聖書のみことば
2016年8月
  8月7日 8月14日 8月21日 8月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月28日主日礼拝音声

 わたしを知る〜幸い
2016年8月第4主日礼拝 2016年8月28日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第22章13〜19節、フィリピの信徒への手紙 第1章9〜11節

エレミヤ書22章<13節>災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を 正義を行わずに高殿を建て 同胞をただで働かせ 賃金を払わない者は。<14節>彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て 大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。<15節>あなたは、レバノン杉を多く得れば 立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし 正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。<16節>彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか、と主は言われる。<17節>あなたの目も心も不当な利益を追い求め 無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。<18節>それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて 主はこう言われる。だれひとり、「ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹」と言って彼の死を悼み 「ああ、主よ、ああ陛下よ」と言って、悼む者はない。<19節>彼はろばを埋めるように埋められる。引きずり出されて投げ捨てられる エルサレムの門の外へ。

フィリピの信徒への手紙1章<9節>わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、<10節>本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、<11節>イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 いきなりですが、国家とは何でしょうか? この頃このことを考えない日はありません。
 今読んでいただいた御言葉に聞いてみたいと思います。エレミヤ書22章の後半です。特に、22章16節「彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか、と主は言われる」です。この短い一節の言葉に、その答えがあるように思います。「そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか」と言われています。ここだけ切り取ると、何を語っているのか、何を聴いたらいいのか明確には聞き取れないのではないでしょうか。「彼」とは誰なのか? どこから紐解いていったらいいのでしょうか。その背後にはイスラエルという、小さな国の長い歴史が隠れています。年代から言いますと、アブラハムからエレミヤまで約5、6百年、それを5分以内でまとめてみます。

 アブラハムは、行く先を知らずにウルから旅立ちました。これは神の導きです。その背景には、家族の複雑な問題があったことと、月神信仰に対する疑問があったと思われます。これが族長時代の始まりです。イスラエルの歴史は、アブラハムから始まり、イサク、ヤコブと続きますが、4代目になるはずのヨセフは数奇な運命を辿ることになり、エジプトに定住することになり、舞台はパレスチナからエジプトに移ります。ヨセフの死後、エジプトでは、イスラエル民族は、徐々に奴隷のような扱いを受けるようになります。選民イスラエルの苦難の時代の始まりです。そこから脱出することになるのですが、その指導者がモーセです。モーセに引っ張られて、荒れ野での40年が、壮絶な日々を経験することになります。数々の苦難の中で、イスラエル民族は「神を知る」ことになり、シナイ山で十戒(律法)を与えられ、宗教共同体が確立していきます。モーセは道半ばで、約束の地“乳と蜜の流れる地”には入れず、死にます。そのあとは、混乱期を迎えることになり、イスラエル民族は、その時々の士師(サムソンなど)と言われる者に支えられますが、国家としては不安定で、先が見えない状態になっていきました。そこで王様を待望することになり、預言者サムエルがそのことを受け止めて、すったもんだして王を決めることになり、サウルという人を初代の王として迎えることになり、2代目ダビデ、3代目ソロモン(この王はギネスにも載っている1000人に上る女性を各国から呼びつけていた。その女性らが異宗教、偶像をも持ち込んだ)と続きますが、ソロモンの時代に、放蕩の限りを尽くして、イスラエルは疲弊していき、結局南北に分裂し、北イスラエルは722年に滅び、南ユダはそれからおよそ120年後に滅亡します。

