聖書のみことば
2016年11月
  11月6日 11月13日 11月20日 11月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月20日主日礼拝音声

 キリストに従う
2016年11月第3主日礼拝 2016年11月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第8章18節〜22節

8章<18節>イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。<19節>そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。<20節>イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」<21節>ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。<22節>イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 ただ今、マタイによる福音書8章18節から22節までをご一緒にお聞きしました。18節に「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。
 少し以前のことですが、主イエスは一時、弟子たちを教えて訓練するために、群衆を避けて山の上に登られました。湖の畔の低い場所に留まっていますと、群衆がひっきりなしに主イエスの元にやって来て、ゆっくりと弟子たちと話す暇もなかったからです。一通りのことを弟子たちに教えた後、主イエスは山から下りてこられましたが、するとすぐに主イエスの助けを必要とする人たちがやって来たことが、今日の箇所の前のところに書かれています。「重い皮膚病の人」、「自分の僕を癒していただきたいと願っている百人隊長」、そして、カファルナウムの町に入ってペトロの家におられた時に「高い熱で寝込んでいたペトロの姑」を主イエスは癒されました。すると、「主イエスがペトロの家にいるらしい」という噂が立ちどころに広まって、夕暮れには心身を患っている人たちが大勢、主イエスの前に連れて来られたのです。

 主イエスは、連れて来られた人たちを分け隔てなさらず、皆、癒されたのですが、しかし、どれだけ多くの人間を癒しても、人間の病は後を断ちません。全ての人が健康になって誰も病んでいない、そんな社会はありません。次々と病人が主イエスのもとに担ぎ込まれて来るので、主はとうとう休息を取ろうと決心をなさいます。今日のところで「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とありますが、「向こう岸に行く」というのは、しばらくの休息のためということです。主イエスがどんなにくたびれておられたかということは、来週聞く箇所ですが、舟に乗っておられて嵐に遭っていた間もぐっすりと眠っておられたということからも分かります。弟子たちが眠っている主イエスに近寄って揺すり起こさないと目を覚まさない、それほどにくたびれておられたのです。

