聖書のみことば
2015年9月
  9月6日 9月13日 9月20日 9月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月13日主日礼拝音声

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9月第2主日礼拝 2015年9月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第2章12〜18節

2章<12節>だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。<13節>あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。<14節
>何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。<15節>そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、<16節>命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。<17節>更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。<18節>同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

ただ今、フィリピの信徒への手紙2章12節から18節までを、ご一緒にお聞きしました。
 12節に「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とあります。ここには「自分の救いを達成するように努めなさい」と勧められていますが、これはどういうことを言い表しているのでしょうか。「自分の救い」ということを考えることは、普段の私たちにはあまり無いことではないでしょうか。毎日の生活の中で、たとえば、朝目覚めた時に「わたしは、今日、救われているだろうか…」と思いながら暮らすことは、あまり無いでしょう。
 私たちが「自分の救い」について、あまり深刻に考えないことには、おそらく理由があるのだと思います。それは、聖書が告げてくれている「救い」というものが、そもそも個人的な事柄ではないからです。聖書の中に教えられている「救い」とは、もう少し言葉を補うならば、「罪からの救い」あるいは「死の滅びからの救い」です。「罪」というのは、度々語ることですが、法に触れる犯罪を犯しているということではありません。そうではなくて、神と私たちの間柄が切れた状態にある、神と関わりなく自分一人だけでこの地上の命を生きてしまっている、その状態が、聖書に言われる「罪」です。
 ですから、そこから救い出されるということは、一旦途切れていた神との交わりが、主イエス・キリストの仲立ちによってもう一度取り戻されるということです。私たちが主イエスを信じて神との関わりを与えられ、常に御言葉を聞き、御言葉に信頼して生活するようになる、それが、私たちが「救われている」生活なのです。

 神との関わりが切れていること、それは私たちにはしばしばあることですが、もしそれが当たり前になってしまったら、どうなるのでしょうか。私たちが自分の人生を自分一人のものだと思って生きていく時には、どうであれ最後には、必ず死の時が訪れ、その時にはもはや何もかも無くなり、死んで滅びてしまうのです。どんなに学識を豊かに蓄えていても、どれほどお金を儲けようが、社会的にどんなに認められようが、どんなに尊敬を受けようが、それらのことによって、死をやり過ごせるわけではありません。お金持ちであっても大学者であっても、どんな人格者であったとしても、私たちは、最後には等しく死の出来事を経験するのです。そして、もし私たちが神抜きで自分の人生を生きてしまったというのであれば、死に直面する時、私たちは全く無力な者でしかありません。
 死の出来事が起こるとき、何が一体そこで起こるのでしょうか。自分の死を見ることはできませんから分かりませんが、例えば、愛する者が死によって取り去られては困ると思って取りすがっても、しかし、そこに生じる死の出来事を取り消すことも覆すこともできないのです。私たちが、愛する召された者の亡骸にどんなに強く取りすがってみたところで、ほんの一瞬たりとも、またほんの一部でさえも、愛する者を死から取り返すことはできません。そして私たちは、そのことを知っています。
 では、死の出来事が起こるとき、私たちは何をするでしょうか。私たちは、愛する者をなるべく記憶に留めようとするでしょう。愛する者の面影を憶え、楽しかった生活を思い出して、思い出を何とか自分の側に留めておこうとします。亡くなった大事な人に向かって「あなたのことは決して忘れない」と言って、地上の生活から亡き人を送るのです。確かに、「忘れたくない」という思いは本音です。けれども、それで忘れずにいられるかと言いますと、大変これは残念なことだと思いますが、私たちは忘れてしまうのです。
 もし、死の出来事を超えても、なおしっかりと亡き人を受け止めてくださる、そういうお方がおられることを抜きにして、私たちが自分自身だけで生きようとする、また愛する者たちを自分自身だけで愛そうとするならば、地上においては、最後には死によって途切れてしまうことになるのです。

 しかし、生きる時にも死ぬ時にも私たちのことをご存知でいてくださって、しっかりと私たちを支え、捕らえていてくださるお方がいるのだと、聖書は教えています。そのお方が、私たちそれぞれに命を与えて、この地上を生きる者にしてくださったのだと、聖書は私たちに告げています。
 そしてそのお方は、自ら私たちと交わりを持とうとしてくださって、御手を差し伸べてくださるのです。私たちが本当にこのお方と共に生きるようになるために、このお方はご自分の独り子さえ十字架にお渡しになりました。そして、その十字架の御業によって、「あなたがたは、わたしを離れては滅ぶより他ない者なのだ」ということをお示しになりながら、同時に、「あなたがたは確かに、わたしに覚えられているのだよ」と語りかけてくださるのです。

