聖書のみことば
2017年7月
7月2日 7月9日 7月16日 7月23日 7月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月9日主日礼拝音声

 安息日の主
2017年7月第2主日礼拝 2017年7月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第12章1節〜14節

12章<1節>そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。<2節>ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。<3節>そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。<4節>神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。<5節>安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。<6節>言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。<7節>もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。<8節>人の子は安息日の主なのである。」<9節>イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。<10節>すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。<11節>そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。<12節>人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」<13節>そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。<14節>ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

 ただ今、マタイによる福音書12章1節から14節までをご一緒にお聞きしました。1節に「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」とあります。ここを聞いていて、この場面が心に浮かんで来るように感じます。主イエスが安息日に弟子たちと一緒に麦畑の中、畑のあぜ道を進んで行かれます。弟子たちはあぜ道の中を通りながら、両側にたわわに実っている麦の穂を摘んで、その穂の中から実を揉み出して食べ始めるのです。ここ数日食べ物にありつけず「空腹だったから」と、但し書きが付けられています。

 ところで、そのように麦の穂を摘んで食べている弟子たちの振る舞いを咎める人たちがいました。ファリサイ派の人たちです。2節には、ファリサイ派の人々がその行いを咎めたと言われていますが、恐らくこのファリサイ派の人たちというのは、畑の持ち主である農民だっただろうと想像されます。この人たちは自分の畑で主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見て、咎めました。その際に、この農民たちが許せないと思ったこと、それは主イエスの弟子たちが無断で畑に立ち入り、麦の穂に手を出して摘み取ったということではありません。食事にありつけずに飢えている人たちが他人の畑から満腹するまで麦の穂を摘んで食べるということ自体は、ユダヤ人社会では許されていました。例えば、旧約聖書の申命記23章25節26節には「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」という戒めが語られています。ここに言われているように、ひもじければ他人の畑に入って食べさせてもらうということは許されていました。
 ですから、ファリサイ派の農民たちが咎めたのは、主イエスの弟子たちがこの日、無断で畑に入って麦の穂を食べたということではありません。そうではなく、この日が「安息日」であって、安息日には決してしてはならない「労働をした」という点に向けられているのです。2節に「ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った」とあります。「安息日にしてはならないことをしている」ということが、咎める人たちの言い分です。
 では、具体的にどのようなことをしたのでしょうか。弟子たちが「麦畑から穂を摘んだ」ということ、これは「労働をした」ということになります。そして更に、それを食べるために実を揉み出したわけですが、これは「脱穀という労働をした」ことになるのです。ですから、咎めている人たちからすると、「主イエスの弟子たちは、安息日にしてはならない労働を2つもしている」と言って責めているのです。

 主イエスは、そういうファリサイ派の人たちの非難にお答えになって、ここで3つの反論をなさいます。しかし、この主イエスの反論はおかしな反論であるようにも聞こえるのです。順番に聞いていこうと思いますが、主イエスが最初になさった反論は、3節4節に「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか』」と出てきます。「読んだことがないのか」と主イエスはおっしゃっていますが、これは旧約聖書サムエル記上21章1節から6節に語られていた昔の出来事です。ダビデはサウル王から命を狙われた時、着の身着のままで逃げ出したのですが、落ち延びていく途中で、空腹だったので、ノブの聖所に立ち寄って、祭司アビメレクから供え物のお下がりのパンを食べたけれども、そのパンは祭司の他には食べてはならないパンだった、という話がここで引き合いに出されています。「そういうことがあったのだから、いいじゃないか」ということですが、しかしこの反論は、今ここで弟子たちに向けられている非難からすると、話が噛み合いません。ファリサイ派の人たちが問題にしているのは、「取って食べてはならないものを取って食べた」ということではないからです。批判している人たちは、「麦を食べることは構わないけれども、安息日に労働してはならないはずなのに労働したではないか」と言って怒っているのです。それに対して主イエスの反論は、安息日と全然関係ない話でしたから、これは噛み合っていないと、非難した人たちは思ったに違いありません。

