところがあるのですが、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」という言葉はさらに聞き流しているかもしれません。私たちは「イエスさま」と呼び慣れていますから、「名付けよ」と言われたことを気にも留めず、生まれてくる子に対する単なる命名のことだと受け取っていると思います。神が名を考えてくださり、天使がメッセンジャーとして伝えに来たと思っています。けれども実際には、名付けるように言われたこの名前は、まことに大きな名前なのです。この地上に、これ以上の名はないと言っても良いほどの名前です。今日は、このように当たり前すぎて聞き流してしまいがちな「イエス」という名前について、聖書に聴きたいと思います。

 「イエス」という名は、ヘブライ語にすると「ヨシュア、イエシュア」という名で、「主は救ってくださる」という意味です。この名前は、紀元1世紀頃のユダヤでは決して珍しい名前ではありませんでした。ありふれた名前の一つと言って良いほどですので、当時のユダヤ人は「イエス」と聞いても、その名に特別な思いを持つことはなかったと思います。私たちにとっては、聖書に出てくる「イエス」は一人ですが、当時はイエスという名の人がたくさん町を歩いていました。
 けれども、クリスマスに嬰児としてお生まれになったこの方は、他の大勢のイエスたちとは明らかに違っているところがありました。この方はただ一人だけ、名前負けしないイエスです。「主は救ってくださる」という意味を持っている「イエス」という名の人は大勢いましたが、彼らは、主なる神だけに信頼して生きようとはしませんでした。天使がヨセフに示し「イエス」と名付けられたこの幼子だけが、生涯の間ずっと神に信頼し続け、神に寄り頼み続けて生涯を歩みました。「主は救ってくださる」と名付けられているのですから、本当であればそうなるべきところですが、そうならない、名前通りに生きていないイエスが大勢いたのです。しかし、天使が指し示したイエスだけが、真実に名前の通りにその生涯を歩まれました。
 ですから、この主イエスは他の大勢のイエスと区別されて、やがて「あのイエスは」と指さされて呼ばれるようになります。新共同訳では「あのイエス」とは訳していませんが、読んでいますと明らかに他のイエスとは違う、この方だけを指し示すような言い方でイエスと出てきます。たとえば使徒言行録5章30節31節には「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」 とあります。「あのイエス」とは出てきませんが、はっきりと、クリスマスの日に嬰児としてお生まれになった主イエスだけを指し示しています。試しに、30節の言葉に「あの」という言葉を入れて読んでみますと、「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺した『あのイエス』を復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」と、はっきりと主イエスを指していることが分かります。あるいは、使徒言行録9章17節でも、「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった『あの主イエス』は、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです』」とあります。今、わざわざ「あの」という言葉を加えましたが、加えても全く不思議ではありません。「他のイエスではなく『あのイエス』がわたしを遣わされた」とアナニアは言っています。明らかに、この主イエスという方は、他のイエスとは違う独自の方として指し示される、そういう名前を、神は天使を通してヨセフに教えられました。

 けれども、どうして神はこの方だけを多くの人間の中から取り出し区別して指し示そうとなさるのでしょうか。それは、神がこの方にお与えになった特別な務めがあるためです。ペトロは使徒言行録の中で証言していますが、「あなたがたが木につけて殺した『あのイエス』を神は復活させられた」、それはなぜかというと、「あの方、イエスこそを、神はイスラエルを悔い改めさせるための導き手、救い主としてくださったからだ」と言うのです。あるいはアナニヤが言ったことによれば、「あのイエスこそ、自分の姿が見えないで苦しんでいる私たち多くの者の目を開いてくださって、自分が本当は何者であるかを分かるようにしてくださるお方」ですから、この主イエスは他のイエスと区別して指し示されるのです。あるいは全ての人間と区別され、このお方だけが指し示されるようになるのです。マリアの胎内に聖霊によって宿り産まれてくる嬰児は、「神の民イスラエルの一人一人を神に結びつけてくださる」、そういう人になりました。「神と交わりを持って生きる民へと皆を導いていく」、そういう務めがイエスには与えられました。
 ですから、天使がヨセフに「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と言った時、同時に「この子は自分の民を罪から救うからである」と言っています。一般的に罪とは悪い行いだと考えられていますが、聖書の中では、そのような悪や罪を生み出す根源として人間が神から離れている状態のことを「罪」と言います。神から離れて人が皆、自分勝手に生きていくことが罪です。そういう状態にある民を、この幼子は救うことになるのです。主イエスはご自身の身をもって、私たちを神と結んでくださるようになるのです。神に向かって悔い改める、言うなれば、私たちの悔い改めの内実を主イエスがつくり、果たしてくださるのです。他のイエスにはできないことです。「神がわたしを救う」という名を持っていても、実際にそういう生活をすることはできず、イエスという名を持っていながら神に信頼せず神抜きで生きてしまう、そういう生活を送る多くのイエスたちの中で、この方だけは神に信頼して歩まれ、神の御旨に従って、私たちの罪を執り成すために十字架にまで架かってくださいました。主イエスが私たちの罪を清算するために十字架に架かってくださり、十字架の上で、私たちが神抜きで生きている罪を清算してくださったからこそ、私たちは、十字架を確かな拠り所として、神に立ち返り悔い改めることができるようになっているのです。
 そしてまた、私たちが罪赦された者として新しく生き始めるときに拠り所となるのも、主イエスの十字架です。そのように「主イエスを信じる者たちは罪から救われていく、主イエスを通して神のものとして生きるようになっていく」、そうであるからこそ、天使は、「この嬰児はイエスという名である」と語っているのです。

