聖書のみことば
2015年9月
  9月6日 9月13日 9月20日 9月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月20日主日礼拝音声

 パウロの同労者たち
9月第3主日礼拝 2015年9月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第2章13〜30節

2章<13節>あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。<14節>何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。<15節>そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、<16節>命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。<17節>更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。<18節>同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。<19節>さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。<20節>テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。<21節>他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。<22節>テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。<23節>そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。<24節>わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。<25節>ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、<26節>しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。<27節>実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。<28節>そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。<29節>だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。<30節>わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙2章13節から30節までを、ご一緒にお聞きしました。聞きながら、18節までの言葉と19節以降の言葉では、ずいぶん様子が違うと気づかれた方もいらっしゃるでしょう。17節18節を見ますと、これはパウロが自分の死を覚悟していることを伺わせる言葉です。ところが19節以降は、そういうこととは打って変わっているように思います。「テモテとエパフロディトという二人の兄弟をそちらに送りたい」という内容で、自分の死ということとはかけ離れた、非常に日常的な事柄が語られています。
 こういうパウロのあり方から気付かされることは、キリスト者の地上の生活には、常に二つの事柄が同居しているということではないでしょうか。言い換えますと、地上のキリスト者は常に二つのことに心を向けながら生きているのです。その一つは、地上の命を超えたところにある天の事柄であり、もう一つは、その天におられる神から与えられるこの地上での生活です。この二つの事柄を抱えながらキリスト者は地上を生きるのだということを、このパウロの姿から教えられます。このことをパウロの言葉で言うならば、1章23節「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」とあるように、パウロは天に上げられてキリストの側に居ることに強く憧れていますが、しかし同時に、この地上で、パウロに今日与えられている使徒としての使命を果たすということにも心を向けているのです。「テモテとエパフロディトを送る」という言葉は、パウロが使徒としてこの地上に生かされている、そういう中で、フィリピの教会の群れに心を向け、牢屋の中からでも牧会しようとしているパウロの気持ちの表れだと思います。

 天上の事柄と地上の事柄に心を向けて生きるというパウロの姿、それはパウロ一人のことではなく、私たちもまた其々の信仰生活の中で、こういうあり方をしているのではないでしょうか。甦りの主イエス・キリストが確かに天にいてくださって、私たちのためにも日々ご自身の十字架を指差しながら私たちの罪を神の前で執り成してくださっている、だからこそ私たちは、この地上にあって罪を赦されている者としての生活に安心して励むことができるのです。天上には執り成し手である主イエス・キリストが居てくださる、だからこそ私たちは、決して絶望することなく、主に信頼し安心して、地上の生活に心を込めて向き合うことができるのです。

 先週は、私たちの国が大きな曲がり角を迎えたと言ってよい出来事がありました。けれどもキリスト者は、この出来事を、地上の事柄だけだと考えないのだと思います。確かに「好ましくない判断をした」と地上では思うかもしれません。様々な政治的な事柄というものは、その時代の人間によって動いていくことがあるでしょう。しかしそこで私たちが忘れてならないことは、事柄が思うように行っているかどうかと一喜一憂することではなく、「主イエス・キリストがこの世の罪のために十字架にかかり、執り成してくださっている」ということです。キリスト者は、この地上が「主イエス・キリストの執り成しの業の光に照らされている」ことを覚え続けて、この地上を歩むのです。
 キリスト者がもし、このことを忘れて地上の事柄に没頭してしまうならば、キリストの光を指し示す者がいなくなってしまいます。キリスト者は、この時代が良い方向に進んでいるように見えようと、悪方向に進んでいるように見えようと、それらを心に留めながらも、しかし、主イエスの執り成しの業を覚え、事柄がどうであったとしても、日々新たにされることを信じ励まされて、今日それぞれにこの地上において果たすべきだと信じる事柄に向かっていくのです。

