聖書のみことば
2016年8月
  8月7日 8月14日 8月21日 8月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月21日主日礼拝音声

 主の業に常に励みなさい
2016年8月第3主日礼拝 2016年8月21日 
 
内田光生神学生 
聖書/コリントの信徒への手紙一 第15章50節〜58節

15章<50節>兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。<51節>わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。<52節>最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。<53節>この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。<54節>この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。<55節>死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」<56節>死のとげは罪であり、罪の力は律法です。<57節>わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。<58節>わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 「教会は、主イエス・キリストによって、一致しなさい」。コリントの信徒への手紙一で、パウロが一番伝えたいことでした。コリントの信徒への手紙一は、パウロが、コリントの教会で起こった様々な問題を解決するために書いた手紙であります。

 コリントの教会は、分派争いをして、教会内が分裂していました。その大きな原因は、人間の知恵であります。人間の知恵によって信仰を理解しようとしたからです。コリントの教会は、何人かの指導者がいました。コリントのある人々は、その指導者たちは神様から与えられた指導者ではないと思い、自分たちの基準でその指導者を評価しました。その結果「私は、パウロ先生につく」「わたしは、話の上手なアポロ先生につく」ということが起こり、教会が内部分裂し、混乱した状態になっていました。
 またコリントのある人々は、神様の知恵であり神様の力である聖霊によって、イエス様の十字架と復活を理解しようとはしませんでした。人間の知恵で、信仰のことを理解しようとしていました。聖書を理解する上で、知恵は確かに必要でしょう。しかし、人間の知恵、この世の知恵で、聖書を、信仰を、理解しようとすると、聖書を自分の都合に合わせるということになります。聖書が基準ではなく、自分が基準になり、自分が神様になってしまう大きな危険性があるのです。

 コリントの教会は様々な問題を抱えていました。本日朗読して戴いた聖書箇所は、コリントの教会の問題の1つに、パウロが答えている個所の部分です。問題は、コリントの信徒への手紙一 15章12節に書いてあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。このことは、パウロにとって大きな問題でした。コリントのある人々は、「キリストは、確かに十字架で死んだ後、復活した。そのことは、信じるけれども、キリストは特別であって、われわれ普通の人間は、死んだら復活しない」と理解する人がいたり、また、「死者の復活はない。死んだら、魂だけが天国へ行く」と理解する人もいました。なぜそのように理解したかと言いますと、「この肉体は、汚れている。汚れている肉体が復活するはずがない」と考えていたからです。肉体よりも精神・魂の方を重く考えていたからです。
 私たちの肉体は、神様によって創造されたものです。神様に創造された私たちの肉体が汚れているわけはありません。パウロは、「私たちが死んだら、魂だけが天国へ行くのではなく、死んだら、必ず霊の体を着て復活する」とはっきり言っています。

 先ほど読みました聖書の箇所の次に、15章13~19節にこう書いてあります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、私たちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです」。
 死者が復活しなかったら、キリストの復活もありえない。キリスト教の宣教も信仰も価値のないものであり、私たちキリスト者は、偽りの証人であり、今なお罪の中にある存在だというのです。パウロの意図は、キリストが復活されたので、死者の復活も必ずあるとういうことを伝えたいのです。
 この聖書箇所で、大切な点が3つあります。
 1番目。14節:「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。このことは、復活こそ、宣教の内容であること。復活こそ、福音の本質だということであります。
 2番目。17節:「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。つまり、復活によって、罪の支配が終わったということであります。
 3番目。19節の後半ですが、キリストが復活しなかったのなら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです」。逆に言えば、復活こそ、私たちキリスト者の希望なのです。

 パウロは、復活についてこのように主張するのであります。さらに、パウロは、15章20~26節にこのように述べています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、ついで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」
 パウロは、「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と言います。そして、キリストの復活によって、死が滅ぼされ、死に勝利したというのであります。私たちの復活は、キリストの再臨、つまり、キリストがもう一度この世に来て下さる時を待たなければならいのです。それは神様の壮大なご計画であります。神様のご計画は、私たちの考えには及ばないことなのです。

 復活は信仰によって、ただ信仰によってのみ確信されるのです。その信仰は神様から与えられたものです。賜物であります。別な言い方をしますと、信仰とは、神様からのプレゼントなのであります。私たちは、信仰によって、初めて自分自身の存在の意味が分かります。復活なしには、私たち自身の存在理由がないのであります。

 ところで、コリントの人々は、15章35節で次のようにパウロに尋ねています。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」。死んだら、その体がそのまま息を吹き返してくることを想像していたのでしょう。
 この問いに対してパウロは、植物・動物・天体の3つ例を挙げて答えています。私たちが死んだのち、植物や動物や天体に生まれ変わるのだということを言っているのではありません。15章36~41節「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、み心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」。いろいろな種粒がありますが、その種を蒔かなければ、その種の体は分かりません。種粒と「やがてなるべき体」との、想像を超えた変わりようを言い、種粒とその体は、次元が違うと言うのであります。次に、パウロは、動物の肉も同じで、人間・獣・鳥・魚の肉で違いがあるというのです。さらに、天上の体と地上での体があり、天上の体の輝きと地上の体の輝きは違っている。それは、ちょうど太陽・月・星の輝きに違いがあるように。と言うのであります。
 蒔かなければ、言い換えれば、死ななければ、どんな体で復活するか分からない。神様は御心のままに、私たちに復活した体をお与えになり、輝きをお与えになります。それは私たちにとっては想像もつかないことであり、神様は、素晴らしい復活の体を私たち一人ひとりに与えてくださるのです。

