聖書のみことば
2017年5月
  5月7日 5月14日 5月21日 5月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月21日主日礼拝音声

 鳩のように素直に
2017年5月第3主日礼拝 2017年5月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第10章16節〜25節

10章<16節>「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。<17節>人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。<18節>また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。<19節>引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。<20節>実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。<21節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<22節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。<23節>一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。<24節>弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。<25節>弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 ただ今、マタイによる福音書10章16節から25節までをご一緒にお聞きしました。16節に「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とあります。12人の弟子を伝道の働きにお遣わしになったときに、主イエスは、遣わされていく弟子たちの行く手に迫害の苦難が待ち受けているということを教えられました。主に従い、主を告げ知らせて歩んでいくキリスト者の歩みには、狼がうようよしている荒れ野の中を歩んでいくようなところがあるのだと教えられました。

 旧約聖書の中には、この世において力を持っている人たち、権力者たちが、しばしば残忍な狼に喩えられて語られるという箇所が出てきます。例えば、エゼキエル書22章27節では、政治を司っている政府の高官たちが狼になぞらえられています。「また、高官たちは都の中で獲物を引き裂く狼のようだ。彼らは不正の利を得るために、血を流し、人々を殺す」とあり、政府の高官たちが「獲物を引き裂く狼のようだ」と言われています。けれども、このように言われるのは政府の高官たちだけではありません。政府の当局者たちの暴走を監視して正しい裁きを下し、弱い立場にある民衆を守るべき、法の番人である裁判官たちもまた、狼に喩えられているところがあります。ゼファニヤ書3章3節です。「この都の中で、役人たちはほえたける獅子 裁判官たちは夕暮れの狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない」とあります。ゼファニヤ書になりますと、政治的な地位のある役人たちは「ほえたける獅子」だとあり、またそれに並んで、公正な裁きをなすべき裁判官たちは「夕暮れの狼」だと言われています。
 「夕暮れの狼」とは面白い言い方ですが、野生の狼は、昼間は巣穴の中で寝て過ごしています。日が沈んで暗くなった時間帯に、狼は最も活動的になります。「夕暮れの狼」ですから、夕暮れに巣穴から姿を現して空腹を満たそうと目を爛々と輝かせている、そういう狼です。もし、こんな狼の群れに出会おうものなら、旅人たちは夜通し自分の命を守るために眠らずに戦い続けなければなりません。それこそ、夜が開けるまで一睡もせずに、狼たちの唸り声や遠吠えを聞かされながら、命がけで生き残らなければならないことになります。狼に引き裂かれてしまわないように、食い尽くされてしまわないように、自分の身を守らなくてはなりません。主イエスによって伝道の務めに送り出されていく弟子たちは、この世の生活においてそのような目に遭うに違いないと、主イエスはこの時、教えられました。
 今、私たちが生きているこの時代が、1世紀の主イエスが生きておられた時代とは大分様子が違っているということに、私たちは感謝しなければならないだろうと思います。2000年前には、町の中をローマ帝国の兵隊たちや、あるいはローマの傀儡政権の手先となっている人たちが肩で風を切るようにして歩んでいたのです。権力を持つ者たちが、自分と気の合う者たちには富や力を与えたけれども、逆に、意見が違う人や気に食わない人たちを見ると平気で弾圧を加え、社会から葬り去るということが当たり前に起こっていました。

