聖書のみことば
2016年10月
10月2日 10月9日 10月16日 10月23日 10月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月9日主日礼拝音声

 偽物注意
2016年10月第2主日礼拝 2016年10月9日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第7章15節〜23節

7章<15節>「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。<16節>あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。<17節>すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。<18節>良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。<19節>良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。<20節>このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。<21節>「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。<22節>かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。<23節>そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 ただ今、マタイによる福音書7章15節から23節までをご一緒にお聞きしました。まず、15節に「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。「ニセモノの預言者に気をつけるように」と、主イエスが言っておられます。「偽預言者」とは、一体、どういう人たちのことなのでしょうか。
 「預言者」という言葉を漢字でそのまま読むならば、「言葉を預かる人、預かっている人」と読めます。今日、教会の外で一般に考えられているように、先々のことを言い当てるという意味での「予言者」とは違うようです。先のことを予め言い当てるのが予言者ですが、聖書の中の預言者は、予定の予ではなく「預かる」という字が使われています。神から遣わされ、神の言葉を預かって、その言葉を人々に語って聞かせるのが預言者の務めです。神の御言葉を持ち運び、それを人々に伝えるという、御言葉に仕える者が預言者なのです。

 ところが、そういう預言者たちの中に、ニセモノが混じるようになるのだと主イエスは言われます。これは本当に由々しき事態です。しかし、一体どういう預言者がニセモノなのでしょうか。ある説教者は、この箇所を「預言者というのは、本来は、神の霊が与えられて、霊の働きに忠実に神の御名において語る人たちである。従って、預言者たちは最も聖なる御言葉を語る者として教会の只中に立つことになる。ところが偽の預言者たちは、なるほど上辺は尤もらしく振る舞うけれど、その内面に働いているのは聖霊ではない。偽預言者たちは神の御心に従おうとするのではなく、自分の思いや欲望に従って、自分のために言葉を語るのだ」と説明します。この説教者によれば、偽預言者というのは、簡単に言ってしまえば、御言葉を取り次ぐことで自己実現を図ろうとする人だと言えます。そういう人たちに気をつけるようにと、主イエスは言われるのです。
 そうだとしますと、「偽預言者を警戒しなさい」というこの言葉を、私たちは心して聞かなければなりません。普通は、偽預言者などと聞かされると、私たちはついつい偽物の教えを語っている人たちのことだと早とちりして考えてしまいがちです。いかにも聖書の言葉を語っているようだけれども、しかし注意深く聞いていくと、主イエスの十字架のことも復活のことも語ろうとしない、従って、その教えていることは主イエスの十字架と復活の福音とは違うことを教えていることになる。そのように、違うことを教える御言葉の語り部、預言者たちに気をつけるようにとおっしゃったのだと、つい簡単に受け取ってしまいがちです。元々の聖書の福音と違う教えが教会の中に入り込まないように注意すべきことを、主イエスはここで教えたのだと簡単に受け取ってしまうのです。確かに、教会の中に本来の福音と違う偽りの教えが入り込んでくるということはあり得ることです。そういう偽りを語る預言者もいないわけではないでしょう。しかし、それはまだ比較的判り易いニセモノです。もしかしますと、ニセモノの中にはもっと手強いタイプの人たちがいるかもしれないのです。