 さらに続いて、15章42~49節で「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれ、霊の体で復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土にからできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその似姿にもなるのです」。
 最初のアダムは、人間を表しています。最後のアダムはイエス様です。イエス様は、命を与える霊となったのです。わたしたちは、イエス様の十字架と復活の出来事を信じることにより、自然の命の体から霊の体を与えられ、復活するというのです。その時、朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、卑しいものでも、輝かしいものに復活し、弱いものでも、力強いものに復活するのです。自然の命の体は、死んで、土に帰りますが、死んだ後、すぐに霊の体になるのです。

 15章50節「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。
 私たちは、神様から肉体である命を戴いています。しかし、この肉体では、神の国を受け継ぐことができません。能力の上から、可能性からできないというのではなく、朽ちるものと朽ちないものは、まったく次元が違うからなのです。地に属することと天に属することとは、異なる次元なのです。

 15章51節~53節「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、私たちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。
 「神秘を告げます」と、パウロは、この言葉を現在形で言い切っています。確信しているのです。パウロは自信を持って、告げるのです。「私たちは、皆死んだら、眠りにつくわけではなく、今とは異なった状態に変えられるのです」と。
 私たちが死んだ時、必ずラッパがなるということではありません。この表現は、当時のユダヤ教黙示文学によく用いられた表現なのです。私たちは、死んだすぐそのあと、復活して朽ちないもの、滅びないものとされます。つまり、死と復活が連続しているのです。自然の命の体から一瞬に霊の体になるのです。「変えられる」とは、もともとの意味は「取り替えられる」という意味なのです。復活の体は、着物に譬えられています。イエス様の十字架と復活と信じる者たちは、必ず復活の体を着ることになるのです。私たちは、死んだあとすぐに、復活の体へと完全に徹底的に変えられるのであります。

 15章54~56節「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。復活は一瞬です。ですから、死は勝利にのみ込まれるのです。復活があるから死は滅ぼされ、死は勝利にのみ込まれるのです。「死のとげは罪であり、罪の力は律法である」というのは、「罪」に恐ろしい死の「力」与えたのは「律法」です。罪は、律法を巧みに使って、人間に罪を増し加え、死によって人間を支配する、という意味です。復活がなければ、罪は私たちを支配し続けていることになります。
 罪によって、わたしたちは、みだらな者、偶像を礼拝する、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者、ねたみ、争いをする者になるのです。そして、自分を信じられなくなり、自分に絶望するのであります。
 私たちの体が死んだ時、すぐに復活が起こり、復活の体になります。これは、神様が約束してきた、罪と死の力への勝利なのです。「死は勝利にのみ込まれた」という言葉は、旧約聖書イザヤ書25章8節の聖句です。この聖句を用いて、パウロは、イエス様が復活の体によって死に勝利したことを語っています。また、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」この聖句は、旧約聖書のホセア書13章14節の言葉です。この聖句を用いてパウロは、「死は、イエス様の復活によって今や完全に無力になった」と言っているのであります。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したのです」。イエス様の復活があるから、死者の復活もあるのです。

 15章57節「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」。この57節が、この15章でパウロが一番言いたかったことであります。57節で2回使われています「わたしたち」という言葉に注目したいと思っています。「わたしたち」とは誰のことでしょうか。もちろん、イエス様を信じている人々であります。それは、すべての教会のことであり、世界的な広がりの教会であります。時間的には、ペンテコステの出来事が起こった以来の教会であります。2000年という時間の中において綿々と続いている教会であります。時間的空間的に宇宙大に広がっている教会であります。「勝利を賜る」ということは、その時間的空間的な広がりを持っている教会に対して、勝利を与え続けているということであります。世々限りなく勝利を与え続けてくださっているということであります。
 「勝利」を別の言葉に置き換えると、それは「愛」になります。神様は、私たちに今までも、そして、これからも「愛」を与え続けてくださるのです。私たちが喜びの中にある時も、私たちの生活がつらくて、つらくてたまらない時も、悲しくて悲して涙が止まらない時も。愛を与え続け下さいます。「あなたは今のあなたのままでいい。私は、あなたの全存在を愛し続ける」と力強くおっしゃってください。
 イエス様は、わたしたちのために十字架に掛り、わたしたちの罪を贖い、復活し、死に勝利して下さいました。私たちはもう死を恐れることはないのです。そのような神様に対して、わたしたちはただ感謝するばかりであります。私たちができることは、神様の豊かな恵みに感謝の祈りをささげ、神様を賛美するだけであります。

 15章58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているのならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。パウロは、コリントの信徒への手紙一で、何回とはなく「兄弟たちよ」と呼びかけています。しかし、ここでは、「わたしの愛する兄弟たち」と「愛する」を加え、心込めて呼びかけています。

 私たちは皆弱い人間です。すぐに神様の恵みを忘れて、神様以外のものに心を奪われたり、神様以外のものに心を動かされてしまうことがあります。
 だから、信仰を持って、主の業に常に励みましょう。主の業、それは礼拝です。
 私たちは、神様によって礼拝に招かれています。健康の許す限り、礼拝を守り抜こうではありませんか。そして、イエス様に祈り続けようではありませんか。そうすれば、私たちはイエス様に結ばれて、どんな小さな奉仕であっても、どんな苦労があっても、決して無駄にはなりません。

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