聖書のみことば
2016年6月
  6月5日 6月12日 6月19日 6月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月19日主日礼拝音声

 苦難の日々の後
2016年6月第3主日礼拝 2016年6月19日 
 
須賀 工牧師 
聖書/マタイによる福音書 第24章15節〜31節

24章<15節>「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら-読者は悟れ-、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」「その苦難の日々の後、たちまち 太陽は暗くなり、 月は光を放たず、 星は空から落ち、 天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 今朝、このような機会が備えられましたことを、主にあって心より感謝申し上げます。

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マタイによる福音書24章15節から31節の御言葉であります。新共同訳の聖書の小見出しには、「大きな苦難を予告する」と記されています。これはなかなか興味深いことではないかと思います。私達人間は、出来るだけ幸せに生きることを望むものでありましょう。あるいは、およそほとんどの宗教は人間の幸せを宣言するものでありましょう。
 しかし、キリスト教は、「大きな苦難があること」を包み隠すことはありません。信仰を持てば楽しく幸せに暮らせるのだと楽観的には語らないのです。それがキリスト教という宗教なのです。それよりもむしろ、この地上においては、信仰の故に苦しいことや悲しいこと、そして計り知れない苦難もあるのだと素直に語るのであります。これがキリスト教なのです。そうであるならば、キリスト教にある希望とは一体何でしょうか。そのことに深く心を留めながら、今朝の御言葉に共に耳を傾けて行きたいと思います。

 今朝の御言葉の15節から22節をお読みします。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら-読者は悟れ-、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」。
 主イエス・キリストが、この地上にあって十字架の死と復活による救いを実現した後、世界はどうなるのでしょうか。この地上には平和が訪れるのでしょうか。全ての人が平安に暮らせるのでしょうか。ここには、そのようなことは一切記されていません。むしろ、計り知れないほどの大きな苦難が来るのだと、主イエス・キリストは仰せになるのです。聖書の言葉を借りて言うならば、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」のだと仰せになるのであります。
 その苦難とは一体どのような苦難なのでしょうか。15節には次のように記されています。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ」と。これが苦難の内容であります。少し分かり難い表現であるかもしれません。
 ここに出てきた「憎むべき破壊者」とは、ダニエル書9章27節、12章11節に出て来る表現であります。恐らく、「この憎むべき破壊者」とは、預言者ダニエルが生きた時代、即ち、紀元前167年、シリアを治めたアンティオコス・エピファネスのことではないかと言われています。この王はイスラエルを手中に収めた後、エルサレムの神殿にゼウス像を置きました。そしてゼウスを礼拝するように抑圧したと言われています。また、神殿に仕える祭司たちの部屋や神殿の大切な礼拝所を娼婦達の部屋にしたとも言われています。つまり、イスラエルの信仰を汚し、神の名を汚し、イスラエルの人々の生きるただ一つの希望を奪い去ってしまうのです。それは、正に、イスラエルにとっては大きな苦難の出来事でもありました。
 主イエス・キリストは正に、そのような苦難がやがて来ることを、ここで警告しているのであります。即ち、キリストを信じる信仰が汚され、キリストの言葉や教えが捨てられ、信仰生活が、世の中にあって抑圧されてしまう。神を神とは思わない世の支配者が襲いかかってくる。そのような信仰者にとって苦難の時代が来たることを警告されたのであります。
 事実、紀元70年、ローマ帝国によって、エルサレム神殿は陥落します。ローマはエルサレム神殿を包囲し、そこに残されたユダヤ人を饑餓へと追い込んだと言われています。ヨセフスという歴史家によれば、残されたイスラエルの人々は、この時、飢え乾きを凌ぐために、自分の子どもを焼いて食べたと言われています。正に、今朝の御言葉の通りに言うならば、身重の女と乳飲み子の女性にとっては不幸な出来事が引き起こされてしまうのであります。

 このような悲惨な現実は、決して、今を生きる信仰者とは無関係ではないと思います。この時代もまた、信仰者にとっては苦難の時代であると言えるかもしれません。外に出れば、神を神とも思わず、私達に与えられた信仰を冷笑する人々はいくらでもいます。キリストよりも、神よりも人間を豊かに、幸せにする誘惑も沢山あります。その中には私達の信仰を否定し、キリストの名を汚しながら誘惑するものもあるかもしれません。それだけではないでしょう。神と人との関係が希薄となり、そのことによって人間が共に愛し合うことも難しい時代であります。その意味で、やはり、今も、苦難の時代であると言えるかもしれません。破壊者が立ち続け、私達信仰者を抑圧し続けている。支配し続けている。それが現実なのかもしれません。キリストが十字架で死に復活し、天に昇られた後の時代は、決して平和な世界の始まりなのではなく、信仰者にとっては苦しい時代の幕開けであり、今もまだ、その苦難の中を歩み続けているのではないかと思うのです。

