聖書のみことば
2018年11月
  11月4日 11月11日 11月18日 11月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月18日主日礼拝音声

 教会の戦い
2018年11月第3主日礼拝 11月18日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第24章15〜28節

24章<15節>「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、<16節>そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。<17節>屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。<18節>畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。<19節>それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。<20節>逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。<21節>そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。<22節>神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。<23節>そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。<24節>偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。<25節>あなたがたには前もって言っておく。<26節>だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。<27節>稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。<28節>死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

 ただ今、マタイによる福音書24章15節から28節までをご一緒にお聞きしました。15節16節に「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあり、いかにも唐突な言葉のように聞こえます。定かには分かりかねる気がしますが、しかしここでは、主イエスが弟子たちに「逃げるように」と教えておられることを聞き取ることができると思います。一体何が語られているのでしょうか。
 差し当たりの手がかりは15節です。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」と言われています。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者」と思われる言葉は、旧約聖書ダニエル書の中に3度ほど出て来ます。そのうちの1箇所を挙げますと、11章31節に「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる」とあります。エルサレム神殿の日毎の礼拝が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられる。ダニエル書で「憎むべき荒廃をもたらすもの」と言われているものが、今日の箇所の「憎むべき破壊者」と同じです。
 ダニエル書に言われていることは、預言者ダニエルが生きた時代に起こった一つの事件を表しています。当時のユダヤの国は、マケドニア王アレクサンドロスに攻略されて、アレクサンドロスの後継者であるアンティオコス・エピファネスという人物が治めていました。エピファネス王はシリア人ですが、大変思い切ったことをしました。「今からはマケドニア・アレキサンダーが統一した世界帝国の中の一部であるユダヤなのだから、自分たちのローカルな神を拝むのではなく、世界標準の神、ゼウスを拝むべきだ」と言って、エルサレム神殿の境内に巨大なゼウス像を建ててしまいました。エルサレムの住民はもちろん激しく抵抗しましたが、エピファネス王は民の声を聞くどころか、軍隊を遣わしてエルサレムの街を包囲させ、力づくで自分の思い通りに事を運んでしまいます。主イエスの時代からおよそ200 年前ほど前に起こった出来事ですが、これが「預言者ダニエルの語った憎むべき破壊者が聖なる高台に立てられる」という出来事です。

 しかしこの事件は、主イエスの時代からすると、もう過去の出来事です。主イエスはまた再び同じことが起こると考えておられるのでしょうか。200年前ですから、エピファネス王は死んでいますし、マケドニアの系譜を引くセレオコス朝と呼ばれた王朝も結局ローマ帝国に滅ぼされ、今エルサレムを支配しているのはローマ帝国から派遣されて来た総督ピラトです。ですから同じことが起こることはなさそうです。ではなぜ主イエスは、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」などとおっしゃるのでしょうか。
 実は主イエスは、昔のことをおっしゃっているのではありません。ですからマタイはここに「読者は悟れ」と注をつけて、「これは昔の話ではない。今のことを言っているのだから、読者は悟れ」と語るのです。
 今エルサレムを支配している総督ピラトは、主イエスの裁判に際して、心の中では主イエスを無実だと思っていながら、民衆の声に負けて、主イエスに死刑宣告を下しました。ピラトにはそのような弱い一面がありましたが、平素はそうではなく、弱さを見せず尊大に振舞って反乱や暴動に関しては断固とした処置をとる総督としても知られていました。ところが、ピラトがどんなに厳しく取り締まってもユダヤ人がローマ帝国に完全に服属するということにはならないので、ユダヤは大変治めにくい国だと思われていました。いつも不穏な空気が漂っている、それがユダヤです。それが主イエスの十字架から40年くらい後に暴発し、大暴動が起こりました。ピラトの後任の総督が軍隊を動員してエルサレム神殿を包囲し、遂にエルサレム神殿はローマ軍によって陥落し、神殿は廃墟になりました。その時以来、神殿は崩れたままで、今現在の「嘆きの壁」は、その時に崩された廃墟の名残なのです。
 けれども、主イエスの時代にはまだそれは起こっていませんから、神殿は立派な堂々とした建物で、主イエスの弟子たちが「こんな立派な神殿が倒れる時は、滅びの時だ」と思ったほどでした。しかし主イエスは、建物は立派でも、そこに暮らしている人たちの中には不穏な空気が漂っていて、いずれはアンティオコス・エピファネスが王であった時代と同じように、エルサレムの都が敵に包囲され陥落する、そして日々の神殿での礼拝が強制的に取り去られてしまうということを見通しておられるのです。
 主イエスはいかにも昔のことを語っているようでいながら、弟子たちに向かって、これから先にエルサレム神殿が敵に包囲される時のことを語っておられるのです。そして、「そのような時が来たら、あなたたちはどう行動するべきか」を話しておられるのです。

