聖書のみことば
2016年10月
10月2日 10月9日 10月16日 10月23日 10月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月30日主日礼拝音声

 主よ、御心なら
2016年10月第5主日礼拝 2016年10月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第8章1節〜4節

8章<1節>イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。<2節>すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。<3節>イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。<4節>イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 ただ今、マタイによる福音書第8章1節から4節をご一緒にお聞きしました。1節に「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」とあります。
 主イエスが山を下って来られます。どうして今まで山の上におられたのかを要約しますと、主イエスがひととき、弟子たちと差し向かいで、神の御国について教えようとなさっておられたからでした。弟子たちが主イエスに招かれて弟子とされ「御国の民とされている幸いを生きる」ということについて、ゆっくりと教えるためでした。山に登られる前には、主イエスはガリラヤ湖畔の低い場所におられて、その時には、ひっきりなしに主イエスを訪ねる人たちがいて、弟子たちに教える時間が取れなかったのです。弟子たちは、湖畔で忙しくしていた主イエスが山の上に登って行かれ、自分たちのために時間を取って教えてくださったことを、きっと喜んでいただろうと思います。もしかすると、このままずっと山の上に留まり続けて、神の御国のことを教えていただきたいと思ったかもしれません。しかし、主は山を下って来られます。そして、低い所にお立ちになって、そこに暮している人たちにお仕えになります。「主イエスが人々に仕えてくださる」そのことを通して、主イエスと人々との交わりによっても、神の御国がやって来ていることがはっきりと表れるようになっていくのです。
 主イエスの山上の説教の直前の4章23節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と、山に登られる前の主イエスが描かれています。主イエスが「教え、宣べ伝え、いやされた」と語られています。主イエスの本来の働きは、「教えること、宣べ伝えること」だけではありませんでした。「癒し」ということが、おまけのようなものではないのです。元々主イエスは「この地上に生きている人たちが癒されていくこと」にも仕えておられました。主イエスは多くの人々に仕えようとしておられ、患う者に癒しの御手を差し伸べられておられました。そうであるのに山に登られたのはどうしてかと言うと、それは、弟子たちに教えるべきことを教えるには、あまりにも主イエスが忙しくなりすぎていたからです。そして、山に登られて弟子たちに教えられた後、再び山から下りて来られました。そして下りてきたところで、たちまち大勢の群衆に取り巻かれます。この人たちは、山の麓で、主イエスがもう一度訪れてくださることを心待ちにしていた人たちでした。「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」と言われている通りです。主イエスは群衆の間に来られて、この世の悩みや苦しみ、嘆きにお仕えになります。

 今日から聞き始める8章9章にかけて、主イエスの不思議なお働きが次々に繰り広げられます。数えてみますと10あると言われています。今日のところは「重い皮膚病の人の癒し」です。「重い皮膚病」は、以前の聖書では「らい病」と書かれていました。原文では「レプラ」という言葉で、今日では「らい病・ハンセン氏病」を指していますが、聖書の時代においては必ずしも、それだけではない皮膚病を指していると言われています。例えばレビ記には、レプラに罹った人として「白癬」も含まれていますので、最近の聖書では「重い皮膚病」と訳しています。来週は「百人隊長の僕の癒し」、さらには「ペトロの姑の癒し」「湖で嵐を鎮められた出来事」「ガラダで悪霊に取り憑かれた2人の人の癒し」「中風の人の癒し」「徴税人マタイへの招き」「指導者の娘と長血の女の癒し」「目の見えない人、口のきけない人の癒し」と、これからの章には、主イエスがこの世の様々な困難や悩みに出会われ、そこに生きている人たちを解放するという話が語られています。
 この一連の出来事は、一体何を伝えているのでしょうか。それは、主イエスとの出会い・交わりを通して、私たちが新しい希望を与えられ慰めを受けて生きて行く生活が、決して心の中だけに止まるものではないことを伝えようとしていると思います。主イエスを通して与えられる私たちの信仰とは、私たちの生活、その暮らしぶりに、驚くほど大きな影響を与えることになるのだということを伝えているのです。信仰の事柄を、私たちはつい、自分の心の持ち方の問題だと思ってしまいがちですが、実際はそうではありません。信仰は、心の中に止まっているものでも、あるいは辛い現実を一時和らげてくれる気休めのようなものでもありません。そうではなくて、信仰が与えられ、主イエスとの交わりが与えられる時には、主を信じて生きる人には大きな慰めが与えられ、そして、その人の生活が変わっていくのです。「今与えられている生活を精一杯に生きる」という力が与えられます。今、困難に取り巻かれているかもしれません。しかし、そこでなお、そういう自分として与えられている命を生きる、そういう力が与えられるのです。そのようにして、与えられた一日を毎日毎日生きて行くうちに、いつの間にか、最初はとても考えられなかったような変化が生まれてくるということも起こってくるのです。
 主イエスの癒しの出来事は大変不思議なことのように思えますけれども、しかし実はそれは、私たち信仰者が信仰を与えられ、慰めと勇気と力が与えられて生きる時に、私たちの身に起こり得ることを伝えていると言ってよいと思います。

