聖書のみことば
2016年2月
  2月7日 2月14日 2月21日 2月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月21日主日礼拝音声

 悲しむ者
2016年2月第3主日礼拝 2016年2月21日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章1〜4節

5章<1節>イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。<2節>そこで、イエスは口を開き、教えられた。<3節>「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。<4節>悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 4節には、「悲しむ人々」について語られています。文字通り、嘆きを抱え、悲しんでいる人々です。私たちが、誰かを指して「あの人は悲しみに沈んでいるね」と噂しあうような人たち、例えば、近しい家族を失って、そのために悲しみの中にあるような人たち、そういう人たちが、ここに言われている「悲しむ人々」です。今、そのような人たちに向けて、幸いの祝福が語られ、慰めが約束されます。それは、主イエス・キリストによって与えられる慰めです。
 死が戸を叩き不幸が襲ってくるということが、私たちの人生にはあるのですが、それとは全く違った神の祝福が、そのご家庭の戸口を訪れます。嘆き悲しむ人たち、親しい者の死に出遭って、涙をこらえ呻かずにいられないような人たち、そういう人たちに、主イエスはその全能の力を現してくださいます。
 キリスト者の中には、死の出来事に際して、自分たちキリスト者は、死を超える命のあることを知らされているのだから、悲しんだり嘆いたりしないの方が良いというような強がりを言う方がいらっしゃいます。しかし、旧約聖書でも新約聖書でも、愛する者の死に際して悲しまないような、人間として不自然なあり方は奨励されていません。むしろ、旧約にも新約にも、死をめぐる悲しみの出来事は数多く記されています。

 例えば、旧約聖書の創世記23章を見ますと、信仰の父と呼ばれるアブラハムが妻サラの死によって嘆き悲しんでいます。創世記23章2節に「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」とあります。イスラエルの人たちが死者について抱く悲しみは、このように非常に深いことが知られています。そして、そうであるだけに、やはり、同じイスラエルの人たちが、そういう死の悲しみに慰めのあることを知っていたということは注目すべきことでしょう。その一つの例は、旧約聖書ヨブ記1章の終わりに出てくるヨブの言葉です。ヨブ記1章20節21節「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』」。「衣を裂き、髪をそり落とし」とは、深い悲しみを表現しています。まさに、ヨブは悲しまないのではない、しかし、そのところで「主の御名はほめたたえられよ」と語っています。旧約聖書全体では、肉親が亡くなって後に残された者たち、特にやもめや孤児となった人たちについては、手厚い保護が与えられたと語られています。遺族には慰めが約束されていたのです。
 同じことは、新約聖書にもまた、見いだされます。ルカによる福音書7章11節以下のところには、一人息子を亡くしたやもめが登場します。そして、このやもめに出会われた主イエスは、「この母親を見て、憐れに思われた」ことが述べられています。また、最初の殉教者となったステファノの死を告げる使徒言行録7章では、それに続く8章2節のところで、「しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ」と語られています。その後の使徒言行録9章の終わりのところでは、ヤッファの町にいた女弟子タビタの死を悼む深い悲しみのことが述べられています。
 このように、旧約聖書にも新約聖書にも、親しい者の死に際して嘆くということが多く記されています。そして、その嘆き悲しみが深いだけに、天の国が地上に始められたしるしとして、主イエス・キリストが死んだ人たちを生き返らせることをなさると、それは大きな慰めを与えることになります。例えば、使徒言行録20章12節では、トロアスの港町で、3階から墜落して亡くなったエウテコという若者を使徒パウロが生き返らせてあげたところ、「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と述べられています。

