聖書のみことば
2016年3月
3月6日 3月13日 3月20日 3月25日 3月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月6日主日礼拝音声

 夜の間の出来事
2016年3月第1主日礼拝 2016年3月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第22章47節〜65節

22章<47節>イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。<48節>イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。<49節>イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。<50節>そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。<51節>そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。<52節>それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。<53節>わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」<54節>人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。<55節>人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。<56節>するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。<57節>しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。<58節>少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。<59節>一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。<60節>だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。<61節>主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。<62節>そして外に出て、激しく泣いた。<63節>さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。<64節>そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。<65節>そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

 ただ今、ルカによる福音書22章47節から65節までをご一緒にお聞きしました。その中の62節に「そして外に出て、激しく泣いた」とあります。激しく泣いているのはペトロです。
 日頃人前であまり涙を見せない人でも、時に、無性に涙が出て仕方ない、そういう時があります。丁度これからの季節、日本は野山の景色が美しいです。冬枯れだった山々に命が戻ってくる。最初に少し紫色の芽が出て、それから緑が満ちてくる。山の斜面が毎日色を変え、萌黄色から緑を濃くしていく。自然の世界は、汚れなく瑞々しい命の芽生えを感じさせてくれます。これからしばらくの季節、私たちは、自然は何と美しいのだろうということを見せられることでしょう。   
 しかし、私たちが生きているこの社会は、この自然の美しさと比べると、何と惨めなものかとも思わざるを得ません。朝起きてテレビをつけますと、毎日のように、幼い子供たちの命が奪われたとか、長い人生を懸命に生きてきた人たちが詐欺師に出会って蓄えを騙し取られてしまうとか、戦争があって多くの人たちが罪もないのに殺されているとか、あるいは家族関係が複雑で平安に生きたくても生きられないとか、私たちが毎日見聞きする人間社会の様子というのは、本当に惨めなものだと言わざるを得ません。そして、そういう惨めさを思う時に、私たちは不覚にも涙をこぼしてしまうということがあるかも知れません。

 今日のところで、ペトロは一体何に心を動かされて激しく泣いていたのでしょうか。ペトロは人の世の不安や堕落が酷いということに泣いたのでしょうか。それとも、人間の高慢さや冷酷さを目の当たりにして腹立たしかったのでしょうか。あるいは、つい数日前には、このエルサレムで大群衆が歓呼の声をあげて主イエスを迎えたのに、今ではその主イエスをすっかり見限って、まるで犯罪人の親玉のように縄をかけて平然としている、その世の移り気が恨めしかったのでしょうか。恐らく、そういう事柄もペトロの涙の根底にはあったかもしれません。
 しかし、ペトロがここで「外に出て、激しく泣いた」理由は、人の世の仕打ちの酷さや主イエスの身の上の不運を思ってのことではありません。ペトロはあれやこれやのことを思って泣いたのではありません。ペトロは、自分自身のことで激しく泣いています。自分自身のあまりの弱さ、あまりの情けなさに、涙が溢れて止まらなかったのです。
 ペトロは、先には、主イエスにどこまでも従っていくのだと考えていました。そしてそのことを人前で言い表していました。今日は読みませんでしたが、33節で「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った」とあります。ペトロは、こう主イエスに申し上げることで、主を喜ばせ力づけることができると思っていました。そして、それをただ口で言い表しただけではなくて、少なくともゲッセマネの園で主イエスが逮捕される、まさにその時までは、言っていた通りに行動していました。主イエスが捕らえられるまで、ペトロはいわば主のボディガードのようなつもりで歩んでいました。ですから、イスカリオテのユダが接吻を以って主イエスを裏切った時にも、主イエスを捕らえようとする人たちに対して剣で斬りかかり、その右耳を切り落としたとあります。ペトロは、そうすることで主イエスに従っていけると思っていました。ところが、主イエスから、「やめなさい。もうそれでよい」と叱られてしまいます。叱られたので、剣を鞘に収めなければなりませんでした。そうすると主イエスは取り囲まれて、むざむざと捕らえられて連れて行かれたのです。
 ペトロはどうしたでしょうか。剣によっては主イエスをお守りすることはできませんでしたけれども、しかし、ただ一人、遠くから跡をつけていくのです。この時のペトロには、マルティン・ルターがつけた讃美歌の歌詞のような思いが溢れていたと思います。267番4節「わがいのちも わがたからも とらばとりね 神の国はなおわれにあり」。おそらくペトロは、こういう高揚した気分を胸の中に秘めながら、主イエスの後を追ったに違いありません。

