聖書のみことば
2016年10月
10月2日 10月9日 10月16日 10月23日 10月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月2日主日礼拝音声

 狭い門から
2016年10月第1主日礼拝 2016年10月2日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第7章13節〜14節

7章<13節>「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。<14節>しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 ただ今、マタイによる福音書7章13節と14節をご一緒にお聞きしました。13節に「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とあります。
 主イエスが、山の上で弟子たちや群衆に教えてくださった「山上の説教」という箇所が、もうじき終わろうとしています。マタイによる福音書の5章6章7章は、丸々主イエスの教えでした。主イエスは、山上の説教の中で、まず初めには「8つの幸いの言葉」を語られ、「神の御前で真に幸いな人とはどういう人か」を教えてくださいました。それは、人間の思いや考えで人生を測り取って有頂天になったり気落ちしてしまうのではなく、「神にこそ信頼を置いて生きる」、そういう人こそが真に幸いな人だということでした。そして、そういう幸いな人のあり方とは、実際の生活の中ではどんなあり方になっていくのかということの幾つかの例を挙げ詳細に語られた後、先週聞いたところですが、7章12節で「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉で締め括っておられました。「人間に信頼するのではなく神にこそ信頼し、何であれ神に向かって必要を祈り求めて、そして、神の御心に従って、自分自身を大事にし、隣人を愛し、この世界に仕える」というあり方が真に幸いなあり方なのだと、この全体を通して語られました。それが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というあり方になるのです。そこまでで、「幸いな人」についての教えは一区切りがつけられています。

 そして、今日の箇所から7章の終わりまでが「山上の説教」の結びとなるのですが、ここを読みますと、警告の言葉が並んでいます。幸いな人のあり方が語られた直後に警告の言葉が語られるのは一見すると不思議な気もしますが、そうではありません。せっかく幸いな人のあり方を教えてもらっても、それをただの良い教え、一服の清涼剤のようなものだと受け取るならば、実際には、私たちの人生には何も起こらないからです。主イエスが山上で教えられた、「幸いな者として生きる」ことの実際に与えられる祝福はとても大きいものです。ですから主イエスは、教えを聞いた人たちが、この言葉を真剣に受け止めて生きていくようにと、最後に警告の言葉を続けておられるのです。
 今日のところでは「あなたがたは、狭い門から入りなさい」と言われました。「入りなさい」という言葉は、主イエスとしては大変珍しい命令の言葉です。先週の繰り返しになりますが、主イエスの言葉は、日本語訳で命令形のように書かれていても、原文では命令形でないものが多いのです。例えば、英語の文法で言えば未来形で「あなたがたは、きっとこうする。こうするに違いない」と書かれているものが、翻訳では「〜しなさい」となっているのです。けれども、この箇所ははっきりと、「どうしても入りなさい」という命令形の言葉です。しかもこれは、「いつでもいいから入りなさい」という言い方ではなく、一回限りの命令形です。「いつでも入れるのだからと、躊躇して止めて、でもやっぱり入ってみる」というような入り方ではなく、「あなたは、はっきりと決心して入りなさい」「あなたは、今、入るのです」という言い方なのです。
 このように、主イエスは「狭い門から入りなさい」とはっきり言っておられるのですが、しかし、この言葉を聞いて戸惑われる方もおられるのではないでしょうか。一体どこに入るのか。どこに入るのかは書かれていません。どこに入れと言われているのか。それは、「主イエスが教えてくださる新しい生活に」です。これまで主イエスが山上で微に入り細に入り様々に語り、繰り返し教えられた「新しい幸いな生活」、そこへ「入りなさい」と言っておられるのです。主イエスが常に誠実に向き合ってくださり、いつもどんな時にも、どんなことが起こっても、決して見捨てずに常に教え導いてくださることを信じて、「神に信頼を置いて生きていく、そういう新しい生活の中に踏み込んで行きなさい」と招いておられるのです。「狭い門から入りなさい」とは、聖書の中の一つの格言ということではなく、聖書から私たち一人ひとりに呼びかけられている言葉なのです。

