聖書のみことば
2016年12月
  12月4日 12月11日 12月18日 12月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月4日主日礼拝音声

 聖なる引きこもり
2016年12月第1主日礼拝 2016年12月4日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第1章1節〜25節

1章<1〜2節>わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。<3節>そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。<4節>お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。<5節>ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。<6節>二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。<7節>しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。<8節>さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、<9節>祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。<10節>香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。<11節>すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。<12節>ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。<13節 >天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。<14節>その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。<15節>彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、<16節>イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。<17節>彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」<18節>そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」<19節>天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。<20節>あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」<21節>民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。<22節>ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。<23節>やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。<24節>その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。<25節>「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 ただ今、ルカによる福音書1章1節から25節までをご一緒にお聞きしました。1節から3節に「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」とあります。ルカはここで、「すべての事を初めから詳しく」書こうとしています。
 まず、一人の幼子の誕生のことから筆を起こします。しかし、それはまだ主イエス・キリストの誕生ではありません。キリストに先立つ先ぶれ役となった洗礼者ヨハネ誕生の経緯です。ですが、既にこの幼子の誕生の出来事をめぐって、来るべき一人の方が指し示されていきます。ここにはまず、一人の祭司が登場します。それは決して偶然なことではありません。当時のユダヤでは、「やがてお一人の方が来られて、神の国を地上にお建てになるだろう」との約束を最も心得ていたのは祭司でした。「やがてイスラエルの民の中から特別な救い主が現れる。この方は何の先ぶれもなく登場するのではない。この方の前にはきっと預言者エリヤがもう一度現れて、後からやってくる救い主を迎えるように人々を促してくれるだろう」、祭司ザカリアは、神がイスラエルに対してそういう計画を持っておられるということをよく承知していました。彼は聖書に明るく、神の約束をよく弁えていました。そして、そういう神に期待し、希望を寄せていました。6節に、妻のエリサベトと共に「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と言われています。

 ザカリアは、神がイスラエルの上に救いの計画を持っておられることを弁えていましたが、しかし、その来るべき方がおいでになるのが一体いつのことなのかということまでは分かりません。何十年先か、何百年先になるのか、知りません。ザカリアはただ、彼の祖先の祭司と同じように、「やがて神が自分たちの上に救いの御業をなしてくださる。一人の救い主が与えられるのだ」ということを信じて、そのことを待ち望みながら、日ごとの務めに励んでいたのでした。ところが大変不思議なことに、ザカリアが待ち望んでいたことが、まさに彼の時代に起こってくるのです。祖先の祭司たちは、ただ約束を遥かに期待して歩んだだけでしたが、ザカリアは違います。彼は自分の生きている時代に神の救いの御業が行われるのを目撃することになるのです。
 なぜ彼が妻エリサベトと共に、こんなに大きな出来事に関わらせていただけるのか、その理由は聖書に語られていません。ですから「どうして?」と問うても、その答えは与えられません。神は一方的に沈黙して、しかし着々と約束を果たすべく準備を整えていかれます。天においては、既に、ご計画についての決定が下っています。今、来るべき方が地上にもたらされようとしています。そしてそのために、この地上でも準備が始められなくてはなりません。その当事者としてザカリアとエリサベトが選ばれ、ザカリアを動顚させるような出来事が起こるのです。
 「神は聖書で約束されたことを必ず果たしてくださる」そのことが、今日私たちが聞いている御言葉から聞こえてくる第一のことです。
 ザカリアという名前ですが、「ヤーウェは覚えている」という意味の名前です。また妻のエリサベトですが「神は誓いである」という意味の名前です。神はご自身のなさった誓い・約束を忘れることがないのです。神は聖書の中でお語りになった約束をいつまでも覚えておいでです。そして、いざその約束を果たそうとなさる時には、それを妨げたり邪魔立てすることは誰にも出来ません。