 ところが、そういうペトロが、この晩、重大な信仰のつまずきを経験することになります。そして最後には「激しく泣く」のです。私たちは、こういうペトロの様子を聖書から聞かされる時に、深く考えさせられるのではないでしょうか。このようなペトロを突き放してしまうということは簡単にできると思います。「ペトロは間違いなく、3度、主イエスを知らないと言って主イエスを裏切ったのだ」と、結果論から「だからペトロは駄目な奴だ」と言うことは簡単なことです。もうしてしまったことですから、ペトロは、否定しようがありません。事実なのです。
 しかし、もし私たちが、兄弟姉妹の誰かの様子を見ていて、何か失敗しているのを見つけて、「あの人にはこういう失敗があるから駄目な奴だ」と言って突き放し切り捨てていってしまったら、一体どうなるでしょうか。私たちは次々に主イエスに従う者から脱落していって、そして遂には、教会には誰も残らないということになるのではないでしょうか。
 けれども、このペトロの姿を見ていて、また違う見方をなさる方もいらっしゃるかもしれません。すなわち、このペトロの姿こそ自分の姿と重なる。この私もペトロと同じように、心の中では主イエスにどこまでも従って行きたい、付いて行きたいと思うけれども、しかし現実には、様々な恐れとこの世への心遣いが邪魔をして、主イエスに従うことができないで、主イエス抜きで歩んでしまっている。ここで、思わず主イエスを「知らない」と言ってしまった結果、激しく泣いているペトロの姿こそ、実はわたしの姿であると思って、ペトロに深く共感するという方もおられるかも知れません。

 しかし考えたいのですが、ペトロがここで激しく泣いているのは、主イエスがわたしのことを全く分かって下さっていて、嬉しくて、かたじけなくて泣いているのではありません。そうではなくて、激しく自分を責めて泣いています。もし自分がどこかに消え去ってしまうことができるのであれば、今この瞬間に消えてしまいたいと、そう思いながら泣いています。もし、そういうペトロの姿が私たちの姿にぴったり重なるというのであれば、私たちも主イエスを見失って、主イエスからすっかり離れてしまって、孤独になって泣くということになってしまうのではないでしょうか。果たして、私たちはそれでよいのだろうかと思います。
 もちろん、これは良し悪しの問題ではないとおっしゃる方もいることでしょう。良し悪しではなく、実際問題として、「わたしは、時に主イエスを忘れて主イエス抜きで過ごしてしまっているから、このペトロの姿と重なるのだ」と。実は、私たちは確かに、主イエスを忘れ、神の民であることを忘れて、神の前から彷徨い出してしまいがちです。しかし、そうであるからこそ、私たちは毎週毎週この礼拝の場所に招かれて、聖書の御言葉をいただいて、そして「あなたは神のものなのだよ。あなたの今からの命もこれまでの命も、わたしのものなのだよ」と語りかけられて生活する者とされているのです。
 主イエスを「知らない」と思わず言ってしまい、そのために激しく自分を責めて号泣するペトロに共感する、そういう面が確かに私たちにはありますが、しかしそこで感情移入するだけでは、きっとそこで主イエスと切れた孤独な者になっていくに違いありません。それよりも、本当に私たちが主イエスに従い続けるためには、一体何が大事なのかということを、ここから聞き取ることの方が大切です。なぜペトロはここでつまずいてしまったのでしょうか。一体何につまずいて、主を知らないと言ってしまったのか、そのことをここから確かめることが大切です。ペトロがこの夜、陥ってしまった落とし穴に、もしかしたら、私たちも陥ってしまうかもしれません。一体この夜、ペトロに何があったのか、一つ一つ確かめてみたいのです。