 では、手強いタイプの預言者とはどんな人たちかと言いますと、教える言葉自体は正しいことを語るのです。「神がこの世界全てをお造りになり、そこに被造物を置かれた。神はこの世界を本当に愛してくださって、特に人間について言うならば、最初の人アダムが神の言葉を無視して自分の判断を先立たせ善悪を知る木の実を食べてしまった結果、神に信頼して御言葉に従って生きるよりも、自分の判断や考えを先立たせるようなところが生まれてしまった。それでも神は、そういう人間たちを愛して、最初にアブラハムに呼びかけて下さったけれども、アブラハム以来、何度も何度も人間たちに御言葉を聞かせ、十戒を始めとする律法を与えてご自分の元に導こうとなさった。ところが、神が何度このようにして御言葉を聞かせても、人間たちは御言葉に背を向け、神の招きから逸れてしまうので、神は最後には救い主としてご自身の独り子をお送りくださって、人間が神に背いてしまう罪の身代わりとして独り子を十字架にかけて、私たち人間の罪を清算してくださった。ですから、十字架上であなたの罪はもう滅ぼされています。新しい命が与えられているのだから、その新しくされた命を、神に感謝して、神にお仕えする者となって生きていってよいのです。さあ、みんなでそのように生きていきましょう」と、聖書に照らして真に正しい言葉を語って聞かせてくれる。しかしその時に、その偽預言者は正しいことを語ってくれるかもしれませんが、実は、それが偽預言者自身のための行いであるかもしれないのです。
 あるいは、偽預言者たちは、伝統的な教会の福音に立脚して、今日の社会の時事問題について真に鮮やかに示すということもしてくれるかもしれません。平和について、人権について、聖書に照らして考えるならどう捉えるべきかを理路整然と教えてくれるかもしれないのです。ニセモノの預言者と言えども、預言者なのです。ですから、もしかするとその語っている言葉は、本当に正しいことのように聞こえてしまうかもしれません。
 しかし、そういう偽預言者がニセモノと呼ばれる所以はどこにあるのでしょうか。それは、その人自身が自分のために一切を語っているという点にあります。つまり、教会の中で、その預言者が本当に正しいこと、教会がずっと受け継いできた福音を語っているように見える。その預言者は、それを語りさえすれば教会の人たちがそれを喜んで受け入れてくれて、そして預言者のことを信頼し重んじてくれる、そういうことを期待して語る、そういう場合があるのです。
 そういう預言者というのは、私たちの現実で言えば説教者と言い換えてもよいかもしれませんが、そういう説教者とはどういう者なのか。正しいことを言っているように聞こえるのですが、実は、語りながら、皆さんの顔色を注意深く眺めている、そういう説教者なのです。自分が語っていることを聞いている人たちが受け入れてくれているだろうか。預言者というのは、本来は、聞いている人の顔色を見て話をするのではないのです。言葉を預けてくださった方、神の方を向いて、神を見上げながら、自分が今伝えている言葉は神の御心に照らして正しいでしょうかと尋ね求めながら語るべき者なのです。
 ところが、神を仰ぐのではなくて、聞いている人たちが喜んでくれるかどうか、そこにばかり注意を図る、すると結局どうなっていくでしょうか。最初のうちは、教会の中に元々聞かされていた純粋な福音というものがありますから、喜んで聞いているのです。ところが、そういう福音の言葉の中にも、実は私たちの心の中を刺すような言葉が無いわけではありません。「人間は本当に罪深い者であって、神を仰ぐことができない者なのだ」と聞かされるよりは、「人間はいつも神と共に歩めるのです」という話を聞かせてもらった方が嬉しいという誘惑が、聞いている人たちの中にも働くことがあるかもしれません。そうすると、聞いている人が少し聞きにくいなと感じる言葉を、偽預言者は次第に口ごもったり丸めたりして語らなくなっていく、そういうことが起こってくるのです。
 旧約聖書の中にも、実際にそのような預言者が登場します。預言者エレミヤが活躍していた時代に、ハナンヤという預言者がいたのですが、ハナンヤは典型的に聞く人の顔色ばかりを眺めながら話をする預言者でした。エレミヤ書28章15節から17節に「更に、預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。『ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。「わたしはお前を地の面から追い払う」と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。』預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ」とあります。
 神は先にエレミヤに対して、エルサレムは裁かれバビロンの軍勢によって滅ぼされてしまうという大変厳しい見通しを預言させました。当然、そのようなことは、エルサレムの主だった人たちにしてみれば、喜んで聞けるようなことではありません。「あなたたちのあり方が誤っていたので、エルサレムは滅びる」と神は言われたのですが、聞く側にすれば、そのようなことは聞きたくないのです。その様子を注意深く眺めていたハナンヤが横合いから登場して、別の預言の言葉をエルサレムの人たちの耳に吹き込みます。「バビロンの軍勢は決してエルサレムを陥落させることはない。2年のうちに、バビロンの軛は完全に打ち砕かれることになる」と、ハナンヤは言いました。ハナンヤは人々の関心を買いたいがために、エレミヤを通して語られている本当の預言を曲げて、人々に喜ばれそうな預言に変えてしまい、そのためにハナンヤは打たれてしまいます。ハナンヤの場合には、人々に受け入れてもらおうと思うあまり、大変分かりやすい仕方で、本来の預言と逆のことを語りました。
 しかし、たとえ語っている事柄自体が正しいとしても、もしそれが、預言者自身の「自分を受け入れてほしい、自分を重んじてほしい」という動機で語るのであれば、それは、偽預言者の行いなってしまいます。そのように、自分自身のために御言葉を語ろうとするニセモノの預言者に注意するようにと、主イエスは教えられました。