 2番目の反論は、恐らく、最初の反論が的外れになっていますから、批判に対して、より的確に反論しようとして語られた言葉です。5節に「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」とあります。主イエスは「読んだことがないのか」と言われましたが、聖書には「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない」と文字通りに書かれているわけではありません。旧約聖書を探しても見つかりません。なぜ主イエスがこうおっしゃっているかというと、旧約聖書には、「安息日には、これこれしかじかの献げ物をしなさい」という決まりは出てきます。そういう律法の言葉からして、安息日には献げ物をするようにとあるからには、実際に献げ物に関することで働かなければならない祭司は働かざるを得ませんから、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないと書いてあることになる」というのが、主イエスの2番目の反論です。これは、神殿の中で働いている祭司たちの労働に関わっての話ですから、最初の反論と比べると、この2番目の反論の方が筋が通っていることになるでしょう。けれども、2番目の場合には、聖書の中にそのままズバリの言葉が出てこないということがあります。

 主イエスがなさった反論は3つあると申しましたが、この時主イエスが最も力を込めてなさった反論は、今説明した2つの反論ではなく、その後に続く3番目の反論です。ユダヤ人は安息日には仕事をしてはならない。各々が皆、自分の仕事を休まなければならない。それは、ただ休息を取るということではなく、「会堂や神殿に詣でて礼拝を捧げるために、労働してはいけない」という決まりなのです。そして主イエスは、この3番目の反論では、「神殿での礼拝を遥かに超える偉大なものが現れてきている」と言われました。6節に「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」とあります。「言っておくが」とは、「わたしはあなた方に言っておくよ」ということです。
 これを聞いた人は、何のことを言っているのか、すぐに分からなかっただろうと思います。「神殿よりも偉大なもの」とは何のことか。私たちも、すぐにはピンと来ないかもしれません。
 それで、主イエスが言われた「神殿よりも偉大なもの」ということについて考えるために、当時のユダヤ人たちにとって神殿とはどういうものだったのかを振り返って考えてみたいのです。
 まず、神殿はただ一箇所、エルサレムにだけありました。エルサレム自体が元々山の上にあるのですが、神殿はエルサレムの町の一番高いところ、頂上にありました。ですから、町の中からも町の一番上に神殿があることが分かりましたし、さらには、町を離れたところからも「あそこに神殿がある」と、よく見えたのです。そして、その神殿では毎日毎日、礼拝が捧げられていました。その礼拝の中心にあったものは何かというと、「人々が誤って犯した罪を神の前で懺悔して罪を赦していただくために、生贄(いけにえ)を献げる」という礼拝でした。神の前に罪を犯してしまったら、本当であれば、その人は、罪を問われて生きていけなくなるのですが、しかし、その身代わりとして羊や鳥を献げ物にしました。その動物たちが屠られて祭壇の上で焼かれると、それは肉ですから、とても良い香りが天に立ち上って行くとこになるのです。そのようにして宥めの香りを神にお献げして、献げ物を捧げた人は「赦された者」として、そこからもう一度生きることができるのだと、ユダヤの国では信じられていました。毎日毎日、そういう礼拝が捧げられていましたから、エルサレムの頂上にある神殿からは、絶えることなく煙が立ち上っていたのです。遠くから見ても、「ああ、あの神殿で礼拝が捧げられて、たくさんの人の罪が赦されているのだな」ということが、目に見える仕方で行われていたのが、エルサレム神殿での礼拝でした。神殿では年がら年中、そういう礼拝が捧げられていたのですが、そのために、そこでは大勢の祭司たちが立ち働いていました。
 ところが主イエスが、今やここで、そういう神殿を遥かに凌駕するもの、「神殿より遥かに偉大なもの」が現れてきているのだとおっしゃいました。何のことか。それは「主イエスご自身の十字架につけられる御体」のことをおっしゃっているのです。「主イエスがやがて十字架にお架かりになる。すべての人間の罪を完全に贖う献げ物を、ご自身の体で献げることになる。そういうことが、今ここに現れてきている」。ですから「神殿よりも偉大なものがここにある」というのは、「主イエスご自身」のことをおっしゃっているのです。「主イエスご自身が十字架に架かるという仕方で、すべての人間の罪を償う」、それは「ただ一度限りの生贄が献げられる」ということです。主イエスが十字架に架かられるただ一度の罪の償いというものは、エルサレム神殿で何千回、何万回と繰り返される動物犠牲の礼拝に勝って清らかなものであり、完全なのです。
 それはどうしてかと言いますと、「主イエス・キリストご自身が、真に神の独り子であり、真に清らかなお方だから」です。
 エルサレムでは毎日、熱心に礼拝が捧げられ、犠牲の献げ物が捧げられていました。けれども、主イエス以外の人間の祭司たちが捧げる献げ物は、それによって人間の罪を執り成すのだと言いますが、人間の手でなされることですから、どんなに敬虔な人物の手によったとしても、それが人の手による限り、どうしてもどこかに人間臭い手垢のついたものにならざるを得ません。天使のように本当に清らかな人間がいて、清らかな思いを持って献げ物を完全に献げるというのなら別かもしれませんが、私たちは誰一人、天使のような人間ではあり得ません。様々に人間臭い弱さや思いを持っています。そして、そういう人が献げても、どこかに人間臭いものが残ってしまうのです。
 ところが、主イエスは違います。主イエスは神の独り子であって、神が何を本当にお喜びなのかということを、隅々までよくご存知なのです。そして、主イエスご自身も神の御心に完全に仕えようとなさり、そういう思いの中で十字架に架かられるのです。ご自身を、神に喜ばれる本当の献げ物として献げてくださる。そうやって、すべての人間の罪を完全に償うための、一度限りの犠牲になってくださるのです。ですから、主イエスの献げられる献げ物は、神殿の礼拝に勝るということになるのです。