 旧約聖書においては、死の出来事に際しての慰めは、まず神から与えられます。先ほど最初にお聞きしました創世記23章では、胸を打って妻の死を悲しんでいたアブラハムは、神を信じていたために、最愛の妻の亡骸の側から立ち上がることができたことが記されています。また、ヨブ記のヨブも、息子や娘や全財産を失ったところで、なお、神を信じていたために、すべてを奪い去られたにも拘らず、主の御名をほめたたえることができました。
 「神を信じる、信じている」ということは、私たちにとっては、その上に立つことのできる地面が与えられているようなことなのです。愛する者が亡くなる。私たちは、愛する者はいつまでも、当然そこにいてくれると思い込んでいるところがあります。もちろん、頭では、人間の命には限りがあることを知っているのですが、しかし実際に近しい人たちが取り去られますと、私たちは、そんなはずはないと思うのです。今までは当然そこにあると信じていた地面が音を立てて崩れ去ったような思いになります。いつも隣にいて、黙っていても自分の言葉や思いを受け止めてくれていた人が急にいなくなると、私たちは、自分の拠り所を失ってしまうのです。しかし、そういう時にこそ、「神を信じている」ことの真価が表れます。拠り所を失うと、私たちは誠に惨めで貧しい者になってしまいます。近しい者を失うとき、私たちは、自分がどれほど小さい者かを思い知らされるのです。しかし、そういう私たちを担ってくださる、あるいは足元にあって支えてくださる、そういう基盤がある、それは、神ご自身なのです。
 愛する者を失った方々がよくおっしゃることは、自分の中に大きな穴がぽっかり空いてしまったようだという感想です。あるいは、自分自身の大きな部分がもぎ取られたようだと、おっしゃる方もおられます。愛する者を失う時、私たちが経験せざるを得ないことは、まるで当然のように自分に隣り合い、支えてくれていたはずのもの、支えが失われるという喪失感です。そうすると、その支えによって私たちの中に成り立っていたものも、一緒に崩れ落ちてしまい、大きな穴が空いた、もぎ取られたという思いになるのです。大きな痛手を被りながら、それでもそこで立ち直ろうとする時、私たちに必要なのは、私たちがそれを踏みしめ、力を込めて立ち上がるのに必要な大地です。神は、ご自身がそういう基盤となってくださり、私たちが激しく傷ついている時にも、なお、そこに、私たちがそこから始める基盤を、将来を与えてくださるのです。

 ところで、新約聖書では、そのように生きて働き、私たちを支えてくださる神は、主イエス・キリストというお方を通して私たちの前に現れてくださいます。主イエス・キリストは、死人を生き返らせるという出来事を通して、ご自身が生と死を支配する主であることをお示しになります。
 主イエスが死んだ人を生き返らせてくださったという出来事は、新約聖書の中で3回報告されています。先ほどのルカによる福音書7章の記事は、ナインのやもめの一人息子が生き返らされた出来事の記事ですが、その他にも、会堂長ヤイロの娘と、ベタニアのラザロが主イエスによって生き返されたことが知られています。この3度の記事は、それぞれを並べて読んで見ますと気づかされることがあります。それは、どの場合にも、死の力というものが、愛する者を失った人々をがんじがらめに抑え込んでいます。皆、自分ではどうすることもできず、死を受け入れる他ないのです。ところが、主イエス・キリストは、死の勢力に対して戦いを挑み、そして勝利していかれます。主イエスが人間を死から命へと取り返される、その出来事は、人々がそれを期待しているというようなことではありません。死の出来事が起こってしまった、もうどうにもならないと思っている、そこに主イエスが来てくださって、「あなたは生きるのだよ」と言って死から命へと取り戻してくださる、そういう出来事として、新約聖書は語っています。そして、そういう3度の生き返りの出来事というのは、すべてが主イエス・キリストに由来しています。主イエスが十字架の後、3日目に死から甦られて、永遠の命を生きられるお方であるからこそ、主イエスはご自身の永遠の命の力を、死すべき人間の上にも及ぼしてくださるのです。
 そのようにして、死に勝利して復活なさったお方が自分の主であるのだと信じる人々は、その信仰によって、死に対する勝利を自分自身にも当てはまることとして受け止め、そして、主イエスが知らせてくださったように「たとえ死んでも生きる」ということになります。

 プロテスタント教会の信仰を言い表す古典的な信仰問答書の一つに、ハイデルベルグ信仰問答という書物がありますが、その問答の一番初めには、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問われます。そして、その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」というものです。本当に復活し、死に勝利なさったお方が、真の主、真の支配者として立っていてくださる。私たちが深く傷つくときにも、悲しみに覆われてしまうときにも、そういう私たちの傍に、永遠の命なる主が立っていてくださる。傷つき、憔悴し、疲れ果てている、そういう私たちの主として、私たちと共にいましてくださること、このことが死に際しての唯一の慰めだと語られています。主イエス・キリストの復活による死への勝利によって、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」という約束が満たされているのです。私たちは、そういう主イエス・キリストが確かにおられるのだという信仰を持って、墓の前や棺の傍にあって、イースターの讃美歌を高らかに歌うことができるのです。