 パウロは今牢屋にいて、命の保証のない状況に立たされています。パウロのみならず、私たちであっても、容易に乗り越えることができない問題、忍耐を必要とすること、ため息をつきながらもなお、そこで生きなければならない状況を抱えて生活するということがあるに違いありません。そのように難しく込み入った事情で生きる時に、最初から全てを見通せていたり、全てを理解しているということではないかもしれません。置かれている状況の中で、目の前にある状況を一つひとつ手探りで確かめながら慎重に事を運んでいかなければならない場合もあるでしょう。自分としては慎重に事を運んだつもりだったのに、結果が裏目に出てしまって期待外れだったという経験をすることもあることでしょう。神を信じてさえいれば万事は上手く運ぶなどということは決まっていない。ですから私たちキリスト者は、この地上を共に歩む他の人たちと同じく、苦しむことも悩むことも悲しむことも有り得るのです。
 但し、そうであっても、キリスト者が他の人たちと違っていることがあるとすれば、それは、「目の前で起こっている地上の出来事や事柄が全てではない」ということを弁えているということです。この地上を超えたところにおられる神がすべてを支配しておられ、私たちが日々生きているこの世界と私たちの人生を、神ご自身がご覧になり導いておられる。そういう中に置かれていることを信じて希望を持つことができる。そこがキリスト者と他の人との違いだろうと思います。目の前の状況がどんなに深刻であろうと、もう手の施しようもないから流れのままにするしかないと思ったとしても、しかし、その事柄だけが全てではないのです。キリスト者は、今見えている事柄だけではなく、肉眼では見ることのできない事柄にも目を向けます。神の御言葉を聞き、それを信じる信仰によって、今目にできないものを見るのです。

 パウロは、コリントの教会に送った手紙の中で、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントの信徒への手紙二4章16〜18節)と語っています。この手紙は牢屋から書かれたものではありませんが、ここでパウロが語っていることは、パウロが牢屋からフィリピの教会に語っていることと重なります。パウロは牢屋にいて手も足も出ない状況にある、けれども落胆しません。見えている状況は必ず過ぎ去る、だから「永遠なるもの、すなわち見えないものに目を注ぐ」と語っています。パウロは、天におられる父な神と主イエス・キリストを思って、力を与えられているのです。
 パウロが牢屋に捕らえられている状況は、まさしく、この世の人間の罪の様が現れている状況です。パウロは、不自由にされ、抑圧され、思うようにならない中にあって、しかし、そういう世界のために主イエス・キリストが十字架にかかり神に執り成してくださっている、この世界はそういう世界なのだと語ります。それは、牢屋の現実があまりに暗く辛いために、そこから逃れるために、パウロが空想の世界を語っているということではありません。そうではなくて、パウロは、パウロに出会ってくださった主イエス・キリストの御言葉を信じて受け入れたのです。
 もともとパウロは、主イエスを信じていませんでした。ところが、復活の主イエスがパウロに出会ってくださり、「パウロよ、なぜわたしを迫害するのか」と声をかけてくださいました。パウロは、救い主イエス・キリストが確かにおられ、自分のためにも執り成してくださっていることを知っています。そのところから、今の自分が置かれている現状に目を注いでいるのです。
 確かに、この地上の現実は惨憺たるものです。予断を許さない厳しい状況、もはや手の施しようのない状況だと思うかもしれません。けれども、私たちがどんなにこの現実に落胆し絶望しているとしても、そういう地上の現実はいずれ必ず過ぎ去るものです。そして、そういう移り変わりの中で、最後には「すべてを益として完成させてくださる神の御支配が必ず現れる」のです。それがどういう仕方で現れるのかは、パウロにも私たちにも見えているわけではありません。けれども「主の十字架の御業によってすべてが完成する」ことを私たちは信じて良いのです。

 パウロは、天の御業を確信し、そこから、今日自分に与えられている務めに向かって、手を引かれつつ押し出されています。そういうパウロの姿は、今日のこの箇所のみならず、パウロの記した手紙の端々に表れています。例えば、23節24節に「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」とあります。とても不思議な言葉です。17節では「自分の血が流れるかもしれない」と言っていたパウロが、「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと確信しています」と言っています。釈放される見通しのつく何か良い状況が、このほんの短い間に生まれたとでもいうのでしょうか。24節をよく読んでみますと、パウロは「主によって確信しています」と言っています。つまり、パウロの確信はどこに由来しているかということです。それは、自分の目に今の状況がどう映っているかというところにあるのではありません。そうではなくて、「主イエスが居てくださる。だから、わたしは必ず務めを果たさせていただける」という確信を、パウロは与えられているのです。この世の状況が好転してパウロが裁判で無罪判決を勝ち取り、「だから、そちらへ行ける」と言っているのではありません。そうではなくて、「主によって」、それはつまり主イエスが「パウロよ、あなたはフィリピに行くのだ」と命じてくださるのであれば、どんな困難があっても必ず行けるに違いないと、パウロはそういう希望を抱いているのです。
 パウロが、牢屋の中にあっても絶えず晴れやかに朗らかにいられる、その秘密は、地上の事柄と天上の事柄、その両方に目を注ぐことによって力を与えられていたからである、そのことを聴き取る者でありたいと思います。