 主イエスは、ご自身の体を引き合いに出して、「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」とおっしゃっています。そして、そうなのだから、主イエスご自身を献げる犠牲によって弟子たちも執り成されて、弟子たちの過去に犯した過ちも赦されて、罪のない者と見做されるようになるのだとおっしゃるのです。旧約聖書のホセア書の言葉を引用しながら、主イエスは7節で「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」と言われました。ファリサイ派の農民たちは、主イエスの弟子たちが罪を犯したと盛んに言い立てるのですが、主イエスは「いや、違う。この人たちはもはや罪のない者にされている。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という聖書の言葉、神の御心が分かっていたならば、あなたたちも弟子たちのことで騒ぎ立てなかっただろう」とおっしゃるのです。
 主イエスのここでの反論は、別にファリサイ派の人たちをやり込めようとしておっしゃっている言葉ではありません。ファリサイ派の人たちは、彼らなりに、非常に真剣に礼拝のことを考えています。「安息日には礼拝を捧げることに集中しなければならない。だから、どんな仕事もしてはいけないはずだ」と思っているのです。そして、その真面目さ、真剣さ自体を、主イエスは無意味だとはおっしゃいません。礼拝を心を込めて捧げる、そのために集中すべきことを、主イエスは軽んじたりなさらないのです。懸命に礼拝に集うこと、それは願わしいことなのです。
 けれども、そのようにして皆が集まってくる礼拝が、「一体どこに向かっていくものなのか」ということを、主イエスははっきりと分かっておられます。
 私たちも今、礼拝に集っていますが、この礼拝とは一体、何のために行われているのか、どこに向かっていくのでしょうか。神はここに集まってきた私たちについて、どうおっしゃるのでしょうか。「あなたは、この一週間、さまざまな過ちを犯してきた。あなた方は罪ある者なのだ」と言い募って、私たちの過ちを厳しく断罪して遂には行き詰まらせようとして、神の清らかさの前に私たちを立たせようとなさるのか。そうではありません。
 どうして私たちが礼拝に招かれているのでしょうか。確かに私たちは、神を忘れ、神抜きで歩み、自分の思いが第一になってしまったり、様々な失敗や自分中心の生き方をしてしまいます。私たちが礼拝に招かれている理由は、「この礼拝の中で、一人一人が自分中心に生きてしまっている自分の罪と過ちに気づかされて、そこから離れて、皆で一緒に生きていく新しい歩みへと悔い改めて向かっていくようにされる」ためです。そのために礼拝があるのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という神の御心を人々が知り、「礼拝の場から一人一人が神の憐れみを受けた者として、罪を赦された者として、清められ、新しくされた者として生きていく」、そのために、この礼拝の場は設けられているのです。
 この時、主イエスと弟子たちは、安息日ですから、会堂に向かっておられました。主イエスは、会堂に向かっていく弟子たちをどうご覧になっていたでしょうか。それは、「神の憐れみに招かれ、神の前にもう一度礼拝を捧げ、罪から離れて新しくされ、立ち帰る」そういう者としてご覧になっているのです。ですから、礼拝に向かっていく弟子たちを「罪を犯している」と非難するファリサイ派の人たちに向かって、反論し、弁護してくださったのです。