 ところで、主イエスが甦り死に勝利されたと、私たちはそこで喜んで終わってしまうのですが、しかし、聖書全体に語られていることからしますと、それで終わることではありません。主イエスの復活は、世界の歴史の終わりの日に、主イエス・キリストが再び私たちのもとを訪れてくださり、救いを完成してくださることの前段階に当たります。主イエスの復活と昇天は、それだけで話が完結しているのではありません。聖書の中には、その先があることが教えられています。すべてが完成される最後の日には、私たちも含めて、死んだすべての人が復活させられる、その甦りの初穂として、主イエスは復活しておられるのだと、聖書は語っています。
 山梨でも、間もなくツバメの飛んでくる季節になります。ツバメがやって来て巣を作り、町の中を飛び回ることは、間もなく春になり、そして確実に夏が訪れてくることのしるしです。主イエスのご復活もまた、そのような出来事なのです。今は、三寒四温でこの先冬の寒さがぶり返すのか、あるいは春が訪れ暖かくなるのか、見通しがつかないような気分でいますけれども、ツバメがやってくると、もうこれからは暖かくなるのだと、心を強められます。ツバメに譬えるのもおかしいですが、主イエスのご復活もまた、そのような出来事だと言えます。主イエス・キリストが復活された、それは私たちが終わりの命に向かって、今、持ち運ばれ始めたということのしるしです。主が甦られたからには、この地上で、どれほどの悲しみ、痛み、理不尽があったとしても、私たちは、完成されて永遠の命に生きる者とされるのだという約束が与えられているのです。

 しかし、主イエスが甦られた2000年前のイースターの出来事と、終わりの日の完成の間には、中間の時があります。今、まさに私たちは、その中間の時を生かされています。私たちに希望として示されていることは、2000年前を懐かしむことではありません。私たちの歴史が終わりまで歩まれ、そして最後の日に、私たちすべてを永遠の命に生きる者としてくださる、私たちは今、そういう命であることを知らされて、この地上で、永遠の命を慕い求めつつ、その命に相応しく生きるようにと生かされています。私たちの、この中間の時の信仰の営みは、決して空虚なむなしいものではありません。私たちは決して、自分一人、死の苦しみと不安を味わいながらどうしようもなく生きているというのではありません。
 主イエスは、ご自身の地上の生涯が終わりに近づいた時、弟子たちに一つのことを約束してくださいました。ヨハネによる福音書14章18節「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。主ご自身が十字架によって命を取り去られるにも拘らず、戻ってくると言われます。どのように戻ってこられるのでしょうか。16節17節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と言われます。主イエスが約束してくださったことによれば、私たちは決して一人ぼっちに放り出されるのではなく、この中間の時に、主が再び戻ってきてくださるというのです。それはしかし、肉体を持った主イエスとしてではなく、弁護者である真理の霊、すなわち、聖霊として、いつも私たちに伴ってくださり、甦りの主を指し示してくださるというのです。私たちは実際に、肉体を持った主イエスに出会っていないにも拘らず、不思議なことに、甦られた主イエスがわたしと共に歩んで下さっていることを感じながら、信仰生活を送ることが許されています。それはまさに、主がおっしゃったように、聖霊が私たちの上にも送られているからです。私たちの中に、神の霊が働いて、主イエスが共にいてくださることを知ることができるのです。

 使徒パウロも、また、聖霊のお働きについて、ローマの教会に宛てた手紙で、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマの信徒への手紙8章26節)と語っています。
 これらの聖書の言葉は、今日聞いている、幸いの教えの中に語られる「慰めの約束」を考える上で、一つの光を投げかけてくれます。聖霊が働いて下さることで、嘆きに覆われる者たちの弱さが覆われ、慰められるのだと語られています。親しい者の死に際して、悲しみに沈む時、そこで慰めが与えられる。それは、主イエスが共にいてくださるということですが、それは聖霊の働きによるのです。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」、それは、聖書の言うところによれば、父なる神、御子イエス、そして聖霊なる三位一体の神が、皆、共々に働いて、悲しむ人を助けてくださるのです。

