聖書のみことば
2016年3月
3月6日 3月13日 3月20日 3月25日 3月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月25日主日礼拝音声

 主イエスの埋葬
2016年受苦日礼拝 2016年3月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第27章27節〜66節

27章<27節>それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。<28節>そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、<29節>茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。<30節>また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。<31節>このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。<32節>兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。<33節>そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、<34節>苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。<35節>彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、<36節>そこに座って見張りをしていた。<37節>イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。<38節>折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。<39節>そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、<40節>言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」<41節>同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。<42節>「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。<43節>神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」<44節>一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。<45節>さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。<46節>三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<47節>そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。<48節>そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。<49節>ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。<50節>しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。<51節>そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、<52節>墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。<53節>そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。<54節>百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。<55節>またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。<56節>その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。<57節>夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。<58節>この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。<59節>ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、<60節>岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。<61節>マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。<62節>明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、<63節>こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。<64節>ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」<65節>ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」<66節>そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

 ただ今、マタイによる福音書27章27節から66節までをご一緒にお聞きしました。
 その中の57節に、「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」と語られています。十字架上で亡くなられた主イエス・キリストの葬りの出来事は、4つの福音書が共通して語っています。そして、その葬りをした人物として、この「アリマタヤのヨセフ」の名前も4つの福音書全てに登場しています。
 死の出来事が起こった時には、当然その後に葬りが続くと、普段私たちはそう考えていると思います。主イエスの場合にも同じように、十字架で亡くなられたそのお身体を葬って差し上げたのだと、あまり深く考えずに受け止めているかもしれません。しかしもしかすると、聖書は、「主イエスの葬り」のことを、そう簡単に死の出来事の付録のように考えているのではないかも知れません。4つの福音書が共通してこのことを語っているところに、そのことが表れていると言ってよいと思います。福音書を読む際によく言われることですが、4つの福音書はそれぞれ個性をもって語られていますが、その4つが異口同音に共通して語っている事柄は、主イエスのご生涯の中でもとりわけ重要な事柄だと、私たちは教えられています。そうであるならば、この葬りの出来事も、大変重きを持つものとして語られていることだと言えます。どうして、この埋葬という事柄が福音書の中でそれほどに重大なこととして考えられているのでしょうか。

 一般的に葬りというのは、死の出来事が起こったことを示すと私たちは思っていると思います。葬る、お葬式や埋葬が起こるということは、そこに死の出来事が生じたのだということを表していると思っています。
 ところが、主イエス・キリストの葬り・埋葬では、まさにその根本的なところで、他の葬りと決定的に違う要素があるのです。主イエス・キリスとの場合であっても、その葬りが「死」を指し示すという点では、他の葬りと変わりません。ところが、主イエス・キリストの葬りと埋葬の特別な点というのは、「死の出来事が最後の勝利者になっているのではない」という点です。何と言っても、主イエスの亡骸をお納めするこのお墓は、これから三日後には、空となり、そして主の甦りを証しする場所へと変えられていくからです。ですから、主イエスの埋葬の出来事においては、死が最後の勝利者として高笑いしているのではありません。むしろこの場面で、死は何とかして重苦しい沈黙をもってこの葬りの場を取り仕切ろうと戦っています。ところが、死は、遂にこの出来事を呑み込むことができません。葬りから三日経った時、主イエス・キリストの復活によって、まことに鮮やかな形で死の力が打ち破られて、結局は死が主イエスの葬りの場面を押さえることはできませんでした。
 そして、その際に、主イエス・キリストを心を込めて葬るお墓は、死の印の場所ではなくて、永遠の命の勝利の現場へと変えられていくのです。新約聖書の4つの福音書が共通してこの出来事を丹念に書き記している、それは、こういう特別な事情があるからです。主イエス・キリストのお身体をお墓に安置することは、確かに数時間前には十字架の上で主イエスの死の出来事が起こったことを表すと同時に、しかし、ここに起こっている死の出来事が、やがて神の力に由来する命によって覆われ、乗り越えられていく、そういうことを指し示すのです。

