聖書のみことば
2017年1月
1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

1月8日主日礼拝音声

 罪を赦す主
2017年1月第2主日礼拝 2017年1月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章1節〜8節

9章<1節>イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。<2節>すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。<3節>ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。<4節>イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。<5節>『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。<6節>人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。<7節>その人は起き上がり、家に帰って行った。<8節>群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

 ただ今、マタイによる福音書第9章の1節から8節までをご一緒にお聞きしました。1節と2節に「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。
 主イエスはしばらくの間、家を留守にして、ガリラヤ湖の反対側の地方に行っておられましたが、今また再びカファルナウムの町に戻ってこられました。すると、その帰りを待ちわびていたかのように、一人の重篤な病人が主イエスの前に連れて来られます。その人は「中風」を患っていたと言われております。「中風」とは、今日あまり馴染みのない病気の名前だと思いますが、おそらく「卒中」と言い換えてもよいのだろと思います。辞書によりますと中風は「脳内出血などによって引き起こされる半身不随、手足の麻痺の状態のこと」とありますので、今日的には「脳梗塞、脳卒中」と呼ぶのでしょう。
 主イエスの前に連れて来られた中風の人は、床に寝かされたまま連れて来られたとありますので、かなり深刻な状況だっただろうと想像できます。因みに、マルコによる福音書2章1節以下にも、今日の箇所と恐らく同じ出来事を語っていると思われる記事があります。マルコでは、主イエスのもとに中風の人を連れてきたのは4人の男だったと人数が書かれ、それだけではなく、主イエスの家まで来たものの大勢の人たちで家の中が一杯で、病人をイエスの前に連れて行けないので、主イエスのおられる辺りの屋根を剥がして床ごと病人を吊り降ろしたのだと書かれています。当時のガリラヤ地方の家は大抵が平屋で、屋根は平らだったと言われています。そして、家の外側から屋上へ登れる階段がつけられていました。ですから、こういうことが可能だったのです。
 けれども、こういうことが始終起こっていた訳ではありませんから、この日この出来事を目撃して立ち会うことになった人たちにとって、屋根が剥がされて主イエスの前に病人が吊り下されたという光景は印象深いものだったに違いありません。随分時が経っても、「あの時、こんなことがあったなあ」と、繰り返し思い起こされたに違いありません。

 さて、このように人間的な思いでは印象的な出来事が、今日のマタイによる福音書では、すべて割愛されています。2節に「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た」とあるだけです。この日の出来事については、いかにも語られそうなエピソードがあったのに、マタイはそれを一切書いていません。それはどうしてなのでしょうか。このことは、今日の記事を聴く上で一つの手がかりになることだと思います。マタイの書きぶりからしますと、恐らくこれは、この日の出来事に立ち会った見物人の側から書いているのではなく、「主イエスの目に映った」そちら側から書いているのだろうと思います。
 実際には、屋根が剥がされて病人が吊り下されるという出来事があったのでしょう。しかし、主イエスがこの日ご覧になったことは、出来事そのものではなく、「そこに信仰がある」ということでした。この出来事に関しては、もちろん色々と思う人がいたことでしょう。「屋根を剥がすなんて困ったことだ」と思う人、「なんと病人に対して愛情の深い、思いやりのある4人だろう」と思った人もいたでしょう。しかし、この日、主イエスが最も大事なこととしてご覧になったのは、「病人を連れて来た人たちに、信仰がある」ということでした。2節後半に「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。
 主イエスは、様々な場面において、いつどんな時にも「そこに信仰があるか」という視点でこの世界を見回しておられます。そして、今日の出来事においては、「ここに信仰がある」ことをご覧になったのです。実は、マタイによる福音書の今日の箇所の非常にはっきりした特徴の一つは、主イエスの眼差しに焦点が当てられているということです。先ほど申しましたように、屋根が剥がされるという騒動に人々の気が取られている時に、主イエスは「連れて来た人の信仰に目を注いでおられた」と言われています。
 また、それだけではありません。2節の「見た」という言葉は、実は、日本語で正確に訳されていないので分かりにくいのですが、3節の始めにも隠れています。3節は、律法学者たちが心の中で主イエスに反発したことが語られているのですが、原文では、この最初に「見よ」という言葉が語られています。3節「ところが、律法学者の中に、『この男は神を冒涜している』と思う者がいた」とありますが、もし原文に忠実に訳すならば「ところが、見よ、律法学者の中に、『この男は神を冒涜している』と思う者がいた」と書いてあります。ここに「見よ」という言葉があるとすると、それを見ているのは一体誰なのでしょうか。マタイが、律法学者の心の中に気がついて「見よ」と書いたのでしょうか。恐らくそうではないでしょう。ここで、「見よ」と言って、律法学者の心の中に気づいておられるのは、主イエスです。ですから、4節まで行きますと、主イエスの眼差しがさらに語られます。「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか』」。主イエスは律法学者たちの心の動きを手に取るように分かっておられる、そういう書きぶりです。主イエスに分かっておられること、それは何かというと「そこに信仰があるのだろうか」ということです。
 そういう視点でご覧になっているからこそ、他の人が気付かないことがお分かりになるのです。中風の人が目の前に吊り下されてくるのを見れば驚くというのが普通の反応ですが、主イエスは「なぜ、こんなことをしているのだろうか」とお考えになる。そして、4人が「主イエスならきっと、この中風の人を助けることができるだろう」と信じ、希望を持って病人を主イエスの前に吊り下ろしたのだと見て取られた、それで、「そこに信仰を見た」と言われているのです。
 一方、律法学者たちについては「そこに信仰があるか」と探しても、そこには主イエスへの期待も信頼も見当たりません。この人たちの中にあるのは、反発と苛立ちと、そして神の事柄であれば主イエスより自分たちの方が詳しいと思っている、そういう高ぶりです。主イエスはそのような律法学者たちの心の中を見通し洞察していかれます。