 今日のところも短いたった4節です。山を下ってきた主イエスのもとに、重い皮膚病を患った人がやって来ています。この人は主イエスに非常に強い期待を抱いてこの場に現れます。その様子を聞き取ってみたいのです。
 まず、「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」とあります。「大勢の群衆が従った」というのは、山の上からずっと付いて来たということではありません。主イエスが来られるのを心待ちにしていて、主イエスが山から下りて来られて麓の低い所におられるという噂が流れると、いち早く聞きつけて押し寄せてきた、そういう群衆がここに従っているのです。どのくらい大勢の群衆だったでしょうか。昨日あたりからニュースでハロウィンの様子が報道されていますが、大通りを閉鎖しなければ道から人が溢れ出てしまうほどの賑わいだそうで、多分、主イエスの所にも、そのような群衆が押し寄せたのだろうと思いました。ですから「大勢の群衆」とは、知り合い同士なのではなくて、ただそこに「主イエスがいる」から集まって来ている人々なのです。
 ところがその最中に、群衆にして見ればぎょっとするようなことが起こりました。何と、群衆の中心におられる主イエスのすぐ前に「重い皮膚病を患っている人」が紛れ込んで、そして主イエスの前に出てひれ伏すのです。2節「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」。実は、この箇所には、私たちの持っている聖書にきちんと訳し出されていない小さな言葉が原文の中にあります。「すると、」のすぐ後に「見よ」という言葉が隠れています。「すると、見よ、一人の重い皮膚病を患っている人が」と書かれています。群衆は皆主イエスに近づきたいと思って主イエスの周りに集まり、ひしめき合っています。ところが、その最前列に「重い皮膚病の人」がいました。「見なさい、ここに重い皮膚病の人がいる!」という感じです。
 今日では、このようなことは人権侵害であり差別だと言われてしまいますが、主イエスの時代、あるいは日本でもつい最近まで、「重い皮膚病の人」は差別を受けていました。主イエスの時代では、「重い皮膚病の人」は「汚れた人」だとみなされていましたので、一般の人と共に暮らすことはできず、交わりを制限されたり、あるいは別の場所に隔離されて暮らしていました。ですから当時は、「重い皮膚病の人」が人混みの中にいるなどということは、普通には考えられないことでした。ところが、そういう人が、大勢の群衆の中の主イエスの真ん前に現れたのです。この人は交わりを避けなければいけない人です。レビ記14章45節に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とあります。どうして「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならないかと言いますと、間違って一般の人がこの人に近づかないようにするためでした。実際には近づいたら病気が移るわけではありませんので衛生的に汚れているのではないのですが、「重い皮膚病に罹った人」は「汚れた人」とされていました。こういう「汚れ」は、この病気だけではなく、動物の死体や人間の血も汚れたものとみなされていましたから、そのような「汚れ」に触れた人は、触れた人まで汚れた人になってしまうのです。他者が間違って触れてしまわないように「わたしは汚れた者です」と注意を促すという掟でした。
 ところが、普段であれば遠くに立って「わたしは汚れた者です。近づかないでください」と呼ばわっているはずの人が、主イエスを中心にひしめき合っている群衆の一番前に現れているのです。もちろん、こういう行いは律法違反ですから、このままの状況であれば、この人は群衆の怒りを買って、石を投げつけられて殺されてしまうかもしれない、そのような場面です。けれども、それでもこの人は、主イエスの前にやって来ています。「どうしても主イエスに癒していただきたい」と強く願っていて、「主イエスなら、わたしの病気を癒せるに違いないだろう」と期待していたのでしょう。そうでなければ、このような命がけのことをしてまでやって来ることは考えられません。そしてこの人は、主イエスに「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、ひれ伏しています。「ひれ伏す」というのは、最大限の礼儀を尽くした態度ですから、主イエスを単なる預言者以上の方と見ていることが分かります。