 考えて見ますと、主イエスの十字架も、そういう当時の世の中の当たり前の空気の中で起こったことだと言ってよいだろうと思います。主イエス・キリストは十字架に架けられ殺されましたが、しかし「どうして主イエスが十字架に架けられなければならなかったのか。どうして殺されなければならなかったのか」ということを、私たちキリスト者は、常に真剣に考えなければならないと思います。ただたまたま、おとぎ話のように十字架があったのではありません。主イエスは死に当たるようなことは何もなさらなかったのに、それにも拘らず十字架に架けられ処刑されました。主イエスが無実だったということは、主イエスを取り調べて死刑の判決を下したピラト自身が証言していることから明らかです。ピラトは主イエスを取り調べて、主イエスを訴える人たちの言い分を聞いた後で「わたしはあの男に何の罪も見出せない」と、はっきり言ったのです。ですから、もしこの世の中に不当な裁きや不当な判決というものが全くなかったならば、主イエスが十字架に架けられることはなかったはずです。無実の人が十字架に架けられ殺されてしまうという出来事の中に、既にこの世界の中にはどうやら不気味で不穏な人間の罪がうごめいているということが表されています。
 そして、そういう人間の罪、死と滅びの勢力というものは、普段は私たちの中で、まるで日中、狼が巣穴の中で眠っているかのように姿を隠し、鳴りを潜めているのです。私たちの罪とは、そういうものだろうと思います。朝から晩まで「わたしには罪がある」という顔をして生きている人は、まずいません。しかしだからと言って、私たちは誰も何も罪が無いかというと、そんなことはないでしょう。私たちは、暗闇が周りを覆ってきて、自分自身の姿が目につきにくくなると、そこで様々な過ちを犯してしまうということが起こりがちです。
 主イエスはそういう人間の罪と戦うために、この地上においでになりました。「あなたは本当に神のものなのだ。神のものとして清くされているのだから、あなたはそのことを信じて生きてよいのだ。悔い改めて、天の国を信じて生きて生きなさい」と教えられました。そして、私たちがそのように「悔い改めなければならないさまざまな問題に満ち、罪に染まった者なのだ」ということを、十字架にお架かりになるということで白日の下に晒してくださっているのです。

 今弟子たちは、その主イエスから遣わされて、世の隅々にまで伝道のために歩んで行くのですが、弟子たちの果たす役割は何かというと、私たちを覆っている暗闇の中に主イエスの十字架の光を持ち運んでいくということです。主イエスの御言葉の光を持ち運んで行って、私たち自身の普段の当たり前の有り様がどんなに惨めで問題に満ちているかということを表す、と同時に「そういうあなたがただけれども、今、あなたがたはまさに、神の光の中で生きてよいのだ」ということを伝える、光を闇の中に持ち運ぶという務めを、弟子たちは果たして行かなければならないのです。言葉を変えて言うならば、「私たちがごく普通にしているような人間のあり方の悲惨をはっきりと宣べ伝え、しかし同時に、主イエス・キリストによって知らされている福音を人々の間にもたらし宣言する」、そういう務めを弟子たちは与えられています。恐らくそれは、出会う人出会う人に向かって「あなたは今までは主イエスを知らず、主イエスとも真の神とも関わりを持たないまま、この世で自分は一人きりだと思いながら気ままに生きてきたけれども、そういう生活の中では、自分の思いが実現し自分の願い通りになることが人生にとって最も良いことだと思っていたに違いない。人生は自分の思いを果たすための場所だと思っていたに違いない。でも、そういう生き方では結局は、周りの人たちと衝突し敵対関係になり、孤独になってしまうことになる。どうしてかと言えば、隣の人もあなたと同じように自分の思惑を持って生きているわけだから、結局、そういう思惑同士がぶつかり合ってしまうことになる。そうなると、あとは全力であなた自身の生き方を押し通すことになるけれども、それは食うか食われるか、こちらが屈服するか相手を屈服させるかという、孤独な一匹狼の生き方なのだ」と教えることになるだろうと思います。
 私たちはこの世界の中で、自己実現は大変素敵なことだという言葉をよく耳にしますが、実は、「自分本位に生きる人間の悲惨さというものを、この世に伝えるため」、弟子たちは遣わされていくのです。大方の人がごく当たり前のこととして大事だと思っている自己実現の願い、それが実は、その人を孤独に陥れ、罪の暗闇の中に閉じ込めるようなあり方でしかないことを、弟子たちは語ります。
 そして、そういう人間の孤独と悲惨さを教えた上で、弟子たちは更に新しいことを告げる役割を与えられているのです。「主イエス・キリストというお方が、あなたのために来ておられる。この方はどこまでも、あなたと一緒に歩もうとしてくださる。だから、あなたは決して孤独になることはない。あなたがたとえ、自分の悲惨な姿を認めるのが嫌で、御言葉に耳を塞ぎ、目を覆って聞こうとしないとしても、それでも主イエスはあなたと共に歩んで、あなたが神から与えられている本当の命を生きるように望んでくださっている。あなたは神と関わりのない者として、自分一人で生きて来たつもりかもしれないけれども、今からは十字架の主イエスがあなたの人生を明るく照らしながら、あなたと共に生きてくださるようになるのだ」と伝える務めを、主イエスから与えられて、弟子たちは各々伝道の旅に向かっていくのです。