 ですからまず第一のことは、「イエス」という名は、私たちを神へと向かわせる方だという意味を持っているということです。ただし、私たちを神の方へ向けさせ悔い改めさせるということだけが、この名にあるというのではありません。さらに大きな意味合いが、イエスという名には込められています。
 私たちが聖書を読むとき、私たちは数限りなくイエスという名を耳にします。あまり頻繁に耳にしているので、普段気づかないことがあります。福音書を読んでいれば、イエスという名が出て来て一つのお話のように聞いてしまっているでしょう。イエスという名を、他の人たちの名とあまり変わりなく受け止めていると思います。ペトロやヨハネという名の人が出て来ますが、それらの人と並んで、お芝居の登場人物の一人のように受け止めて読んでいます。けれども、そういう福音書の書き方は、よくよく考えますと少し不思議なところがあります。マタイにしろマルコにしろヨハネにしろルカにしろ、福音書を書いた人たちは皆、主イエスの弟子でした。主イエスを信じている弟子たちが福音書を書いています。弟子たちはお互い同士「ペトロよ、ヨハネよ」と呼び合っていたことでしょう。では弟子たちは、主イエスのことを何と呼んでいたでしょうか。気軽に「イエスさん」と呼んでいたとは思えません。主イエスのことを弟子たちは「ラビ、先生」と呼んでいました。そうであれば、福音書の記事も「イエスは言った」ではなく「先生はおっしゃった」と書いてあったとしても不思議ではありません。むしろそういう書き方の方が、弟子たちの普段の言葉遣いに沿った言い方になっているはずです。私たちは「イエスは言った」と書いてある福音書をいつも聞いているので、登場人物の一人のように聞いてしまいますが、弟子たちはどうしてこういう書き方をしたのでしょうか。不思議です。

