聖書のみことば
2016年9月
  9月4日 9月11日 9月18日 9月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

9月18日主日礼拝音声

 先走る裁き
2016年9月第3主日礼拝 2016年9月18日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第7章1節〜6節

7章<1節>「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。<2節>あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。<3節>あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。<4節>兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。<5節>偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。<6節>神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 ただ今、マタイによる福音書7章1節から6節までをご一緒にお聞きしました。1節に「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」とあります。「人を裁くな」と、主イエスがおっしゃっておられます。非常にはっきりした分かりやすいことを言っているようにも思いますが、実は注意が必要です。

 先に主イエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたは地の塩である」と教えてくださいました。そして、「もし塩に塩気が無くなれば、もはや何の役にも立たずに外に投げ捨てられ、踏みつけられるだけである」とも教えてくださいました。「人を裁くな」という言葉を間違って受け止めてしまいますと、もしかすると私たちは、本来持っている塩気まで失ってしまうかもしれないと思います。自分は誰のことも裁かないと言って、様々なことを判断するところから逃げてしまうようになってしまいますと、私たちは、長いものに巻かれる安易さに流されていくことになるのです。
 「教会というところは、主イエスの愛に学んで、主イエスの愛を手本としてそれに倣っていく場所だから、どんなことであれ、愛と許しをもって生活することがキリスト者の生活なのだ」と言われますと、私たちはついうっかり「その通り」と言いたくなります。しかし、ここは細心の注意が必要なところです。「人を裁くな」という言葉は大変はっきりした言葉ですから、私たちはこの言葉に気を取られてしまいます。それで、何も裁かず、何でも通らせてしまうというあり方を第一にしてしまいますと、もしかすると、本当の救い主である主イエス・キリストに聞き従う生活、キリスト者としての基本的なあり方すら手放してしまうことになるかもしれません。もし「裁かない」ことを第一の事柄と考えて生活すると、私たちの生活は、何でも有りのだらしないものになってしまうかもしれません。全て気ままで、その時の行き当たりばったりで放縦な生活をしていると、それを気にしてくれる人が「そんな生活で良いのですか」と注意してくれるものですが、そういう人たちに向かって私たちは「主イエスも『人を裁くな』と言っていたではないか」と言って、自分本位に生きるのが当たり前な生活を一生過ごしてしまうかもしれません。それは言ってみれば、「裁かない」ということを隠れ蓑にして、キリスト抜きの、自分の思いだけで生きる生活を正当化しているということです。ですから注意が必要なのです。
 せっかく主イエスに招かれて「地の塩となって生きる」幸いな者とされている、そういうあり方を私たちが自分から手放してしまう恐れが、「人を裁くな」という言葉には絶えず潜んでいるのだと思います。「裁かない」と言いながら、自分を押し通すだけ、自分の思い通りに生きるのが当たり前になってしまいますと、いつしか、御言葉にさえ耳を傾けることもできなくなってしまうということも、私たちに起こるかもしれません。

 キリスト者は、主イエス・キリストの御言葉に耳を傾け聴き従って生きることによって与えられる「塩気」を、決して軽く考えたり手放してはならないのです。そういう緩みきった在り方に対する警告が、6節に語られています。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」とあります。この言葉で教えられていることは、せっかく主イエスの十字架によって私たちにもたらされた値高い信仰生活を、あまりに容易く捨ててしまうことへの警告なのです。「神聖なもの、真珠」と言って示されているのは、私たちに与えられている「信仰」であり「信仰生活」のことです。神の独り子である主イエスの十字架によってもたらされたが故に、信仰というのは神聖なものなのです。そしてまた、神の目から真に値高いものに見えるのです。
 キリスト者にとって、神に信頼して生きる生活というものは、大変身近なものです。身近なものですが、しかし、自らを振り返ってみますと、常に神のことを思っているわけではなく、むしろしばしば神を忘れて過ごしています。
 今日初めて教会に来られた方は、キリスト者はいつも神のことを考えている人たちだと思われるかもしれませんが、決してそういうわけではありません。むしろ、しばしば神を忘れて生きています。ですから、「わたしは信仰を持って生きています」と言うと、人生に実線を描くように信仰を持って生活しているように思いますが、実際にはしばしば忘れてしまうのですから、破線、点線のような信仰生活なのです。そして、信仰を与えられている人は、自分でも「神を忘れていることがあるなあ」と思うものですから、ついそれを安っぽく考えてしまう場合があるのです。信仰とは、自分の心の中から一人でに生まれてきた思いであるかのように錯覚して、信仰は自分一人でも持ち続けられると思ってしまうのです。
 しかし、実際の信仰は、そうではありません。いつも申し上げていることですが、信仰とは、自分の心の事柄なのではありません。そうではなく、私たちの生活の事柄です。信仰が与えられていることで、私たちの思いや気持ちが神さまや主イエスの方に向かうことは事実です。しかしそうなることは、私たちが自発的に自分の自由な思いからなっているのかと言えば、そうではありません。私たちの信仰は、どなたの場合でも例外なく、自分で手に入れるものではありません。主イエス・キリストが、信仰のない人のために、その人が滅びないように祈りながら身代わりの十字架にかかってくださったということが、私たちの信仰生活の発端にあります。そしてまた、主イエスの十字架の土台の上に地上の教会が建てられ、主イエスを指し示し続けながらこの地上に立ってきました。私たちは毎週礼拝に集められて、ここで聖書の御言葉を聞かされて、主イエスが私たちのために十字架にかかり甦っておられることを聞かされるので、「そうだった」と思い出して地上の信仰生活を送るのです。