 この日、主イエスがなさった弁護には、一つの特徴があります。それは、弟子たちの行いが「それで良い」という形での弁護ではないということです。ここでの出来事に即して言うならば、弟子たちが安息日に麦の穂を収穫し、それを脱穀して食べた、その収穫や脱穀自体が正しく良いことだとおっしゃっているのではありません。それは、その前に主イエスがなさった2つの反論でも同じことが言えます。ダビデの時代にダビデが祭司以外に食べてはいけない供え物のパンに手を出したこと、それが良いのだとおっしゃっているのではありません。あるいは、安息日は仕事を休んで神を礼拝することに集中する日だけれど、祭司たちは仕事の性格上休めなくているのだから休まなくて良いとおっしゃっているのでもありません。この日主イエスがおっしゃっていること、それは、「人間はさまざまに相応しくないあり方をしてしまうかもしれない。そうせざるを得ないかも知れない。けれども、しかしそれはやがて、『神殿よりも大いなるもの』つまり『十字架の主イエスの憐れみ』に向かっていく中で起こっている出来事なのだ」とおっしゃっているのです。人間の様々な罪と過ちを、それで良いとおっしゃるのではありません。それは確かに問題かも知れないけれど、しかし「わたし自身が身代わりとなって、人間の罪や過ちを自分の側に引き受けて十字架に架かる。だから弟子たちも、あなた方も、罪のない者の一人に数えられるのだ」と、主イエスはおっしゃってくださったのです。

 そして、そうおっしゃった上で、主イエスは決定的なことを宣言なさいました。8節「人の子は安息日の主なのである」という言葉です。「あらゆる安息日、あらゆる礼拝の場にイエスさまが主として臨んでいてくださる」というのです。生贄の血を流すということではなく、「ご自身が身代わりとなって執り成しを行い憐れみをもたらそうとする」、そういう主イエスが、「あらゆる安息日、あらゆる礼拝の主として臨んでくださる」のです。主イエスが執り成してくださるが故に、私たちがこうして礼拝を捧げる時に、ここから「罪を赦された者として、新しい歩みに進んでいくことができる」のです。主イエスはこの日、そのようにファリサイ派の人々に宣言なさいました。