 このように主イエスは「狭い門から入りなさい」と招いてくださっているのですが、逆に、招かれている側からの言葉が新約聖書の中に記されております。ヘブライ人への手紙10章19節〜23節に「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」とあります。ここで語られていることは、マタイによる福音書での主イエスの言葉と重なっています。ただし、ヘブライ人への手紙では19節に「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」とあります。これは「イエスの血によって」とありますから、主イエスの十字架のことを指しています。「主イエスが私たちのために十字架にかかって血を流してくださった」、だから私たちは「聖所に入れる」、つまり「神の御前に進むことができる」と言っています。
 私たちは今日、マタイによる福音書を聞いていますが、マタイによる福音書の最後では、主イエスが十字架にお架かりになり息を引き取られた時に何が起こったと記されているかと言いますと、エルサレム神殿から至聖所に入るところには普段垂れ幕がかかっているのですが、その幕が上から下まで真っ二つに裂けたという不思議な出来事が起こったことが記されています。一番奥にある垂れ幕が落ちたものですから、一番奥にある至聖所が一目で見渡せるようになりました。それは、「主イエスが十字架上で息を引き取ってくださった」、そのことで地上に生きている私たちが「神の御前に進んで行く道に何の障害も無くなって、まっすぐに続いていくようになった」のだということです。「イエスの血によって聖所に入れる」という言葉は、「主イエスが十字架上で血を流してくださった。そしてご自身の命をもって私たち人間の罪を清算してくださった。そのことによって、神の前に私たちを迎え入れることができるようになった」ということを表しています。
 「神の前に立つ」と言われますと、私たちは、自分が神の前に進み出なければならないのではないか、また、心の中で「神さま」と呼び、神の方に向かなければならないのではないかと思う方もいるかもしれません。けれども、私たちは実は、自然のままであったならば、神の前に立つことなど出来ないのです。例えば、私たちが「神の前に立とう」と思ったとしても、どちらの方向に神がおられるのかが分かるのかと言えば、分からないのです。上を向いて「神さま」と呼べば、そこにいらっしゃると分かるかどうか。私たちは普段、神と関わりのない生活、自分たちだけの生活を当たり前に送っています。神抜きで生活しているのですから、いざ神の前に出ようとしても、どちらに向いたら良いのか分かりません。
 聖書には、人間の罪、汚れということが語られます。私たちは「罪」と聞くと、普通は、何か悪いことをしたのだろうと思います。確かにそれも罪ですが、しかし聖書において「罪」とは、「人間が、神との関係が断ち切られた状態で暮らしているというあり方」を示しています。私たちは日頃、神を忘れて、全然神を顧みておらず、神抜きでも自分の人生はやっていけると思っていますが、そういうあり方が聖書の語る「罪」なのです。ですから、人間の目にからは何も悪いこととは映らなくても、私たち人間は、神との関係においては、恐らくは、全ての人間が罪を犯しているということになります。
 そして、神との関係が切れたままで生きているということは、別の言い方をしますと、私たちが「自分中心が当たり前で生きている」ということでもあります。「自分中心」などと言われますと驚かれるかもしれませんが、特別なエゴイストだと言われる人でなくても、私たちは一人の例外もなく、誰もが「自分が自分の人生の主人公」であり、この命、人生は自分のものであり、自分のために生きているのは当たり前のことだと思っています。「自分中心」だなどと言われて驚くぐらいに、気づかないほどに、自分が中心で生きることが当たり前になっています。それは言ってみれば、私という者が、本来は神がいらっしゃるべき位置に就いて暮らしているということなのです。「神から命をいただいた者として神に感謝して生きる」ということが本当のことであれば、そのように生きようとせず、神を忘れて自分だけで生きようとする、自分の人生は自己実現のためのものだと思って生きるならば、神にまるっきり背を向けて生きているということになります。
 私たちは、自分で自分の命を造ったわけではありません。神がこの命を与えてくださったからこそ、この地上に生まれ生かされているのに、その命をくださった神に感謝することもなく、自分の思いを実現していく、自分が主人公であり自分が神であると思っている、そういう生き方をするならば、聖書においては、明らかに本来の人間のあるべき姿ではないのであり、それが罪なのです。そして、そのように私たちは、普段、生きていますから、そのままでは神の前に立つことなど出来ないのです。真実な神の前にもう一人、自分が神となっている者が並び立てるはずがありません。神抜きで生きて、神をないがしろにして踏みつけにしている、それが実は、私たちの日頃の姿です。
 ですから、私たちが神の前に出たならば、神に打たれて死んでしまわなければなりません。あるいは、神とは関わりがないと言って自分だけで生きていくか、どちらかしかないのです。
 ところが、私たちがそのように神との関係の切れた状態で生きているということを神は喜ばれません。「せっかく人間に命を与えたのだから、何とかもう一度、人間がわたしの元で生きるように」とお考えくださって、神が地上に送ってくださったのが「主イエス・キリスト」なのです。主イエスがこの世に現れ、本当であれば私たちは神の前に出た瞬間に死ななければならない、その死を身代わりとなって引き受けてくださって十字架にかかってくださったのです。十字架の死というのは、ただの死ではなく、刑罰の死です。人間が悪を行ったときにその最後の責任を取る形で十字架の死が訪れるのですが、しかし、主イエスは何も悪を行っておられないのですから、本当であれば、十字架の死を受ける必要はなかったのです。しかし、どうして主イエスが無実であるにも拘らず十字架にかかられたかと言いますと、私たちが受けなければならない十字架の死を、主イエスが代わって引き受けてくださったからです。主イエスがあの十字架上で死の苦しみを経験することで、私たちが受けるべき罪の報いを受けてくださったのです。そのようにして主イエスは、十字架上で、私たちの罪を清算してくださいました。ですから私たちは、そのことを信じるならば、神の前に進み出ることができるのです。ヘブライ人への手紙は、そのことを指して「イエスの血によって聖所に入れる」と語ります。