 敵に包囲された時、ユダヤの主だった人たちは、「この堅固な神殿が陥落するはずはない。何よりもここには神さまがご自分の名を置いておられる聖所があるのだから、聖所がある限り、滅びるはずはない」と考えていました。実際にローマ軍がやって来たとき、ユダヤ人たちはエルサレムの町の中に立てこもって、町もろとも襲撃されました。けれども主イエスは、別のことを考えておられます。主イエスは「神さまは守ってくださるお方である」ことはもちろん、誰よりもご存知です。そして「神が生きて働かれるお方であるがゆえに、この神殿は打ち捨てられるかもしれない」とお考えなのです。どうしてでしょうか。
 確かに上辺では神殿には大勢の人が毎日集まり、献げものが献げられ、大変栄えているように見える、けれども礼拝にやって来る人たちは、家に帰ると、家の中にはそれぞれに守り神があり、それに心を寄せているという現実があるのです。いかにも敬虔に、神に信頼して神殿を詣で、神の民であるようでありながら、同時に、別のものにも心を寄せている。そういう二心の状態になっているのです。そのことを主イエスは見抜いておられます。

 そして、敵が神殿を包囲するときにはどうなるかというと、神が敵である軍隊を用いて、ユダヤ人たちが本当には神に信頼していない状態を罰する、裁きを下されることになるだろうと見通されるのです。「この神殿にこだわり続けてはいけない。この神殿はいかにも立派で、あなたを守ってくれそうに見えるかもしれないけれど、しかし本当にあなたを守ってくれるのは神殿の建物なのではなく、あなたを導いてくださる神さまなのだから、神殿にこだわるのではなく、神さまに信頼して、山に逃れるように」とおっしゃるのです。「戦いは大変厳しいものになる」と主イエスは予想しておられますので、「呑気に構えてはいられない」とおっしゃいます。17節18節で「屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」と言われました。
 当時のパレスチナ地方の家は平屋ですが、外階段で屋上に登ることができるようになっていました。「平らな屋上で休んでいる時に敵の軍隊が迫って来るのが見えた時には、逃げなければならない。家の中にある大事なものを取りに行くために階段を降りてはならない」と主イエスはおっしゃっています。またエルサレムの町から離れて野良仕事をしている人も、町の外から敵の軍隊が町を包囲するのを見るかもしれない時に、「野良着のままでは困るので、家に帰って上着を持って来ようと考えてはならない。野良着のままで逃げなさい」とおっしゃる。つまり敵が見えたら、「敵は速やかに迫って来るのだから、一目散に逃げないと、結局、滅びゆくエルサレムの町の巻き添えを食ってしまうことになる。だからすぐに逃げなさい」とおっしゃるのです。

 つまりこれは、「信仰生活というのは、明日にしようと先延ばしにするようなことではないのだ」ということが語られていると聞くことができると思います。私たちは聖書の御言葉を聞く時、また礼拝で説教を聞く時に、ふと、そこから「この聖書の言葉は、わたしに、こういうことを求めているのではないか」と示しを与えられるということがあります。ところが、私たちはそれぞれの日々の暮らしが忙しく、ついそれを後回しにしてしまうということをしてしまいがちです。「確かに大事なことだと分かっているけれど、準備が整ってからにしよう」と、そこで即座に応答しません。そして後回しにして行くうちに、結局、示されたことを行うという機会を逸してしまう、あるいは忘れてしまうこともあるのです。もし私たちが示しを受けたのであれば、「それは、直ちに行う方がよいのだ」と語られているのです。
 敵が迫って来ているのに気づいたのならば、一目散に逃げなければならない。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」と主イエスは言われました。彼女たちは早く逃げることはできないからです。また「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」、冬は寒いので霜が降りますが、太陽が昇ると霜が溶けて道がぬかるみ歩きにくく遠くにいけませんし、安息日には「何歩以上歩いてはいけない」という律法がありますから、逃げることをためらってしまう。そのように、様々なものが私たちの足かせになってしまうことを主イエスはご存知ですので、「そうならないように祈りなさい」と言われました。
 「祈りなさい」とは、二つの面から聞くことができます。一つは、今はまだ敵が現れていないということです。けれども同時に、そういう敵は必ず現れると、主イエスは覚悟しておられるのです。主イエスは弟子たちよりもずっと深刻に、この事態を受け止めておられるのです。上辺だけは立派そうに見せているけれど、内実は神に信頼して生きるという生活から遠ざかってしまっている、そういうあり方に留まるならば、「あなたがたは滅んでしまう。だから、神さまに信頼して、そこから逃げなさい」と言われました。
 けれども、そう言われても弟子たちは困ったのではないかと思います。その時には「山に逃げなさい」と主イエスは言われましたが、一体どこの山を指しているのか分かりません。大体、エルサレムの町自体が山の上にあるのです。ユダヤ人たちの一番の心の拠り所となっているのは、エルサレムのあるシオンの山ですから、そこから逃げ出して山に登れと言われても、どこに逃げたら良いのかと思います。大変謎めいた言葉に思えます。

