聖書のみことば
2016年2月
  2月7日 2月14日 2月21日 2月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月28日主日礼拝音声

 心の貧しい者
2016年2月第4主日礼拝 2016年2月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章1〜3節

5章<1節>イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。<2節>そこで、イエスは口を開き、教えられた。<3節>「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 ただ今、マタイによる福音書5章1節から3節までをご一緒にお聞きしました。3節に「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」とあります。
 「心が貧しい」ということは、一つの不幸です。そのことを敬虔そうに包み隠して、「心が貧しくても少しも不幸ではない。よく考えれば、それは祝福であって天に宝を積むようなことだ」と言いくるめてしまってはならないのだと思います。酸っぱいものを甘いなどと言いくるめない方が良いのです。この後に語られる「悲しみ、飢え、迫害」といったことと同じように、「心が貧しい」ということも、今実際にそのような事情のもとある人にとっては、できれば、そうでありたくはないと思うような事柄だと思います。

 ところがここでは、私たちにとっては少しも良いとは思えない「心の貧しい」ということが「幸いである」と、しかも大変重々しく語られます。これはとても挑発的な言い方です。このようなことを聖書から聞かされた時に、私たちは果たして、これをこのまま受け入れてよいものなのでしょうか。もちろん、聖書に書いてあるのですから正しい、間違いはないとおっしゃる方もおられるでしょう。しかし一方で、この箇所のような言葉は決して受け入れられない、決して認められないと反発する方もいらっしゃるだろうと思います。そして、そのように聖書の言葉に反発するという方に出会う時に、私たちは軽々しくその反発を退けてはならないのだろうと思います。なぜなら、このような箇所に反発を感じるという方は、少なくとも、聞かされている言葉を受け入れられるだろうかと真剣に考えていると思うのです。聖書に語られ聞かされていることを、その通りだと受け止めたいと思う。しかし、書かれていることがあまりに思いがけないことで、到底受け入れられないと感じるのであれば、聖書の御言葉に対して真摯に向き合っていると思います。そのように、御言葉に懸命に聞こうとしているのに、語られていることに「アーメン」と言わないから駄目だとは軽々に言えないと思います。そのように言われてしまったら、その人は御言葉に聞く意欲を失うかもしれません。一生懸命聞こうと思っているけれども承服できないという態度を、簡単に退けてはならないと思います。

 それにしても、主イエスは私たちに大変不可解なことを語っておられます。そして、これを受け入れるようにと、私たちを招いておられます。私たちは、一体どのようにこの言葉を受け止めればよいのでしょうか。語られていることを承服できないと思う時には、まず、これはどなたが語っていることなのかということに目を向けるとよいと思います。
 主イエスが「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えられるのは、これが単なる格言とか普遍的な真理であるのだと言っておられるのではありません。そうではなくて、実は、主イエスご自身を指し示しながら語っておられるのです。
 そこでまず、「心が貧しい」とはどういうことなのか、知らなければなりません。ここに言われている「心が貧しい」とは、物は豊かだけれど心が貧しい、精神的な貧しさを言っているのだと思われる方がいらっしゃるかもしれないのですが、実はそうではありません。ここに言われている「心が貧しい人々」とは、決定的に物の貧しさに脅かされている、あまりに貧しいために恐れて身を隠して震え上がっていなければならない、そういう状況にある人たちのことです。
 貧しさと言っても、私たちが考える貧しさは、お財布の中にあまりお金が入っていないとか、預金通帳の残高がいつもマイナスだというようなことだと思います。けれども、本当の貧しさというのは、そういうことではないと思います。本当の貧しさ、それは、私たちの肉体に影響するような事柄です。例えば、今日通帳から引き落とされなければならない金額が、自分の通帳に残っているだろうかと思う時の不安。私にはそういう経験があります。学生の頃のことですが、電気料金の引き落としができないということがしばしばありました。ところが面白いことに、その日に引き落としができなくても、電気はすぐには消えません。何日かの猶予があるのです。引き落とし日は過ぎている、引き落とされていないことは分かっているけれど、今日、電気は点くだろうか、まだ大丈夫だろうか、そう思いながら暮らすということは、身体的に参ってしまう事柄です。要するに、「お金がない」ということよって、「大丈夫だろうか」という思いになる、貧しさに苦しめられて悩まされて気持ちが萎えてしまうのです。実は、そういう決定的な貧しさということがあるゆえに、主イエスは語っておられるのです。