 またそのことは、主イエスが神と私たちの間の橋渡しになってくださって、道を開いてくださったのだと言われております。20 節に「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」とあります。垂れ幕は神殿の垂れ幕のことであり、その垂れ幕が裂けたことは主イエスの十字架の出来事を指しているのです。主が十字架で死んでくださったことによって、私たちに新しい道が開かれたのだと語られています。
 主イエスご自身が神の御元に歩んでいかれるとそこが道になった、そういう聖書の御言葉を聞きますと、ヨハネによる福音書で主イエスが弟子たちに教えられた言葉を思い出す方もいるかもしれません。14章6節に「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」とあります。主イエスが十字架にかかってくださった出来事というのは、主が十字架で息を引き取られたことによって、この地上の私たちから神の御前にまで、ちょうど橋が架けられたように道が開けたことなのだと、主イエスご自身が言っておられるし、またヘブライ人への手紙でも語られるのです。実は、神と私たち人間の間はもともと深く断絶しています。私たちが高ぶり、自分が神のようになって生きてきてしまったのですから、私たち人間の側から神の方に届く道は、人間の力では作ることはできませんでした。ところが、神の方では主イエス・キリストをこの世に送ってくださって、道を開いてくださいました。主イエスが十字架にかかり、血を流して苦しまれ、そしてそれによって私たちの罪が精算される。そのところで、神に至る道が開かれて、私たちはもう一度神の前に進み出て、神に信頼し、神の御心に従って生きるようにしようと思えるようになったのです。「私たちのために十字架にかかってくださった」、そういう主イエスがどこまでも私たちと共にいて、「この十字架を見なさい。あなたのために神へと至る道が開かれているのだよ」と繰り返し語ってくださるのです。そのことを信じて新しい生活に入るようにと、主イエスは「狭い門から入りなさい」と招いておられるのです。「狭い門」とは、つまり「主イエスの十字架を信じて生きる」ということです。

 しかし、そのように主イエスが強く勧めておられるということを漠然と分かったとしても、少し不思議に思う方もいるかもしれません。なぜ、「今すぐ入りなさい」と言われているのか。先ほど言いましたように、ここは「いつでも入れますよ」というような余裕のある言い方ではありません。「今、入りなさい。どうしても入りなさい」という言い方です。なぜ主イエスはこのような言い方をなさるのでしょうか。まるで一刻の猶予もないかのように言われるのでしょうか。私たちは、もう少し時間は欲しいと思うのではないでしょうか。「主イエスが十字架にかかって、神さまに至る道を開いてくださったことは良い話だけれど、ではもう少し考えてからにしよう」と、私たちは自分の一生のかかることだと思えば、そうそう簡単に決められないと思うかもしれません。
 では、どうしてなのか。その理由は、13節の後半を聞くと分かりやすいかもしれません。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とあります。よく読みますと、ここは不思議な言葉です。「狭い門から入りなさい」と言った直後ですから、「狭い門から入ったら、入り口は狭いけれど中は広い」とか、「狭いけど良い道だ」とか、狭い門に関する話が続きそうなものです。ところが主イエスが言われるのは、狭い門のことではなく、広い門のことなのです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とありますが、主イエスが「狭い門から入るように」と強く促しておられる理由は、広い門から入って広い道を歩いてしまう人が圧倒的に多いからです。もちろん、狭い所から入るよりも広い所から入り、しかも広い道を歩く方が良いと考える人が大勢いても不思議ではありません。
 しかし、主イエスが「今すぐ狭い門から入れ」とおっしゃるのは、私たちが狭い門の前でどうしようかと迷っている時、自分では狭い門と広い門という分岐点に立って見回しているように思っていますが、しかし実は、狭い門から入らないということ自体が、広い門を通って広い道を歩いていくことに繋がってしまうからなのです。私たちはついうっかり忘れていますが、私たちの人生は時間の中にあります。今も、刻一刻と時間が経っている中で生きています。迷ったり何もしないまま時を過ごしていても、自分では少しも何も変わらないように思っているかもしれませんが、しかし、私たちは時の流れを止めるわけにはいきませんから、私たちは今この時も、地上の自分の人生を、終わりの時に向かって猛スピードで歩み続けているのです。私たち一人ひとりは、人生において立ち止まっていることはできません。常に前へ前へと進まされています。そして、そのようにして進まされて時間の中を歩んでいる私たちの元に、主イエスがわざわざ訪ねてきてくださり、神の御前に歩んでいくことのできる狭い門から入る道を示してくださるのです。「さあ、ここから入りなさい」と示してくださっているのです。
 主イエスの十字架の御業が確かに行われ、主イエスは確かに私たちに伴ってくださっている、そのことを確かなことと見定めた上で、「あなたは、今現在の自己中心なあり方から解き放たれて、神にだけ信頼をして、新しく生きることができる。あなたは、今、それを始めることができるのだよ」と、主イエスは招いてくださっているのです。そして、私たちはそういう主イエスの招きの言葉を聞いて、まさに「今」、狭い門から入って、主イエスの十字架の道の上を歩んでいくことが求められています。

