聖書のみことば
2019年11月
  11月3日 11月10日 11月17日 11月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月17日主日礼拝音声

 信仰の奇跡
2019年11月第3主日礼拝 11月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第9章32〜43節

9章<32節>ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。<33節>そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。<34節>ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。<35節>リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。<36節>ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。<37節>ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。<38節>リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。<39節>ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。<40節>ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。<41節>ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。<42節>このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。<43節>ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンという人の家に滞在した。

 ただいま、使徒言行録9章32節から43節までをご一緒にお聞きしました。32節に「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」とあります。ペトロが方々を巡り歩いたとありますが、どうしてペトロは方々に出かけて行ったのでしょうか。
 ステファノの殉教をきっかけにエルサレム教会を激しい迫害が襲いました。それで大勢のキリスト者がエルサレムから逃れて行かなければなりませんでした。ペトロはそういう兄弟姉妹たちのことを心にかけていたので、出かけて行ったと思われます。彼らが落ち延びた先でどんな生活をしているのか、一人一人を訪ね、祈り、信仰を励まそうと考えて、ペトロは巡り歩いたのでした。そして、ペトロがそのようにしたのには訳があります。かつて、ペトロには甦りの主イエスから命じられていたことがありました。甦られた主イエスがペトロに出会われた時に、主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。わたしの羊の世話をしなさい。わたしの羊を飼いなさい」と3度おっしゃり、ペトロに「兄弟姉妹に仕えるように」と求められました。ですから、今ペトロは、主イエスのその言葉に素直に従っているのです。ペトロは忠実に行動して、エルサレムから散らされた群れの一人一人を訪ね歩きました 
 そのような中で、ペトロは何を知らされたでしょうか。散らされて行った人たちは、それぞれに主イエスの福音を宣べ伝えながら旅をしたと言われていましたが、その結果、方々の土地に新しい小羊が誕生し、主イエスの復活を信じる人たちが新しく起こされ、兄弟姉妹たちの小さな集まりが各地に興されているという現実を、ペトロは見せられました。エルサレムにいた時には予想もしてなかったことです。ペトロは、驚きつつも感謝して旅を続け、リダという町にやってきました。

 リダの町でペトロは、一人の人物に出会いました。その人物については、アイネアという名前と、8年間も中風の発作のために寝込んでいたということくらいしか分りません。名前からしますとギリシャ風ですが、ギリシャ人かユダヤ人か分りませんし、キリスト者なのか、あるいはまだ信仰を持っていない人なのかも分りません。
 ただ、ペトロはアイネアに出会った時に、大変不思議なことですが「主イエスがきっと、この人を癒してくださるに違いない」という思いになりました。それでひざまづいて祈りを捧げ、アイネアに言葉をかけました。34節「ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上がった」。ペトロが声をかけると、驚いたことに、8年間床についていた人が身を起こし立って歩けるようになりました。この癒しの出来事はこのひとときで終わりましたが、この出来事の噂は広がっていきました。リダの町だけでなく、近隣のシャロンの町にも広まっていきました。35節に「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」とあります。
 更にこの噂は、リラの町から北東10キロのところに港町ヤッファがありますが、そこにも広まり、ペトロがリダにいることも知れ渡りました。ヤッファにも小さなキリスト者の群れが生まれていたようです。港町ヤッファの南にはアゾトという町があり、そこにはフィリポが住んでいたましたので、海づたいに信仰が伝えられたのかもしれません。そのヤッファで、キリスト者の群れの中心的な働きをしていたのは、タビタという名の女性の弟子でした。タビタも迫害のために逃れてきた弟子だったかもしれないと言われています。
 ヤッファは港町で地中海に面していますので、ギリシャ人が多かったのです。タビタはドルカスというあだ名を付けられていました。「かもしか」という意味で、恐らくこれはタビタの働きに由来する名だったのでしょう。小柄でありながら身軽に何処へでも出かけて行き、多くの人を助け、すぐに立ち去る、そういう働きをしていたようです。言い伝えによると、タビタは未亡人で、ヤッファのキリスト者共同体の中では一番年長だったようです。タビタは特に身寄りのない未亡人のために仕えて、とても大きな働きをしていました。36節「ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」とあります。
 ところが、このタビタが、流行病に罹って亡くなってしまいました。残された人たちは大変戸惑い、リダに来ていると聞いたペトロに使いを送り、来てくれるようにと頼んだのでした。このような頼みごとをすることからも、もしかするとタビタはエルサレムにいてペトロと顔見知りだったのではないかと言われています。
 ヤッファの人たちは、ペトロに、タビタが生前に作ってくれたプレゼントなどを見せました。39節に「ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」とあります。ヤッファの人たちがタビタの死を嘆き悲しんでいる様子を見聞きして、ペトロには、自分でも全く予想しなかったような思いが湧き上がりました。「タビタは、この町のやもめや貧しい人たちのために、もう一度、生きなくてはならない。主イエスもそのことを許してくださるのではないか」。死の出来事に際して、そのようなことを思うのは普通には考えられないことですが、本当に不思議なことに、ペトロはそういう気持ちに捕らえられました。
 それで、悲しんでいる人たちを部屋から出し、祈り、呼びかけると、ありえないことが起こったのだと40節に語られています。「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった」。そして、このこともヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じるようになったと語られています。