 けれども、旧約聖書の中には、同じように「山に逃げなさい」と言われた人がいました。アブラハムの甥のロトです。ロトはソドムの町に住んでいました。ソドムの町はまだ滅ぼされる前で、繁栄して、いかにも神の祝福を受けているかのように見えていましたが、そのソドムに対して神の裁きが臨みました。その時、神は御使いを遣わしてロトに向かって言われました。創世記19章17節「彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる』」。
 今日の箇所で主イエスが弟子たちに言われたように、ロトもまた、「山に逃げ、後ろを振り返るな」と教えられていたのです。ところがロトはこの時、山に逃げないで、手近にあったツォハルという小さな町に逃れさせてくださいと願いました。ロトは神の憐れみを受けて命を救われましたが、それには代償が伴いました。ロトは救われましたが、ロトの妻は後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。そうなったのはロトの妻のせいで、ロトに責任はなかったのでしょうか。
 主イエスも、弟子たちが逃げきれないことがないように「神さまがきっと苦難と試練の期間を短くしてくださるだろう」とおっしゃいます。ただ、その短い期間に弟子たちは一生懸命に逃れなければならないのです。ロトの妻のように、「逃げる先が遠くの山ではなく、近くの町になったのだから、少しくらい後ろを振り向いてもいいだろう」と思ってしまえば、塩の柱になってしまうのです。ですから主イエスは、「神さまが苦難の期間を短くしてくださったとしても、それでもあなたたちは山に逃げなければならないのだ」とおっしゃるのです。

 では、どこが山なのか、何が山なのかということが問題です。弟子たちが逃れるべき山とは一体どこにあるのでしょうか。それは実は、主イエスご自身なのです。23節から27節に「本当の救い主ではない、別のものにより頼むようにと誘惑する者が次々に現れる」と語られています。23節に「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない」とあります。
 本当に危険に出遭う時には、私たちは不安に捕らわれますから、騙す人は騙し易いのです。ただ、この言葉は諸刃の剣だなとも思います。この準備をしながら、普段の説教で言っていることと矛盾しないかなと気になりました。教会に来ますと、普通は「信じるな」という言葉は聞かないと思います。教会では「ここに本当の救い主がいるのだから、信じなさい」と、毎週繰り返し聞かされます。「『ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない」と言われても、聞かされているメシアが本物かどうか、私たちには区別がつきません。「わたしが救い主を決められるのか」という問題があります。私たちは、自分の心が良いと思ったものに惹かれていくと、しばしば間違いを犯しがちです。23節の言葉をどう考えたらよいのかと思います。一体、本物のメシアと偽物のメシアをどう見分けるのでしょうか。24節には更に深刻なことが語られています。「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」。偽メシアや偽預言者、偽物も大きなしるしや不思議な業を行うことがあると語られています。見たところでは立派な良い働きをしているように見える場合があるというのです。
 ではどうすれば見分けられるのか、途方にくれてしまいますが、しかしやはり本物と偽物では違うと主イエスはおっしゃるのです。25節26節前半に「あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない」とあります。ここに少し手がかりがあります。偽物には特徴があるのです。
 主イエスの時代のユダヤ人たちの多くは、「メシア、救い主は荒れ野に現れる」と思っていた人が多くいました。洗礼者ヨハネもそうでしたから、皆が期待して「あなたはメシアですか」と問い、ヨハネははっきりと「違う」と答えました。けれども、使徒言行録を読みますと、ローマに抵抗して反対運動をしていた人たちの名前が出てきますが、彼らは荒れ野に現れて「わたしがメシアだから、わたしを旗頭に立ててローマと戦おう」と人々を扇動してローマ軍に殺されました。このように「偽物の救い主は、いかにも皆が期待しそうなところに現れる」と主イエスはおっしゃるのです。
 続けて「また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」とも言われました。「奥の部屋」は、原文では「倉庫、貯蔵庫」です。当時のユダヤの家は、部屋と部屋の仕切りは暖簾のような垂らした布で、扉は玄関と家の一番奥まった部屋にだけありました。この奥まった部屋は食料貯蔵庫でしたので、そこだけ野良犬などの侵入を防ぐために扉を付けました。「『救い主は、あの奥の部屋にいる。扉が閉まっているので見えないけれど』と言っても信じてはならないよ。偽物のメシアは、いかにも人が期待しそうなところに現れると同時に、本当の正体を現さないものなのだ。偽物があなたがたを惑わすけれど、信じてはならない」と、主イエスは教えられました。