 主イエスがご自身の死と引き換えにもたらしてくださった、そういうものですから、信仰は神聖なのです。また、教会の歴史の中で、無数の兄弟姉妹が私たちのために涙をもって祈り続けて信仰を伝え続けてくれた、そういうことですから、信仰とは大変貴重なものなのです。ここでは、信仰を「真珠」と言っています。大変面白い言い方だと思います。真珠と聞きますと、私たちは、キラキラと輝く白あるいはピンクや黒の見事な球形のものを思い浮かべるでしょう。それはそうなのですが、私たちが見ている真珠は、真珠の上辺に過ぎません。真珠の元はあこや貝の中に入った異物で、それをあこや貝が懸命に粘液を出し、粘液で包みながら、自分の中に持っていくのです。今日では、人工的に小石を貝殻の中に入れて真珠の種を作って、真珠を作らせています。
 異物を埋め込まれた貝は、その異物を吐き出すのではなくて、長い年月をかけて、柔らかな粘液で繰り返し繰り返し包みながら生きていって、そこに真珠が生まれます。そして、私たちの信仰というのは、多分そうなのです。決して、一朝一夕に手軽に信仰が生まれるのではありません。長い間祈り続けられ、忍耐を持って主イエスの出来事、救いの言葉が語りかけられた、その末に、私たちの中に本当に「主イエスこそ、わたしの救い主なのだ」という信仰が芽生えるのです。
 ですから、割合長い求道生活を過ごしておられる方がなかなか洗礼を受ける気持ちにならないからといって、それを特別なことと思ったり、まして自分を責めたりする必要は全く無いと思います。信仰とはそもそも、長い年月をかけて形作られてくるものなのです。洗礼を受けて既にキリスト者となっている方も、最初に信仰を言い表してキリスト者になった時と、それから時間が経って歩んできた今では、信仰への考え方や感じ方が随分違ってきているのではないでしょうか。それは実は、私たちの信仰が「真珠」だからです。私たちの信仰は、教会の中で今も抱かれて育てられているのです。イミテーションの真珠は工場で作られます。それはもはや成長しません。しかし、生きている真珠は貝の中にあって、育っていくのです。大事に育てられた、本当に貴重なものなのです。そして、神聖なものなのです。ですから、信仰の事柄はぞんざいに扱うことはできないのです。