 さて、聖書の中でこのように、主イエスが人間の中に信仰があるかないか、「ここに信仰がある」と探し出してくださるということは、私たちにとって本当に有り難い、幸いなことです。これは今日の記事において大変注目すべき点です。今日の箇所で、連れて来られた中風の人は、この人自身の信仰によって主イエスから「良し」と言われているのではありません。この病人を中心とした周囲の人たちが主イエスに深い信頼を置いている、その結果が良いことに繋がっているのです。「主イエスが、病人を連れてきた人たちの信仰をご覧になって、真実に力ある神の御業をなさってくださった」ということが、この記事に書かれていることです。
 実は、主イエスは、信仰が全く無いというところでは、奇跡をなさいません。ですから、今日ここで本当に力ある奇跡の御業がなされているということは、そこに信仰があったからです。しかも病人本人ではなく「連れて来た人たち」に、主が「信仰を見た」からです。少し先ですが、マタイによる福音書13章58節には「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とあります。これは、主イエスが生まれ故郷のナザレに行かれた時の話です。故郷の人たちは、主イエスのことを「赤ん坊の頃から知っている者」と思い、あまり特別な信頼も期待もしなかったために、故郷のナザレでは、主イエスは「あまり奇跡をなさらなかった」のです。「あまり」とありますから、少しはしたのかと思いますが、そうではなく、「ほとんど全く」という意味です。主イエスはナザレでも力ある多くの御業をなさることはおできになったはずですが、しかし、ここではなさらなかったのだと書かれています。そしてそれは、「人々が不信仰だったため」と言われています。主イエスに対する期待も信頼もない、そこでは何も起こりません。しかし、今日のところでは、中風の人の周りの人たちが主イエスに深い信頼と期待を寄せていたからこそ、この大いなる御業が行われました。
 このことは、私たちにとって、「信仰」を考える上で大事なことだろうと思います。私たちは「信じる」ということを考える時に、ともすると、自分自身の心の思いということを第一に考えてしまいます。信仰というと、自分の心の思いなのだと考えます。それで、主イエスが私たちの信仰を探し求めておられるなどと聞くと、大変困ってしまいます。私たち自身も主イエスのように自分の中に信仰があるかどうかと探してみると、「案外、信じていないかもしれない」と思って不安になったり情けなくなったりします。ところが、神は私たちをどうご覧になるかというと、ご自身を信じている民の中の一人であると見てくださるのです。中風の人が周りの人たちの信仰に支えられ、そこに信仰があるので神の御業が行われたと言われているように、私たちの信仰も、実は、私個人の信仰が問題なのではなく、兄弟姉妹が共にいて、自分の代わりに神への信頼や希望を持っているということが大変大きいことなのです。私たちは、自分一人だけの信仰に生きるのではなく、周りの人たちの信仰に支えられて、励まされるようにして信仰を保つようなところがあるのです。ですから、私たちは「執り成しの祈り」をします。執り成しの祈りは、困っている本人がするのではなくて、その人のために周りの人たちがする祈りのことです。どうして執り成しの祈りがあるのかと言うと、それは周りの人の信仰によっても、神がご覧になって御業をなさってくださるからです。
 「信仰」は決して個人主義であってはなりません。自分自身の信仰が自分を支えると思っている方も案外多いかもしれませんが、実は私たちは、自分自身の信仰が自分を支えるのではなく、教会生活というのは、周りの人たちの信仰によって育まれ強められ、そして確かにされていきます。そして、私たちの生活の中に神の祝福が生まれてくるということが起こるのです。それは教会生活を続けておられる方であれば、どなたも経験なさることだろうと思います。自分自身は本当に信仰の薄い弱い者にすぎないけれども、教会生活において共に御言葉に聞いていく生活の中で、周りの人たちによっても豊かに祝福を受け、慰められ力づけられて、「わたしは今日も生きていられる」と思っておられる方は少なくないでしょう。