 言うまでもないことですが、いつもお金のことをくよくよと考えなければならないという状況であれば、どなたでも、そうはなりたくないと思うわけですから、「心の貧しいことは祝福なのだ」と強がって済ませられるようなことではありません。ところが、主イエスは、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われる。実際にそういう状況に置かれている人であれば、どのように聞こえるでしょうか。主イエスのこの言葉は、大変刺激的です。「そんなことをおっしゃるのであれば、わたしのこの貧しさを経験してみてください」と反発したい人も出てくることでしょう。「そんなことを言うのなら、経験してみて思い知るがよい。考えも変わるだろう」と、自分が本当に辛い時には、誰しもつい口に出して言ってしまうだろうと思います。ところが、主イエスというお方は、そんなことを言われたとしても少しも怯みません。「心が萎えてしまうほどの貧しさにある、そういう人たちは幸いなのだ」。なぜならば、「天の国は、そういう人たちの国だからである」とおっしゃるのです。
 世の中に、今自分が経験している貧しさのために、自分は不幸であると思っている方は大勢いると思います。もしかすると、そういう方は、日曜日に教会に行くということも出来ないかもしれません。教会に行けば献金を出さなければならないけれど、自分にとってはその献金すら惜しいという場合もあるでしょう。貧しさのせいで自分の人生は台無しになっている、そう思っている方もおられるかもしれません。あまり口には出さなくても、「お金が欲しい」と心の中で思いながら暮らしている人は、世の中に大勢いることと思います。そう考える人は、とにかく自分が富み栄えた状態にならなければ自分は決して幸せにはなれないのだと、自分の貧しさを基準に考えれば、きっとそう思うに違いないのです。この貧しさから脱出できれば自分は幸せになれる。心が貧しさで一杯になってしまうと、自分が幸せになる基準が「お金、経済的な豊かさ」なのだと、私たちはつい考えがちになります。
 けれども、主イエスは、「たとえ、あなたが貧しくても、あなたは幸いな者になることができる。幸いな者として、あなたは、与えられている命を生きることができる。なぜなら、あなたは貧しさの中にあって、なお、天の国の民の一人なのだから」とおっしゃいます。
 先ほども言いましたように、これは、主イエスご自身を指し示しながら言っておられることです。なぜ、主イエスはこのように言われるのか。それはまさに、主イエスご自身がこの地上で貧しい者としてお過ごしになられたからに他なりません。私たちは、ついお金や財産で幸せを測ってしまいがちですが、主イエスはそうではありません。豊かであれば神に近く、貧しければ神から遠いなどとはお考えになりません。日本の諺では「地獄の沙汰も金次第」と言われますが、主イエスは違います。どんなに貧しくても、あるいは、どんなに人間的に辛い状況の中に置かれていても、どんなに苦しめられても、不自由さに囲まれていても、それでも神は、そこに生きている一人一人を見ていてくださるのです。私たちは、たとえどんな境遇に置かれても「神のもの」である。その神に信頼して、主イエスは、実際にこの地上を「貧しい者として」歩んで下さったのです。
 よく知られているように、主イエスは定まった職を持っておられませんでした。しかしそれは、怠け者だったからではありません。主イエスは大工ヨセフの子としてお生まれになりましたが、その気であれば、大工として生計を立てることもお出来になったはずです。しかし主は、そういう道を選ばれませんでした。頼まれれば何処へでも出かけて行って、「天の国、神の支配がやってきている」ことを伝えようなさったのであり、また、病む者、苦しむ者と共にあって、その人たちを癒す、そういう生活を選び取られました。主イエスに助けられたり教えられた人たちが、感謝して、主イエスの一行に食事を提供する、それによって主イエスは、この地上での生活を生きて来られたのです。しかし、そういう人が現れる日は良いのですが、主イエスに感謝する人がいない日には、何日でも水だけで過ごす、そういう生活を主イエスはなさったのです。
 ですから、ここに言われている「心の貧しさ」というものを、骨身に沁みて、本当に我が事としてしみじみと知っている人、そういう人々の中に、実は、主イエスはおられるのです。主イエスがこの世の貧しさの中を歩まれ、そして「心の貧しい人たちは、それでもなお幸いである。天の国はその人たちの上にあるからである」とおっしゃるのです。豊かであれば幸いで神が近く、貧しければ災いで神が遠いなどと、主イエスは言われません。貧しさの中にあって「神が確かに顧みてくださって、今日を生かしてくださっている」とおっしゃるのです。

