聖書のみことば
2017年11月
  11月5日 11月12日 11月19日 11月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月19日主日礼拝音声

 教会の中心
2017年11月第3主日礼拝 2017年11月19日 
 
宍戸尚子牧師 

聖書/コリントの信徒への手紙一 第10章14節〜18節

10章<14節>わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。<15節>わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。<16節>わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。<17節>パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。<18節>肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。

 ただいまコリントの信徒への手紙一10章の14節から18節をご一緒にお聞きしました。普段夕礼拝において続けて第一コリントを聞いていますが、今朝もこうしてご一緒にパウロの言葉、そしてパウロを用いて語られる神様の言葉に耳を傾ける機会を与えられまして、感謝しています。

 14節は「わたしの愛する人たち」という呼びかけから始まります。これはこの手紙で初めて使われる呼びかけです。これまでは「兄弟たち」という呼びかけがなされていましたが、ここには「愛する人たち」となっています。「愛する」という訳はもちろんですが、「大事な」という訳もできる言葉です。“私の愛する大事な人たち”とパウロはコリント教会に語りかけます。同じ第一コリント4章14節でも、「愛する自分の子供として諭す」と言っていました。それでここへ来て改めて「わたしの愛する人たち」と呼びかけるということは、ここから語ることが随分重要な内容を含むことを教えているところがあります。

 この箇所は「こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と前の部分を受けています。偶像礼拝を避ける理由が前の部分に示されていました。この箇所の前には偶像への供え物を食べてもいいかどうか、という問題が扱われていたのでした。コリントの町というのは、偶像が氾濫していたと言っていい町です。その中で、偶像に供えた物が後で市場や店に出されることがあって、それを食べてもいいかどうかが教会の人たちの問いでした(8章)。異教の神々に食べ物を供えること、それを食べることはもちろんよくない。けれどもその食べ物が後に売られ、神々への供え物だったということが分かっている場合どうするか、といった具体的な問題が起こっていたわけです。

 このことはただ供え物だけの問題ではなくて、結局は偶像礼拝の問題になります。パウロはこの問題について、元々異教の神々に供えられた食べ物が市場で売られている場合はそれを食べてもいい。しかし、それにつまずきをおぼえる兄弟がいるなら、自分は食べるのをやめる、というとても現実的なことを語った後、ここでは、いずれにしても、とにかく「偶像礼拝を避けなさい」と勧めています。

 この「避けなさい」は“逃げなさい”という言葉です。“偶像と戦うように”という勇ましいイメージよりは、“そこから逃げなさい、避けなさい”というメッセージが伝わります。それはパウロが偶像礼拝の危険性を重く受けとめていたからだと思います。私たちが立ち向かっていける程、甘いものではなく、むしろそこからすぐ逃げなくてはならないようなものだというのです。

 けれども一体「偶像礼拝」とは何でしょうか? 偶像礼拝を避けるとは、一体どんな生活をすることなのでしょうか? それは一言で言うと、真の神様を拝むことになるでしょう。神を神とする、神でないものを神としない、ということです。けれどもこの神を神とする、神でないものを神としない、というこの生活は、決して簡単なものではありません。例えば多くの日本の人たちがしているような、神道や仏教に関係する習慣化した行事を全くしていないとして、それだから私たちが神様を神様としている、ということにはなりません。

 私たちは、神道や仏教やその他の宗教の信仰対象はもとより、そういうものとは無関係なものであっても、とにかく何でもありとあらゆるものを神とすることができるからです。そして私たちはそれに無自覚です。ある人は“人は偶像を拝みたがるものだ。そしてその中でも最も身近で、最も危険で、最も手強い偶像は自分自身だ”と言いました。自分を神とする、ということです。“いや、私は自分を神と呼ばせるような新興宗教の教祖のようなことはしない”、“神になるなんて思いもよらない”と思います。

 ところが聖書はそういう私たちが、自分を絶対化したり、自分の思いを神様の事柄より優先したり、自分中心であったりすることはないのか、と問いかけています。“あなたには罪がある。”罪ある人間は、その罪によって自分中心の姿をとることになります。それが正に自分を神とすること、真の神様を神様としないことだというのです。こう考えますと、偶像の問題は私たちの信仰生活に身近なもので、深い関わりをもっている事柄です。真の神様を礼拝することができない、自分中心の罪の中にいる者である私たちに、パウロは“そこから逃げるように、逃げ出すように”と呼びかけています。

 そしてその罪ある者がそこから離れて神様を真に神様とする生活をする、それが起こるのが礼拝だと言います。日曜日だけではなく、神様を神様とする生活を続けていく必要があります。けれどもいつも危険にさらされています。私たちはすぐに自分中心、自分を偶像とする生活へと歩んでいってしまうからです。

 それならばどのように神中心の生活をすることができるのでしょうか? 教会において、神中心の生活、神中心の一つ一つの働きというのはどういうものなのでしょうか? パウロは聖餐式の話を始めます。16節です。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」。 神中心の生活というものと聖餐式に何の関係があるのでしょう? 聖餐を通して杯を飲み、パンをさくことで、あなたがたの内にキリストが住み、キリストがあなたがたの内に住んでくださる、とパウロは言います。1世紀半ば、コリント教会の人たちが聖餐を守って礼拝していたことを知らされます。キリストが私たちの内に住んでくださり、私たちがキリストの内に住む。キリストと一つになりキリストと共に生きる。それによって私たちは自分中心の生活ではなく、神様中心の生活、礼拝中心の生活へと招かれているというのです。