 およそありそうにない二つの出来事が、並べられるようにして報告されています。私たちにとっては思いがけない記事です。私たちは、これをどう受け取ればよいのでしょうか。教会生活に親しんでいる人は気づいているかもしれません。ここでペトロが見聞きした不思議な癒しや人を生き返らさせるという出来事は、主イエスが以前、非常によく似たことをなさったことがある、そういう出来事です。どちらも、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されています。福音書の3つに同じ話が出てくるということは、聖書の中ではそれがとても大事に思われているということでもありますし、初代教会で広く知れ渡っていた出来事でもあるのです。
 まず、アイネアの癒しですが、主イエスがカファルナウムにおられた頃に、主イエスの前に中風の患者が連れて来られたことがありました。そして、主イエスはその人を癒すに当たって言われました。マルコ2章11節「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。今日の箇所でペトロがアイネアに言われたこととよく似ています。
あるいは、タビタが生き返らされる方は、マルコで言えば5章40節以下です。「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」とあります。「タリタ、クム」は「少女よ、起きなさい」という意味で、今日の箇所ではペトロは「タビタ、クム」「タビタ、起きなさい」と言っていますので、本当に主イエスの言葉と一音しか違いません。これは何を表しているのでしょうか。
 それは、主イエスが十字架の死と復活と昇天の後も、弟子たちや教会に対して、御業を止められたのではないということを表しています。
 甦って天におられる主イエスは、今も、地上におられた時と同じ御力を持ち、働いておられるのです。使徒言行録の初めの方で、主イエスが天に上げられる前に「あなたがたはきっと聖霊を受けることになる。聖霊があなたがたの上に降ると、あなたがたは力を受けるようになり、わたしが復活して生きていることの証人になる」と言われました。その通りのことがここに起こっていると、使徒言行録は告げています。
 主イエスがペトロの上に聖霊を働かせてくださり、聖霊の働きを通して主イエスご自身がペトロの上に働いてくださっている。そして、アイネアが癒されたり、タビタが生き返らされたりしているのです。