 ところが、まさに弟子たち一人一人がそういう務めを与えられているが故に、弟子たちは行った先々で人々から疎んじられ煙たがられ、そして迫害を受けることになっていくのです。それは、弟子たちが伝えること、あるいは今日では教会が伝えていることでもあるのですが、福音、主の教えというものは、ごく普通の人たちが自己実現を目指して生きていくことにノーということだからです。弟子たちが持ち運んでいく福音は、普通の人たちが思ったり考えたり願ったりすることからすれば、真にかけ離れたことを教えていると言わざるを得ません。ですから、なかなか普通の人には理解してもらえないということが起こります。
 私たちは大体、自分が「そうだろう」と思っていることしか、聞いても受け入れられないところがあります。何度同じことを聞かされても、自分が全く思いもよらないようなことを聞かされる場合には、なかなかそれを理解できないのです。ですから、弟子たちが伝える福音をなかなか理解してもらえないということも事実ですが、しかしそれ以上に、たとえ弟子たちの言ったことが理解されたとしても、むしろそのために反発、迫害を受けるという可能性は大いにあるのです。それは、大方の人間が願うこととはまるっきり逆のことを言っているからです。「自分の思いを実現して生きていきたい。自分はそのために生まれて来たのだし、今そのために生きている」と思っている人に「違うのです。あなたの人生の目的はそういうものではありません」と、弟子たちは言うことになります。けれども、弟子たちから主イエスの福音を聞かされる人たちは、自分たちが思っている生き方をなかなか手放そうとしません。「あなたの生き方は、自分の思いをどこまでも押し通そうとすることだ。それは結局は、隣人との争いに繋がってしまうことなのだ」という真実を教えると、聞きたくない人たちは、「嫌なことを聞いた」と思うのです。そして、もともと昼間は洞穴の中に眠っている狼のようなところがあるわけですから、その狼たちがいよいよ、真実を聞かせる人たちに向かって牙を剥くということが起こります。主イエスが遣わす弟子たちの道のりには、そういうことが起こるということが、容易に予想できるのです。

 ですから、主イエスは弟子たちに教えて心構えするようにと、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」おっしゃるのです。一体主イエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という言葉で何を教えようとしておられるのでしょうか。
 恐らく多くの方は、「蛇のように賢く」という言葉で、旧約聖書の創世記3章、最初の人間であったアダムとエバを蛇が騙したという出来事を思い起こされることでしょう。「蛇が人間を騙して神に逆らわせた。それ以来、人間は神抜きで生きるのが当たり前になってしまった」、そういう場面です。創世記3章1節で、蛇は「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と紹介されています。賢さにおいて蛇はナンバーワンだったと言われていますが、蛇と比べられた野の生き物の中に人間が数えられているかどうかは分かりません。恐らく数えられていないと思います。人間は蛇より劣るとは言われていませんが、この先を読みますと、エバは蛇に騙されてしまいます。そして、神との間柄において取り返しのつかない失敗をさせられてしまうのです。蛇に欺かれる、ということは、蛇は人間とのずる賢さの競争においても、一本取ったことになります。ですから、人間が蛇より賢いとは、少なくともこの聖書の記事からは読み取れません。
 そうしますと、主イエスが弟子たちに「蛇のように賢くなりなさい」と言って送り出された言葉を、「あなたたちは、よほど賢く、蛇が到底足元にも及ばないくらい賢くなりなさい」とおっしゃっているのだとすれば、絶望的に難しいことを言っているということになるでしょう。そもそも神が一番賢い生き物として造った蛇に対して、賢さの点で勝とうとすること自体が愚かなことと言わなければなりません。もちろん、蛇に勝てないと言っている訳ではありません。人間は野の生き物とは別のものとして造られているのです。蛇と賢さを競うということは、人間が野の生き物になってしまっていることになりますから、そういうことではありません。