 ゲッセマネの園で、主イエスは捕らえられます。そしてそこから大祭司の家に連行されます。その時には、ペトロはどうしていたでしょうか。遠くからですが、後を付けて行っています。ですから、大祭司の屋敷に入り込むまでの道のりでは、たとえどんなことがあっても決して自分は主イエスから離れないのだと、ペトロは思い固めています。そう思っているからこそ、ペトロは主に付いて行くことができています。ところが、その後に異変が生じます。大祭司の家に入り込むまでは良かったのですが、その中庭で、つい、主イエスを「知らない」と言ってしまうのです。55節〜57節「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った」。
 「あの人を知らない」と、この時ペトロが口にしたこの言葉が、ペトロの重大な裏切りの言葉だと言われます。確かに、主イエスとの関わりを拒否する言葉であることに間違いありません。けれども、この時の状況を考えてみますと、これは決してペトロが熟慮して口にした言葉ではないと思います。ふとした行きがかりから、ついうっかりと、ペトロが口を滑らしてしまった言葉なのです。「わたしはあの人を知らない」と言っていますが、ペトロにとっては、これが公式見解のようなつもりで話していないと思います。中庭で、薪に照らされて座っている。その家の女中とか門番の間で、ふと呟いた、その程度の言葉、それがここでペトロの言ったことです。それは、聞き流してもらっても差し支えないような言葉です。
 実際にペトロは、こう言った当座、これが主イエスに警告されていた言葉だと気づいていません。主イエスを否定する言葉だとは思っていないのです。34節に「イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう』」とあります。ペトロは確かに、こう警告を受けていたのです。しかし、ペトロは、たった今、中庭で自分が女中に語った言葉がまさか、主に警告されていた言葉だったとは恐らく思っていないのです。もしそのことに気づいていたとすれば、この後、2度、3度と同じことを繰り返すことはなかったと思います。ところが、ペトロにはそういう意識がないので、ほかの人から「お前もあの連中の仲間だ」と言われると、「いや、そうではない」と言い、また別の人からも言われると、「あなたの言うことは分からない」と言ってしまいました。ペトロは、自分では自分の言っていることに気づいていません。ペトロは気づいていませんが、しかし、主イエスはそのペトロの言葉を聞き流されないのです。61節62節に「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」とあります。
 私たちは、ペトロが主イエスを裏切ったのだと思ってこの箇所を読みますが、しかし、ペトロ自身は、主イエスに見つめられるまで自分が何を言ったのか全く分かっていない、そういう様子なのです。主イエスが振り向いて、ペトロに御顔を向けて照らしてくださる、その刹那に、ペトロは自分が何をしたか気づかされるのです。「ああ、わたしは明らかに主イエスを裏切っていた。『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と誓った言葉を、こんなにもあっさりと、はっきりと破ってしまった」と気付いて、そして大泣きするのです。

 「わたしはあの人を知らない」、このペトロの言葉を、私の前任の北紀吉牧師は、「これは大変悲しい言葉なのです」と説教なさいました。「この言葉は、主イエスとの関わりを否定している言葉である。しかしそれは同時に、主イエスに従ってきた弟子としてのペトロ自身、自分自身を否定する言葉にもなっているのだ」という説教でした。この言葉は、単に他人との関係を否定しているだけではない、弟子として歩んできた自分を否定する言葉でもある。そして、弟子として歩んできた自分を否定するということは、自分が主イエスと出会って、ようやく存在を与えられ、自分として生きることができていたにもかかわらず、そういう自分を否定する、つまり自分の存在を否定することに他ならない。どうしてこの言葉が悲しいのか。それは、自分の身を守ろうとして、しかし実際には守り切れていないからである。自分の存在を否定して、自分のあり方、歩み、人生を否定することになっている、だから悲しいのだ。これは、まことに鋭い指摘であると思います。確かにそうです。これまで主イエスに伴われて、主イエスの周りに自分の安らかな居場所を見出した、それなのに、その一切をペトロはかなぐり捨ててしまったのです。
 ペトロは気づかずいたのですが、しかし、主イエスに見つめられたことで、自分がどんなに大事のものを捨ててしまったのかということに気付いて、激しく泣きました。気づかないうちに、本当に易々と大事なものを捨ててしまった、そのことにペトロは気付かされるのです。主イエスが振り向いて、自分を見つめてくださっているその眼差しの中で、自分がどんなに今まで主イエスに守られていたのか、どんなに支えられていたのか、なのにそれを捨ててしまった、そう思うと、泣けて泣けて止まらないのです。