 さて、そのような高価な真珠のような信仰を与えられて生きている人は、信仰生活の中で様々なことに出遭う時に、当然ながら、それを神と主イエスのことを度返しして考えるわけにいかなくなってきます。信仰が与えられている、そして自分がどんなに神から大切にこの命を与えられ生かされているのか、そのことを弁えている人は、自分自身についても、また隣の人についても、この社会のいろいろな出来事についても、もはや冷淡に「成るように成る」という思いでは見ていられなくなるのです。「神がご自身の独り子を犠牲にしてまで、この世に生きる一人一人とご自身との交わりを作ろうとしてくださった。そして一人一人を支えようとしてくださっている」、そのことを知っている以上は、この世界が滅んでしまってもよいとは、なかなか思えないのです。むしろ、この地上に生きている一人一人が神を知らされ、「自分は一人ぼっちで生きているのではなく、真に暖かな大きな手に抱かれ支えられて生きているのだ」ということを知って、皆で生きるようになってほしいと願うのです。
 初めて礼拝に来られた方は、驚かれるかもしれませんが、初めて教会に来た方を教会員がどう思っているかと言いますと、「本当によくいらっしゃいました」と思っています。そして来たばかりで「主イエスを信じます」とは言えないだろうと思いつつも、「願わくは、自分一人で生きていくのではなく、神がこの世界の上におられ、一人一人が愛されている中で命を生かされているのだということを知っていただきたい」と思いながら、初めての方をお迎えしているのです。
 信仰を与えられている人は、どうしても、この世界のことについて、ある思いを持って眺めてしまうようなところが出てくるのです。自分さえ安泰ならそれで良いという自己中心的なあり方ではなくて、他者のため、また神がお創りになったこの世界のために仕えていかなければいけないという生活態度が生まれます。常に目覚めていて、この世の出来事や事柄について良し悪しを考えてしまう、そういうところが出てきます。
 しかしそうしますと実は、信仰を与えられている人は、この世のいろいろなことについて、つい「裁く」ということが生まれてきます。これは良いのか悪いのか、常に考えるのです。自分一人だけが良ければよいのであれば、あとのことは知ったことではないと無関心でいられますが、そうなりませんから、どうしてもそこに「判断する」ということが起こってくるのです。

 では、どうして主イエスがここで「人を裁くな」と言っておられるのか、不思議なことです。むしろ、神がどんなにこの世界を大事に考えておられるのかを知っているのであれば、積極的にこの世と関わって、本当に正しいことは何であるかを世の中の人に知らしめるために、大きな声でこの世を裁くべきではないかと考えてもよさそうなものです。主イエスの弟子であるキリスト者たちは、真に値高い信仰を神から与えられている。信仰によって世の中のことを考えるあり方を与えられている。それならばどうして、その考え方に従って、神のお考え通りに裁いてよいということにならないのでしょうか。主イエスがここで言っておられることを、注意して聞き取りたいと思います。
 主イエスは「人を裁くな」と言っておられます。「他人を裁くな」と言っておられるのではありません。「人」ですから、他人のことだけではなく、自分のことも裁くなとおっしゃっているのです。ではなぜ「裁いてはいけない」のでしょうか。耳を澄まして聞いてみますと、3つほどのことが聞こえてきます。順に確かめてみましょう。
 まず1節に「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」とあります。「他人に意地悪をしたら、その人から仕返しされるから、意地悪してはいけない」、そういう処世訓はよく聞くところですが、ここもそういう意味なのでしょうか。「人を裁いたら、相手がそのことを根に持ってこちらの欠点や短所をあげつらってくるから、そうならないように口をつぐんでいなさい」、そういうことを言われているのでしょうか。しかし、もう少し丁寧に聞きたいと思います。「あなたがたも裁かれないようにするためである」とは、一体誰から裁かれないようにするためなのでしょうか。「隣人から」とか、「あなたが裁いた相手から」とは言われていません。誰が裁くかは言われていないのです。実は、誰が裁くかは、裁く相手が分からないからではなく、聖書の中では裁きをする方ははっきりしているからです。もはや、裁きをする相手が誰かを言う必要がないほどにはっきりしていて、聖書の中では、裁く方は「神」です。神がすべてのことについて最終的な裁きをなさることが分かっているので、誰が裁くかを言わないのです。
 ですから、「あなたがたも裁かれないようにするため」と言われているのは、私たちが人を裁いたら、「最後には、あなたは神から裁かれることになるのだよ」と言っているのです。ではどうして、人を裁くと神から裁かれるのでしょうか。それは、信仰を与えられて神がどれほどこの世界のことを真剣に考えておられるか、神に励まされつつ生きてよいことを知らされている私たちですが、幾分かでも神の御心を分かっているのですが、しかし、だからと言って、神の御心の隅々まで全てを分かっているかといえば、そんなことはないからです。仮に、私たちが神の御心の隅々まで全て分かっていて、本当に神と全く同じ裁きが出来るというのであれば、「わたしは、神の裁きを地上にもたらしました」と言うことができるかもしれませんが、しかし私たちは、神の裁きというようなことを軽々に口にできないほどに、神のことを分かってはいないのです。
 私たちは、「神が最後の裁きをなさるのだ」ということを、本当によく弁えておかなければなりません。先走って、神の裁きの前にしゃしゃり出るなどということは、あってはならないのです。例えば、何気ないことで自転車と接触して、転んで傷を負った方がいます。その時、出血が多かったので、医師はすぐに傷口を縫合してしまいました。しかし、その傷口には破傷風の菌が付着していました。破傷風の菌は空気に晒されていれば死滅しますが、体内に入ってしまうと、ずっと生き続けます。縫合されたために破傷風菌が体内に入ってしまったその人は、本当に何気ない擦り傷より少し大きい程度の怪我で、敗血症になりかかって何度も何度も手術をして命を落としそうになったそうです。「傷口があるのだから、それを治せばよい」と、医師は簡単に考えて、傷口をよく観察せずに縫合してしまったのですが、実は、こういうことが、キリスト者が神の前にしゃしゃり出るという時には起こるかもしれません。神は時間をかけていろいろな問題を癒そうとしておられるかもしれないのに、キリスト者が「これは間違いだ」と、自分の目に見えるところだけで分かったつもりになってしまう。そうするとそれは、神の御業に仕えているのではなくて、その反対のことをしてしまっているということになるのです。ですから、神から裁きを受けるということになるのです。
 主イエスがここで「人を裁くな」と教えておられることは、原文を見ますと、「人を裁くことを習慣にするな」ということです。一度だけの裁きを言っているのではありません。どうして主イエスがそう教えられるのかと言いますと、裁くことが習慣になる、つまり周りの人たちを批判的に見ることが当たり前になってしまうと、そういう中で私たちは、神の御心に違えることをしてしまいがちになるからです。一度一度の裁きが禁止されているということではありません。私たちはつい人を裁いてしまって、後になって「しまった」と思うことがあります。それは仕方ないことです。信仰を持っていたとしても、人は誰でも自分の正しさを通したいと思っていますから、自分の物事の見方で様々に判断して裁いたり批判してしまったりすることが無いとは言えないのです。しかし、それが当たり前になってはいけないのです。いつの間にか批判することが習い性になって、自分や他人の粗探しを習慣的にするようになる、それは神に喜んで頂けずに裁かれるようになる、だから「人を裁かないようにしなさい」と、主イエスは教えておられるのです。