 これは「先生」と言っただけでは言い表すことのできない、言い尽くし得ない内容が「イエス」という名に含まれているからだろうと思います。「イエス」という名は、ただ人を指し示すだけではなくさらに意味を持っていると思いながら聖書を読んでいますと、気づかされることがあります。主イエスに対する弟子たちの呼びかけの言葉は、十字架の前と復活の後で違っています。例えば、十字架の直前の箇所では、ルカによる福音書22章11節、過越の食事を準備する場面ですが、「家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています』」とあります。主イエスが二人の弟子に過越の食事のための場所を整えに行かせる場面で、場所を貸してくれる家の人にこう言いなさいと教えています。この時点までは、弟子たちが主イエスを「先生」と呼んでいたらしいことがここから分かります。もちろん、十字架の前でもイエスを「主よ」と呼んでいる場面がないわけではありません。けれども日常的に弟子たちはイエスを「先生」と呼んでいたのです。
 ところが、十字架と復活を境にして、弟子たちはもう、主イエスを「先生」とは呼ばなくなり、「主よ」と呼ぶようになるのです。例えば、主イエスの復活を信じることを躊躇っていたトマスという弟子がいましたが、トマスのところに主イエスが来て、「あなたの手をわたしの脇腹に差し入れてみて確認しなさい。わたしは確かに復活したのだ」とおっしゃったとき、トマスは何と言ったかというと、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。あるいは、その後ガリラヤ湖で、ペトロやヨハネを始めとする弟子たちが魚を獲っていたときに、主イエスが岸辺にお立ちになり、なかなか魚の釣れない弟子たちに「舟の右の方に網を下ろしてごらん」とおっしゃいました。そのときに、ペトロはすぐには気付きませんが、最初にヨハネが主イエスだと気づきました。ヨハネはそのとき、今までのように「先生」と言ったのではなく「主だ」と呼びました。またその後、主イエスが弟子たちと食事を摂る場面が出て来ますが、そこで主イエスがペトロのところに来て「ペトロよ、あなたはわたしを愛しているか」と3度尋ねてくださったときに、ペトロは「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と、先生ではなく「主よ、あなたはすべてをご存知です」と答えています。
 十字架までは、イエスを「先生」と呼んでいた弟子たちが、復活の後には一切先生とは呼ばず、「主よ」と呼ぶようになっています。それはどうしてかと考えると、復活の出来事を通して、弟子たちの中に、主イエスに対するはっきりした畏れ、畏怖の念が生まれているということを物語っています。十字架まで、地上の生涯を歩んでおられた主イエスに対しては、先生と呼ぶことで敬う気持ちを表していましたが、しかし弟子たちは、復活の出来事によって大変な衝撃を受けました。先生だと思って接していたこの方は、確かに自分たちを神へと向かわせてくださる大変立派なお方だけれど、しかしそのような、先生というようなものではない、真実な神の御子、神なる方だったのだと気づきました。
  ですから、後年に弟子たちが福音書を書いた際に、もはや「先生がおっしゃった」とは書けなくなりました。しかし「主が」と書くと、神との区別がつかなくなります。それで「イエス」という名を用いました。「イエス=主は救い」という名が本当にその通りである。弟子たちは、主イエスの地上の生涯の間は気づいていなかったけれど、まさにこのお方を通して「主がわたしの救いなのだ」ということを示されて歩んでいたのだという思いを込めて、「イエスは」という名を使っていきました。そのことが、今日の22節23節で「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と語られています。
 弟子たちは主イエスが地上の生涯を歩んでおられるときには、このことに気づいていませんでした。「イエスさまは神さまのことを指し示してくださる先生だ。私たちを正しい悔い改めに導いてくださる方だ」と思っていましたが、よもや神なる方が自分たちと一緒に歩んでおられるとは思っていませんでした。しかし主イエスは、お生まれになる前から「インマヌエル、神が私たちと共におられる」というお方として、母マリアの胎に宿られた、その神の不思議ななさりようの印として、聖霊がマリアの胎に宿らせるということが起こっているのです。
 「主イエスが共にいてくださる。共にいてくださるお方が本当に主なる方である。神と等しい方である」、ですから私たちの悔い改めは虚しくならないのです。

 先週からアドベントに入りました。クリスマスの備えとして、ツリーや電飾やリースなどを飾って外側の準備も行われますが、私たちがクリスマスを迎える準備がそれだけのことだとしたら、それは形だけの空虚なものとなってしまうと思います。私たちが本当になすべき備えは、形を整えるだけではなく、「わたしの主はどなたなのか。主はどのようなお方なのか」ということを、私たちがしっかり受け取ることだろうと思います。
 「イエスと名づけなさい」と言われて、マリアの胎に宿られた、そのお方が、今も私たちに伴っていてくださる主なのです。そしてこのお方は、いつかきっと、天から私たちを訪れてくださって、私たちを完成された信仰者にしてくださる、そういう希望を教会は持ち続けています。私たちを神へと導き、信仰者として完成してくださるのは、神の御業です。悔い改めるというと、私たちは自分がしっかりと神の方に向いているかを気にしがちですが、もし悔い改めの土台が私たちの心の中にあるのだとすると、そんなあやふやなものは決して確かにはなりません。私たちの信仰は、人間の心の中の事柄だとすれば、常に風向きが変わってあやふやです。けれども、私たちの信仰の土台は自分の心ではなく、「インマヌエルであるお方がわたしと共に歩んでくださっていること、それが本当に確かな土台」なのです。そのお方が共に歩もうとしてくださるので、そして「わたしに従って来なさい」と私たちを招いてくださるので、私たち自身はあやふやであっても、私たちは確かに主イエスと共にここで生きることができるようにされているのです。

 私たちは、そのような信仰生活の土台を与えられていますし、また信仰生活も自分の思いであればしばしばあやふやになりますが、しかしやがて、この地上の生活の果てに主イエスが私たちを訪れてくださり、「あなたはわたしのものだ」と言ってくださり、私たちを完成してくださる、そういう将来の希望が私たちには与えられているのです。
 私たちは、最後に完成されるということを希望としてこの時を生き、またそういう希望を与えられているので感謝して、「今日をどう生きるか」という生活が自分の中に生まれてくるのです。
 私たちの人生は、自分の思いで悔い改める人生ではありません。そうではなくて、「イエスというお方が私たちに伴ってくださっている、そういう中で歩んでいく」ことが私たちの生活なのです。天使が「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げてくれた、その「イエス」が私たちと共に歩んでくださることを覚えて、ここからまた歩み出したいと願います。

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