 こういう聖書の記事を聞く時に、私たちは考えさせられるのではないでしょうか。ペトロが何気なく言ってしまった言葉、「わたしはあの人を知らない」という言葉は、確かに、主との関わりを否定し、自分自身の存在を蔑ろにする言葉です。順序立てて考えるなら、この言葉がどんなに重大かということは分かるはずです。ところがペトロは、こんなにも重大な言葉をついうっかりと、いとも易々と口にしてしまっているのです。このことは、こんなにも大事な事柄を易々と口に上らせてしまう誘惑というものが、私たちの生活のすぐ傍に口を開けている、ということを示しているのではないでしょうか。
 恐らく、私たちも、ペトロほどではないとしても「わたしは福音を恥としません」という思いをそれぞれどこかに持っているに違いありません。そして、もし自分が信仰を問われるような立場になったら、自分は間違いなく主イエスに従うのだ、証を立てるのだ、そうなりたいものだと思いながら生活しているに違いありません。「あなたは本当にキリスト者ですか?」と、警察に連行されて尋ねられる、そんな時に、たとえ小さい声であっても「わたしは主イエスを信じています」とはっきり答えられる者でありたい。もし人生の大事な場面でそれを言えないのだとしたら、私たちは何のために信仰生活を送っているのか分からなくなるのです。本当に自分を支えているものは何なのか、それが否定されてしまうのなら、わたしはもはや居られなくなる、だから、どんなことがあっても、わたしは「主イエスはわたしの主です」と言える者でありたいと願っていると思うのです。
 ところが、私たちの現実の信仰生活というものは、考えてみますと、そういうのっぴきならない状況というのは、滅多に起こるものではありません。もちろん、先の大戦では愛宕町教会もそういう体験をしているのですから、この先ずっと何も起こらずに平穏無事な信仰生活を歩んでいけると保証されているわけではありません。けれども、今日ここで私たちが生きている状況の中で、例えば、この礼拝から家に帰る途上で警察に連行されるということはないと思います。そういう意味では、私たちは、信仰を言い表しても否定されない、とても幸せな時代を生きています。
 けれども、そうであるということは、逆に言いますと、本当に切羽詰まって「あなたはキリスト者ですか?」と尋ねられる機会が無いということです。私たちの信仰生活というのは、どういう場面で過ごされているのでしょうか。大抵は、それこそ大祭司の屋敷の中庭で、薪に当たりながら、その家の女中とか門番とたわいも無い会話をしている、そういう中で、私たちの信仰生活は営まれていると思います。キリスト者だけで暮らしているわけではありませんから、キリスト者ではない人たちと日常的に関わりながら、たわいもない会話をしながら、しかし私たちはそこでもキリスト者として生かされています。そして、見たところでは、そういう日常生活にすっぽりと埋もれてしまっているので、そういう場所が信仰生活の場であるために、私たちはその日常の何気ない会話にすっかり気を許してしまって、ここでペトロがしてしまったような失敗を犯してしまいがちなのではないかと思うのです。そして、しまいがちなどころか、失敗を繰り返しても気にもとめずに、この世の人たちと同じように生きているだけだと思ってしまいます。