 神が約束を果たそうとして行動を起こされた時、まず選ばれた場所はエルサレム神殿の中でした。これは、当たり前といえば当たり前かもしれません。なぜなら、神殿は特別に神を礼拝するためだけに設けられた場所だからです。神がご自身の御名をこの場所に置くと定めて、神殿が造られています。ですから、そこから神の救いの御業が始まるのだと言われれば、そうかと思うことでしょう。
 けれども、そう言いましても、当時の実際の神殿の有り様というものを考えますと、神がこの神殿から救いの御業を始められたということは驚くべきこと、あるいは意外な成り行きだと言ってもよいと思います。どうしてでしょうか。当時の神殿では、日常的なことはマニュアル化されていて、機械仕掛けのように礼拝が捧げられていたからです。神が居ようが居まいが関わりなく、人間の動き方が決まっていて、その通りに日ごとの礼拝が捧げられていました。
 形の上では実に整えられた礼拝が捧げられていました。祭司たちは大勢いて、24組に分けられ、24組が一年に2回、それぞれ8日ずつ神殿に仕えるという仕組みでした。1組に何十人もの祭司がいました。そして、その中からくじが引かれて、その日の当番が割り当てられました。スペアの祭司が大勢いますので、当番なのに祭司が来ないなどということは考えられません。それは、言ってみると今日の裁判員裁判のようなものかもしれません。裁判所から裁判員委嘱の手紙が送られてきた場合、裁判の日には裁判員の欠席がないように、大勢の人が予備に呼ばれていて、実際の裁判員になる人は、来ることができた人の中からくじ引きで決まるそうです。ですから裁判所に行っても、裁判員にならないまま帰る人もいるのです。この祭司たちも、一年に2回、1回8日間の祭司の務めをするかどうかは、くじによりますから、くじに外れて仕事に当たらない祭司は大勢います。祭司職は25歳から60歳までだったそうですが、中には毎年神殿に上がりはしても、一度もくじに当たらず、一生の間、祭司の仕事をせずに定年を迎えた祭司もいたようです。ザカリアはそういう大勢の祭司の中の一人として神殿に仕えていました。
 ですから、神殿礼拝では必ず誰かが役割を果たし、きちんとした手続きを踏んで行われました。けれども、そういう状況ですから、くじに当たった祭司が「今日、自分はここでの役割を果たすためにやってきたのだ」と思えないのです。「神殿に来て、たまたまくじに当たった。当たったからこの務めを果たす」という具合でしたから、神が自分の働きを用いてくださるとか、自分がここで役割を果たさなければ礼拝が損なわれてしまうとか、そういう思いはないのです。神への生き生きとした希望を持って礼拝に参加するということはなかったと思います。当時の祭司たちの士気の低さというのは、目を覆いたくなるほどでした。しかし神は、その礼拝の状況がどんなに憐れむべき状態になっても、決して軽くご覧にはなりません。神はご自身の名を置いている神殿を無視したりなさらないのです。
 そして、神殿に仕える祭司たちの中から、ご計画に仕える器を選び出されます。神は先祖アブラハムになさった約束をいつまでも覚えておられ、そして、誓った通りに果たしてくださいます。エリサベトがその道具に用いられていくのです。「ザカリア=ヤーウェは覚えている」「エリサベト=神は誓いである」、そういう二人の夫婦が神に用いられていくのです。