 語られている言葉が本当ならば、なかなかそれを見抜くのは難しいだろうと思います。私たちは、その言葉は本当のことだと思って聞くわけですから、その言葉が聖書に照らして尤もだと思ったとすれば、私たちは、「ああ、この人は本当のことを話している」と受け入れてしまうかもしれません。
 では、そういう受け入れ方というのは、いけないのでしょうか。どうして主イエスはここで、偽預言者に注意するようにおっしゃっているのか。もちろん、教えられている事柄が偽りであるならば、それに気をつけなければならないことは当然だと思います。しかし、教えられている事柄が本当であるならば、正しいことを教えているのであれば、それほど目くじらを立てることはないのではないでしょうか。どうして、主はこのようにおっしゃるのでしょうか。その理由は、信仰というものが、単なる言葉や思想ではないからです。信仰とは、生活です。偽預言者は言葉の上では尤もらしいことを並べるかもしれません。しかし、本心ではどう思っているかと言えば、神に仕え神に従って生きようとは思っていないのです。そうではなく、神の御名や神の言葉を利用しながら、自分自身の名前が大きくなって、自分自身が重んじられて、自分の思いが実現されていくことを望んでいるのです。そういう偽預言者たちの教えは、言葉としては正しくても、実際にそこに生まれてくるものというのは「正しいことを知っていれば良い、正しいことを口にしていれば良い」という現実的な、その人の生活とかけ離れた上滑りのものが育ってくるのです。

 主イエスは、マタイによる福音書5章で幸いな教えをお語りになり、神の前に幸いな人の生活とはこういうものであるというところから、様々なことを教えてくださいました。「幸いな教え」とは、教えと言いますけれども、実際には「幸いな人のあり方」はこうなのだという教えです。つまり生活なのです。主イエスが教えられた幸いとは、ただ頭の中や心の中で思ったり考えたりするだけのことではなく、実際に、そこを生きていくべき性質のものなのです。ですから主イエスは、預言者や説教者たちの言葉を聞くだけではなく、その生活がどのように実を結んでいるか、どういう実を結んでいるかを見るようにと言っておられます。16節から20節にかけてです。16節に「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」とあります。
 正しい言葉を語っているようであっても、そこに生まれてくる実が違うことがあり得ると主イエスは言っておられます。茨もあざみも、共に鋭い棘を持っています。それに似て、ニセモノの預言者や説教者たちというのは、実はとげとげしいのです。どうしてとげとげしくなるのかと言いますと、自分の本性を隠そうとするからです。自分の本性を隠すために人を寄せ付けまいとするのです。口では尤もらしいことを言っていても、自分自身の生活は、その言葉に照らしてみると真に空虚で内面には貪欲なものがあるのです。そのことを気づかせないように、棘で武装するのです。茨もぶどうも共に蔓を伸ばします。あざみもいちじくも共にあまり高くならない灌木です。とげとげしさを別にすれば、姿形は似ているところがあるのかもしれません。個人的には、あざみといちじくを間違うだろうかと思いますが、しかし、主イエスが生活しておられた中では似たものがあったのかもしれません。
 主イエスは、見たところは似ているかもしれないが、実際にその木がどんな実をならせるのかを見れば、それが本当に真実かどうかを見分けることができるのだとおっしゃるのです。ただ言葉を聞いて、「良い言葉だ」と思って終わるのではなく、そこから生まれてくる生活がどういう実を結んでいるのか、そこに注意するようにと勧められています。