 では、このような時代を目の前にして、私達信仰者は、どのように生きて行けば良いのでしょうか。それは「全てを捨てて山に逃げる」のです。破壊や苦難から身を守るために必要なものはありません。大切なことは、何を持っているか、何を備えているかではないのです。何よりもまず「山に逃げること」なのです。
 「山」とは何でしょうか。それは、神様が生きるところを象徴しています。つまり、神様の下に向かっていくということ。神様の御手の内に身を隠すことなのであります。真の神が忘れ去られ、神を見失わせる時代であるからこそ、私達信仰者は、神様に思いを向け、心を向けていくことが大切なのであります。つまり、この御言葉は、ただただ、世にある苦難を予告しているのではなく、苦難の中でこそ、神様のもとに共に立ち帰ることの大切さを深く指し示しているのであります。
 そして、それは何よりも、いかなる苦難、どれだけ苦難が大きくても、神様は私達信仰者を決して諦めているわけではないということ。見捨てておかれるのではないということも深く指し示されていると言えるのであります。
 私達信仰者は、神様の下に隠れるところがあるのです。そして、そのところで私達が神の民であることを改めて知ることを得るのです。神に選ばれた存在であることを知るのです。私達は決して孤児ではなく、見捨てられているのではない。苦難の中でも、共に生きる神がいる。身を寄せ平安の内に生きられる神の御手がある。その幸いを知り、世が完全に崩壊する中でも、神の御支配の中に生きて希望を得るのです。苦しみは長く感じるかもしれません。希望が見えない闇が続くかも知れません。しかし、神は、そのような苦難の時代にあっても真の支配者として生き、私達を希望の内に歩ませて下さるのであります。

 今朝の御言葉の23節~28節をお読みします。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
 苦難の中で山に逃げること。神様のもとに逃げることは大切です。しかし、もう一つ大切なことがあります。それは正しい方向に逃げることであります。苦難の中にあるとき、私達は、私達にとって都合の良い言葉や行いを求めてしまうことがあるかもしれません。私達自身にとって聞きやすい言葉やメシア像に引き付けられてしまうことがあるかもしれません。人の言うことに信仰が揺り動かされてしまうことがあるかもしれません。
 しかし、そこで私達にとって大切なことは、人の言葉に向かうのではないということです。私達が聞くべき言葉は、人の言葉ではないのです。大事なことは、神様の御言葉に聴くということなのであります。人が作り出したメシアや人が作り出した言葉なのではなく、神が与える真のメシアの言葉、真の救い主の言葉に留まり続けることなのであります。
 そして、その言葉は、決して遠い所にある言葉ではありません。あるいは御言葉を与えるキリストは決して遠い存在ではないのです。たとえ死体が見えなくても、はげたかを通して死体があることを知ることができるように、稲妻が東から西へひらめき渡るように、私達の目にも、耳にも、心にもはっきりと啓示されているのです。大事なことは、私達自身がそれに心を向け、目を向け、耳で聞くかどうかなのであります。苦難の中でこそ、私達は私達人間の都合にあう言葉や行いではなく、ただただ神のみに心をむけ、神の御言葉、神の啓示に思いを向け続けるものであることが大切なのであります。

 信仰者には、この世にあって苦難があります。しかし、その苦難は永遠の苦しみではありません。その苦難が取り去られていく時が必ず訪れます。その大いなる御業について、主イエス・キリストは次のように語っています。29節~31節をお読みします。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族が悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 私達キリスト者にとって苦難の日々は続きます。しかし、苦難は決して永遠ではありません。苦難が過ぎ去る時が来るのだと、主イエス・キリストは仰せになるのです。それが世の終わりの時、キリストの再臨の時なのであります。ここにキリスト教の信仰と希望があるのです。
 では、その時何が起こるのでしょうか。「たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族が悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」この世界だけが終わるのではないのです。天体までも滅びていくのであります。宇宙規模の終わりが訪れるのであります。
 しかし、それだけはありません。「人の子の徴が天に現れる」と言われるのです。人の子の徴とは何でしょうか。これは十字架であります。十字架が現れるのです。その十字架を通して、全ての者が罪を思い起こさせられるのであります。罪あることを嘆くのであります。悔い改める時が与えられるのであります。
 しかし、十字架は私達を裁くためだけではありません。御子イエス・キリストは、かつて、世を裁くためではなく、世を救うために来られたと言われています。そして、その救いを実現するために、十字架へと向かわれた。その十字架がまた現れる。人は罪を悲しみながら、しかし、同時に、キリストにある真の救いに生きる者へと新たに導かれていくのであります。世の終わりは、決して単なる世の滅びや宇宙の滅びなのではなく、正にキリストの救いを私達が新たに受ける時でもある。その救いの光の中に活かされる時でもあるのです。
 太陽もなくなります。月もありません。星もなくなります。私達を照らすものは何もないのです。しかし、十字架の徴と共にキリストが来て下さる。悔い改める者に救いの光を与えて下さる。この光に照らされた時、私達は、神のもとへと集められていくのであります。神様と共に全てのものから解放され、平安の内に賛美の歌声の中で永遠に生きるのです。私達は、既にその救いを約束されたものでありましょう。それがキリスト者であります。そして、そこに希望を持って生きるところにキリスト者の人生があります。
 しかし、それでも、この世にはあらゆる苦難があるでしょう。大きな苦難もあれば、日常の生活の些細なところにも苦難は潜んでいるでしょう。しかし、その苦難は、私達を最後まで縛り付けるものではありません。何よりも苦難の中にあっても、神様は共に生きて下さり、私達の隠れ家となってくださいます。そして、苦難の中にあっても、真の救い主の御言葉、救い主の存在は、私達の遠くではなく、近くあって、私達の力となるのです。
 そして、全ての苦しみの先には、十字架のキリストの再臨がある。キリストの救いの日がある。罪も死も苦難も私達を永遠に縛ることはできない。神様の大いなる御手の内に活かされる道を示されているのです。
 この大いなる恵みの中で、私達もまだまだ、涙する日々もあるかもしれない。しかし、その涙は必ずぬぐい去られる時がくることを深く心に留めつつ、祈りをもって、主の再び来たりたもう日を共に待ち望みたいと思います。

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