 今日の場面は、主イエスがまだ舟にお乗りになる前で、群衆を後にして向こう岸に渡ろうとなさった時のことですが、その時に、群衆の中から声をあげた人がいたことが語られています。自分も主イエスに従って行きたいから連れて行って欲しい、そう声をあげた人は律法学者でした。福音書を読んでいますと、多くの場合、律法学者たちはファリサイ派の人たちと一緒になって主イエスに敵対する相手として登場します。しかし、中には例外的に主イエスに心を寄せる律法学者もいたようです。そして、この律法学者は、その珍しい方の部類に入る人でした。この人は「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。この人はどうやら、主イエスが目の前でやって見せた数多くの癒しの業を見て、すっかり心を惹かれてしまったようです。一体どのようにしたら不思議な癒しの業ができるのだろうか。また、普段の主イエスは弟子たちと一緒に過ごす中で何を語り、何を教え、どんな生活を送っているのだろうかと、主イエスに対して強い興味を覚えました。それでこの人は、「どこへでも従って行きますので、連れて行ってください」と願い出たのです。
 この人が大変積極的に「主イエスに従いたい」と言っていることは分かるのですが、しかし果たして、この人のこの言葉を鵜呑みにしてしまって良いのでしょうか。この人が主イエスに付いて行きたいと思ったのはどうしてかと言いますと、それは、主イエスが目の前で不思議な癒しの業をなさったからです。普通でない出来事に驚かされて、圧倒されて、「従って行こう」と決心したのですが、驚きによって信仰に入るという信仰は、果たして長続きするものなのでしょうか。その点が気がかりです。主イエスは、この人にどうお答えになっているでしょうか。20節に「イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」と語られております。
 唐突に、狐や空の鳥が引き合いに出されていますが、主イエスはこうお答えになることで、この律法学者が「自分から従って行きたい」と言っている道のりが、大変過酷なものなのだということを分からせようとしているのです。この人は「主イエスの行かれるところになら、どこへでも行きます」と言っていますが、しかし、主イエスに付いて行くということで、彼は誰も予想していないような険しい道に踏み出してしまうのだということを、主イエスは分からせて思い止まらせようとしています。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」と言われます。狐は餌となる小動物を探し求めて、あちこち彷徨うことで知られている獣です。また「空の鳥」とわざわざ書かれていますが、これは渡りをする鳥たちのことです。渡り鳥たちも大変長い距離を移動します。このように、自然界の中で、大変な長距離を彷徨うようにして移動している動物たちを引き合いに出して、主イエスはここでおっしゃっています。狐や渡り鳥のようの地上を放浪して彷徨っているように見える動物であっても、それぞれに寝ぐらとある穴があり、また、帰っていく巣がある。しかし、「人の子であるわたしには一切、そのようなものはない。枕する所さえない」とおっしゃるのです。主イエスには、安らかに憩うことのできる場所など、どこにも無い。だから、「そういうわたしに従ってくるのであれば、あなたも同じようなことになるのだよ」と、主イエスは警告なさっているのです。
 この律法学者が、この主イエスの言葉を聞いて、従って行くことを思い止まったのか、あるいはそれでも従って行くと決めたのか、その結果は、ここには書かれていませんので分かりません。聖書はここで、この人が主イエスに従ったかどうかに注目していません。むしろ、一時の驚きや興奮や感動によって簡単に主に従おうとするあり方を戒める、そこにこの記事の中心があるのだろうと思います。主イエスに従おうとする時には、従い方があるのですgb。信じて従う信仰生活とは、一時の感情によって始まるのではないことを教えようとしておられます。
 もし一時の感情によって主に従おうとするならば、その時には、「従った後で思いがけない困難に出遭わされる、試練を経験する、そういうことがあり得るということを、よくよく考えておく方がよい」と、主イエスは言っておられます。主イエスに出会って「主に従います」と言っても構わないのですが、けれども「本当にあなたは主イエスに従ったことを後悔しないのか」ということを考えなければなりません。例え困難に見舞われたり、あるいは主に従うことによって不当に扱われることによって辛い目に遭うことがあったとしても、「それでも十字架の主であるイエス様がこのわたしと一緒にいてくださる。何にも勝って、自分にとっては、主イエスが共にいてくださることが幸いなことなのだ」、そう合点が行くならば、洗礼を受けてキリスト者になるのが良いのです。
 教会によっては時に、少しでも信仰や主イエスに興味のある人を見かけたら、すぐに洗礼を受けさせようとする場合があります。信じているかどうかについてはあまりうるさく言わないで、「とにかく洗礼を受けてしまいなさい」と言って教会に引き込もうとする場合がありますが、今日のこの記事を読んでいますと、こういうことに対して主イエスはどうお考えなのだろうかと思わされます。あまり性急に、人間の思いによって事を運ぼうとしないで、その人が一生の終わりまで神と共にいることができるために、教会生活を続けていくことができるように配慮を持って導くということが教会には求められているのかもしれない、そんな思いにもなります。

