聖書のみことば
2018年11月
  11月4日 11月11日 11月18日 11月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月4日主日礼拝音声

 終わりのしるし
2018年11月第1主日礼拝 11月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者) 
聖書/マタイによる福音書 第24章1〜14節

24章<1節>イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。<2節>そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」<3節>イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」<4節>イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。<5節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<6節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<7節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。<8節>しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。<9節>そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。<10節>そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。<11節>偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。<12節>不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。<13節>しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。<14節>そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 ただ今、マタイによる福音書24章1節から14節までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした」とあります。この日、神殿の境内を出て行かれた主イエスは、もう二度と神殿に行かれることはありませんでした。この晩遅くに、主イエスはイスカリオテのユダに裏切られ、敵の手に捕らえられてしまいます。そして、次の朝にはゴルゴタの丘に連れて行かれ、十字架に磔にされてしまいます。主イエスにとって、神殿の境内を出て行かれた時というのは、エルサレム神殿との決別の時でした。

 主イエスはこのことをご存知でしたが、弟子たちはそのような展開になるとは知りません。境内を出て行こうとする主イエスを引き止めて、神殿の建物を指差しました。弟子たちの心を捕らえたのは、エルサレム神殿の見事な佇まいです。建物の大きさ、装飾の優美さに弟子たちは心奪われ、見入ったのでした。主イエスはそういう弟子たちに、「上辺の立派さに心奪われないように」と言われました。2節です。「そこで、イエスは言われた。『これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』」。主イエスは、弟子たちが感嘆した建物の立派さを見ようとしないのではありません。弟子たちが見て心奪われたもの、その同じものを主イエスも見ておられます。けれども主イエスは、同時に、弟子たちが見落としているものも見ておられます。同じものを見ても、ある人は見るがある人は見ない、そういうことが有り得ることを、ここは語っています。弟子たちは一向に気に留めなかったけれども、主イエスが心を留められこととは何だったのでしょうか。
 それは、日々この神殿で捧げられている礼拝、そしてそこに集っている人々の罪です。エルサレム神殿では、大祭司を始めとして、サドカイ派の人たちが神殿の礼拝を取り仕切っていました。毎日献げ物を献げる礼拝が行われていました。神殿の境内では、律法学者やファリサイ派の人たちが聖書の律法や書物を説き明かすという仕方で敬虔な時を過ごしていました。ユダヤ全土から熱心な巡礼者が押し寄せ献げ物が献げられていました。そのように人々の熱心さによってエルサレム神殿は一見したところ繁栄していましたので、弟子たちは、そういう神殿の立派さに心を奪われていたのでした。
 けれども主イエスは、「これらすべての物を見ないのか」とおっしゃいました。神殿の上辺の立派さや繁栄だけではなく、物事の全てを見るようにと、弟子たちを促されます。主イエスは全く同じ言葉遣いを、この直前にもしておられます。23章36節「はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」。ここで「これらのことの結果はすべて」と訳されている言葉は、今日の箇所の「これらすべての物」と同じ言葉です。そして、「これらのことの結果はすべて」「これらすべての物」と言われていることは何かというと、23章35節で言われている、「正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、正しい人の血が地上に流された」ということです。
 創世記に記されていますが、「正しい人アベル」は兄のカインによって殺されました。アベルが悪い者だったので殺されたということではありません。神への献げ物に関して、神が自分の献げ物を顧みてくださらなかったことに腹を立て、自分の思うようにならない神に対して背を向けたカインが、怒りの矛先をアベルに向け、アベルは殺されました。また、祭司ゼカルヤの出来事については、歴代誌下24章20、21節に出てきます。「神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。『神はこう言われる。「なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる」』ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した」。ゼカルヤも殺され血が流されました。なぜ殺されなければならなかったのか。それは同時代の人々の有り様を批判したからです。エルサレム神殿で礼拝している、上辺ではそういう敬虔な営みをしている人たちが、家に帰ると、各家にアシェラをはじめとする様々な偶像を祀ってそれに心を寄せていて、それが当たり前だと思っていました。ついにはヨアシュ王までそうであったため、ゼカルヤは「そんなことでは、神さまに見捨てられる」と警告しました。ところが、その警告を快く思わなかったヨアシュ王の命令で、ゼカルヤは殺されたのでした。