 「人を裁いてはならない」第2の理由は、裁きをしたらその分だけ、その人自身が裁かれる裁きのハードルが上がってしまうからです。2節に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。「これは間違っている」と他人を厳しく裁く人は、少なくとも、その事柄について、それは誤りだとはっきりと分かっているということになります。そして、もしそれが誤りだと分かっていて自分も同じ過ちを犯すならば、それは、その過ちが分からないで犯してしまった人よりも深刻なのだと、主イエスは言われます。
 このところをもう少し分かりやすく聞くために、ルカによる福音書12章を見てみましょう。終わりの日の裁きについて語られています。12章47節48節に「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」とあります。他人を裁く人は、同じように裁きを受ける時に、何も知らずに過ちを犯した人よりも厳しい目で見られることがここにはっきりと言われています。主人の思いを分かっていて、分かっているのにその通りにしなかった人は、主人の思いを知らずに過ちを犯した人よりも厳しく裁かれるのです。ですから、「なるべく人を裁かないようにしなさい」と、主イエスは教えておられるのです。

 さて、3番目の理由は何でしょうか。私たちが誰かを裁こうにも、私たちの判断の中に大きな過ちが潜んでいることが多いからです。主イエスの言葉で言いますと、7章3節4節に「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」とあります。本当にその通りだと思う方は多いと思います。私たちは、他人の犯す過ちは、ごく小さなことであっても大変気になり敏感に反応するのです。それでいて、同じ過ちを自分が犯していても殆ど気にならないのです。
 「おが屑」というのは小さな木片のことですから、これは元々、丸太に付着していたものです。「あなたの目からおが屑を取らせてください」とは、妙に丁寧な言い方ですが、いかにも親切心から言っているようです。しかしこのように言う時、「あなた自身の目には、おが屑をいくらでも払い落とせるような丸太が入っているのだよ」と主イエスはおっしゃいます。もちろん、人間の目に丸太など入るはずはありませんから、これは他人の目のおが屑を取ろうとすることがどんなに愚かなことかということを言おうとする誇張表現です。主イエスは、「他の人の小さな過ちとか悪い癖を直すようにと批判的なことを言っている暇があるなら、もっと、まず自分自身の過ちを取り除くように」とおっしゃっています。「あなたの目から丸太を取り除きなさい」。私たちは、つい自分の思いとか自分の考えが一番正しいように思って、他人を非難、批判して行動しがちですが、まずは、「そういうあなたが、すぐに人を批判せずにはおれないという丸太を取り除いてしまいなさい」と、主イエスは言われるのです。