 ところが、主イエスは、私たちのそのような失敗を見過ごされません。御顔をもって私たちを照らしてくださり、そして、「あなたは今、どう生きているのか?」と尋ねて下さるのです。
 私たちは、今日のこの礼拝において聖餐式に与りますが、この聖餐に与るたびに、十字架の主が私たちに目を留め、そして、私たちの失敗を全て償ってくださったのだという宣言を、そこで聞かされるのです。罪がないのに、私たちの罪のために十字架にかかって苦しみを引き受けてくださった、その方が、私たちのすぐ側を通りがかって、私たちに目を留めてくださるのです。そういう主の眼差しの前に、自分自身を省みて、「わたしはあの人を知らない」と、そう言ってしまったと気づくことのできる人は幸いです。そして、さらに言えば、そういうことで激しく涙することのできる人も幸いなのです。どうしてでしょうか。
 61節に「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した」とあります。主イエスが振り向いてペトロを見つめられた時に、ペトロは一つの言葉を思い出したのだと、ここに言われています。つまり主イエスは、ペトロの裏切りというものを既にご存知でいてくださった、そのことに気づくのです。ペトロの側に、こんなにも重大な裏切り行為が予想されているのです。しかしそれでも、主イエスはペトロを見捨てないで最後まで付き合ってくださっています。そういう主イエスが自分の傍にいてくださるのだと、そのことにペトロは気づくのです。
 ペトロがどんなに主イエスのことを「知らない」と言い張っても、だからと言って、主イエスの方はペトロを突き放したりなさいません。このことはしかし、決して当たり前のことではありません。私たちが忘れてはならない、まことに重大なことです。主イエスは、私たちの言葉がたとえどうであっても、その私たちの言葉通りに報いる方ではない、そう語られています。

 ルカによる福音書12章8節9節に「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」とあります。これは、私たちが思う普通のことです。ところが、主イエスは、この言葉を既に処理してしまわれます。主イエスは受難の道を歩んで、そして私たちの罪をご自身に引き受けてくださる。それはどういうことかというと、人々の前で「主イエスを知らない」と言えば、本当であれば、私たちも神から「お前を知らない」と言われて当然だったのです。ところが、私たちが神から「知らない」と言われる言葉を、主イエスが引き受けてくださいました。ですから、主イエスは十字架におかかりになった時に何とおっしゃったか。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とおっしゃったのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。主イエスが私たちに代わって、十字架の上で、神から「知らない」と言われたのです。
 12章8節9節だけを聞きますと、私たちは多分、とても不安になると思います。「わたしは一生、神や主イエスを知らないなどと言わずに生きていけるだろうか」と。心配するまでもなく、私たちは必ず、言ってしまいます。言ってしまうのですけれども、しかし、その言葉を主イエスが引き受けてくださる。
 主イエスがここでペトロを見つめられた眼差しというのは、ペトロの罪を断罪して、「お前なんか滅んでしまえ」という眼差しではありません。そうではなくて、主イエスを裏切っているペトロの罪の姿をはっきりと目に留められながら、主はペトロに、新しいものを作り出そうとしてくださっているのです。そういう主の眼差しが、ペトロの上に注がれています。
 そして、私たちの上にも注がれています。私たちは、本当に清らかな新しい者として生きることができる、それはどうしてかしてか。主イエスが私たちのために十字架にかかってくださったからです。主イエスが私たちに代わって、神から捨てられてくださったからです。だから、私たちは、どんなに不束な者であっても、神から「お前を知らない」と言われなくて済んでいるのです。
 繰り返し繰り返し礼拝に招かれ、「あなたはわたしを知らないと言うけれども、それでも、あなたはわたしのものだ」と聞かされながら、私たちはこの地上の命を生きていくのです。

 主イエスのもとで、恵みの奇跡が起こっています。主イエスを否定する者を、主イエスは拒まず、振り返って受け入れ、そして、私たちの上に新しいものが生まれるようにと導こうとしてくださっています。まさに、この暗い夜から、そのことが起こっているのです。
 様々なこの世の問題や破れや痛みがあります。しかし、その中で、私たちを振り向いて、そして目を留めてくださっている方がおられる。そして、私たちは、この方がおられるので、清らかな新しい者としてここから歩んでいくことができるのだということを覚えたいのです。

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