 主イエスは、これらのことを指して「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」「これらすべての物を見ないのか」と言われました。つまり主イエスがご覧になっていたことは何かというと、「エルサレム神殿は礼拝者で溢れ繁栄しているように見える。しかし、集っている人々は本当に神を神としているか」ということを問題にしておられるのです。「皆、家に帰ると別のものに心を寄せている。あるいは、神は自分の思うように自分を扱ってくれないと不満を抱いている」、そういう営みが、この神殿にはあるとおっしゃっているのです。そして、「本当に神に信頼しないのであれば、神はその責任を一人一人に問われる。そうなれば、今は繁栄しているように見える神殿も、いずれは崩壊する日が来る。たくさんの石で組み上げられた立派な神殿も、『一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』、そういう日が訪れるに違いない」とおっしゃるのです。
 神殿を去るに当たって主イエスは、「上辺の見事さに心を奪われてはいけない。神さまはその人の本当の有り様をご覧になる。神さまに向かって純真に真っ直ぐでなければならない」と、「形だけの信仰生活は必ず崩れるのだ」と弟子たちに教えられました。

 ところが弟子たちは、その言葉を違うふうに受け取りました。信仰生活のこととは思わず、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という言葉にショックを受けました。「こんなに立派な神殿が崩壊するとは、天変地異か戦争でも起こるに違いない、それはいつなのか」という不安な思いが弟子たちを捕らえ、そのことしか考えられなくなりました。3節に「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか』」とあります。
 主イエスは既にエルサレム神殿を出て、オリーブ山におられます。弟子たちは主イエスの言葉を聞いて、「今自分たちが感嘆した立派なエルサレム神殿が崩されてしまうなら、それは世の終わりであるに違いない。では、それはいつのなのか」と主イエスに尋ねました。けれども実際には、世の終わりとは、弟子たちが思っているような破局であるとは限りません。聖書によれば、この世は破局に向かっているのではありません。もし神がこの世を滅ぼそうとしておられるのであれば、どうして今までこの世界が滅びずに持ち運ばれてきたのでしょうか。この世の人たちは神の最愛の独り子である主イエスを十字架に架けて殺し、神のなさりように楯をついたのですから、もし神が人間の罪を問われるなら、主の十字架の際に、この世は滅んでいてもおかしくないはずです。あるいは、今の時代、キリスト教世界であるヨーロッパやアメリカも世俗主義が蔓延して、神に信頼して希望を持って生きる人が少なくなっています。神抜きでもこの世界は進んでいく、それが当たり前だと考えている人が大勢いる、そんな世界を神がご覧になれば、この世界を滅ぼされても不思議ではありません。けれども、そうはなっていないのです。それはどうしてでしょうか。
 理由は一つです。神はもともと、この世界を滅ぼそうとは思っていらっしゃらないからです。神抜きで生きてしまうような人間一人一人が、しかしそれでも失われてしまうことを、神は良しとはなさいません。何とかしてそういう一人一人を神へと導き、真実に生きることができるようにしようとしておられるのです。そして、主イエスの十字架も、そのために起こっているのです。何とかして救おうとしておられる、だから神はこの世界を滅ぼされないのです。

 主イエスは、エルサレム神殿がいずれ崩壊してしまうだろうと話されました。けれどもそれは、この世界が滅ぶという話ではありませんでした。「神殿の営みが終わる」とおっしゃっただけです。ところが、弟子たちには分かりませんでした。この立派な神殿が崩壊するとすれば、この世界は終わりだと不安に思っていますから、主イエスは、終わりの日が弟子たちの思っているような破局の日ではないことを、弟子たちに分からせようとなさいます。
 神が忍耐を持ってこの世界の歴史を持ち運んでおられるからには、私たち人間は性急に、この世界が不信仰によって滅びるというような不安に囚われない方が良いのです。自分自身を顧みれば、その不甲斐なさを思い滅びの不安を感じますが、そうであれば世界は常に滅びるピンチにあります。
 私たちがなぜ教会に招かれ救いの民に加えられているのかと言えば、私たち自身の信仰が立派だからではなく、「神が主イエスを通して私たちを救おうとしてくださっている御業がある」からです。それで私たちは、神に信頼して生きることができるようにされているのです。
 主イエスは、怯える弟子たちに向かって言われました。4節から6節です。「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない』」。弟子たちが不安に感じるような不穏な噂を聞くことがあるだろうと言われています。
 主イエスはここで、悲惨な出来事や深刻な事態は、この世の常として、人間社会の常として、残念なことだけれど起こるに決まっているとおっしゃっています。本当に残念ですが、やむを得ません。私たち人間は、無垢な天使のような存在ではないからです。神に信頼することで、少しずつ明るくされて、慰めや勇気を与えられて正しく生きるようにと招かれていますが、しかし私たちは、常に神に従う天使のような存在ではありません。暗い思いに動かされて、言わなくても良いことを言ってしまったり、やってしまったりすることが度々あるのです。日々の中で、争いや戦いが起こることも、本当に困窮してしまうこともあるのです。ただ、その時に知らなければならないことは、それが起こったとしても「世の終わりではない」ということです。