 パウロは、そういう状況の中で力を与えられながら、自分の関わるフィリピの教会に対して心を向け、二人の兄弟をフィリピへ送ろうとしています。テモテとエパフロディト、この二人についてそれぞれ考えてみたいと思います。
 まずは、テモテです。19節に「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」とあります。パウロは、フィリピ教会の様子を知って力づけられたいのだと言っていますが、今パウロのもとにいるテモテがフィリピの教会に送られたらどんなことになるのでしょうか。フィリピの教会は、牢屋の中のパウロの身を案じていますから、そこからテモテが遣わされてくるとすれば、牢屋の様子はどうかと尋ねることでしょう。パウロは牢屋にあっても意気軒昂であり、天上での主イエスの執り成しによって力を与えられて、この地上の事柄に対しても希望を捨てず、自分もそちらに行けるものと確信していると伝えられたならば、フィリピの教会は大喜びすることでしょう。
 パウロが知りたいと願っているフィリピ教会の様子とは、パウロからテモテが遣わされることによってフィリピ教会が励まされて、もう一度ここで主に信頼して生きていこうとする、そういう姿です。フィリピの教会は、この町の中にあって、迫害を受けていたと思います。仲間外れや困難がある、そういう中で「主イエス・キリストの執り成しがあり、神が顧みてくださっている」という福音を知らされることによって、教会の一人ひとりに、ある落ち着きが与えられます。困難がある、しかしそれが全てなのではない。確かに行き詰まっている、しかしこの状況は既に、主イエスの執り成しの中にあり神が道を拓いてくださっている、そういう生活である。そして、主が共にいてくださると信じるとき、キリスト者には、「もう一度ここから始めてよい」という落ち着きが与えられるのです。
 パウロは、そういう落ち着きの姿勢がフィリピの教会に与えられ、困難な中にあって主に信頼して喜び、信仰生活を歩む、そのことを期待しています。
 そしてまた、フィリピ教会が励まされることのために遣わされるテモテという人物は、その役目に打ってつけの人物なのです。テモテはパウロと親子ほど年の離れた青年ですが、しかし全くパウロと同じ思いで福音に仕え、フィリピ教会の一人ひとりを心にかけ、覚えているからです。20節にはテモテについて「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」と言っています。「ほかにいない」というのは大袈裟だと思いますが、しかし、テモテがどれほど確かな人物であるかを表現したい故の言葉だと思います。

 また、もう一人、送られる人としてエパフロディトの名が挙げられています。彼はもともとフィリピの教会員でした。4章18節を読みますと、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」とパウロは言っています。フィリピ教会がパウロに贈り物をしたことが分かります。その贈り物は、パウロが牢屋の中で手元不如意になって不自由しないようにと、フィリピ教会が集めた献金だと言われています。エパフロディトは、その献金を届けるために牢屋にいるパウロを訪ねたのですが、それだけではなく、牢屋に留まってパウロの世話をしようと考えたようです。パウロに仕えようとする志を持ったということです。
 ところが、実際にパウロと牢屋で生活を共にしているうちに、牢屋の劣悪な環境のために、エパフロディトの方がすっかり健康を損ねてしまいました。2章25節26節を見ますと、「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」とあります。エパフロディトが瀕死の病気にかかったことが分かります。彼は、自分がパウロを支えようと思っていたのに、自分の方が病気になってしまったことで気弱になってしまいました。それで、ホームシックにかかったようにフィリピ教会の人たちに会いたがっている、その様子を見ていたパウロは、彼の病気が治ったなら、彼をフィリピ教会に送り返さなければならないと考えたのでした。
 その際にパウロは、エパフロディトの気持ちに配慮した書き方をしています。エパフロディトの気持ちからすれば、当初は自分がパウロを支えようと、自己犠牲をも厭わない奉仕の精神でいたにも拘らず、実際には、与えられたその良い思いが空回りしてしまい、無理が祟って自分の方が病気にかかりパウロに心配をかけることになってしまいました。エパフロディトからすれば、何と自分は心も体も弱いのだろうと、自らを不甲斐なく思い責めたに違いありません。
 志は良くても、諸々の事情のために思うように事が運ばないということは、私たちにもあることではないでしょうか。そして、物事が上手く運ばなかった時には、ともすると「上手くいかなかった原因は一体どこにあるのだろうか。きちっとそれを洗い出して、もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなければと」と建設的な意見を言う人もでてくることでしょう。もちろん、その人は「良かれ」と思っているのですが、しかし実は、私たちは、全ての物事を見通すことはできませんし、何でも自分が計画したように事が運ぶということはないのだということを弁えていなくてはなりません。
 パウロ自身は、牢屋の中でこのことを嫌と言うほど経験しています。何とかして牢屋から出て主の福音を宣べ伝えるためにもう一度伝道の一線に立って仕えたいと、そう思っても、思うようにはいかない。そういう経験をしているパウロが、エパフロディトを思い遣っているのです。エパフロディトの志は良かったけれど思いがけず病気になってしまった、その彼がフィリピ教会に帰って、今回のことは失敗だった、何が悪かったのかと皆で話し合ってしまえば、エパフロディトは自分にがっがりして、自分の良かった志までくじかれてしまうかもしれません。そんなことにならないようにと、パウロは、エパフロディトに対して最大の尊敬の気持ちを表して、彼を歓迎するようにとフィリピ教会に求めています。29節30節「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。
 本当に大切なことは「主に結ばれている」ということです。エパフロディトをどう迎えて欲しいか。「主に結ばれている者として、大歓迎して欲しい」とパウロは言っています。
 パウロは牢屋の中で、この地上の思うようにならない現実と、しかしそれにも拘らず、主イエスが天上で執り成し、神の御支配があることに目を注いで、勇気を与えられています。上手く事が運ばないという嘆きをたくさん抱えているに違いないパウロが、「本当に必要な時に御業をなさってくださるのは、神である」と確信しているのです。「エパフロディトを見なさい。彼は瀕死の病気にかかったけれども、彼が取り去られては困ると思ったときに、神は彼の命を助けてくださった」(27節)、「エパフロディトは病気になったことを通して、上手く運ばなかったその状況のままで、主の栄光を表す者、主に結ばれた者になっているのだ、だから彼を大いに歓迎してください。実際彼は、キリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」(30節)と、言っています。
 