 主イエスは、病人を連れて来た人たちの中に信仰が宿っていることをご覧になって、この日、力ある業をしてくださいました。この日、主イエスがなさってくださった力ある業とはいったい何か。その中心にあることは、「中風の人の罪を赦す」ということでした。2節の後半に「中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。病気で苦しんでいる人に向かって「あなたの罪は赦される」と言っておられる言葉に違和感を感じる方もいらっしゃるでしょう。一体「病気」と「罪」の間にどんな関わりがあるのかと思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかしそれは、私たちが普段「罪」という言葉で考えていることと、聖書の中に出てくる「罪」という事柄が少し違っているからです。
 私たちは普段、「罪」をどう考えているでしょうか。大抵は法的なもの、あるいは道徳的倫理的なものとして考えます。法律に違反して、してはいけないことをすれば、それは当然「罪」です。けれども、私たちは、法律に触れていなくても、時には日常生活の中で「罪」という言葉を使う場合があると思います。例えば、当然防ぐことのできた過ちをうっかり犯してしまった時に「ああ、罪なことをしてしまった」と思う。あるいは、故意に、悪意に満ちたことを他者にするような場合、それは法律に触れていないけれど、心のうちで「罪を犯した」と思うかもしれません。そのように、普段私たちが思っている罪は、法律に触れているか、あるいは倫理的道徳的な過ちのことを指します。ところが、聖書の中では「罪」をどう考えているかというと、「神がこの世界の上におられるのに、神に背を向け神から離れた状態で人が生きてしまう」、そのことが罪と言われています。私たちが普通に考える罪は他者に対しての過ちですが、聖書は、私たちが他者に何かをするより以前に、神との関係が歪んでしまって神から切れてしまっている、その状態を指しています。
 「神に背を向け、神抜きで生きる」その時には、人はどう考えるのでしょうか。自分の人生の主人は自分だと考えるようになります。そして、「人生というのは自分の思いを実現する場所である。自分の考えや生きたい姿に生きたい」と、聖書を読まない多くの人たちは思っています。そして、そう思っていることを周囲の世界にも認めさせたいという気持ちが、私たちの心の内にはあるのです。自分が人生の主人だと思っていることを周りの世界も認めるべきだと考えて、自分の気ままに人生を生きていこうと思ってしまうのです。けれども、その結果がどうなるかというと、私たちは経験していますが、皆が皆、自分が小さい神のようになって自分の思い通りに生きてしまいますから、私たちは始終ぶつかり合って、いがみ合いや戦いが起こるのです。そして、そういうところでは、人間同士の間柄が歪んでしまって、力の強い人が弱い人を支配し抑えつけるということが起こってきます。「自分中心」ということが、特にエゴイストということでなくても、まるで当たり前のように起こっている。それが聖書の問題にする「罪」なのです。
 そして、そのように生きている人間は、神の前での柔らかさ、しなやかさを失って、従順だったり献身することを嫌がるようになります。「自分の人生は、どこまでも自分の欲求を満たすために生きることだ、自分の目的のために生きるのだ」という生き方しかできなくなってしまうのです。そうすると私たちの心は、いつの間にか自分中心の思いに凝り固まってしまいます。自分中心にしか生きないこと、それが聖書のいう罪です。もっと他の生き方があるかもしれないのに、自分中心に生きていれば、自分にとって得なこと嬉しいことしかできないと思い込んでしまうのです。
 ところが主イエスはここで、そういう罪が赦されて「もう一度、神の前に与えられた命をしなやかに生きるようになる」と言って下さいます。主イエスの前に連れて来られたのは中風を患っている人ですが、主イエスがご覧になるところでは、この人の最大で決定的な問題は、中風を患って体が不自由であることなのではありません。そうではなくて、「神の前に柔らかく生きることができないでいること」なのだと、主は見ておられます。主イエスは私たちの中に「神に背を向ける頑なさがある」ことをご覧になっています。そして、その罪を何とかして赦そうとしてくださっているのです。
 私たちは様々なことで躓きます。仕事や勉強や家庭、恋愛や人間関係、様々です。そこで自分のために生きようとすれば、頑なになっていかざるを得ません。思い通りに生きられないなら、こんな人生は嫌だと身を硬くし、縮こまって、自分は不幸だと思いながら生きるしかなくなります。けれども、主イエスは違います。そういう私たちに目を留め、「どんなに大変に思えているとしても、あなたはここでもう一度、神の御前で、与えられたあなたの人生を生きていくことができる」と声をかけてくださるのです。人生に失敗を感じる時にも、そこで絶望せず、もう一度ここから歩み出そうとする悔い改めの道が与えられていることを、主イエスは教えてくださるのです。主イエスがこの日、中風の人に語りかけてくださったのは、そういう神の恵みの真実です。「あなたは今、中風で不本意な気持ちかもしれない。しかし、それでもなお、あなたは今日という一日を、神に支えられて生きることができる。あなたは罪を赦されているのだから、神の保護のもとで、ここからもう一度歩き出して良いのだ」、それが「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という主イエスの言葉なのです。