 主イエスが言われる「天の国、神の支配」とは、どこに来ているのでしょうか。それは、他でもない、主イエスご自身を通して、この世界に来ているのです。いつも語っていることですが、主イエスがクリスマスにこの地上にお生まれになるまでは、誰一人として、神の支配の中に生きている人などいませんでした。今でもそうですが、神の支配を知らされながら、しかし、自分としてはつい、神が自分の上にいてくださることを忘れてしまうのです。神抜きで生きてしまう、そういう傾きを、私たちは持っています。そして、いつの間にか、自分の人生の主人公は自分である、自分中心に生きることが人生なのだと思ってしまいます。また、それこそが良いことなのだと教える人も大勢います。あなたの人生なのだから、あなたの思い通りに生きることが一番素敵なことなのだ。あなたの人生は、自己実現のためのステージなのだと教えます。そして、そういう教えは世の中に満ちていて、私たちの心をくすぶります。
 ところが、主イエスは違うことをおっしゃいます。「あなたの人生は神から頂いているもの。あなたの人生は神と無関係では決してない。どんな道を歩んでいたとしても、神はあなたに関心を払っていてくださっている。あなたは決して一人ではない。たとえ一人だと思うような時にも、そうではない。神に覚えられている、神の民の一人なのだ」と言われます。そして、そう教えられているからこそ、私たちは毎週、教会に集まって、この群れの中で、聖書を通して、神の御言葉を聞くのです。この礼拝の中で、もしかしたら私たちは、自分一人で神の御言葉を聞いているつもりでいるかも知れませんが、しかし実はそうではありません。神が顧みてくださっている「群れ」があるのです。そして、そこに私たちも招かれているのです。

 そして、そのような歩みを一番初めに始められた方、それは主イエスなのです。主イエスこそ、真実に神に信頼する生活を歩んでくださり、そして、弟子たちを招いてそのことを教えてくださったのです。主の弟子たちは、やがて、教会のルーツになっていくのですが、しかし、時として神を忘れてしまうことがありました。それは私たちもそうです。けれども、そういう弟子たちを、私たちを、主イエスは、なお招いてくださいます。本当に神に信頼して良いのだと、教えてくださるのです。
 主イエスが、このようにして、この地上にお生まれになり、私たちの間に来てくださったからこそ、「天の国」は、私たちにも触れられるほど近いものになっているのです。私たちは、この教会生活の中においても、人間臭い破れをたくさん経験しますが、しかし、そういう互いが、破れを超えてなお、教会の外では決して経験できないことを経験させられます。それは、主イエスが私たちを招いてくださり、「あなたは神の民の一人である。あなたは神に支えられる者として、ここから生きて良いのだ。どんなに貧しかろうが、どんなに悲しい目に遭おうが、どんなに辛い思いをして自分が押し潰されているとしても、それでも今日、神はあなたをそういう者として覚え、自分では分からないところでも支えてくださっている。あなたはそういう中で今日の命を生かされているのだ」と聞かされているからです。

 主イエス・キリストがいつも私たちの側にいてくださって、私たちに御言葉をかけてくださいます。苦しみや悲しみや辛さの中で沈み込んでしまいそうな私たちを、主イエスがその手でしっかりと掴んでいてくださり、そこで沈まないように支えてくださるのです。そうであればこそ、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と、主は言ってくださるのです。
 主イエスが私たちの間に来てくださっている。そして、ご自身を指し示しながら、主イエスと共に歩むようにと招いてくださる。そこに天の国へと向かう生活があり、主が教えてくださっている幸いがあるのです。