 さて、そのようなことが初代教会において起こったのだと聞かされますと、私たちはある問いを持たざるを得なくなるのではないでしょうか。主イエスが弟子たちの上に聖霊を働かせて奇跡を行われたこと、主イエスが生きておられた時と同じような奇跡を行われたとしますと、一体私たちはどうなのかという問いです。私たちにも、ペトロと同じような、あるいは似たような力ある業ができるのでしょうか。主イエスが聖霊を送り、弟子たちの上に力を働かせて奇跡を行なってくださる、それはせいぜい新約聖書の中だけに書かれている初代教会に限った話なのでしょうか。それとも、その後の時代にも、主イエスはずっと力を働かせ、今日に至るまでそれは続いているのでしょうか。
 ヘブライ人への手紙13章8節に「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」とあります。こう聖書にある通り、主イエスは天に上げられた後も、力ある御業を中断なさったことは一度もありません。今日でも、信じる人たちの上に、主イエスは力を及ぼし、さまざまな御業をなさっておられるのです。
  ただ問題なのは、主イエスの方では御業をなさってくださっているのに、私たち人間の側が、そのことを信仰を持って受け止めているかどうかということです。今日のような聖書の出来事を聞くときに、私たちは、そういうことが私たちの間にも本当に起こると信じているのでしょうか。それとも、こういうことは話の中だけのことであって、「どうせわたしの人生には大したことは起こらない」と高をくくって、御言葉を何となく読み過ごしてしまってはいないでしょうか。復活した主イエスは、今日も確かに働いていらっしゃいますし、私たちの上に生きてくださっています。ただ、私たちがそのことを期待していないところでは、たとえ主イエスが驚くようなことをしてくださったとしても、それは様々に解消され説明されてしまうのです。人間の努力だったとか、条件が揃ったからだとか、単なる好ましい出来事が起こったというところに止まってしまいます。
 そして、主イエスに期待することの少ないところでは、いつしか、主イエスの御業もまばらにしか行われなくなって、遂には、まるで冬眠して眠りについてしまうかのように、長い間、主イエスの御業がまるで感じられず分からなくなってしまうということが有り得るのです。主イエスが御業を行なっていても、私たちはそれを、自分たちの間の事柄だと受け止め、神の御業だと思わなくなってしまうのです。
 「アイネアよ、主イエス・キリストが癒してくださるのだ」、「タビタよ、起きなさい」、そのように私たちにも御言葉が語りかけられているということを、私たちは、それぞれの自分の生活の上に認めなくてはならないのです。そうでなければ、主イエスが私たちを本当に支え、生かしてくださっているのに、私たちにはそれがどういう出来事なのかが分からなくなってしまうのです。

 主イエスが働いてくださる出来事が起こらないかのように、何も期待しない、それが問題なのは確かなのですが、もう一つ、私たちが陥りがちな過ちがあります。それは、「こういうことは、私たちのために起こることだ。わたしのために神が行なってくださることだ」と勘違いして受け取ってしまうことであり、それも間違いなのです。
 今日の箇所について、よく考えたいと思います。タビタの出来事は非常にはっきりしていますが、アイネアの癒しにしろ、タビタが生き返らされたことにせよ、いずれもそれが本人たちのために起こったことではありません。アイネアの場合、癒されてアイネアが喜んだとは書いてありません。「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」と書かれています。タビタの場合にも「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」とあります。多くの人たちが主イエスを信じるようになるために、主イエスはペトロを通して御業をなさってくださっているのです。
 もしこれが本人のためだったとすると、タビタは大変高齢だったはずですから、生き返らされても、周囲の人たちは喜んだとしても、そこでタビタに期待されていることは、「もうひと働きしなさい」ということです。タビタ自身の都合から言えば、大勢の人たちの間で、もう一度働き続けるよりは、お墓の中で手足を伸ばして安らかに休んでいた方が良いと思ったかもしれません。そのように休んでいたら、ペトロに「タビタ、起きなさい」と言われ、もう一度起こされてしまうのです。タビタからすれば、突然の死は、周囲の人は残念がりましたが、タビタは、大変美しく周りから惜しまれて一生を閉じたということでもあるのです。しかし、タビタは生き返らされてもう一度働きの場を得るのだとすれば、それは主イエスがタビタの働きを用いようとしてくださっているからに他なりません。
 タビタも私たちもそうですが、死ぬにせよ、生きるにせよ、主イエスのために生き、主イエスのために死ぬのです。タビタは生き返らされて後、以前より疲れやすい身体だと思いながらも、やはりもう一度眠りにつく時まで、主の御業のために生きたに違いないと思います。恐らくタビタが「かもしか」というあだ名をつけられていたのであれば、また再び眠りにつく時まで同じように働いたに違いありません。そして、私たちも同じであることを知りたいのです。