 さてところで、この律法学者は、主イエスがおっしゃったことをほとんど理解できなかったのではないかと思えるのですが、主イエスはここで、ご自身のことを指して「人の子は」という言い方をなさっています。「だが、人の子には枕する所もない」。「人の子」という呼び方は、主イエスがご自分のことを表す時に、しばしばお使いになった呼び名です。ですから私たちは、聖書の中に「人の子」と出てきますと、無意識のうちに「主イエス」のことと置き換えて読んでいると思います。マタイによる福音書では、この箇所で初めて「人の子」と出てきます。そしてこの後、主イエスは何度もご自身のことを指して「人の子」とおっしゃいます。けれども、主イエスはご自分のことを「わたしは」とおっしゃることもあります。実は、「人の子」とおっしゃる時には、主イエスは、神から与えられているご自身の使命のことを思っておられます。私たちは「人の子」を「わたし」と置き換えてしまいがちですが、「人の子は」と言われる時には、単純に「わたしは」と言っているだけではないのです。
 今日のところで「人の子には枕する所もない」と言われているのは、少し理屈っぽく言うならば、「わたしは神から人の子の務めを与えられている。だから、わたしには枕する所もないのだ」とおっしゃっているのです。この後、主イエスは、何度も何度も「人の子」の務めを弟子たちに分からせようとして説明しておられます。「人の子」の務めとは、何でしょうか。
 まず「人の子」は、終わりの日にやってくる「裁き主」です。例えば、マタイによる福音書16章27節で主イエスは「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」と言っておられます。これは「終わりの日」のことを言っておられるのですが、こういうことを聖書から聞かされますと、私たちは別の箇所も思い浮かべます。マタイによる福音書25章31節以下には「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。「人の子」というのは、いずれやって来て、この世界に生きている全ての人を裁くお方であると教えられているのです。この世界に生きている全ての人ですから、私たちも含んでいます。主イエスがご自身の本来の栄光をまとって、この地上にやがておいでになる時、全ての者をこの地上での有り様によって裁いて、羊と山羊に選り分けられる。「あなたは、神に喜ばれる者か。それとも、退けられる者か」と裁かれる方として、主イエスは権威ある方、侮ることのできないお方なのです。
 けれども、裁き主としての「人の子」だけではなく、別の面についても、主イエスは教えておられます。終わりの日には裁き主ですが、この世にあっては、「人間たちに受け入れられず、苦難の末に殺される。そして復活される方である」と教えられます。例えば、マタイによる福音書17章22節以下には「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』弟子たちは非常に悲しんだ」とあります。このことについて、主イエスは何度も教えておられます。20章18節以下にも「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」とあります。
 つまり「人の子」というのは、本当はこの世界の裁き主であって、私たち人間一人一人がどんな人生を歩んだのかを最後に審判するという務めを負っている方ですが、そういう「人の子」を「この世は認めようとしない。むしろ、裁き主など、この世にとっては不要な者、鬱陶しい者として扱って、捕らえて十字架にかけて殺してしまうのだ」と、主イエスは弟子たちに教えておられます。