 偽預言者は、教え自体が偽物の場合もありますが、本当のことを言っていても、それが口先だけになっている、そういうニセモノも有り得るのです。尤もらしいことを言っていても、そこに生活がない。従って、神の御前にあっては、そういうあり方は通用しないものとされ退けられてしまうのです。それは21節に教えられている通りです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。信仰というのは、口先だけのことではない。上辺だけのものではないのです。そうではなくて、本当に主によって幸いな者として、幸いな生活に自分が導き入れられていることを信じて、そこを真剣に生きていく。それが信仰生活なのです。
 先週は、「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えを聞きました。「狭い門」とは、主イエスご自身なのです。主イエスご自身を通って神のもとに行くようにと、主は言われました。

 さて、しかし、そのように信仰とは単なる言葉ではない、実際の生活なのだと言われてしまいますと、ふと不安になるという方もいらっしゃるかもしれません。信仰が単なる言葉や思いということではなく生活なのだとすれば、聖書の中に教えられている教え、福音をどう受け止めたらよいのだろうかと思われる方もいるかもしれません。確かに私たちは礼拝に集まって、何が本当に嬉しいのかと言えば、ここで聖書の言葉が読み上げられ、そして説き明かされて、それを自分が理解できるときだろうと思います。「自分がどのように歩んだらよいのか」ということを聖書から示される。そして「神がきちんと自分のことをご覧になってくださっている」、そのことを知る時に、私たちは喜びを感じるのです。

 そのように、言葉で私たちのことを理解するということと、実際に生活するということとは、どういう関わりになるのでしょうか。主イエスはここで、ただ単に、真剣に神のことを思って生活すればそれで良いのだと、真剣な行動だけを求めておられるのではないのです。偽預言者のように、生活のない空虚な言葉は大いに問題ですので、気をつけなければなりません。けれども、御言葉に聞こうとせず、ただ自分の真剣な思いさえあれば神に受け入れられるのだと、行動主義のように生活することもまた、気をつけなければならないのです。
 肝心なことは、聖書の福音に耳を澄まして、御言葉に耳を傾けて、御言葉によって慰められたり励まされたり教えられたりしながら、私たちが御言葉に変えられ、御言葉に支えられて生きていく、その生活が健康かどうかということです。

 主イエスは、今日のところで、あるべき信仰者の姿を「良い木と良い実」に喩えて語っておられること、このことに注意して聞き取りたいのです。「良い木は良い実を結ぶ」と言われています。良い実を結ぶということは、人間が積極的に行動して、自分から勝ち得るようなものではないのです。良い実を結ぶためには、あくせくと動き回りすればよいのではありません。そうではなくて「良い幹の木にしっかりと繋がって、栄養分を木から十分に受け取る」、その時に、その実は良い実に育っていくのです。
 先週聞きました「狭い門」というのは、主イエスご自身のことだと先ほど申しましたが、実は、今日のところで、私たちに良い実を結ばれる良い木というのも主イエス・キリストのことなのです。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」と主イエスは言われました。ニセモノの説教は、どんなに上辺は福音に似せていても、どこかに自分自身を誇ろうとする、あるいは自分を大きく見せようとするとげとげしさが宿っています。そして、そういう話は、その木がそこで生い茂る以上には、何の有益な実も生み出さないのです。
 しかし、真の良い木である主イエスは、私たちの生活に良い実を生み出すことができるのです。真の良い木というのは、ここにはぶどうやいちじくと語られていますが、真のぶどうの木であり、真のいちじくの木なのです。ぶどうの幹である主イエスは、ぶどうの枝である一人一人に恵みを豊かに注いで、たくさんの実りをその生活に生み出してくださいます。

 主イエスに繋がって、主イエスから聖霊を送っていただくことで、私たちがどういう実を結ぶことになるのでしょうか。これは、教会の先輩たちが私たちに語ってくれています。ガラテヤの信徒への手紙5章22節から23節に「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」とあります。
 御言葉を聞いて養われて、私たちの中に育ってくるもの、それは決して小さなものではありません。本当に豊かな、愛と喜びをはじめとする様々な賜物が、私たちに満ち溢れるようになります。そういう良い実が私たちにもたらされることを信じて、御言葉に聞き、そして祈り、神の御業に仕える、そういう者たちとされたいのです。
 御言葉に教えられ、養われながら、神の御心を行って生きる者たちへと育てられていきたいと願うのです。

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