 そして、その足で会堂に向かい、礼拝に連なってくださいました。主イエスは毅然とした態度で礼拝に臨まれます。この主イエスの姿は非常に印象的です。もしかすると、私たちとは違うかもしれません。私たちは時に、心外なことがあったり嫌な思いがあると、ついつい礼拝から足が遠のいてしまうということがあり得ます。けれども主イエスは違います。主イエスは神の御心に完全に従おうとして、「公の礼拝を捧げる」という最も大事な務めを果たそうと、ファリサイ派の人たちとのトラブルが予想されても会堂においでになりました。
 ところが案の定、ファリサイ派の人たちが追いかけてきて、会堂で、礼拝の場で、主イエスにまとわりついて来るのです。ファリサイ派の人たちは、主イエスが「人の子は安息日の主なのである」とおっしゃった言葉を認めません。主イエスご自身が「神の憐れみもたらす方である」という主張を認めないのです。むしろそういう主イエスの揚げ足をとって、息詰まらせてやろうと考えます。
 礼拝堂の中に、片手が麻痺して動かせなくなっている人がいました。それに気づくと、この人をだしにして、主イエスの揚げ足をとり、言葉に詰まらせてやろうと考えるのです。ファリサイ派の人たちは尋ねました。10節に「すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた」とあります。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」という質問は、ファリサイ派の人たちが、分からなくて問うているのではありません。そうではなく、罠をかけている問いです。
 仮に、「主イエスは安息日の主である。憐れみをもたらす方である」という線に沿って考えるならば、今まさに、憐れみの主の前に立っている手の不自由な人はこの場で手を癒していただけるはずだと、ファリサイ派の人たちは考えました。しかも、この場合に癒すのは弟子たちではなく、主イエスご自身ですから、今日の箇所の前半では、ファリサイ派の人たちは弟子たちの行いを咎めていたのですが、会堂の中では、もはや弟子たちの話ではなくなっています。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねているのは、本音を言えば「あなたは今、この場所で、この人を癒すのですか。それが律法に照らして正しいことなのですか」と迫っているのです。主イエスの返事次第、行動次第によっては、「イエスは明らかに律法破りをした」と吹聴してやろうと考えながら、主イエスの返事を待っているのです。

 しかし、まさにそう考えたファリサイ派の人たちは、「安息日」ということについて思い違いをしていました。ファリサイ派の人たちは、「安息日は礼拝に集中するのだから、全てを休む日だ」と素朴に思っていました。「安息日は何もしない日だ」と思っていたのです。神を畏れ、その前にかしこまって礼拝する。そのために自分たちとすれば何もしてはいけない日だと思っている。その思いは、いつしか、「何も行わない」ということが自分たちの敬虔さを表すことになるのだと思うようになっていました。
 ところが、主イエスは違います。主イエスは「礼拝がどこに向かっていくのか」をよく承知しておられます。安息日に仕事を休みさえすれば良いということではない。全てを休んで一日、ぼうっと過ごせば良いはずではないのです。安息日にはもっと、積極的な意味があります。
 そもそも安息日は、どこから始まったのでしょうか。創世記の最初に出て来る「天地創造」の時に、神は6日間で世界をお造りになりました。そして、7日目に、造られたもの全てと共に、「造られた世界は、本当に良かった」と喜ぶ、その喜びを共にする日として、神は安息日を設けてくださったのです。ですから、そのような神の喜びに全ての人が招き入れられる日が安息日です。安息日の礼拝は、ただかしこまって何もしないでいる日ではなく、皆が神から命を与えられ、今ここで生きることを許されていることを感謝し喜びあう日です。安息日の礼拝では、命の喜びがさまざまな仕方で表され、満ち溢れる日であるはずです。
 従って、主イエスはこの場で、手の萎えた人の手を癒して行かれるのです。13節に「そしてその人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった」とあります。この人にとっては、不自由だった手を癒していただいたのですから、驚きの出来事だったろうと思います。喜んで感謝したに違いありません。主イエスが自分に向かって「手を伸ばしなさい」と声をかけてくださったことに感謝し、そして、その主イエスの言葉を信じて手を伸ばしてみて良かったと、しみじみ思ったに違いないのです。まさにこのような出来事こそが、安息日に起こるよい事なのです。「主イエスが御言葉をかけてくださる。その御言葉を信じて、それによって癒されたり、慰められたり、力を与えられたりして、新しい命の営みがそこに生まれて来る」、そういうことが起こるならば、それは礼拝として本当に願わしいことなのです。
 私たちも、もしも礼拝を捧げる中で主イエスの御言葉を聞き取ることができて、それによって慰められたり励まされたり、勇気付けられたり、あるいは悔い改めて、「新しい命をここから生きるのだ」という思いに変えられて家路につくのであれば、それはまさしく、主の安息に与って生きる良いことをこの身に経験しているということになるのです。