 さて、パウロがコリントの教会に宛てて書き送った手紙の中には、そういう神からいただく慰めについての深い理解が表されています。コリントの信徒への手紙二 1章3〜5節に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」とあります。特に4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」とあります。父・子・聖霊なる神が働いて、嘆き悲しむ者たちを慰めてくださる慰めは、ただ私たちだけにとってだけ意味があるというのではなく、それだけではなくて、悲しみのうちに置かれている隣人たちにも関わっていくのです。神から慰められる私たちは、次には、私たちの周りにいて悲しんでいる近しい者たち、隣人たちのもとに、私たちの与えられている慰めを広く携えていくことが許されているのです。
 ただし、その場合、私たちは十分に気をつけなければなりません。神が私たちに贈り物として与えてくださる慰め、それはあくまでも神のくださる慰めです。その神の慰めを、私たちはしばしば、あまりに人間的な慰めにすり替えてしまう場合があるのです。神が働いてくださることで隣人が慰められるのだということを、私たちはきちんと弁えていなければなりません。父・子・聖霊なる神が働いて与えてくださる慰めは、あくまでも、神ご自身が働いて与えてくださるのですから、私たちが自分の都合や自分の思い通りに、相手に手渡せるようなものではないのです。私たちは、私も同じですからその悲しみはよく分かりますと、自分の経験を語り始めてしまうことがあって、そうなると、相手は、少しも自分の気持ちを分かってくれていないと、却って、その人の悲しみ・孤独感を深めてしまうという場合があるのです。
 私たちがどなたかに神の慰めを持ち運ぶときには、神がその方の上に働いてくださいますようにと、祈りをもって、その方を神の御手にお委ねするということが、まずなければなりません。その上で、私たちが神の御業にお仕えできることが示されたなら、そのことをして差し上げるのが良いのです。手軽ですぐに効き目が現れそうな人間の慰めを、神の慰めと取り違えないようにしたいのです。
 ある小説の中に、愛し合っている若い男女の話があります。二人は結婚しましたが、間もなく、妻が熱病にかかり、2週間ほど病床にあった後、あっけなく世を去りました。残された夫は、昼も夜も悲しみに閉ざされたまま、故郷の森を巡り歩きます。人々の目には、この夫の心がおかしくなるのではないかと思われます。母親は我が子を慰めようとして、あらゆる努力を傾けます。ところが、そんな中にあって一人、父親だけは沈黙したままでいます。そういう父の姿は、人々の目には、ひどく異様に映りました。そこで母親が、そういう父親に、沈黙している理由を尋ねると、父親は答えるのです。自分も人として、できる限りの慰め方を考えてみたけれども、結局、そういう一切の試みは慰めにならないことを知った。それで、自分は、偽りの慰めを語り手軽な気休めを口にするより、黙っている方が良いと思っているのだと。偽りの慰めを語り、気軽な気休めを口にするよりは黙っていた方が良い。静かに沈黙することの方が、場合によっては、多くを語るより、はるかに雄弁である場合があるのです。私たち人間に、自分の慰めが果たして火に水をかけて沈静化できるのか、それとも火に油を注ぐことになるのか、分からないことがあります。どれほど善意から出た慰めであっても、嘲りや中傷以上に相手の心を傷つけることがあるのです。
 聖書もまた、そういう、人間による安易な慰めが人を傷つける危険をはらんでいることを指摘しています。その代表はヨブ記です。大きな不幸に見舞われたヨブに対して、3人の友人たちが見舞いにやってくるのですが、彼らの語る言葉は、ことごとくヨブを悲しませ、傷つけます。そして、ヨブは言います。ヨブ記16章2節「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。「無駄口はやめよ」とか「何にいらだって、そんな答えをするのか」と言う。わたしがあなたたちの立場にあったなら、そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね、あなたたちに向かって頭を振り、口先で励まし、唇を動かすことをやめなかっただろうか」。こういうヨブの姿は、私たちに、人間の痛みと嘆きの前には、厳粛でなければならず、また私たち人間に由来する慰めには限界のあることを認めるように教えてくれるのです。嘆く人の前では、私たちが慰めを持ち運ぶのであれば、常に、謙遜にならなくてはならないのだと思います。
 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」、まさしく主が教えてくださった通り、「慰め」とは上から、神から与えられるものです。私たちが横にいて、ちょっと支えてあげられるような、そういうものではありません。ほとんどの場合、私たちは、ただ同じ信仰の友として、悲しむ方々と共に神の慰めを待ち望み、神にそう祈り求めることしかできないのです。

 もしかすると、神は、悲しむ人の悲しみを即座に癒そうとなさるのではなくて、時間をかけて癒そうとなさるかも知れません。怪我をした時に、血を速やかに止める処置が常に最善とは限りません。毒を含んでしまった場合には、悪い血を出し尽くしてしまわなければならない傷というものもあるのではないでしょうか。勝手に痛みを止めたり、出すぎた助けは、罪となることがあり得るということを、私たちは知らなければなりません。
 悲しみに出会う時、私たちはそれを嫌だと思うばかりに、気ままに相手を慰めたり、自分を慰めようとしますが、そうではなく、慰めは神から与えられるのですから、その神からの慰めを期待して、主イエスによる慰めを待ち望み、慰める力を持っておられる聖霊に信頼して、その時を過ごす者でありたいのです。
 そして、そのように、神の力、主イエスの力、聖霊の力に信頼して待ち望む者たちこそが、幸いな人々の姿です。そういう人々は、決して恥をかくことがありません。人は出すぎたことをして、恥をかきます。
 神は私たちの上に働いてくださいます。私たちの病も嘆きも、すべてを癒して慰めてくださる、そういう慰めが与えられることを、主イエスが語ってくださっていることを、心に留めたいと思います。主イエスが約束してくださっている慰めに与る者として、相応しい生活を、ここから歩み出したいと願います。

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