 私たちの一生は、自分のために過ごす一生ではありません。自分のために過ごすという人は、教会の外にたくさんいます。そういう人たちは、最後にはがっかりして一生を終えなくてはなりません。一生が自分のためだと思えば、その最後に自分が喜ばないことが待っている、それが私たちの一生です。人生の途中でどんなに周りの人たちからもてはやされ、豊かな財産を築き、幸せな日々を過ごしたとしても、それを皆置いてこの地上を去って行く時には、自分が豊かであればあるほど、豊かなものから引き離され、自分は貧しいと思いながら一生を終えていかなければなりません。もし自分のために生きるのなら、私たちは必ずそうなります。
 けれども、聖書は違うことを教えます。「あなたの一生は、神さまがくださった一生である。あなたの一生は、神さまの喜びを人生に宿しながら、神さまの栄光を照り返して生き続ける一生なのだ。あなたに今日与えられている命は、神さまからプレゼントされている一日であり、どんなに歳をとり弱ったとしても、それでもあなたは神さまに喜ばれている。それどころか、この地上の生活を全て終える時にも、神さまはあなたのことを喜んでくださって、神さまの永遠の領域に移してくださって、神さまの喜びの中に憩うようにしてくださる」、私たちはそのように、神さまから与えられている命を一日一日、感謝して生きる者とされたいと願うのです。「十字架と復活の主イエスが、わたしの上にいつも一緒にいてくださる。わたしを支え歩ませてくださる」と信じる時にこそ、私たちは、「自分に与えられている命と人生を、最後の最後まで精一杯生きることができる」のです。それが聖書から聞かされていることです。

 そして、今言っていることは、歳を重ねている方だけのことではありません。若い方たちもそうだと思います。若い時には、私たちは死が目前に迫っているとは思いません。ですが、例え寿命があったとしても、自分の思いがけないことや辛いこと悲しいことに出会う時に、私たちは自分の人生をつまらないものだと思い、自分から投げてしまうことがあり得るのです。「わたしの人生は、神さまが喜んでくださるための人生なのだ」と知らされて一生懸命生きようとすればできるはずのことを、自分から「つまらない人生だ」と言って手放してしまう時に、私たちは与えられているはずの命を、実際よりは随分と貧しく惨めに過ごしてしまうということがあり得るだろうと思います。
 けれども神は、私たちすべての者に対して、命を「良いもの」として与えてくださっているのです。「あなたは今日一日を、神さまから与えられた一日を生きる者となりなさい」と聖書は私たちに教えてくれています。

 アイネアが癒されて起き上がることができるようにされたことも、タビタが生き返らされて、もう一度生きる者とされたことも、実は、私たちの人生にも起こることです。私たちが人生をつまらないものだと思って生きているのであれば、人生は意味のないものになってしまいます。けれども「それでもあなたは生きて良いのだ」と主イエスが言ってくださり、私たちはそれぞれに生きる者とされているのです。
 もちろん私たちは、高齢になって歩けなくなるという時が来るかもしれませんし、物理的に床から起き上がることができなくなることがあるかもしれませんが、そういう時にも、私たちが愛する人たちを覚え、その一人一人を神にお委ねして、その愛する人たちの生活の姿を見て、心から喜びながら一日一日を過ごすこともできるのです。
 私たちは終わりまで、与えられている命を喜ぶ者として生かされている。そういう神が、私たちに命を与え生きるようにと招いてくださっていることを覚えたいと思います。

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