 その王制の時代に預言者が現れ、王と民との見張りの役割を担ったのです。エレミヤは、南ユダの末期に活躍した預言者です。エレミヤが預言者として働く時代に、4人の王が南ユダを統治しました。ヨシヤの後ヨアハズ(3カ月)、ヨヤキム(11年)、ヨヤキン(3カ月)、ゼデキヤ(11年)が王位につきました。
 エレミヤは、BC650年ごろにエルサレムの近郊で生まれています。626年ごろに預言者として召命を受けています。
 その頃、ユダの王は、ヨシアが治めています(BC640~609在位)。その在位中に、奇蹟的にも律法(それは今日の申命記とされています)が発見され、それに基づいて宗教改革を断行しました。それは、ソロモン王以降、偶像崇拝が横行していたので、異教を排除すること、並びに過越の祭の再興が中心になされました。しかし、ヨシアは道半ばで戦地で他界してしまいます。
 ヨシアの後には2人の息子がユダの王となりますが、ヨアハズはわずか3カ月でその地位を失い、もう一人の息子がその後を継ぐことになりましたが、偶像礼拝に逆戻りし、宮殿を建てるために庶民に税金を課して苦しめることになりました。そのことが、今日の御言葉のテーマになっています。

 先に聞きました御言葉に、「彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか、と主は言われる」とありました。ここには、ヨシアとヨヤキムを比較した言葉が出ています。ヨシアの時は良かった、貧困の民の訴えを裁いて、人々は幸いであった。これは、ただ昔は良かった、昔懐かしいということではありません。ヨシアについては、最大級の称讃の言葉が聖書には書かれています。列王記下22章2節に「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」とか、列王記下23章25節には「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」と賛辞されています。
 それに対して、ヨヤキムは自分の住まいの事だけを考えて、民をただ働きさせ、場合によっては賃金も払わず贅沢三昧したことが記されています。父ヨシアは質素な生活をし、正義と恵みの業をして、その時代は幸いであった。そして、幸いの根拠としてエレミヤが指摘しているのは「神を知ることである」と記しています。
 ここをもう少し深めてみたいと思います。「知る」という言葉は、聖書では特別な意味を持って記されています。例えば、創世記4章1節ですが、「アダムは妻エバを知った」。 聖書では、「知る」ということは単に知的認識として捉えてはいません。あくまでも関係性を持ったものとしています。「神を知る」ということも、神を知的に捉えるということではなく「神との関係の中で捉える」ことです。
 エレミヤも「『わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる』と主は言われる」と記しています(エゼキエル書37章13~14節)。
 「神を知る」ということ自体、困難なことです。例えば、人間の体についても、まだ数パーセントしか分かっていないと言われています。宇宙についてもそうです。ましてや、神について知ることなどできません。それは、とてつもないことです。
 今の私たちにとって「神を知る」ということは、「教会で、教会でしか語られない言葉、教会でして聞かれない言葉を通して、神を知る」ことが可能です。そして最後は、そこに飛び込むということしかありません。「神は、こんなに小さな取るに足らない者を御心に留め、丸ごと愛してくださる。十字架でご自分の命を捨て贖ってくださった」という約束に委ねることによってしか、知りえない事なのです。エレミヤは、ここでそのことを「神を知ること」と短い言葉で記しています。

 とは言っても「神を知る」ことは容易いことではありません。自分の力では出来かねます。パウロがとても良いことを記しています。フィリピの信徒への手紙 第1章9~11節です。そこには次のように記されています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。
 また、宗教改革者の一人、J.カルヴァンのジュネーヴ教会信仰問答の第1問を思い出します。そこでは、問:人生の主な目的は何ですか。 答神を知ることであります。(1541年)と記しています。 

 人生の目的は、いろいろです。人さまざまです。ここにおられる方、一人一人にマイクを向けて「人生の目的は?」と尋ねたら、10人10色の答えが返ってくるに違いありません。しかし聖書は、「神を知る」ことが、人生の究極的な目的だと言います。知るべきこと、知らねばならないことが山ほどあるに違いありません。しかし、神を知らずに人生を終わったら、それ以外の9割を知っていたとしても、人生は空しいかもしれません。
 ここでやり玉に挙がっているヨヤキムの死の様を、エレミヤは描いています。どんなに朱色の素晴らしい宮殿も色褪せたものになってしまいます。彼(ヨヤキム)の死についてもエレミヤは筆を緩めていません。誰も彼の死を悲しまず、ロバと同じように野ざらしにされると言っております。
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