 人間の計画が上手くいくところに神の栄光が表されると考えてはならないのだろうと思います。ともすると私たちは、自分の思い通りになるところに神の栄光が表れると考えたがるのです。教会であっても、教会に様々な人がたくさん集まって上手くいっていれば、それが神の栄光を表していると考えがちです。しかし果たしてそうなのでしょうか。そういうことではなく、神が私たち一人ひとりを憐れみのうちに覚えて慈しんでくださって、そして神が私たちにご自身の栄光を示してくださるのです。私たちの人生のその時々に、神の恵みと慈しみが確かにあるのだと教えてくださる。そこでこそ、私たち一人ひとりが、この地上において神の栄光を表す者とされるのです。
 エパフロディトは、人間的な目で見れば、良い志を実現できなかったという人物だと映るかもしれません。しかし大事なことは、人間の目にどう見えていようとも、その経過においてエパフロディトが主に結ばれた者として生かされ、用いられていたという事実です。そして、そういう仕方で、エパフロディトは立派に自分の使命を果たしたのだから大いに歓迎してほしいと、パウロは言っているのです。
 私たちは、こういうエパフロディトの姿を見せられて、自分たちにも同じようなことがあることに気付かされます。私たちもまた、できることなら主の僕として精一杯、見事に働きたいという志を持っているかもしれません。しかし実際には、どう行動し、どう生活することが主の御栄光をこの地上に表すことなのかが分からずに困ってしまうということがありますし、それだけではなく、自分がするべきことはこれだと分かっていても、自分を取り巻く諸事情によってなかなか上手く運ばないこともあります。
 けれども、何よりも大事なことは、そのようにして神へと心を向けて生きようとしている私たちこそが、神の光に照らされている、神のご覧になっている中で生かされている、この事実なのだろうと思います。
 私たちは、今日の生活を真剣に生きていくことを通して、神の栄光を表す道具とされているのです。病気になって動けず何もできないと思って嘆いていたエパフロディトは、その病人の様のままで、また病が癒され、用いられることを通して、パウロを喜ばせています。そして、パウロを神への感謝へと向かわせることができたのです。
 私たちも同様に、自分ではまだまだ不十分で何もできないと思っている、自分では寂しく思ったり悲しく思ったりするかもしれませんが、そういう私たちがそのままの姿で、信じる者の姿を示すことによって、兄弟姉妹を喜ばせ、共に感謝へと向かわされ、神のものとして生きていこうという思いが新たにされる、そのことを確認したいのです。
 私たちは、自分たちが神の御業の道具とされるということを切に祈り求めながら、今日わたしは何をなすべきでしょうかと真剣に尋ね求めて生きる者とされたいと願うのです。
 私たちの生活も、神の憐れみの器として用いられます。そしてその時に、私たちはパウロの同労者の一人とされている、そのようにパウロがここに語ってくれていることを感謝をもって覚えたいと思います。

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