 さてここで、ザカリアとエリサベトについて考えたいと思います。7節に「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とあります。子供がないまま二人とも既に老境を迎えていたということは、二人にとって大変辛い現実でした。と言うのも、当時の考え方からしますと、子供がいないということは、単純に子供が与えられないということだけではなく、それ以上に深刻な出来事だと受け取られたからです。すなわち、子供がいなければ、ザカリアの代で由緒ある祭司の家は断絶することになります。そのように家が断絶するということは、人間の目には隠されているけれど、その人たちが何らかの罪を犯しているため、神から処罰を受けている結果だと考えられていました。ザカリアたちには、そういう噂を立てられる危険が常にありました。25節で「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と、エリサベトは言っています。彼女がこう言っているという理由は、子供がいないことが深刻な問題だったからです。ザカリアもエリサベトも「非のうちどころがない」そういう人たちです。ところが、ただ子供がいないという理由で二人の陰口を言う人がいたということが、エリサベトのこの言葉から分かります。高齢になって、子供がいないということが、どんなにこの二人を傷つけていたかということを思わされます。
 ところが、神のご計画とは不思議です。人間の目には、痛く辛い傷口だと見えている場所が、神にとっては新しい苗木を埋めこもうとする溝だったということがあり得るのです。ザカリアの場合がまさにそうです。聖書には出てきませんが、同時代のヨセフスという人の歴史書を見ますと、ザカリアは、24ある祭司の組の8番目の組に属していたと記されています。神は、他の23組については黙って通されましたが、第8の組になった時に、ザカリアにくじを当てさせ、天使ガブリエルを通してザカリアに呼びかけられました。13節17節に「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。…彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。』」とあります。
 考えてみますと、子供が生まれない夫婦に、神が敢えて祝福を携えて臨まれたということは、聖書の中ではザカリアが初めてではありません。まず、アブラハムとサラの場合がそうでした。彼らには、なかなか約束の子が与えられず、そのために神が与えると約束された土地や財産を受け継ぐ者がいないと思っていた、その矢先に神はイサクを与えてくださいました。あるいは、サムエル記に出てくるエルカナとハンナもそうです。当時はイスラエルより文明の進んだペリシテに攻め立てられる時代で、イスラエルが約束の地をペリシテに奪われそうになっていました。その時に神は、不妊の女として苦しんでいたハンナから預言者サムエルを生まれさせてくださいます。そして、そのサムエルがイスラエルの王たちに油を注ぎ、ペリシテとの戦いに勝たせてくださいました。冷たい墓から命を甦らせることがお出来になる、そういう神が今、エリサベトの胎を開かせて、来るべき方の先ぶれとなりエリヤの霊と力を持って歩むヨハネを生まれさせようとなさっています。
 ザカリアにしてもエリサベトにしても、かつては、自分たちに跡継ぎが生まれることを期待して、そのことを熱心に神に祈り願ったに違いありません。しかし今やこの二人は高齢となり、とうの昔に子供を願う祈りは止めてしまっているはずです。「もはや子供を持つことのできる年齢は過ぎてしまったのだから、子供を持たない余生を生きていこう」と思っていたでしょう。ところが驚くべきことですが、神はお忘れになりません。「ヤーウェは覚えておられる」、一度捧げられた祈りは古びることがないのです。ずっと昔、まだ若かった頃の二人が祈った祈りが今頃になって聞き届けられたのです。
 天使ガブリエルは言いました。13節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」。さらに14節15節「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり…」とも言われます。「ヨハネと名付けられるこの子は、人の目には小さい者と映るかもしれないが、しかし神の御前には偉大な人になるのだ」と天使は言いました。どうしてかというと、ヨハネが神の御国の歴史の中で一つの大きな役割を果たすことになるからです。すなわち、救い主を指し示すという先ぶれの役割を果たすことになります。世の人からどう見られるとしても、神の御国のために用いられ働く人こそ、本当に偉大な人なのです。そして、そういう役目を果たすために、ヨハネは母エリサベトの胎内にいる時から、聖霊に満たされます。
 ガブリエルは、ザカリアに語っている最後のところで、ヨハネが神の御国の歴史の中でどのような働きをするかについて、旧約聖書を引用する形で語ります。旧約聖書マラキ書3章23節24節に「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように」とあります。これがルカによる福音書1章17節で「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」と、天使ガブリエルがザカリアに語っている言葉です。

 さて、神殿の外では民衆が祈っていたこと記されています。ヘロデのような暴君が上に立っている時代です。民衆は天に向かって祈らざるを得ません。10節に「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」とあります。この民衆の中には、暴君の元で生きている苦しみの中から、「どうか神が真実にイスラエルを慰める古のダビデのような王を与えてください」と祈っていた人も大勢いたことでしょう。ヘロデのような残酷で冷酷で小心な支配者ではなく、ダビデのように神に仕え、民をいたわる王を切に求めて祈っていた人がいたに違いありません。神殿の中庭で多くの人がそのような祈りを捧げていた時に、実は、神殿の内側の聖所の中では祭司ザカリアに天使ガブリエルが神のみ告げを聞かせているのです。神殿の外で祈っている人たちには、聖所の中で起こっていることは見えませんけれど、しかし祈っている人たちの祈りは、ガブリエルがザカリアに語っているところで実現されているのです。