 神様中心の生活をするために、真の礼拝をするために、あなたがたは既に聖餐にあずかっているではないか、とパウロは言いました。私たちは聖餐においてパンをさき、杯を飲みます。その聖餐が意味していることは何でしょうか? 1つは私たちの罪の贖いのために、キリストが肉をさき、血を流されたことを思い起こすことです。聖餐によって“あなたのために主は死なれた。あなたの罪はゆるされた”という宣言を聞くことになります。また次に、私たちは聖餐においてキリストの体と血にあずかり、キリストと共に生きるという他では得ることのできない体験をします。それによって私たちが永遠に主と共に生きる、「永遠の命」をいただいている者であることを思い起こします。さらに3つ目に私たちは聖餐によってキリストと一つにされるのですが、同時に共にその同じパンと杯にあずかっている兄弟姉妹とも一つにされる交わりを経験します。パウロはそのことを17節で 「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と言いました。パンが一つとは、キリストの体が一つということです。それに対して、私たちは大勢いても、そのキリストの体をいただくことで、キリストと一つになります。“ひとつにまとまろう”とか“皆同じことを考えよう”といったことではなく、キリストの体にあずかり、一体となるということです。

 不思議なことだと思います。また神秘的なことだとも思います。すべてを合理的に説明しようとするときには、見失われる危険性のある事柄です。けれども洗礼を受けるということは、キリストと一つになるという不思議な体験をさせられるということではないでしょうか? 私たちは聖餐のたびに、洗礼を授けられたこと、私たちはキリストと一つにされていることを思い起こすよう招かれています。そしてこの聖餐にあずかることで、お互い同士も一つとされている現実に出会わされます。教会は様々な仕方で一つになる試みを行うこともあります。一緒に集まるとか行事をするとか、一つの教会を超えて集まることもあります。けれどもそれは仲良くするためというよりは、キリストにあって一つ、一つの体とされているそのことが土台にあることを確認するためです。主にあって一つだということを共におぼえるために一つ一つの行事は行われます。

 教会にとって一番大切なのは、み言葉が語られ、聖餐が行われる礼拝です。これが教会の中心です。ですから教会のどんなに小さなわざも、すべてそこへつながっていく必要があります。私たちは教会の中で果たされている一つ一つの奉仕のわざも含めて、すべての教会のわざが、み言葉と聖餐に向かっているか、この中心から外れていないか吟味する必要があります。教会の中心は人間ではない。それは私たち、わかりきっているように思います。では何が中心か、神様です。そしてそれは具体的にはその神様を礼拝するみ言葉と聖餐が中心ということになります。教会において、キリストと一つにされていることが大切にされなくてはならないと思います。この経験がなければ、教会も他の集まりや団体と同じになってしまいます。でも教会は、キリストの体だから他の集まりとは違う、とパウロは言うのです。

 さて、偶像を避けるようにという話から、キリストと一つになる話へと進んできましたが、このキリスト者がキリストと一つにされる不思議な経験はわかりにくいとパウロは思ったのかもしれません。18節でわかりやすく説明しようと、例をあげています。「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」。「肉によるイスラエル」というのは、新しいイスラエルと呼ばれる教会と区別する言い方で、旧約時代のイスラエルの民のことです。イスラエルの人たちは神殿での礼拝において、祭壇に供え物をし、それを食べることによって恵みにあずかり、神様との交わりに入れられると考えていました。その例をひいて、イスラエルの人々が祭壇への供え物を食べて、祭壇と関わる者となり、神様と交わりをもつ者とされた。それと同じように、キリスト者も聖餐によってキリストの体にあずかり、キリストとの交わりの中に入れられるのではないか、というのです。

 健康な教会生活のために、偶像礼拝を避けるように、とパウロは呼びかけました。そしてそのために共に祈り、礼拝しよう、聖餐にあずかろうと呼びかけています。キリストの体と血にあずかって一つにされていることをもう一度思い起こそう、罪ゆるされたこと、永遠の命を既にいただいていること、兄弟姉妹と一つにされていることを思い起こそうというのです。

 パウロは教会の人たちを無理に導こうとはしません。14節の「わたしの愛する人たち」という呼びかけもそうですし、15節の言葉からも教会の人たちを尊重する思いを受けとめることができます。「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい」。「分別ある者」というのは思慮深い者という意味です。思慮深く、自分で判断してよく考えるように勧めます。キリスト教信仰はよく考えて判断することを勧めるものです。

 終わりにパウロが記しましたガラテヤの信徒への手紙をご一緒に聞きたいと思います。2章19節、20節です。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。キリスト者の姿、また教会の姿が表されています。私たち一人一人の生活において、キリストが私たちの内に生きていてくださいます。また愛宕町教会の歩みにキリストがいてくださいます。キリストと一つにされた。永遠にキリストと共に生きる者とされた。この恵みをいつも思い起こしつつ、御言葉に聞き、聖餐を守り、礼拝を捧げ続けたいと願います。こうした教会生活が偶像礼拝を、自分中心の罪を、逃れる力となります。

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