 けれどもこの人は、こんなにも主イエスに期待してひれ伏しているにもかかわらず、完全に主イエスの慈しみに信頼しきれているかというと、そうではないのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とは、面白い言葉です。この人は、主イエスが自分の病気を癒せるかどうかという点では、全く疑いを持っていません。主イエスであれば、必ず癒してくださると信じています。主イエスにその気があれば必ず治ると思っている、そういう点では強い信仰だと思います。ところがこの人は、主イエスが果たして自分などに慈しみを注いで下さるのだろうかと、その点には一抹の不安を抱いているようなのです。ですから「御心ならば」という言い方になっています。主イエスは神の力を持っている。その点に疑いはない。しかし「主イエスは、わたしを慈しみ、憐れみ、愛して下さるのだろうか」と疑っているのです。これは、言葉を換えて言うならば、「神は本当に、わたしを愛しているのだろうか」という疑いになります。
 こういう疑いについて言えば、まるっきり神を馬鹿にしている人は持つことのできない疑いですから、信仰者が持つ疑いだと言って良いと思います。しかし、この疑いは場合によっては極めて深刻なことに繋がっていく疑いです。上辺では、とても謙遜に聞こえます。もしこの人が「あなたがわたしを清めてくださるのが、神の御心です」と言ったとしたら、どうでしょうか。もし主イエスには神の力があって必ず癒してくださると信じているのであれば、こう言っても良いのです。「わたしは神に愛されている一人なのだから、主イエスに癒していただいてもおかしくない」と言っても良いのですが、この人はそう言えないのです。皆さんならどうでしょうか。ご自身が祈ったり願い事をするときに、この人と同じように思うことはないでしょうか。「自分としてはこうなって欲しいけれども、神はそれを望んでおられるだろうか」と分からないときには、「御心なら」という祈りを、案外、私たちもしているかもしれません。そしてその時に、私たちは、神の慈しみに疑いを抱いているとはあまり考えないで、そういう祈りをしてしまうと思います。しかし、これは場合によっては大変深刻な事態になるのです。
 教会の歴史の中で、中世の初めの頃、ドイツにボットシャルクという修道士がいました。この人は生い立ちが大変不幸な人で、生まれて間もなく両親から引き離され、親の愛を知らずに育ち、修道院に預けられて修道院の中で育ちました。非常に能力が高く学識が豊かな修道士になります。聖書の勉強をして、神の御言葉もよく理解していた人でしたが、ある時ふと、自分の生い立ちを考えるうちに、「わたしは本当に神に愛されているのだろうか」という問いを抱くようになるのです。「神は愛する者を愛し、またそれを見捨てることもできるとしたら、自分は愛されている側にいるだろうか、見捨てられる側にいるのだろうか」という問いが、この人の中で大問題になったのです。そして結論を言いますと、この人は自分の生い立ちから考えて、神に愛されていない側にいる人間に違いないと考えるようになってしまいました。そうすると大変です。自分は結局神に愛されていないのだから、立派な行いをしてもう一度神に愛されるようにしようとか、あるいは愛されていない者だけれども自分なりに周りの人たちに温かくして良いことをして過ごそうとは、思えなくなるのです。それは、相手が神だからです。自分がどんなに良いことをしても、努力しても、神が「この人を滅ぼす」と決めておられるのなら、自分は何をしてもダメだと考えざるを得なくなるのです。こういう考えに取り憑かれてしまって、何をやっても自分で自分を痛めつけるような思いになっていくのです。この人は、最後には激しく精神を病み、自分で自分の命を絶ってしまいました。
 ボットシャルクは、このように辛い境遇を過ごした人でしたが、教会の歴史の中では、この人がいたことから、神の御心は二重であるという説が生まれてきました。彼は、神が全能なる方であることをよく分かっていました。けれども、神は何でもおできになると分かっていても、その神が自分を慈しんでくださる方であることが分からなかったばかりに、辛い人生を歩んだのです。