 これまでずっと几帳面に守られてきた神殿礼拝の儀式は、予想もしない神の介入によってリズムがすっかり乱れてしまいます。聖所の一番奥深いところには、供えもののパンを置くテーブルがあります。その横には香を焚く台もあります。ところが今、ザカリアが香を焚いて供えもののパンを替えようとすると、その傍らにガブリエルが立っているのです。
 普段であれば、香を焚いてパンを置き、そのまま出てくればよいのですから、そんなに時間が掛かる筈はありません。ところがそこにガブリエルが立っていて、不思議な話をずっとしている。ザカリアは狼狽して恐れます。ザカリアが恐れているので、ガブリエルは一言一言丁寧に語りかけます。13節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」とガブリエルは言いましたが、「あなたの願いは聞き入れられた」と言っても、ずいぶん昔の祈りですから、ザカリアにすれば、何の祈りが聞かれているのか分かりません。ですからガブリエルは説明します。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」。その子は生まれて成長したのち、荒れ野で過ごすことになります。ラクダの毛衣を着て禁欲的な生活を送ることになります。成長したヨハネを見た人たちは皆、ヨハネの服装の異様さとか、食べ物の質素さに驚くことになります。中には、ヨハネを見て、「とても普通の人間にこのような生活ができるとは思えない」と思う人たちも大勢出てきます。「あの人は悪霊に取り憑かれて、あのような暮らしをしているが、普通の人間にはあんな暮らしはできるはずがない」という陰口がヨハネについて語られていたことがルカによる福音書の後ろの方に出てきます。けれども、人間からどう見られようと、どのような陰口をたたかれようと、ヨハネは「イスラエルの多くの子らを神である主の元に立ち返らせる」働きをし、そして「準備のできた民を主のために用意するようになる」のだと、ガブリエルは説明します。

 この日、ザカリアは、ガブリエルから聞かされていることのために、仕事が滞ってしまいます。定められた時刻になっても、ザカリアは外に出てきません。神殿の中庭で祈っている人たち、救いを求めて熱心に祈っている人たちからは中の様子は見えません。普通であれば、ザカリアが出てきて、「あなたたちの捧げ物は捧げ終えました。神は香の香りを受け入れてくださいましたから、あなたがたは安心して行きなさい。あなたがたは神の民なのだ」と祝福し、礼拝を終えて帰っていくはずです。ところが、その仕事が滞ってしまいます。ガブリエルを通してザカリアに語りかけられている御言葉の前で、ザカリアは立ち止まっています。受け入れられないのです。
 神が介入なさる時には、例え聖なる秩序であっても、人間の秩序に支障が生じるということが起こり得るのです。こういう大きな喜びを聞かされたザカリアは、一体どうなったのでしょうか。彼にもたらされた知らせは、本当に喜ばしいことだったのですが、しかしこの日、ザカリアは喜べませんでした。むしろ最初の恐れとショックが静まると、こういう場合に普通に起こる疑いの思いを抱くようになります。神がザカリアの祈りを聞き入れて下さったと聞かされている、まさにそのところで、祈りが聞かれたその瞬間に、ザカリアは疑いに捕らわれて不信仰になってしまうのです。そして、不信仰であるがために口を聞くことができず、祭司として果たすべき役割を果たせなくなっていきます。
 ザカリアの口が閉ざされたこと、これを一種の不信仰による刑罰のように受け取る人がいます。しかしもしかすると、このザカリアの状況は、刑罰ではなく、神の恵みに満ちた保護かもしれません。口を閉ざされたために、この日のザカリアは、身振りだけで祝福を行ったと語られています。しかしそれは、言い換えますと、いい加減な口先だけの祝福をしないで済んだということです。ザカリアは、今彼にできる精一杯の祝福の業をしました。それは、言葉が伴わない祝福でした。
 コリントの信徒への手紙一の13章12節に「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とあります。これは、信仰の成熟について語っている言葉です。信仰が未成熟だった時には神のことがよく分からなかったけれど、しかし、主イエスが再び訪れてくださって信仰が完成される時には、神のことをよく分かるようになるということを言っています。
 昔の鏡は、今私たちが使っている鏡のようにガラスや金属の表面を完全に平らにするという技術が未熟でした。ですから、どこか歪んでしまったそうです。もちろん鏡ですから見れば自分の顔を映し出すのですが、しかし別の鏡を見ると違って映る。そうすると結局、どの鏡を見ても同じであれば自分の顔はこうだと言えますが、鏡によって映る像が違いますから、大雑把にはわかりますが、「自分の顔は大体こうなんだろう」と想像するしかなかったのです。そのように、「神のことは、歪んだ顔からあれこれ想像するようにしか今は分からないけれども、神がいずれはっきりと出会ってくださってご自身を現してくださるときには、顔と顔を合わせてはっきり見えるように、分かるようにしてくださるのだ」と言われています。
 ザカリアはこの日、天使ガブリエルとの出会いを通して、自分たちの捧げている祈りが本当に神に聞き入れられているのだということを、まざまざと知らされました。もちろんそれまでも「神は聞いていてくださる」と信じて祈ってきたに違いありませんが、しかし、神が一言一句を覚えて聞き入れていてくださるという確信を持てないまま、信仰生活を送ってきました。いわば、鏡に映して見るようなあやふやな信仰で、ザカリアはここまで生きてきたのです。
 ところが、ガブリエルを通して「あなたの祈りは確かに聞かれている。エリサベトはきっと子供を産むようになる。その子をヨハネと名付けなさい」という頼もしい言葉を聞かされます。けれども、その言葉を耳にした瞬間に、「本当にそんなことがあるのだろうか」という疑いが、自分の中から起こってきてしまうのです。昔のようにあやふやな信仰を抱えているままであれば、あやふやなりに一生懸命に、ザカリアは民衆を祝福すればよかったのですが、しかし、今まさに「あなたの祈りは聞かれている。あなたの祝福は神が実際に働いてくださる中で用いられている。民衆に対して、本当に神の祝福があるのだと伝えるための業なのだ」と聞かされた時に、しかしその神の言葉に信頼できないザカリアがいたのです。ですから、もし外に出て、口を開いて「あなたたちは祝福されている」と言ったとすれば、その言葉は偽りになるのです。いい加減な祝福ができないがゆえの沈黙がザカリアに与えられています。しかしそれは、神の保護の結果です。ガブリエルが告げたことが真実であることを、ザカリアはやがて得心する時がきます。それは、ヨハネが生まれてくる時です。ヨハネが実際に生まれて来て、まさにガブリエルを通して告げられた神の言葉が本当のことなのだと、ザカリアが心から思った時に、ザカリアはもう一度口を開いて、その時こそ本当に「神は素晴らしい。神は約束を果たしてくださるお方、まちがいなく、あなたたちの祈りも聞き入れて下さる」と、祝福することができるようになるのです。