 聖書に語られている救いというのは、私たちが何か修行をして、また行いによって手に入れるものではありませんし、あるいは様々な宗教的な思想を思い巡らして、すばらしいアイディアが思いつくことで手に入れるものでもありません。「救い」とは、私たちが考えたり思ったり行動することによって自分で調達するものなのではなく、「神が私たちに差し出してくださっている主イエス・キリストの出来事」がある、そのことを受け取って生きるかどうかによって決まってくるのです。
 パウロはこのことを、非常に明確に語ります。コロサイの教会に宛てた手紙の中で、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイの信徒への手紙1章13節14節)と語っています。「御父」というのは「父なる神」のことですが、神が私たちを暗闇の中から救い出して、主イエス・キリストの御支配の下に移してくださるのだと、パウロは語っています。神の方から御業を行ってくださる。ですから、「救い」とは、人間の業や行いによるのではなく、神のなさることです。
 けれども、そうだとしますと、今日のところでパウロが「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めているのは、一体どういうことを言い表しているのでしょうか。
 ここに「恐れとおののき」とあります。これらの言葉を、私たちは普段、あまり良い言葉として使っていないと思います。私たちは、出来れば、恐れたりおののいたりすることを経験せずに済ませたいと思っているのではないでしょうか。恐れやおののきよりも、安らかな方がよいと思っています。それなのに、ここでパウロはどうして、ことさらに「恐れおののきつつ」と言っているのでしょうか。
 その理由は、神が私たちのために行ってくださった御業が、まさしく「恐るべき御業」だからです。神がご自身の御子主イエス・キリストを通して行ってくださった御業、これを聞いて理解して、恐れない人は、いないはずです。もし私たちが本当に、主イエスの十字架の出来事を理解するならば、私たちは恐れを覚えずにはいられないのです。

 神のなさりように私たちが恐れを覚える、そのことを一番よく思い出させてくれるのは、毎年クリスマスの季節に聞く御言葉だと思います。主イエスがベツレヘムで飼い葉桶の中に生まれてくださった、そのことを、主の天使が羊飼いたちに告げました。ルカによる福音書2章8節9節に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」とあります。神ご自身が近づいて来られたというのではありません。神の僕(しもべ)に過ぎない天使たちが近づいて来ただけで、その天使たちに託されている神の栄光がほんの少し輝いただけで、羊飼いたちはひどく恐れ怯えているのです。
 本当に清らかな神の栄光に出会うというときには、私たちはそれを「ああ、綺麗だな」と喜んで眺めてなどいられないのだと思います。真実に清らかな神に出会うときに、私たちは、そこで自分自身の汚れが明らかになります。神の清さと私たちの汚れが対比されて、それで私たちは恐れます。私たちは、神の清さに触れられるような立場にはいないのです。
 旧約聖書の中にも語られていますが、旧約の預言者イザヤは、神のご栄光を目にするという場面で、喜ぶどころか嘆いています。イザヤ書6章1〜5節には「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た』」とあります。イザヤは恐れて嘆いています。しかも、この時イザヤが見たのは、神の御顔とか姿そのものなのではありません。神殿の中に衣の裾が広がっていたというのですから、神の足元の一部しか見えていないはずです。ところが、そうであるにも拘らず、イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言っています。神の栄光の御姿に直にお目にかかるということより以前に、天使の姿や衣の一部を見ただけで、人間はひどく恐れ、怯えきっているのです。

 神がそのようなお方であるとするならば、神が私たちの救いのためになさってくださった御業とは、いかなるものでしょうか。この御業は、神の独り子がこの世に現れて、人間にほんの少し近づかれたというようなことではありません。真実に私たちが神に立ち返り、神との関係を回復できるようにするために、「神の独り子がその身を捨ててくださった」のだと、聖書は語っています。神の独り子が自ら進んで十字架にかかってくださった、それは、「あなたのためだよ」と言われています。神抜きで生きてそれで大丈夫だと思っている、そういう生活の最後が滅びに向かう道であることを教えて下さりながら、主イエスはそのことを示すために、私たち人間と同じ様で生きてくださり、死んでくださったのです。
 ですから、主イエスの十字架の死というものは、私たちにとって対岸の火事というようなものではありません。神抜きで生きるならば、本当は私たちが神から呪われ捨てられた者となって死ぬしかないのに、その死を、主イエスが死んでくださっているのです。本来、死ぬ必要などなかった神の独り子が、私たちのために死んでくださいました。それは何故かと言えば、私たちが滅びる存在であることを教えてくださるためであり、しかしまた、そうであっても、そういう私たちを「神は愛してくださっている」のだということを伝えるためでした。それが主イエスの十字架の出来事なのです。
 私たちは「神の独り子が十字架にかかるほどに私たちを愛してくださった」という言葉には、喜んで耳を傾けるでしょう。しかし、その言葉を聞いてしまった以上は、聞いた私たちにも責任が生じるのではないでしょうか。せっかく神が、十字架の出来事を行って、独り子を犠牲にしてまで私たちを愛して「あなたがたは、わたしのものとして生きるのだよ」とおっしゃってくださり、恵みと憐れみの下に私たちを取り上げようとしてくださっているのですから、このことを聞かされている以上、私たちは、その恵みを無駄にしてはならないのです。そういう責任が生じているのです。
 考えてみますと、これは重大な責任だと思います。にも拘らず、私たちは普段、神がそんなに大きな御業をなさったのだと思っていないものですから、自分が「十字架によって救いに入れられている」という事実を、大変ぞんざいに扱っていると思います。「神がわたしを愛してくださるのは当たり前」、「十字架が分ろうが分かるまいが、わたしは神のものだし、神を知っている」と、つい私たちは十字架抜きでも自分が神のものであるかのように思ってしまうのです。神が私たちに、どれほど高価な贈り物を与えてくださったかということが分からないままでいるのです。