 ではしかし、そういう丸太はどうやって取り除いたら良いのか、そこが問題です。私たちは、自分の目の中に大きな丸太があるということを聖書の御言葉から教えられていますから、「そういうものなのだろう」と思っています。けれども、自分の目に丸太があるとは、あまり気づいていないのではないでしょうか。自分では自分の欠点というものは、そういうものだと思っていますから、あまり気にならないのです。そういう意味では、私たちは、丸太が単に目の中にあるだけではなくて、その丸太は私たち自身の内側に深く根を下ろしているようなところがあると思います。丸太を取り除けと言われても、その丸太には根が付いていて人間の体の中にしっかりと生えている。どうやって、これを取り除いたら良いのでしょうか。
 先輩のキリスト者たちはどのように対処していたのかと思いながら聖書を読んでいますと、ローマの信徒への手紙でパウロが言っている言葉がありました。2章1節2節に「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています」とあります。「他人を裁くことで自分自身を罪に定めている。人を裁いているあなたは、同じことをしている。まさにそれが過ちだと分かっているのにしてしまうのだから、厳しい裁きを受けるのだ」。しかし、そういうあり方をしている私たち人間を、「神は正しくお裁きになることを、私たちは知っている」とパウロは言います。
 「神の正しい裁き」とは、一体どういうものなのでしょうか。私たちが自分の過ちに気づかず、周りの人たちを裁いている、そういうことは決して神の前では通らないと言われ、その私たちの責任を神に問われて、私たちは滅ぼされてしまうということなのでしょうか。それが神の喜ばれる正しい裁きということになるのでしょうか。いえ、そうではないのです。神は、私たちの内側に丸太があって、なかなかそれを切り倒せないということをご覧になって、実は、正しい解決をつけてくださったのです。「神が正しい裁きをなさってくださったのだ」と、パウロはここで言っています。
 その正しい裁きとは何か。本当は私たちが裁かれて滅んでいかなければならなかったのに、そういう私たちの身代わりとして、神の側で一人の方をこの地上に立ててくださいました。それが神の正しい裁きです。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています」と、パウロがなぜこんなことを喜んで書いているのか。滅んでよいということではありません。神が、裁き合う癖のある私たち人間に、「もう一度そこで生きてよいのだよ」と、決着をつけてくださったのです。「私たちが受けるべき罪の罰を全て引き受けて十字架にかかってくださった方を与えてくださる」そういう仕方で、神は「あなたがたを正しく裁いた」と、ここに言われています。

 私たちは、どうやって自分の中にある丸太に気がつくのでしょうか。多分、気がつけないのです。気がつけないのですけれども、しかし、「私たちは自分の目の中に丸太を持っていて、丸太に付いている小さなおが屑も持っている。主イエス・キリストがそういう私たちの過ちを全て引き受けて十字架にかかってくださった。そのことを知って、私たちはもう一度、ここで生きてよいのだし、また周りの人もここで生きてよいのだ」と教えられるのです。私たちは、そのようにして丸太を取り除いていただくのです。

 そして、自分の目から丸太が無くなるということだけではなく、丸太が無くなってよく見えるようになった目で、「兄弟姉妹の目にあるおが屑も取り除いてあげるのだ」と言われています。7章5節に「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」とあります。どうやって取り除くのでしょうか。「あなたは間違っている」と言うのでしょうか。そうではありません。「キリストが、このわたしのために十字架にかかってくださった。あなたのためにも十字架にかかってくださっているのだから、あなたはここからもう一度新しく生きてよいのだ」と伝える、そういう仕方で、私たちは多くの過ちを犯しているところから、新しい生き方に変えられていくのです。
 キリストの十字架によって、私たちは、罪を赦され新しい者として生きることを許されています。そして、そのことに目を開かれる時に、私たちは本当に目が見える者となって、生きていくようになるのです。
 キリストの十字架を通して、神が正しい裁きをなさってくださる。そして、私たちがつい高ぶって周囲を批判したりしがちな罪にも、本当の決着を与えてくださっているということを覚えたいのです。そして私たちは、ただ憐れみによって「信仰」を、真に値高いものとして与えられていることを感謝して、心から神に従う歩みを続けていきたいと願うのです。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