 主イエス・キリストを知らない葬りが私たちの社会には多くあるわけですが、主イエス・キリストを知らない大方のご葬儀というのは、死の出来事を表すことに止まります。ところが、主イエスを知っている人にとって、葬儀・葬りは、意味がまるで違います。私たちがやがてこの地上の生活を終えた時に、私たちが葬ってもらうその葬りもそうです。私たちはこの地上を生きて、その挙句、最後に死の力に捕らえられてしまったと言って、この地上の生活を終えていくのではありません。そうではなくて、私たちの主である方、私たちの人生のすべてにわたって、支配者として、同伴者として立っていてくださるお方が、私たちの死の瞬間にも確かに頼もしい方として、その場に臨んでくださっている。そして、このお方が復活しておられるように、私たちも、この地上の命の果てに、さらに神によって与えられている新しい命が備えられている、そのことを表す葬りの時を迎えることになるのです。主イエスの葬りは、死の出来事は起こっているけれど、しかし死を超えて命が勝利しているのだということを示しています。そして、主イエス・キリストの復活以降、甦りの主を信じている私たちも、主の憐れみにすがって甦らされ、永遠の命を受け継ぐ者とされている、そのことを信じて、この地上を生きるようにされているのです。
 私たちは、肉体の死という関門を越えて、新しい者にされるように約束されています。そういう葬りですから、この主イエスの葬りというのは、聖書において殊更大切に扱われて、4つの福音書に克明に書かれているのです。

 実際に4つの福音書を読み比べてみますと、共通していることと、互いに少しくい違っているところがあります。4つの福音書に共通していることは、アリマタヤのヨセフという人が、主の亡骸をローマ総督ピラトから貰い受けて埋葬しているということです。主の葬りに際しては、このヨセフが主導的な役割を果たしたということは疑いようもありません。どの福音書でも、アリマタヤのヨセフが主イエスを葬ったことで一致しています。ヨハネによる福音書では、もう一人、ニコデモという人物が沈香を持って現れて、ヨセフの葬りの作業を手伝っていますが、後の3福音書ではヨセフ一人です。
 主イエスの地上のご生涯において、手塩にかけて育てられた弟子たち、男の弟子たちはよく知られていますが、主イエスが逮捕された時に、皆、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。ですから、この主イエスの埋葬の場面には姿が見られません。婦人の弟子たちはどうでしょうか。婦人の弟子たちは、主イエスの十字架の死に際して、遠くから眺めていたと言われていますから、何となく近くにはいるのですが、しかし実は、婦人の弟子たちも葬りに手を貸したとは書かれていません。葬りに際しては、遠くから見守っていただけでした。
 マタイによる福音書では、葬りがすべて終わって墓が石で塞がれた後のところで、ようやく婦人の弟子が登場します。61節に「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあります。婦人の弟子たちは、葬りに際して何をするでもなく、ただ呆然としてお墓の方を向いていたという描き方です。ルカによる福音書では、もう少し前向きな婦人の弟子たちの様子が描かれていて、主のご遺体の納められているお墓の葬りの有様を見届けた後に、家に帰って、香油と香料を準備したと記されています。しかし、家に帰ってから準備したということは、逆に言えば、葬りの時には手伝っていないということの表れでもあるのです。ですから、主イエスのご遺体をお墓に納めた葬りというのは、ペトロやヨハネという男性の弟子たちの手によったのでも、マグダラのマリアや主イエスの母マリアの手によったのでもありません。アリマタヤのヨセフがこれを行いました。
 こういう聖書の言葉を聞いていると、大変不思議な思いに捕らわれます。私たちは死の出来事が起こる時には、当然、近しい人たちが亡くなった方を葬るのだろうと考えます。生前の主イエスに人間的な間柄の最も近しい人たちが葬って当たり前である、と。ところが、主イエスに近かった弟子たちは誰も、その葬りに加わっていないのです。そして、生前の主イエスとはあまり近かったように思えないアリマタヤのヨセフが、主の葬りを取り仕切っているのです。人間の目には、あまりにも唐突にこのヨセフが登場したように思えますが、どうしてこんなことが起こっているのでしょうか。おそらく、このところに、神の不思議な選びと召しがあると言ってよいと思います。実は神は、ここで葬られる方がどういうお方なのかということを示そうとしておられるのです。そのために、わざわざアリマタヤのヨセフを選んで、この務めに就かせておられるのです。