 そして、今日の箇所の「重い皮膚病の人」というのは、こういうところが少しあるかもしれません。彼は、主イエスが自分を清くできるという点については全く疑っておらず、神の全能の力を主イエスが持っておられると思っているのです。けれども、その主イエスが本当にこの自分に御心をかけてくださるのかどうかと疑っているのです。深く信頼を寄せ期待しているけれども、同時に疑いと虚無的な思いに捕らわれている、そういう人が主イエスの前にやって来ているのです。
 主イエスはここで、どうなさるでしょうか。こういう人に対して「惜しいけれども、あなたの信仰は十分ではなかったね」と言って、お見捨てになるのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この人に対して断固とした態度をお取りになります。3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった」。何も考えずに読みますと、重い皮膚病が奇跡的に治ったことに関心が向きますが、しかしここには、それ以上のことが語られています。それは、主イエスがこの人に直接手を触れてくださっているということに表れています。当時のユダヤ人たちの普通の考え方で言えば、汚れに触れてしまったら、その人自身も汚れるのです。ですから、ここで主イエスが重い皮膚病の人に手を差し伸べて触れたのであれば、主イエスも汚れた者になってしまうことになります。しかし主イエスは、この人が神の前に清らかな者として生きる生活が始まるのであれば、ご自身は汚れても一向に構わないという態度でここにおられるのです。
 主イエスはこの人の汚れをご自身に引き受けられただけではありません。最終的には、人間の罪をもご自身の側に引き受けてくださって、そして罪ある者として十字架に架けられ処罰され、お亡くなりになっていきます。主イエスは十字架にお架かりになることも厭わない、そういう方として、この重い皮膚病の人の前に立っておられるのです。そして、この人に手を伸ばして触れておられるのです。こういう仕方で主イエスは「あなたには、神の愛と慈しみが確かに注がれている。あなたは神の前で清らかな者として生きていくことができる」と、断固とした姿勢でお示しになっておられるのです。主イエスの慈しみに対していくばくかの疑いを抱いてしまった、そういう人に対して、主イエスは、「間違いなくあなたを引き受けるよ」と言って、手を差し伸べ触れてくださるのです。

 そして同時に「よろしい。清くなれ」と言われました。これは原文では、「わたしは強く望む。清められよ」という言葉です。「わたしは強く望む」という言い方は、主イエスが山上の説教の中で繰り返し言っておられた言葉とよく似ています。主イエスは山上で、昔からの聖書の教えを引きながら教えるという場面がありました。「昔の人はこう言っている」「聖書にはこう書いてある」と言い、「しかし、わたしは言う」と言って、主イエスはご自身のことを教えられました。この「しかし、わたしは言う」という言い方が、「わたしは強く望む」と同じ言い方なのです。「わたしは望む。清められよ」と強くおっしゃっているのです。主イエスがこの言葉に込めておられるニュアンスまで入れて言い換えるなら、「あなたは、重い皮膚病を患っているが、そのことであなたを神から捨てられた者だと侮ったり蔑む人たちも大勢いるだろう。もしかすると、あなた自身でさえも、もしかしたら自分は神から見捨てられているのではないかと思っている。しかし、わたしははっきりと望む。あなたは清められよ」ということになるでしょう。「よろしい。清くなれ」という言葉は、十字架にお架かりになる主イエスが、「あなたの汚れも罪も、すべてわたしが引き受けるから、あなたは清められた者として生きていきなさい」と言ってくださる言葉なのです。
 これは単なる言葉ではなく、主イエスご自身も命がけでおっしゃっているのです。「あなたのために、わたしは十字架に架かる。このことによってあなたは罪を赦され、清められた者として生きることができるのだ」。こういう主イエスの言葉をはっきりと聞かせていただくことができるとは、本当に幸いなことです。
 主イエスはここで、重い皮膚病の人に向かっておっしゃっていますが、それはこの人にだけということではなく、私たち自身にも言われていることです。自分が神からどのように見られているだろうか。神に対してよそよそしくなって、神が身近に感じられない、そういう辛い思いをする時があるかもしれませんが、そういう時に、実は、主イエスはまさにそこで、神への愛と慈しみに疑いを抱いている一人一人に手を差し伸べ、直に触れておっしゃるのです。「あなたは清められよ。わたしはそのことを望んでいる。そのために十字架に架かろうとして歩んでいるのだ」と言ってくださるのです。