 今日の箇所から始まっている8つの幸いの教え、その中身は「主イエス・キリストがいつも共にいてくださっている」、そういう幸いです。主イエスが大変重々しく語ってくださる幸い、それは、主イエスが共にいてくださればこその幸いです。ですから、主イエスを抜きにして、幸いになれる、幸福になれると思う、それほど大きな過ちはありません。ここに教えられていることは、主イエスと共に生きる生活を通して「神が私たちを愛してくださっていることを知る」、そこに生まれる幸いです。ですから、もし私たちが、主イエスに繋がるということを失うならば、ここに言われている幸いは、一挙にその内実を失って、崩壊することになります。
 ところが私たちは、実にしばしば、この主イエスから目を逸らすということをしてしまいがちです。そして、主イエスから知らされているのとは違う仕方で、自分の目に好ましく思えるような様々なやり方で、自分の人生の中に幸福を呼び込みたいと考えてしまって、実際に行動してしまうことがあるのです。そして、そう考える人というのは、経験的に言って、貧しい人たちよりは、富んでいる人たちです。どうしてでしょうか。富んでいる人たちは、自分の人生の中でそれなりに成功しているからです。こうすれば生きられると思っているからです。そのために、本当に必要な「主イエスと共に生きる」ということの他にも、何か手立てがあるかのように思い違いしてしまうのです。まことの幸いである主イエスとのつながりが切れてしまう、そういうことが有り得るのです。様々な手段、能力、富、チャンスによって、自分で幸せを築き上げることができると考えてしまうのです。
 ですから、主イエスは、貧しい人たちの幸いを語るだけではなく、逆に、富んでいる人たちに対しては警告を発しておられます。今日の箇所は、ルカによる福音書6章20節以下にも同じ記事があります。6章20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである』」とあり、また24節に「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」とあります。主イエス以外のもので自分の空腹を満たしてしまっていて、慰めはある。だからこれ以上、主イエスの御言葉による慰めは要らない。富む人はそう言って、本当の幸いに背を向け、主イエスが差し出してくださっている幸いを受け取らないで、その脇をすり抜けて行ってしまうのです。
 確かに、豊かな間はこれで良いのだと思います。自分は豊かで、自分の生活を成り立たせることができていると思っている間は、まことの幸いなどということは考える必要もなく、生きていくことができるかもしれません。しかし、私たちは、自分中心に生きることが当たり前だと思っていて、分かっていないことがあります。それは、自分がやがて、すべてを残して地上を去らなければならないということ、このことを知らずにいるのです。もちろん、頭では分かっています。永遠に生きるわけではない、自分はいつか死の時を迎えると分かってはいます。けれども、本当にその時が来る、その時には、この地上でどれだけ財産を得て豊かになったとしても、あるいはどんなに世の人々から賞賛されたとしても、最後には、私たちは、すべてのものを後ろに置いて、この地上を去っていかなければならない、そういう命を生きているのです。
 ですから、私たちは今、この人生の途中の段階では大変豊かであるように見えるかもしれませんが、しかし最後には、例外なく、貧しい者になって行かざるを得ないのです。人生の終わりには、もはや私たちは、持っている持ち物で自分を慰めることなど出来なくなります。残っている時間を、自分の体の重さを抱えながら、ここで息をしていかなければならないのだと、そう思うような時に立ち至ります。すべての虚飾を剥ぎ取られて、生身一つで自分自身と向き合わなければならないのです。十字架の上で、主イエスがそうであったように、です。

 十字架の上で磔にされて、すべてを奪い取られる。財産を奪われるだけではなくて、生活も命も全部奪い取られてむざむざと死んでいかなければならないのに、主イエスはあの十字架の上で、なお神に信頼を寄せて祈っておられます。とことん貧しい者として、すべてを剥ぎ取られた者として、十字架におかかりになりながら、主イエスはなおそこで、「天の国はわたしのものである」と言い、そして祈ってくださるのです。「すべてを失くしてもなお、神はわたしの味方である。神が味方だなどとはとても思えないような苦しい状況になっても、なお、そうである」、そういう幸いを、主イエスは私たちに与えてくださっているのです。