 ところが、そういう主イエスの言葉を聞いて、横合から反発する人たちがいました。その人たちは、「あなたの罪は赦される」と言った主イエスの言葉に我慢なりませんでした。3節「ところが、律法学者の中に、『この男は神を冒涜している』と思う者がいた」とあります。どうして主イエスの言葉が神を冒涜することになるのでしょうか。主イエスに反発する律法学者たちの言い分は、「神はいつでも人間に、神の前で正しくあれと求められる。神の御心に適う生き方をしていれば、いつでも良いものを与えられる。反対に神の御心に反するなら、良いものは取り去られて、混乱や破壊がやってくる。そうならないように、聖書を学び正しく生きなければならない」ということです。彼らの考え方に従うならば、中風の人は、「他者には分からないけれど、何か神に逆らう悪いことをしているために神からその報いを受けて、中風という惨めな状況に陥っているのだ」ということになります。そうであるのに、主イエスが「あなたの罪は赦される」などと言えば、神の裁きを曲げている、神を冒涜しているということになるのです。
 私たちは、神という言葉こそ使いませんが、この律法学者のように考えてしまうことがあると思います。この世の出来事にはきっと因果関係があると、どこかで思っています。病気になったりしますと、「あの時、ああしたのが良くなかった。人混みに行ったからばい菌をもらってきてしまった」とか、特に悪いことを経験しますと、前の出来事に結びつけて考えてしまうところがあるのです。あるいは、仕事であっても同じように「あの時の、あのことが失敗だった」とか、因果関係で考えようとします。しかし主イエスは、そういう因果関係で全てを見ようとするあり方を役に立たない悪い考えだと言われます。4節「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか』」。
 主イエスが教えてくださっていることは、「神があなたの上に働いておられる。たとえ、今、困難な状況であっても、神は、今日あなたの命を支えてくださって、今日ここからの新しい歩みを備えてくださる。罪が赦されているのだから、そう生きて良い」ということです。ところが、神の働きを因果関係で考えると、「今自分が良い状況だとすれば、それは良いことをした結果。良くないとすれば、悪いことをした結果」であり、神は働くが必要なくなるのです。「自分は良い生き方をしているから良いが、中風の人は悪いことをしているから酷い目にあっているのであって、そこからは抜け出せないのだ」と、律法学者たちは考えました。
 しかし、主イエスはそうではないと言われました。罪が赦され、新しい生き方ができることを教えてくださって、そして更に、この律法学者たちの目にも見えるように「癒しの奇跡」をなさって、「人が全く新しくされて生きる生き方を見せよう」となさいました。それが5節です。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」そして、中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた」。
 中風の人には、「病気が癒されたこと」と「罪が赦されたこと」、2つのことが起こっています。主イエスは、「あなた(中風の人)は、たとえ病気のままでも罪を赦されて今日ここから生きていってよいのだ」と教えられました。ところが、横合から律法学者たちが「それは神を冒涜することだ」と言うので、「それならば」と主イエスは、「本当に罪を赦して、神との交わりに生きることができる新しい生活が始まることをあなたがたに教えよう」と、癒しの御業をなさったのです。神に信頼して、そこで病気のままであっても生きることはできます。「元気を出しなさい」という主イエスの御言葉に従って生きることができるのですが、更にその上にもう一つ、癒しという力ある業が重ねて行われ、そして中風の人は立ち上がって床を担いで帰っていくのです。
 主イエスはそういう仕方で、「神が罪を赦し、これまで神と関わりなく生きてきた人でも、ここから神との交わりを信じて新しく生きることができる」ことをお示しになりました。中風の人が立ち上がって家に帰るという出来事を通して、「神が確かに、私たち人間の人生の中に、それまでに無かった新しいことを行うことがおできになる」のだということを、目に見える形で表してくださったのです。「中風の人が起き上がり、家に帰って行った」ということは、「神が私たちを本当に支え満たしてくださることができる」ことの、目に見える証拠のようなこととして起こっているのです。