 このことは「世の終わり」でなくても、私たち自身のこととして聞くべきことだろうと思います。私たちはつい、自分の中で、過ちや嫌なことが頭をもたげて失敗してしまうと、すぐに「どうせ、自分はダメだ」とがっかりしてしまいます。それは「この世は終わりだ」と言っていることと同じです。「あなたは失敗するかもしれない。けれどもそれは、この世の終わりではない。信仰者でなくなるわけでもない。あなたは過ちを犯しながらも、それでも神の民として、なお神の憐れみのうちに持ち運ばれて行くのだから、もう一度そこからやり直して良い」と主イエスは言ってくださいます。あまり性急に、事柄に見切りをつけない方が良いことを教えられます。
 自分自身についても、この世界についても、「もう打つ手はない」と思ってしまうことがあるかもしれません。けれども、たとえ私たちがそう思ったとしても、神はなお私たちを先へ先へと持ち運んでくださいます。私たちは、今日ここで生かされているのであれば、明日を備えられているのです。「いずれ死ぬと考えれば、明日は無いではないかと」と考える方もいるかもしれませんが、私たちが地上の生活を終える時にも、神は、さらにその先に将来を備えてくださっています。それが、聖書が私たちに語っていることです。
 私たちは、神の真実な御手によって持ち運ばれて行く者、ですから性急に物事に見切りをつけない方が良いのです。どんなことがあっても、「神がわたしを持ち運んでくださる」からです。世界の歴史も、神がまさに「これこそ完成だ」とおっしゃるところまで持ち運んでくださるのです。完成の時、それは全てが破局する時ではありません。全てが完成され、私たちが永遠の御国へと移されて行くのです。神は私たちが生きるようにと、全てを導いてくださるのです。

 とはいえ、私たちは日々、困ったことや悩みに遭遇してしまいます。万事休すと思うこともあります。そんな時、私たちは大変危ない状況です。私たちが困り不安を感じている、悲しみに囚われている。ついそこで誰かから「救いはここにあるよ」などと聞かされると、うっかりそれに私たちは飛びついてしまうようなことが起こらないとは言えません。ですから主イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃっています。本当の救い主は、「私たちのために十字架にかかり、三日目に甦ってくださったお方」です。
 主イエスはどんな姿でこの地上のおいでになったでしょうか。困り果て万事休したら、抜け道を見つけて逃げ出して行くようなお方なのか、そうではありません。ご自身の人生を、「神から与えられたものとして引き受け、私たち人間が救われるために十字架に向かって歩んで行かれる」、そういう救い主です。
 ですから、私たちは人生の中で、もしかしたら本当に大変な思いをすることがあるかもしれませんけれども、忘れてならないことは、それは私たちが自分一人で引き受けることではないということです。「主イエスが共にいてくださり、どんな時にも共に歩んでくださる」のです。私たちがどん底だと思っている時、そこにも十字架の主イエスが共にいてくださって、一番下から支えてくださっているのです。主イエスが本当に自分を支えてくださっているということに目を開かれた時には、深刻な状態にあったけれども、神が生かしてくださる限りは生きることができると信じて落ち着きを取り戻し、生きるようになったと語られた証を聞いたことがあります。