 主イエスは重い皮膚病の人との間でこうおっしゃり、また、神の清めが成り立つことを望むだけではなく、このことが、この世界の中ではっきり成り立つことも望んでおられます。4節に「イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい』」とあります。主イエスが手を触れ「清められよ」と言ってくださった、その時にたちまち癒されたことが3節に語られています。ところが主イエスは「だれにも話さないように気をつけなさい」と釘を挿されます。どうしてでしょうか。それは、清められ癒された人にとって
、今は人々に話している暇がないからです。この癒しの出来事がどこで起こったかと言いますと、大勢の群衆のいる只中で起こりました。多くの人がこの出来事の目撃者です。側から見れば、目撃者もいることですから話してもよいように思います。けれどもそうではないのです。主イエスが不思議な癒しの業をなさったという噂が広まっていくことは想像がつきます。噂が広まった時に、この人自身が「わたしが癒していただいた本人です」と名乗り出たらどうなるでしょうか。主イエスだけでなく、この人の周りも黒山の人だかりになるに違いありません。そして、どうやって癒されたのか聞かせてくれとせがむに違いありません。そういうことになると、この人は、果たして祭司のところに出かけて、体を見せて清められたことを証明してもらえるでしょうか。主イエスはそのことを気にしておられるのです。
 祭司は、どこにでもいるわけではありません。ここで体を見せに行く祭司がどこにいるかと言うと、エルサレムです。エルサレム神殿まで出かけて行って、そこにいる祭司に体を見せ、もはや重い皮膚病ではないことを証明してもらうのです。そして証明されたら、そこで感謝の献げ物を献げ、清められた者としての生活が始まるのです。そういうことですから、今ここで、この人が名乗り出たら、エルサレムへ行く道中にも大勢の人が群がるに違いありません。そしてエルサレムに入ってきた時には、「イエスに癒された人が来た」と分かるに違いありません。
 けれども、エルサレム神殿に仕える祭司たち、特に上の地位にいる人たちは、主イエスのことを快く思っていません。主イエスが力ある業をなさるなどということは、できれば無視したいと思っている人たちなのです。そこで予想されることは、彼らが何とかしてこの癒しの出来事は無かったことにできないだろうかと考えたり、場合によっては、この人を闇に葬ってしまおうとするようなことが起こらないとは限らないのです。そうならないように、「あなたは噂を広めてはいけない」と言われます。そして「今、あなたがまずすべきことは、一目散にエルサレム神殿へ行き、あなたの重い皮膚病が治っていることを祭司に確認してもらうこと。そして、もはや汚れていないと宣言してもらって、その上で献げ物を献げ、人々に対して清い者であることを証明して、そこからあなたの生活を始めなさい」と言われるのです。

 私たちは、主イエスの断固たる、命がけの行動によって、一人一人が神の前に清められた者として生かされています。私たちは、自分が歩んできた中で、常に成功してきたわけではなく、多くの失敗もしましたし、そのために多くの傷やシミやスネに傷を持っているかもしれません。けれども、そういう私たちに主イエスは触れてくださり、「あなたは清らかなのだ。清められた者として生きるのだ」と言ってくださるのです。「これまでどんなことがあったにしても、あなたは今、わたしの十字架に清められて、新しい者としてここから生きていくことができる。あなたに今から与えられている人生、生活は、清らかなものなのだ」と言ってくださるのです。
 そして、そうであることを、この社会の中で確かに成り立たせていくようにと言ってくださるのです。主イエスが、ただこの人を癒して「清くなれ」と言われただけではなく、何よりもまず「清められた者として、そこからもう一度新しく生き始める」ことへと招いてくださることを覚えたいのです。
 私たちの信仰は、自分の心の中だけの事柄ではないし、あるいは、主イエスとわたしの間の事柄だけでもないのです。そうではなく「主イエスによって清められた者として、この社会の中で私たちがそれぞれに生きていく。そういう新しい生活が始まる」、それが、主イエスによって私たちにもたらされる新しい始まりなのです。
 信仰は心の中だけのことではありません。私たちの生活を変えるものです。私たちは「清められていることの感謝に生きる。そういう生活に招かれているのだ」ということを覚えたいと思います。
 私たちが清められた幸いな者とされている生活をしていくことができるように、神に祈り求めたいと願うのです。

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