 ここで主イエスがおっしゃっていることは、「蛇が本当に賢く、あの手この手で、あなた方を誘惑するかもしれないけれども、その蛇に騙されないように、蛇と同じくらい賢くなりなさい」ということだろうと思います。蛇は大変賢いので、いろんな仕方で弟子たちを誘惑して、神の御言葉から引き離そうとするのです。蛇がどのようにして神の言葉から人間を引き離したか、それは、創世記3章で蛇がエバに対してどのように語りかけたかを読むとよく分かります。大変巧妙な仕方で、蛇は人間に関わりを持ってくるのです。蛇はエバに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と尋ねています。
 実は、「神が食べてはいけない」とおっしゃったのは、「園のどの木からも」ではなく、一本の木だけです。園の中央にある「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」とおっしゃったのです。蛇も、このことは十分に承知しています。けれどもここで蛇は、エバを慌てさせようとし、不用意なことを言わせようとして、わざと「神様は園のどの木からも食べてはいけない、などと言われたのですか。神様は随分冷淡ですね」と言わんばかりの口調で、エバに同情を寄せるかのように、「神様の御心はどこにあるのでしょうか」という尋ね方をして来ます。エバは当然、驚きます。食べてはいけないのは一本だけで、どの木からも食べて良いと思っていたのに、蛇に「神様は園のどの木からも食べてはいけないと言われたのか」と問われて、訂正するのです。
 もしエバが、「そんなことはありません。私たちは、どの木からも取って食べて良いのです。ただ、園の中央にあるあの木からだけは、取って食べてはいけないと言われているのです」と答えたならば、蛇はこの後、言葉を継ぐことは出来なかったに違いありません。たとえ蛇が賢くても、神の御言葉に対して「そうではない」などと言う権限はありませんから、神のおっしゃる通りのことしか、蛇は言うことしか出来ないのです。
 ところが、エバはどう答えたのでしょうか。2節3節に「女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。この答えは、概ね正しいのです。ですが、エバは一点だけ、神がおっしゃらなかったことを言っています。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」ここまでは良いのですが、次の「触れてもいけない」と、神はおっしゃったでしょうか。神がおっしゃったことは2章16節17節にあります。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」とあります。「食べてはならない」とおっしゃっていますが、「触れてもいけない」とは言われていません。ですから、触れてもよいのです。場合によっては、実を取ってもよいのです。ただ「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と、神は言われました。
 エバの立場に立って考えますと想像できるのですが、神から「食べてはならない」と言われていますから、エバは「では、あの木には触れないようにしよう」と思ったに違いありません。ですから、エバ自身は神の言葉を曲げようとしたのではないのです。「触れてもいけない」という言葉は、神の言葉なのではなく、神の言葉を聞いてエバが自分で決めたことなのです。その言葉を、エバはつい、口走ってしまいました。ところが、これこそが、蛇の思うツボでした。蛇は、こういう不用意な言葉をエバから引き出すために質問しているのです。エバが「触れてもいけない、死んではいけないから」と答えたので、蛇は自信たっぷりに言いました。3章4節「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』」。「決して死ぬことはない」というのは、実を食べて、ということを言っているのではありません。エバが「触れてもいけない」と言ったことに対して、「いや別に死なないですよ、触れたくらいでは」と言っているのです。そしてこれは嘘ではありません。
 そしてまた、続けて5節に「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言っています。これも、実は正しいことを言っています。もし実を食べたら何が起こるかということですが、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」とはどういうことでしょうか。それは、実を食べたアダムとエバ自身が、神のようになってしまうということです。それまでは、神が「これは正しい。これは違っている」と教えてくださって、それを「そうなんだ」と信じて生きてきたのです。しかし実を食べると、アダムとエバが神になってしまい、何が正しく何が間違っているかを自分で気ままに決めるようになっていくということです。そして、そうなってしまえば、神が「これは正しい」とおっしゃっても、人間が「いや違う。こちらの方が正しい」と言い出せば、「神と共に生きる、神との関わりを持って生きる」という意味では死んでしまった者になってしまうのです。神は、神に自発的に仕えて生きる者として人間をお造りになったのに、そういうあり方からは堕落して死んでしまう者になってしまうから、「決して食べてはならない」とおっしゃったのです。
 ところが蛇は、死んでしまっている様、死んでいる現象、神との関わりが切れている、その状態だけを語るのです。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。そのことを神はご存じだから、食べるなとおっしゃるのだ」。直前では自信たっぷりに「決して死ぬことはない」と言っていますが、これは食べたことについて言っているのではありません。触れることについて言っているのですが、エバの方では、蛇の立て続けの言葉を聞いて、食べてしまっても神との関係は何も変わらないような気になってしまったのです。このように、人は蛇に欺かれてしまいました。