 それでもなお、ふと考えさせられます。どうして主イエスは、このタイミングで中風の人の癒しをなさったか。「中風の人の罪が赦され、神との交わりを与えられて、今与えられている今日の生活を新しく生きて行くようになること」、それは本来、病気の癒しとは関わりのないことです。病気を持ったままでも、「神はこのわたしを生かしてくださっている」と信じて生きることができるはずです。そして、もしかすると、それで十分だったかもしれません。ところがここで、主イエスは加えて、目に見える形の癒しをなさいました。どうしてか。それはまさに、神の御業によって新しく生きようとしている中風の人を見て、それを認めない律法学者たちが横合から現れたからです。
 私たちは、律法学者はいつでも主イエスに反対する敵対者だと思っていますから、彼らが心の中で主イエスに反発したと聞いても驚きません。けれども、マタイによる福音書を1章から読みますと、この箇所で初めて律法学者たちが主イエスに対して敵対心を表しているのです。ここで「主イエスは権威あるものである」ということを認めない彼らの不信仰と敵対心が芽生え、そしてどうなっていくか、ゆくゆくは主イエスを十字架に磔にするという陰謀にまでエスカレートしていくことに繋がります。けれども、「主イエスが十字架に架けられ死んでいく」という、主イエスの死と苦しみを通して、実は、「私たちが神に逆らい、神抜きで生きているという罪」を主イエスの側に引き受けてくださって、罪を清算してくださるということになるのです。まさに主イエスは、「十字架にかかって人間の罪を清算してくださるお方」なので、「罪を赦す権威」を持っておられるのです。
 ところが律法学者たちは、そういう仕方で人間の罪が赦されるということを知りません。そもそも、罪が赦されるなどということ自体を信じないのです。罪は神によって裁かれるもので、間違ったことをすれば苦しむことになるし、正しい生き方をすれば幸せになるとしか思っていないのです。あくまでも、自分たちの正しい行いが神の祝福を招くのだから、罪の赦しなど有り得ない。主イエスの言葉は神への冒涜だとみなす。この主イエスへの反発が最後には主イエスを十字架に磔にすることになります。
 律法学者と主イエスの確執は、この聖書の記事からしますと、「私たちが日々犯している罪とは赦されるものなのか、赦されないものなのか」ということを巡っての対立です。神抜きで生きることは、キリスト者であってもあることです。キリスト者も「神を信じて生きています」と言いながら、いつでも神を覚えて生きているわけではありません。むしろ、人生の大半の時間、神を忘れて生きていると思います。けれども、キリスト者はそれを悔い改めます。「神抜きで生きてしまっているわたしだけれど、でも、神が今日のわたしの命を支えてくださっているのだから、ここからもう一度、神が与えてくださる命として、与えられている命を生きてみよう」として生きる、それがキリスト者のあり方です。ですから、キリスト者は「神から罪を赦されて、新しい命を生きるのだ」ということを信じます。
 けれども、それを信じない生き方も有り得るのです。神は人間が頭の中で考えている観念にすぎないのだからと、神などいないと信じて生きる生き方も有り得るのです。あるいは、神はいるかもしれないが、イエス・キリストを通して赦しをもたらすというようなものではないと思う人もいます。「私たちの罪は赦されるのかどうなのか」、それは言葉を変えて言いますと、「主イエスの十字架の御業というものが、私たちの罪を赦す権威を持っている御業なのかどうか」ということです。律法学者たちは、人間の罪を赦せるような行いは何もないと言って、主イエスの十字架を退けます。ですから「あなたの罪は赦される」という主イエスの言葉を否定します。それに対して主イエスは、「いや、神は実際に罪を赦すことがおできになるし、私たちに新しい生活を与えることもおできになる」、そのことを現すために、律法学者たちの前で、体の不自由な中風の人に癒しを与えて、この人が全く違う生活に歩み出すという姿をお見せになったのです。