 神は確かに、私たちの持っている豊かさによって人を分け隔てなさらないのです。神のご覧になる尺度は、私たちの中にある貧しさです。主イエスによって差し出され、主イエスによってもたらされる幸いを、私たちが受け止めようとする、そういう貧しさを私たちが持っているのかどうか。それが実は、最も大切なことなのです。
 使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の中に、心の貧しい人々に与えられる祝福がそのまま表れているところがあります。コリントの信徒への手紙一 1章26節から29節に「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」とあります。恐らく、コリントの教会の現状はこうだったのでしょう。権力や能力のある人がいたのではなく、コリントの町の本当に貧しい、その他大勢のように扱われるような人たちが集まっていたような教会だったのです。
 しかし、実はそういう人たちが集まって教会を作っている、そこには心の貧しい人たちが主イエスによって祝福を与えられ、そしてその幸いから始まる静かで力強い歩みをなすのです。地上の教会というのは、そういうものです。誰か有能な人が大勢の人を招くように仕掛けを作って、教会をうまく経営して、そして教会にたくさんの人が来るようになるということではない。本当に貧しい貧しさを持っている人に、主イエスが「神が共にある幸い」を与えてくださいます。集められる人たちは貧しい人たちですから、いろいろな問題を抱えています。辛かったり悲しかったり、経済的に行き詰まっていたり、人間関係に破れていたり、思うようならないことがたくさんあります。しかし、そういう貧しい人たちが、「本当に神が、わたしの側にいてくださる。今日のこのわたしの生活を神が顧みて、『あなたはここで生きて良いのだよ』と語りかけてくださる」、そのことに励まされて、神の民の一人として生きていこうと思う。そういう生活の力が目に見えて表れているところが、教会です。
 この世の知恵や権力や社会的な地位で、教会が成り立っていくのではありません。もちろん、そういうものを見下げるというのではありません。そうではなくて、神の支配が私たちの上に及んでいる、そのことが宣べ伝えられ、神の国が告げ知らされて、神の支配が私たちの上にあるのだと素直に受け入れることができる、そういうところに生まれてくる価値観の変換が、教会にはあるのです。私たちが日頃抱いている、豊かさや安楽を尊いものとする価値観は、教会では崩れます。その代わり、神が一人一人を大切に扱っていてくださる、そういう者として人生を生きてみようと思うし、また周りの人たちに対しても、神のそういう思いが注がれている者として接してみようと思う。そのようにして生まれてくる新しい交わりが、教会の上にはあるのです。
 そしてそれは、言葉を変えて言うならば、「貧しくて行き詰まっている人たちに、将来が与えられる」ということです。自分の力、自分の能力や豊かさによっては、もはや万事窮している人たち、しかしそういう一人一人に、神が「あなたはそこで、そこから歩んで良いのだ」と、そう教えてくださることで、私たちはもう一度、今日与えられている状況で生き直してみようと思う、そういう将来が生まれてくるのです。

 今現在、「心の貧しい人たち」がいます。すべての望みを絶たれて、悲しみと苦しみの中で、自分はただ死ぬほかないのだと思い定めて、辛い毎日を送っている人がいます。しかし、そういう人たちのもとに主イエスが来てくださり、神がなお共にいてくださるのだと約束してくださるのです。ご自身の十字架と復活を指差しながら、「たとえ、あなたがもう駄目だと思っても、神はそういうあなたを確かに持ち運んでくださる、そういう命を生かされるのだ」と知らせてくださるのです。
 天の国においては、私たちの貧しさというのは、特別な明るさを持っています。私たちは、普段は、貧しさは嫌だ、出合いたくないと、当たり前のようにそう思っていますが、しかし、実は何も持たない、全てがゼロである、そこから始まる将来が与えられているのです。ゼロの恵みこそが、天の御支配に入る入り口であり扉である。私たちは、そういう戸口に主イエスが立っていてくださることを覚えたいのです。
 自分が豊かだから、いろいろできるのではありません。本当に貧しかろうが、自分の今ある姿のままで、そこから神によって備えられる将来がある。その恵みによって新しい一周りの時を過ごしたいと願うのです。

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