 神の言葉を並べながら、しかし、本当の神との関わりについて錯覚させ、罪を犯させ、神との間柄を引き裂くということを、まんまとここで蛇はやり遂げることができました。「蛇のように賢くなれ」というのは、「いろいろな脅かしに合っても、このような蛇の欺きに惑わされないように注意しなさい」ということです。「あなたが聞かされている御言葉をよくよく注意して聴き、その御言葉にこそしっかり結びついていなさい」と主イエスはおっしゃっています。
 弟子たちは、主イエスから送り出されて福音を宣べ伝えていきます。そして、そういう人たちには、既に「神の特別な保護が与えられている」のです。「神の民として生かされている」、そういう生活を送っている人には、神の民であるが故に、神の保護がそこにあるのです。ですから、狼たちがどんなに側で唸り声をあげても、どんなに牙を剥いて見せても、神の守りのうちにある間は、羊たちは牙にかかることはありません。自然界でもそうだろうと思います。狼たちが羊の群れを襲うときに、どう襲うでしょうか。狼の唸り声を聞くと羊たちは混乱して逃げ惑うのですが、狼はどういう羊から襲うかというと、逃げ惑った挙句に群れからはぐれてしまった羊から襲うのです。いきなり、何十頭、何百等もいる羊の中に入って行って片っ端から襲うということではありません。そうではなく、羊を脅かして群れからはぐれてしまった羊を見つけて襲う、そういう仕方で狼は羊を食べるのです。
 主イエスは、「蛇の脅かしに騙されないで、あなた方が遣わされている福音にしっかりと結びついているように」と教えられました。それが「蛇のように賢く」ということです。

 もう一つ、「鳩のように素直になりなさい」とも教えられました。「鳩のように」と言って主イエスが思い浮かべておられるのは、恐らく、ノアの洪水の後の出来事だろうと思います。ノアの洪水というのは、神の裁きとしての洪水、大雨が降ってこの地上のものが全て洗い流されてしまうという出来事でした。神の裁きが終わって、雨が降り止むと水が次第に引いていくのですが、その時に、ノアが外の様子を知りたいと思って最初にしたことは、船の天窓からカラスを放すことでした。ところがカラスは気ままな鳥で、自分勝手に出入りしますから、全く外の様子が分かりませんでした。それでノアはカラスを諦めて、次に鳩を放すのです。鳩は、まだ水が引かないうちはすぐに箱舟に戻ってきましたから、まだ地面を水が覆っていることが分かりました。一週間後に、再度ノアは鳩を放します。すると鳩は、今度はオリーブの葉をくわえて帰って来ました。水が引いて来て、オリーブの梢が水の上に顔を出しているのです。けれども、まだ水があるようなので鳩は戻って来たのだと察しました。また一週間後、ノアが鳩を放すと、もう鳩は戻って来ませんでした。それによって、地上からすっかり水が引いたことをノアは知ったのです。
 この洪水の話の中で、鳩は、「神の怒りがもはやすっかり鎮められて、今や完全に神の恵みと慈しみの元に大地が置かれたのだ」ということを伝える使者としての役割を果たしています。鳩がノアたちに、「今あなたは、神の慈しみの元に置かれている。神の怒りの元にあるのではない」ことを伝える使者としての役割を果たしたように、主イエスの弟子たちも、「主イエスの十字架と復活の良い知らせ」を持ち運びながら、「今あなたは、神の怒りの元にあるのではない。神の慈しみの元に置かれて、新しい命を生きているのだ」ということを知らせる者となるのだと言っておられるのです。