 しかし、私たちはなかなか、救い主である主イエスのように歩むことはできません。困難に出会うと、つい私たちは、そういう事態から抜け出したいという思いが強くなります。どんな時にも主イエスが共に歩んでくださると、毎週繰り返し聞かされ、よく分かっているつもりです。けれども実際には、困難が襲いかかってくると、主イエスが共にいてくださる信仰から外れてしまいがちなのです。そして、自分に都合良く思える手近な助けに身を委ねようとします。偽の救い主は、手近な救いに見えるようなものを私たちの鼻先に突きつけ、「見てごらん、こっちの方が良さそうだよ。逃れられるよ」と甘く囁き、誘惑が私たちの耳元に響いてくるのです。
 私たちは、自分の人生が辛いときこそ、誘惑に心を寄せるのではなく、私たちのために十字架に架かり甦ってくださった主イエスの御言葉にこそ、耳を傾けるべきです。「主イエスがわたしと共にいてくださる」とは、本当に単純なことですが、この恵みを知り、自分の人生に向き合う時に、私たちは真実に命に向かって行く一歩を踏み出し、新しい生活へと導き入れられているのです。後から考えてみれば、「あの時わたしは本当に深刻なところにいたけれど、しかしそれこそがわたしの命への入り口だった」と振り返るようになっていくのです。

 8節で主イエスは「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われます。私たちが苦しくてどうしようもなくなる、それは「新しいものが生まれてくる」そういう始まりなのだと言われます。聞いている今は「確かにそうだ」と思います。けれども実際の場面では、なかなかそうは思えないということも本当でしょう。私たちは逃げ出したくなるのです。
 ではどうすれば、私たちは、自分自身から逃げ出さずに、自分の人生から逃げ出さずに歩んでいけるのでしょうか。それは、「私たちのために十字架に架かってくださった主イエスを見上げる」他ありません。どん底だと思っているところから十字架の上を見上げる、そして、そこに「わたしのために十字架に架かられた主イエスがおられる」と知る他ないのです。「どうかイエスさま、苦しみ弱っているわたしを支えてください。わたしは自分ではあなたについて行けるかどうか分かりません。けれども、あなたがわたし支えてくださるなら、わたしはあなたに伴われて、ここを生きて行くことができます」と祈ることが許されています。

 9節には、主イエスに信頼し従う弟子たちがこの先経験するであろう数々の災いが語られています。「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」。嬉しい言葉ではありませんが、主イエスは弟子たちの身の上を思えばこそ、おっしゃっているのです。弟子たちは初め、「神殿が崩壊したら大変だ。どうやってその危険から逃れられるだろうか。その時はいつ来るのか」と思って、主イエスに尋ねました。けれども主イエスは「あなたたちは、わたしを信じたら、そのために殺されるかもしれない」とおっしゃいました。主イエスを信じたらご利益があるどころの話ではありません。主イエスを救い主だと信じて生きる人生の中では、命を落とすこともあり得るのだとおっしゃる。そして実際に、教会の歴史はそういうものでした。殉教者たちがいるのです。

 この世の様々の戦いの中には、まさにキリスト者がその信仰のゆえに巻き込まれてしまう戦いもあるのです。私たちの現実においても、そういうことはあり得ます。そのように巻き込まれてしまった場合に、私たちはどうなってしまうのか、主イエスは歯に絹着せずにおっしゃいます。10節から12節です。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。
 できれば私たちキリスト者たちくらいは、戦いが身近にあったとしても、神に信頼して悠然としていたいと思いますが、主イエスは、恐らくそうはならないとおっしゃっています。私たち信仰者のあり方は、生き様から言えば全く惨めなもので終わるかもしれません。多くの人がつまずく、裏切る、憎み合う。偽預言者が現れ、不法がはびこるので、愛が冷える。信仰の力によって敵を許す、そんなことはなかなかできないのです。主イエスは言われることは「あなたがたは、つまずくに違いない」ということです。
 私たちは今、こうして礼拝して心を合わせていますが、これは当たり前のことなのではなく、感謝すべき幸いなことです。本当の困難が襲ってきたときには、私たちは裏切ったり憎み合ったりする、そういう欠けや弱さを一人一人抱えているのだと、主イエスはおっしゃっているのです。無責任なことを言う人、敵を打倒することこそ信仰者のあり方だなどと教える人も出て来るかもしれません。それほどに私たちは、自分本位な罪の根を、心の中に持っているのです。またその自分本位なあり方を正当化してくれる言葉を歓迎するようなところがある、ですから、偽預言者は栄えます。偽預言者が入って来るということは、私たち自身の中に弱いところがあるからです。
 主イエスはそういう私たちに対して、「それはあなたがたの問題だから、鍛錬して強くなりなさい」とおっしゃるのでしょうか。そうではありません。「あなたがたは弱いのだよ」と教えてくださいます。そして、誤った教えの特徴は何か、それは「愛が冷えること」だとおっしゃいます。「相手が悪意を持って関わって来る、そして騙したり裏切ったりする。世の中とはそういうもの。教会だって例外ではない」、それが偽りの教えです。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と、主イエスは続けて言われました。偽りと不法、裏切りが横行するのを経験すると、私たちは本当に脆くも、互い同士の敬意とか愛を失ってしまいます。もはや愛を行うのではなく、相手にされたように仕返すしかないと、信仰を持たない人のような歩みをしてしまうようになる、そういう誘惑に絶えずさらされながらも、「最後まで耐え忍んで、主イエスが知らせてくださった最初の愛に留まり続ける人は幸い」なのです。
 主イエスはこの教えを、机上の空論でおっしゃっているのではありません。主イエスご自身がこの数時間後に、イスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられ、十字架に架けられ、死ぬのです。主イエスはそのことを知らずにおっしゃっているのではありません。「間もなくそういうことが起こることは分かっている。けれども、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのだ」とおっしゃっているのです。