 主イエスを葬ったヨセフとは、どういう人だったのでしょうか。57節には、とてもそっけないヨセフの紹介が記されています。「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった」。「アリマタヤの出身であり、主イエスの弟子であり、そして金持ちだった」と、ヨセフについて3つのことが語られています。他の福音書では、もう少し詳しく紹介されています。例えば、ヨセフは最高法院の議員の一人だったとか、あるいは最高法院で主イエスの処刑を決定した時にはその決定に同意しなかったとか、神の支配を待ち望む正しい人だったとか、ヨセフの人となりが少し分かるような情報が付け加わっています。ところが、マタイによる福音書では、そういうことは一切記されておりません。とても簡略な紹介です。しかし簡略でありながら、このような場面に似つかわしくないような言葉が語られています。それは「金持ちだった」という言葉です。どうしてこの言葉が、この場面で語られなければならないのか。ヨセフが金持ちであると紹介することに、どういう意味が込められているのでしょうか。この福音書が語っていること、それは主イエスを葬った者が金持ちだったということであり、主イエスの葬りに用いられたお墓は、お金持ちのお墓だったということなのです。
 またここには、ヨセフがお金持ちだったということ対応するように、お墓に対する描写も丁寧にされています。60節「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った」。この墓は、お金持ちのヨセフが自分のために大岩の中に掘らせた真新しいお墓であり、主イエスを葬る以前には誰も葬られたことのない、そういうお墓だったと語られています。主イエスは犯罪人の一人として、十字架でむごたらしい死を遂げられました。ところが、犯罪人として死んだ主イエスを葬ったお墓は、普通であれば犯罪人が入れられるとは考えられないようなお墓だったのだということを、この福音書は強調して語っています。真新しく立派なお墓だったということを知らせるために、アリマタヤのヨセフはお金持ちだったことを紹介しているのです。
 また、葬りについては、59節に「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み」とあります。「きれいな亜麻布」というのは洗濯済みということではなく、これまで使われたことのない新品ということです。つまり主イエスは「真新しい亜麻布に包まれて」、これまで使われたことのない「真新しいお墓に葬られた」、すべてが新しかったと語られています。どうしてでしょうか。それは、このお墓がこれから三日後に復活の現場に変わるからです。主イエスは死をもって終わってしまったのだと言って、あり合わせの物でぞんざいに葬られたのではなく、確かに死なれましたが、そこから先に、新しいものに変えられていく、その装いを整えておられるのです。つまり、このお墓が、死の苦しさとか悲しさとか寂しさとか重苦しさを表す場所ではなくて、死からの復活に備える希望の門口として整えられている、そのことを表す「真新しい亜麻布」であり「新しいお墓」なのです。