 ノアの洪水の後で、神がおっしゃった言葉が創世記8章21節に出て来ます。「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』」。神は、二度と洪水を起こしてこの世界から命を滅ぼすことをなさらないと御心に誓われたのだと言われています。
 実は、神がこのように決心してくださったからこそ、十字架の出来事が起こったと言ってもよいと思います。神は人間たちを何とか生かして、ご自身と共に生きるように、神の保護のもとに生きるように導こうとなさるのです。ところが、導かれるべき人間の方は、神の恵みの元に生きようとはしません。皆、てんでに、自分の思いや願いを実現しようとすることばかりに汲々としています。もしノアの箱舟の時代だったら、もう一度大雨が降って、自分のことしか考えていない人間たちがあらかた滅ぼされることが起こっても不思議ではありません。けれども、神はこの時に、もう二度と洪水は起こさないと誓われたので、別の仕方を選ばれました。それが何かというと、ご自身の独り子を人間の代わりに「滅ぼすべき者」として用いるという仕方です。私たちは、神の忍耐をよいことに、神抜きで自分の思いに任せて生きていくことを当たり前のように思っているところがあります。神は、そういう人間の罪を滅ぼすために「洪水を起こされるのではなく、十字架の出来事を引き起こされた」のです。そして、ご自身の側で用意された犠牲の小羊である主イエスを十字架に磔になさったのです。
 主イエスの十字架は、ノアの洪水の出来事のように、全ての人間の罪を滅ぼして、それを押し流すための出来事でした。弟子たちは、そういう主イエスの十字架と主の甦りの知らせを告げ知らせる者として、主イエスから送り出されて行きます。「あなた方が生きているこの世界は、もはや、十字架の出来事が終わった後の世界なのだ。神が人間の罪を清算してくださって、怒りを鎮められた後、本当に、新しい命に生きてよいのだと一人一人を招いていてくださる世界なのだ。あなたたちは、そういう新しい世界が来ていること告げ知らせる鳩のような者になるのだ。素直に、鳩のような役割を果たすのだよ」と、主イエスは教えてくださったのです。

 主イエスは、この地上に、地上のさまざまな困難の中に弟子たちをお遣わしになるに当たって、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と教えられました。けれども、こういう聖書の言葉を聞いて、翻って、私たち自身はどうなのでしょうか。ここで弟子たちに語られていることは、私たちにもそのまま語られていることではないかと思います。「私たちもまた、主イエスの十字架によって全ての罪が洗い清められ、新しくされた世界の中に生きている。そのことを知らされて、主イエスの十字架を仰ぎ復活を信じながら、主イエスに伴われている者としての新しい生活を生きるように招かれている」と言えるのではないでしょうか。
 そうであるならば、私たちも、蛇に惑わされないように、御言葉にしっかり聴き続け、御言葉に慰められ励まされながら日々の生活を歩む者とされたいと願うのです。「主イエスが甦っておられる」、そして「私たちと共に歩んでくださっている。御言葉を聞かせながら、私たちの地上の命を終わりまで持ち運び、地上の命の果てに、神の永遠の命に生きる約束を与えてくださっている」ことを、私たちはしっかりと受け止めながら、宣べ伝える使者としての役割を果たす者とされたいと願います。
 私たちがこの地上にあって、主イエスの十字架の贖いに心から感謝しながら、今日備えられている僕としての生活を、心ゆくまで味わい、主が伴ってくださる慰めと励ましを覚えて、ここから歩む者とされたいと願うのです。

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