 さてこの時には、主イエスを巡って、本当に起こるべき良いことが起こったのですから、当然この場に居合わせた人たちは、この日の出来事を喜んで、神の御名を崇め感謝して良さそうなものですが、ところがそうはならなかったのだということが、今日の箇所の最後に語られています。14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とあります。
 礼拝が終わって会堂を出た時に、ファリサイ派の人たちは「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と言われています。耳を疑うようなことです。どうしてそういう話になるのでしょうか。この日、主イエスが何か律法違反をなさったのかというと、そうではありません。手が不自由な人が確かにいました。けれども、その人の患部をさすったり湿布を当てたりはなさいませんでした。ただ言葉で「手を伸ばしなさい」とおっしゃっただけです。何か労働をしたということにはなりません。ただ話しただけです。それにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは激しく憤って、「主イエスを殺そう」と相談したのです。
 だとすれば、これは律法違反とは別の理由です。それは何か。主イエスがご自身のことを「安息日の主である」とおっしゃって、「全ての人に憐れみをもたらす救い主である」とおっしゃったことが気に入らなかったのです。
 そしてこれは、今日でもそうなのだろうと思います。日曜日に教会で礼拝が行われる時、そこでは毎週毎週、違う聖書が読まれ違う説教がされます。説教の語り口は様々ですが、究極的には何が語られるのか。「救い主である主イエス・キリストが、私たちの上に神の憐れみと慈しみをもたらしてくださる。そこでこそ、私たちは新しくされて生きていく」、そういうメッセージが私たちには語りかけられるのです。
 ところが、そういうメッセージを信じられない人にとっては、教会が語っていることは、堪え難いほどの偽り事であるように聞こえてしまうのです。「主イエスが私たちの罪を全てご自分の身に受け十字架に架かってくださった」、このことが信じられないとどうなるでしょうか。そこでは、人の犯した過ちや罪がいつまでも残り続けることになります。そしていつまでも、その過ちや罪が言い募られることになります。人の過ちが攻め続けられ、そのために多くの人が傷ついて、悲しみばかりが増してしまいます。
 実は、私たちが教会の礼拝に参加しなかったならば、そういう人生を生きているかもしれません。私たちが日毎に経験するこの世の生活の中で、思うようにならないことや辛いことはたくさんあります。私たちは、もし、「全てが赦される」ということを聞かされないなら、自分の中で嫌な感じを持て余して、ずっとそれを持ち続けて不満を抱き、そして「自分の生きているこの命などつまらないものだ」と思って、生きて行かざるを得ないのです。
 けれども主イエスは、そういう人たちの間にやって来て、「人の子は安息日の主である」とおっしゃいました。主イエスを信じる人にも信じない人にも、そうおっしゃるのです。「このわたしが安息日の主である。神が望まれるは、生贄ではなく、憐れみなのだ」。

 私たちは、今日ここで、この主イエスの御言葉をしっかりと聞き取って、心の底から受け止める者でありたいと願うのです。主イエスによって真実に罪を赦され、清められた者として、新しい命が、ここにいる私たち一人一人の上に与えられていることを信じて歩みたいと願います。
 「人の子は安息日の主である」、その御言葉を確かに聞き取り受け止める、幸いな者とされて、ここから進んでいきたいと願います。

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