 このように、この世の人たちが人の子にひどい仕打ちをするのは、私たち人間が本当は神によって造られ命を与えられているにも拘らず、その神を無視して、神を抜きにして、まるで自分自身がこの世界の支配者であり人生の主人公であるかのように生きようとしている、そのことに関わりがあります。神抜きで、自分が神の座に着いてなんでもやりたいことをやる、それが当たり前だと思って生きる人は、本当の神を認めたくないのです。自分自身が神の座にいる。再三申し上げていることですが、この世にあっては、自己実現こそが大事なことだと思っている人が大勢います。人生とは、自分の思いや理想を実現していくステージだと思って生きている人は大勢いますけれども、しかしそれはまさに、その人が神の座に着いて自分の思い通りに生きていこうとしている、そういう姿なのです。
 けれども、教会では、自己実現を教えるのではありません。「私たちに命を与えてくださったお方がいる。その方の御心従って、私たちは生きていく。この方は決して私たちをお見捨てにはならない」と教えます。ですから、教会で教えていることは、今の学校教育の中で広く教えられていることと真っ向から対立します。多くの公立学校では、「あなたはどうなりたいのか。あなたの夢は何? そうなるために努力しなければなりません。努力しなければ、あなたは思い通りの人生を歩めません。人生の負け組になってしまいます」と、半ば脅しながら「生きたいように生きるのが一番良いのだ」と教えます。神抜きで生きていこうとする人は、どうしても自分の思いを通そうとする。その時には、本当の神は要らないもの、鬱陶しいものになるのです。その神から送られてくる「人の子」、私たちの人生を最終的に裁く方など、鬱陶しくて要らないものですから、十字架につけて殺し、追放してしまおうとする。神から送られてきた人の子について、実際にそういうことが起こったのです。
 主イエスが十字架につけられたのは、「人の子」だったからです。そして、この世の人たちが神を憎んで、人の子を鬱陶しがったから、人の子を受け入れようとしなかったから、主イエスは十字架に架けられたのです。そして、今日の箇所で「人の子には枕する所もない」と言われ、そういう「人の子」という言葉をお使いになっています。ですから、主イエスの側の思いからしますと、「わたしは十字架に架からなければならない。この世の人たちから相手にされず、退けられて、殺されていく、そういう者なのだ」という思いを持って語っておられるのです。
 「主イエスに従います」と言っている律法学者には、もちろん、そんなことは分からなかったに違いありません。しかし、主イエスは「これからわたしが向かうのは、エルサレムの十字架である。その道中には、枕する所もないのだ」という深い思いを持って語っておられるのです。枕する所がないから大変なのではありません。そうではなく、行く先が「十字架」である、だから大変なのです。
 ですから、「主イエスに従う」ということは、普通ならば起こらないことです。今日の説教題に「キリストに従う」と簡単に書きましたし、私たちはいつも、「主イエスに従いたいと思いながらも、いつも従えません。お許しください」という祈りをしばしばしますけれども、しかし「キリストに従う」ということは、本当は私たちが「十字架に向かって導かれている」ということでもあるのです。ですから、そんなに簡単に「キリストに従う」ということが起こる訳がないのです。しかし、もしそういうことが起こるのだとすれば、それは一つの奇跡ですが、主イエスが私たちに「わたしに従ってきなさい。わたしがあなたと一緒に歩んであげるから。だから、あなたはわたしに従ってくるのだよ」という招きがあって、また、主イエスがその招きに忠実に常に私たちと共に歩んでくださればこそ、私たちは「キリストに従う」という人生を歩むことができるのです。

 私たちは、「主イエスに従う」ということを、もしかすると、自分の信仰の強さとか、決心の強さとか、思いの強さによるのだと考えてしまうかも知れません。しかし、人間の思いや人間の考えで「主イエスに従う」ということは出来ないことです。主イエスが向かって行かれるのは、十字架の上です。私たちも主イエスに従うならば、十字架に架かった主イエスに付いて行くほかなくなるのです。ですから、私たちが本当に主イエスに従うとすれば、それは私たちの側に確かさがあるのではなくて、「主イエスの側で私たちと共に歩んで下さる」ところにあるのです。
 私たちの心や気持ちには、とりとめのないところがあります。一時「主イエスに従う」と決心して、心がそう向いているようであっても、次の瞬間には全く別のことを考えているということは、よくあることです。私たちの信仰の確かさは、自分の思いや決心の固さにあるのではありません。そうではなく、弱くていつも彷徨い出しがちな私たちですが、そういう私たちを主イエスの方が覚えていて下さって、近づいてきてくださる。そして御言葉をかけてくださって、「あなたは、わたしに従って来るのだよ。わたしは、あなたと共にいる。だからあなたは、わたしのもとで生きるのだよ」と呼びかけ、招いていてくださるからこそ、私たちは、その主の御声に導かれて、信仰の中にとどまっていることができるのです。
 今日の箇所で、律法学者が自分は主イエスに従って行けると思って、「どこへでも従って参ります」と申し出たのに対して、「人の子には枕する所もないのだよ」と諭しておられる主イエスの御言葉から、私たちの信仰の確かさがどこにあるのかということを思わされます。