 今日の箇所でマタイは、多くのエピソードを削って短くしていますが、それにも拘らず、主イエスの言葉を丁寧に書き込んでいるところがあります。それは2節の「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」、この「元気を出しなさい」という言葉が、マタイによる福音書にだけ出てくる言葉です。この言葉は、今日の箇所では、「中風の人が罪赦されて、神が与えてくださる新しい命を生きるのだから、あなたは元気を出しなさい」ということなのですが、マタイによる福音書を読んでいきますと、主イエスはこの言葉をあと2回、この先で言っておられます。
 一箇所は、長い間出血が止まらない病を患って苦しんでいた女性が、主イエスの衣に触った時に癒されたという出来事が起こった時に言われた言葉です。9章22節「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った」というところです。「元気になりなさい」という言葉が、今日の箇所の「元気を出しなさい」と同じ言葉です。もう一箇所は、14章27節です。ガリラヤ湖で漕ぎ悩んでいる弟子の方に主イエスが水の上を歩いてやって来られるという場面です。「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」。「安心しなさい」という言葉が「元気を出しなさい」と同じ言葉です。
 長年、長血を患っていた女性に「元気になりなさい」と、主イエスは言われる。あるいは、湖上で嵐にあって漕ぎ悩む弟子たちに現れて、主イエスを幽霊だと思って不安になっている時に、「安心しなさい」と主イエスが声をかけてくださる。私たちが人生を歩む上で、どうしようもなく行き詰ってしまう、途方に暮れてしまう時に、私たちは、柔らかさを失い縮こまって、頑なになっていこうとします。けれどもその時、主イエスは私たちの元に来てくださって、「元気を出しなさい」と言ってくださるのです。どうして「元気を出せ」と言われるのでしょうか。それは「あなたが神抜きで生きてしまった罪を全部引き受けて、十字架にかかって償ってあげるのだから、それによってあなたは、神があなたと共にいて支えてくださることを知るようになるのだから、あなたは今日、元気を出して、もう一度ここから歩んで良いのだ」と語りかけてくださっているのです。そして、主イエスがそういうお方であることを、マタイはどうしても伝えようとしているのです。ですから、様々削っている中で「元気を出しなさい」という言葉を付け加えているのです。

 「元気を出しなさい」という言葉は、マタイによる福音書を通して、今、私たちにも呼びかけられている言葉です。「あなたは、生きている今日の生活の中で、様々に行き詰まって頑なになってしまうことがあるかもしれないけれども、でも、元気を出しなさい。あなたはそのままで、あなたに与えられている命をもう一度生きていくことができる」と、主イエスが言ってくださっているのです。
 そして、確かに私たちが罪赦されていることは「主イエスが十字架にかかってくださった」ということによって、私たちに示されているのです。「主イエスの十字架によって罪が赦されている」、このことを信じて生きる新しい歩みが、私たちには与えられています。そして、そのことを信じて生きる、そういう群れの中に、私たちは抱かれています。私自身がそのことをいつでもはっきりと強く思えていないかもしれません。しかし実は、神は、この教会の群れの中に信仰が確かにあることをご覧になって、そして「十字架によって罪赦されている」、そういう生活を私たちの上に恵みとして与えてくださるのです。この教会の群れの中で、私たち一人ひとりの信仰も育まれ、強められていくことを信じたいのです。
 思いもよらないような神の力ある業が私たちの上に行われる。その時に、私たちは、苦しみや深い嘆きの中にあっても、なお、神を賛美し、喜び、与えられている今日の生活に勤しむという生き方ができるようにされることを信じて、感謝に生きる者として、ここから歩んでいきたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