 祭司ザカリアの口が聞けなくなった、それと呼応するかのように、妻のエリサベトは身ごもって、一時、身を隠します。24節「その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」と言われます。ザカリアがヨハネ誕生を告げられてもすぐに受け入れられなかったように、エリサベトも、最初の5か月間、引きこもります。これは「聖なる引きこもり」です。神が自分の上に御業をなさる時に、それを素直に信じることができなくて、当惑し引きこもる人は、エリサベトだけではありません。サウルがイスラエルの最初の王として油を注がれた時に、サウルはどうしたかと言うと、物陰に隠れ荷物の後ろに身を潜めたのだと語られています。あるいは、預言者エリヤがバールやアシェラの預言者たちと戦って、思いがけない大勝利を得た時にどうしたかと言うと、荒れ野に退いたと言われています。また、使徒パウロはダマスコに行く途中で甦りの主イエスと出会って改心して、異邦人への伝道者とされますが、その時にしばらく荒れ野に身を隠します。そして主イエスも、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて、ご自身が伝道者として立てられているという使命をはっきりと自覚なさった後、40日間荒れ野に赴かれました。
 本当に大きな喜び、それが現実に自分の身の上に起こっている。自分たちの時代に、今ここで本当に大きな救いの出来事が起ころうとしている。そのことを知らされるとき、私たちはそれが当たり前のことだと受け取ることができないようです。
 いつの時代も、神に召されるという光栄には、「引きこもり」が伴います。しかし、そういうところから、私たちも、クリスマスの喜びをすぐに祝うということになっていないのです。クリスマスの前にはアドヴェントという時が与えられて、4週間の待機の姿勢を取らされます。アドヴェントの時とは、私たちがこの時に聖書の御言葉に耳を傾け、私たちの時代に、ここに行われている神の救いの御業とはどういうことなのだろうかと思い巡らし、心からの喜びをもって証しするために待機するようにと与えられている時であることを覚えたいのです。
 神の御言葉に聞き、また、静かに思い巡らしつつ、この季節を歩んで参りたいと願います。

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