 聖書はそう語っていると聞きながら、しかし、もしかすると、「主イエスの甦りとは、この世の裕福な人たちだけのものではないはずだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。「どうして主イエスは、お金持ち真新しいお墓の中で復活なさったのだろうか。むしろ、主イエスのご復活がすべての人に向けて語られる希望だと言うならば、この世の一握りのお金持ちのお墓の中で起こるのではなくて、貧しい人たちのための共同墓地の一角で起こった方が良かったのではないか、むしろその方が万人への希望を示すことになるのではないだろうか」と思う方がいらっしゃると思います。確かにその通りだと思います。私たちがどんなに質素なお墓に葬られるとしても、その場所から私たちは甦りの主イエスに手を取っていただくようにして、天の神のもとに導かれて、新しい生活へと招かれます。永遠の命の中に生きる希望を、私たちは、どんなに質素な、あるいは惨めに見える、そういう死の中からでも持つことができるのです。
 そして、主イエスは、私たちにそういう希望をお与えになるために、十字架で亡くなられました。主イエスの亡骸の有様は、傷つけられ、甚だしく痛められた、そういうお身体です。そういう主イエスであるのに、しかし、主イエスの葬りに際して、アリマタヤのヨセフの立派なお墓に葬られたということは、一体どういうことなのでしょうか。実は、このことによって、主イエスが真実に「神の御心を地上に表すためにおいでになった一人の僕(しもべ)のようなお方だった」ということを表しているのです。
 旧約聖書イザヤ書の49章から57章にかけては、「苦難の僕(しもべ)」と呼ばれる人のことが語られる箇所です。この僕は、同時代の人から理解されず相手にされません。理解されず苦しめられて、そして死んでいくのです。しかし実は、このように苦しむ僕の姿を通して、神の慈しみがこの世に表されるのだという預言がなされているのです。そして、人々から理解されず、裏切られ苦しめられながら、しかし、なお人々に神の慈しみのあることを伝え続け、救いを告げ知らせた、そういう苦難の僕の姿が、主イエスにぴったりと重なるのだと言われるのです。
 その苦難の僕について語られている預言の中で、特に53章に注目すべき言葉が出てきます。今日の招詞でも読んでいただいた箇所です。9節「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」とあります。大変不思議なことが書いてあります。不法を働かない正直な僕であったけれど、神に逆らう者と墓を共にされた。そして最後には「富める者と共に葬られた」と書かれています。これは大変不思議な言葉であるがゆえに、口語訳聖書では「罪ある者と葬られた」と、まるで違う意味に訳されています。しかしここは、原文ではどうしても「富める者と共に葬られた」と書いてありますので、新共同訳聖書では原文通りに戻されたという経緯がある有名な箇所なのです。
 人々に理解されず苦しみの中を生きた神の僕。この人は、不法を働かなかったにも拘らず、罪人の一人として裁かれ処刑されてしまいます。しかし、この人が処刑されたのは、その時代の人が彼を理解しなかったためであって、神がそうなさったわけではないので、「富める者と共に葬られた」と語られています。普通なら、神に逆らう者として処刑された人は、その生きた痕跡さえ何も残さないように完全に始末されるのが当たり前なのです。「その墓は神に逆らう者と共にされ」とはそういうことですが、そうであるのに、この苦難の僕は、本当は神の御心に誠実に従う僕だったので、消し去られることなく「富める者と共に葬られた」のだと語られています。
 主イエスが十字架の上で、罪人の一人と数えられて処刑される。しかし、その主イエスがアリマタヤのヨセフの真新しい墓に納められて復活の朝に備えられたということは、まさに、主イエスがイザヤ書に語られている、神に忠実な苦難の僕と重なる人であるということを表しているのです。

 そして、この苦難の僕については、さらに、53章11節で「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」と言われます。この苦難の僕は、その生涯を終えた後に、この人自身が生きた痕跡を残してもらったというだけではなくて、さらに大きな実を結んだのだと語られています。そして、今晩ここに集まっている私たちこそが、まさに、苦難の僕となられたお方、主イエス・キリストの結んだ実り、その一粒一粒としてここに集い、神を見上げて礼拝を捧げているのです。

 主イエス・キリストが私たちの執り成しのために十字架の上で苦しまれ、死んで陰府にまで下ってくださっているのだということを、私たちは覚えたいのです。主イエスが十字架で、私たちの罪を執り成してくださり、「神に喜ばれる新しい命を生きるように」と、私たちを招いてくださるのです。
 主イエスが私たちのために、確かに十字架にかかって死んでくださっている。そうであるからには、私たちは、「執りなされた者」として、この地上を生きていってよい、そういう道が開かれているのだということを、もう一度信じて、希望を与えられて、イースターの甦りの朝を待ち望む者とされたいと願うのです。

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