 「ナルニヤ国物語」という童話で有名なイギリス人作家C・S・ルイスの書いた物語で「悪魔の手紙」という、とても変わった本があります。こちらは「ナルニヤ国物語」のような良い翻訳ではなく、読みづらいと一般的には言われているのですが、その内容は、ある人間の若者を新米の悪魔が誘惑しようとするというお話です。新米の悪魔が人間の若者を誘惑しようとする、その場面を見ていた先輩の悪魔、年寄りの悪魔が「お前のやり方ではダメだ。人間はもっとこのように誘惑したら、もっと上手に転ばせられるよ」ということを次々に手紙を書いてくれるというストーリーです。そういう中で、年寄りの悪魔が新米の悪魔に、「人間を神から引き離すには、今という時間を人間からそっと盗んでしまえばよいのだよ」と助言します。人間が時間を盗まれたことを知らずに過ごしてしまったらどうなるでしょうか。「わたしは、昔は神と繋がっていたから大丈夫だと安心している。たとえ今が少しあやふやでも、まだ先があるのだから、将来にまた神に繋がれるから大丈夫」と思って、その人は自分が神から離れてしまっていることに全然気づかずに、今という時が盗まれているために、神に従うことがないまま一生を過ごしてします。年寄りの悪魔は「神から離れてしまえば、俺たちの思う壺だ。その人は俺たちが何とでも支配できる」と教えるのです。これは創作ですが、しかし、大変考えさせられる話だと思います。
 私たちが神に信頼して生きるようになる入り口、それは、将来のどこかにあるのではないのです。それは、「今」という時にしか、ありません。

 しかし、その「今」という時は、刻一刻と移り変わっていきます。主イエスの山上の説教を、弟子たち群衆たちが聞き、「神に信頼して生きるところに幸いな生活がある」と教えられ、そうなのだと思っている「その時」、その瞬間に、主イエスは「狭い門から入りなさい」と言われました。私たちは、確かに聞いた時には「分かった」と思っていても、時の経過によって聞かされたことを忘れてしまうこともあるのです。「幸いな生活がある」と聞かされて嬉しい気持ちになる。しかし、時間の経過とともに、その時の感情のままでいられるかというと、そんな保証はどこにもありません。ですから主イエスは、「ぜひとも、今、狭い門から入ってしまいなさい」と勧めておられるのです。
 山上の説教を語り終えられたこのところで、「あなたが今なすべきことは、この狭い門を通って入っていくことだよ。そして、神の御前で、神に信頼して、神が望まれるように隣人を愛して、自分のして欲しいと思うことを隣人にもしてあげて生きるようになるのだよ」と教えておられます。

 私たちは、毎週毎週ここで礼拝を捧げますが、その一回一回が、「神に信頼して生きるように」と、主イエスからから語りかけられている、招かれている「今」という時なのだということを覚えたいのです。この礼拝から、私たちが神に信頼して生きていくという道が開かれていくのです。
 私たちは皆それぞれに、与えられている生活の中で精一杯生きていきますが、今のその生活が神の保護のもとに持ち運ばれていくのだと信じて「何であれ神に祈り求め、そして神に従う者としてここから生きる者になりなさい」と、主イエスは招いてくださっています。

 狭い門から入り、道である主イエス・キリストに伴われて、ここからの一巡りを歩んでいきたいと願います。
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