 では、本物はどうでしょうか。27節です。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」と言われました。「人の子」とは、主イエスご自身のことです。主イエスは稲妻がひらめき渡るように来るとおっしゃっています。私たちも雷が落ちるときに、見ようとしていなくても稲妻を見ることがあります。稲妻の光というのはとてつもなく明るくて、それは人が作り出せるような明るさではありません。主イエスは、「本物の救い主の輝きというものは、他のものとは全く違うのだ」とおっしゃるのです。そして、そういう救い主の輝きは人が作り出せるようなものではなく、神から与えられる明るさであると教えられます。「本当の救い主とはそういうものなのだから、あなたたちは手近なもので誤魔化されてはいけないよ。あなたがたの前に示されている山に逃げなさい。手近な場所に逃げて、それで救われたことにしてはならない」と教えられるのです。
 「手近なものを神の代わりにしてはならない」と、主イエスが私たちに教えてくださっています。確かに、主イエスに出会い「わたしは本当に神さまに愛され、愛しまれている」と知らされた人は、手近なものが救いだと言われても、それは違うと分かるようにされています。私たちは、本当に私たちに救いを与えてくださる主イエス・キリストを見上げて歩んでいくべきなのです。

 「あなたの生活は、いずれ、いつか危機の時を迎えるに違いない。そのときに、あなたは手近なものに寄り頼んで誤魔化してはならない」と主イエスは言われました。私たちの信仰生活は、私たちに命を与え、救いを与えるものに向かって歩む生活です。私たちは一生の間、本物の救い主を示されて、「わたしに従って来なさい」と主イエスが招いてくださる中で地上の生活を送る、それがキリスト者の信仰の戦いであり、教会は、そういう救い主を告白しながらこの地上に立ち続けていくのです。
 「人の生活には、様々な問題があり悩みがある。だからそれに応えて、皆で助け合うことが良いことだ」と考えることは、教会の救いではありません。私たちが与えられた命を終わりまで生きて、なお死ぬときにも「地上の生活を終えても、あなたはわたしのものだよ」と言ってくださるお方が、主イエスの十字架のもとから、私たちを、真に明るい光で照らしてくださいます。そして、主イエスの十字架の光に照らされながら、私たちは、自分が逃れていく先を示されるのです。

 今日は一人の兄弟の納骨式を行い、お墓に葬られます。私たちの信仰生活は、目当てとする方を示され、その方に向かって歩む生活だということを改めて覚えたいと思います。そして、主イエスが私たちを招いてくださり、「わたしこそ、本当の救い主であり。わたし従って来なさい。あなたと共に歩んであげよう」と言ってくださる主イエスに手を引かれるようにして、この地上の生活を終わりまで歩むようにと招かれています。
 地上の生活を終えても、なお、「地上の生活をよく歩んだね。あなたはわたしのものなのだから、わたしのもとで憩いなさい」と招いてくださるお方がいらっしゃるのだということを覚えたいと思います。
 私たちは、そのような御言葉を常に聞かされながら生活しています。手近なものに依り頼んではいけないと示されています。本当の救いに出会わされた人は、手近なものを示されても「それは違う」と分かるようになります。

 主イエスは、「山に逃れなさい」と言われました。マタイによる福音書の一番最後で、復活なさった後で主イエスが弟子たちにおっしゃっているのも「ガリラヤの山に戻って来なさい。そこでわたしに会うことができる」ということでした。「弟子たちは山に登って、主イエスに出会う」となって、この福音書は終わります。
 「主イエスの御言葉が聞こえるような生活を送り続ける」、それが私たちがこの地上で送るべき生活だと教えられていることを覚えたいと思います。主イエスのもとに逃れ、匿われる。そして主イエスから力をいただいて、新たにされ、私たちはまた今日から新しい生活へと送り出されて行きたいと願います。

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