 ところで、この箇所にはもう一人の人の話が出てきます。向こう岸に渡っていこうとする主イエスが「あなたも付いてきなさい」と招いた弟子の一人が、これは律法学者とあべこべなのですが、舟に乗ることをためらっています。21節に「ほかに、弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った」とあります。この弟子は「父親の葬りがある」と言っています。それに対しての主イエスの言葉は、何とも冷淡に聞こえます。22節に「イエスは言われた。『わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい』」とあります。主イエスは、随分ひどいことをおっしゃると思われるのではないでしょうか。肉親を亡くした人に向かって、「その人の葬りはどうでよいから、わたしに従って来なさい」とおっしゃるのだとすれば、「主イエスに付いて行くのは考えてしまうなあ」と思う方は多いでしょう。
 しかし、このやり取りには注意が必要です。この弟子の言葉を聞きますと、私たちは「この人の父親は今亡くなったのだ」と思いますが、もしかすると死んでいないかもしれませんし、あるいは元気でピンピンしているかもしれません。考えてみたいのですが、もしこの弟子の父親が今亡くなって今から葬儀なのだという状況にあるならば、この人はそもそも何故主イエスの側にいるのでしょうか。父親の容態が悪い、危篤だと聞けば、普通であれば、その病床に一緒にいるでしょう。しかし、この弟子はそうしていません。つまり、舟で向こう岸に渡ると言われたら、急に、「父の葬りがあるのです」と、父親の葬儀が降って湧いたように起こっているのです。
 これはどういうことかと不思議に思っておりましたら、今でも実は、中近東ではこういう言い回しがされるそうです。これは、自分の家から遠くに連れて行かれないための逃げ口上のようなのです。「父親の葬り」というのは、子供にとってはとても大切な義務ですから、必ず果たさなければなりません。そして、それを果たせるように、「今はこの家離れることはできません」という言い訳の言葉として、「父の葬りがあるのです」という言葉があるのだそうです。
 ですから、この弟子は、「父の葬りがある」という口実を設けて、「主イエスに付いて行きたくない」と言っています。「今は、父が元気でおりますから、この父を葬るまでは、この家を離れることはできません。将来、父が亡くなったら、その時にはどこへでもお供します」と言っているのです。

 けれども、この言い訳に対して、主イエスは「わたしに従いなさい」と言っておられます。主イエスの招きに従って、主イエスに伴われた者として生活していく。「そういう生活に、いつでも入れると考えるのは考え違いである」と主イエスは教えておられます。まさに、今、主イエスから呼びかけられているこの時に、主イエスの招きに応じなければいけないのです。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われます。「今は忙しいので、主イエスに付いて行くことはできません。いずれ、この忙しさから解放された時には、自由な時間が持てますから、その時には、本当に、見事に信仰者としての証しを立てたいと思います」という希望をおっしゃる方が時折おられますが、実は、そういう時が訪れる保証など、私たちにはありません。主イエスに従うことをためらって後回しにしていくうちに、いつの間にか疎遠になって、主イエスの声が聞こえなくなって、従って行くべき相手を見失ってしまう、そういうことが私たちには起こり得ます。
 主イエスは、そうならないようにと、この弟子に「わたしがあなたと一緒に歩むのだから、わたしに従ってきなさい」と教えておられます。

 今、主イエスが「わたしに従ってきなさい」と、私たちを招いてくださっています。そういう主イエスの招きの元に置かれているのです。
 今日初めて教会の礼拝にいらした方もおられますが、初めていらした方も、主イエスは招いておられます。「今日初めて主イエスに出会ったばかりなのに、なぜそんなことを言われるのか」と不思議に思われるかもしれません。けれども、キリスト者というのは、長く教会に通っているから主イエスに従っているということではありません。キリスト者の信仰生活というのは、一人の例外もなく、自分で従っているということではありません。そうではなく、主イエスが「わたしに従って来なさい。わたしが一緒に生きてあげるから。あなたがどんな時にも、わたしはあなたを見捨てないし、あなたの一生の全てに関わる。そして、あなたが地上の生活を終える時にも、わたしはそこにいて、あなたを永遠の命へと導く」と言ってくださる中で、私たちは一生を生きていくのです。

 主イエスの招きを聞き取って、同じ舟に乗り、向こう岸を目指して、ここから一日一日を歩んで行きたいと願います。
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