 主イエスは、十字架での死を承知の上で、なおイスカリオテのユダのことを深く顧み憐れんでおられます。この先を読むと、過越の食事の席で、「この中に、わたしを裏切る者がいる」とおっしゃいますが、その時に、ユダについて「人の子は聖書に書いてある通り去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ。その者は生まれなかった方がその者にとっては良かった」と言われました。これは「裏切り者め」という恨みの言葉ではありません。これはユダに対する憐れみに言葉です。ユダは結局、主イエスを裏切ったことを後悔しますが、失敗を取り返すことはできず、絶望して自ら死んでしまいます。そのようになってしまうユダを憐れみ、主イエスは「生まれなかった方がその者にとっては良かった」とおっしゃるのです。そしてご自分が裏切られることを承知の上で、なお、最初の愛に留まり、憐れみを持ってユダを見ておられるのです。主イエスは、裏切りにあっても、怒りや不法に屈するのではなく、愛を持って十字架に向かって歩んで行かれました。ここにいる私たちは、そういう主イエスの十字架に執りなされて、神の民とされているのです。
 主イエスは、「上辺を見るのではないよ。あなた自身が神にまっすぐ向かっているかどうかが大事なのだ」と教えてくださっています。私たちは自分自身を眺めてみると、あまりにも不甲斐ない信仰者であることにすっかりがっかりしてしまうことがあるかもしれません。つまずくかもしれないと恐れます。けれども「つまずくからダメだ」と、主イエスは言われません。「つまずくから、そういうあなたのために、わたしは十字架に向かって行くのだ。だからわたしに信頼しなさい。それが神の民の生き方だよ」とおっしゃっています。
 私たちは、もうどうにもならない、のっぴきならないところに立たされることがあるかもしれませんが、そういう時にこそ「イエスさま、助けてください」と祈って良いのです。「あなたについて行くことも出ない、どうしようもない者です。けれどもどうか、わたしをあなたのものとして覚えてください。あなたが共にいてくださる、そういう信仰の歩みの中に入れてください」と祈ることが許されているのです。

 そして、私たちのそういう営みの中で、真実の福音が告げ知らされて行くのだと、主イエスはおっしゃっています。真実の福音は、私たちが上手に語れるところに伝わって行くのではありません。私たち自身が、自分の弱さ罪深さと向き合って、本当にダメだ思いながらも、それでも「主イエスに愛され生かされ、命を与えられている。だからもう一度生きてみよう。失敗やつまずきはまたあるかもしれない。それでも生きてみます」と、一生を通して、主イエスを見上げながら歩んで行くところで、真実の福音が伝えられていくのです。

 14節「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と、最後に主イエスは言われました。福音は「証し」によって伝わるのです。「最後まで耐え忍ぶ者は、救いに与る。そしてそういう一人一人の証しを通して福音が宣べ伝えられ、終わりはその後に来る」のです。
 この「終わり」は、破局ではありません。「私たちが神の許で一つに合わされて、全てが完成され、神を賛美すること、主イエスに教えられた愛を行うことが生きること、そのように信仰者として私たちが完成される、この世界が完成される」、それが「終わりの時」です。私たちの信仰の歩みの先に、このような終わりの時があることを覚えたいと思います。

 週ごとに、主イエスを誉め讃えながら、それぞれに与えられている地上の生活を歩んで行きたいと願います。

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