 贈り物で譬えてみましょう。愛する人に結婚を申し込む時、婚約指輪を贈るということがありますが、例えばその婚約指輪が自分にとっては大変高価な数千万円もするものだったとしたら、どう考えるでしょうか。恐らくその指輪を失くしたり傷つけたりしないように、大変気遣いをすることでしょう。金額の問題ではありません。相手は自分を愛しているから精一杯のしるしとして贈ってくれた、そのことは分かっていても、その愛のしるしを取り扱うには細心の注意を払わなければならなくなるでしょう。
 主イエス・キリストの十字架の出来事を知って、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努め」るということは、それに似たところがあると思います。他ならない神の独り子が、このわたしのためにも命を捨ててくださっている。わたしの身代わりとなって、神抜きで生きてきてしまったわたしのこの人生の清算をしてくださっている。神抜きで生きて神に逆らってきたのですから、本来のわたしは滅ぼされる他なかったのに、その私たちを主の身代わりの死によって赦してくださり、もう一度スタートラインに立たせてくださる。神に信頼し、神の保護の下に生きてよいのだと言ってくださっている。私たちはそういう生活をするようにと招かれているのです。
 そう考えますと、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するようにする」ためには、何をするべきでしょうか。それは、神のなさりように素直に感謝して生きていくということです。使徒パウロも、そういう思いをもって、ここで「従順に救いに与りなさい」と勧めているのです。

 そしてまた、私たちが神のなさりように対して、本当に感謝して素直に受け入れて生きるようにできるのは、実はこれは、神の働きによることです。13節に「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」とあります。神のなさりように素直に応じるように導いてくださるのは、実は「神である」と、ここに教えられております。
 ここに語られている言葉に注目したいと思います。「あなたがたの内に働く」という言葉と「御心のままに望ませ、行わせておられる」という言葉は、日本語では「働く、行う」と別の言葉に翻訳されていますが、ギリシャ語聖書では同じ言葉です。「エネルゲーア」という言葉で、英語の「エネルギー」の語源になっている言葉です。神が私たちのためになしてくださった救いの御業に素直に感謝して、それを受け止めて生きていくエネルギーというのは、私たち自身が絞り出すということではなく、神が与えてくださるものなのです。神が私たちに御言葉をかけてくださり、キリストの救いに与っている者であることを思い起こさせてくださり、私たちはそこから再び奮い立たせられ、「神のものとして生きる」というエネルギーを与えられるのです。

 地上の私たちの生活の中では、思いがけないこと、悲しいこと、辛いことがたくさん起こります。そういう出来事に出会うたびに、私たちは、「なぜわたしがこんな辛い目に遭わなければならないのだろうか」と、つい思ってしまいます。「わたしは、随分可哀想で惨めな人生を生きているのではないだろうか。神はどうして、わたしをこんな目に遭わせるのだろうか」と、そう考えている間は、決して答えを見出すことはできません。それはどうしてかと言えば、自分の感性の物差しを絶対のものと思っているからです。「わたしが嫌だと思うことは悪いことなのだ。辛いこと悲しいこと、これらはみな、価値のないことだ」と決めてしまっているのです。
 私たちの人生の中で起こることは、本当は、神が「必要なこと」として、私たちに与えてくださっているのです。もちろん、それらは当座は価値あるものだと思えないのですが、神が「あなたにとって必要なもの」として与えてくださっているものです。人生には間違いなく、悲しみ苦しみ、辛さがあります。けれども、それらの出来事を通して、「神はわたしに何を考えさせておられるのか、何を与えようとしておられるのか」、そう考えることもできるのではないでしょうか。思いがけない立場に立たされてしまった、その時に「失敗してしまった」と思うだけではなく、「ここから神は何をわたしに望んでくださるのだろうか」と考えることもできるのです。

 主イエス・キリストの十字架と復活によって、今ここで私たちの罪は赦されて、もう一度新しい者として生きてよいのだというスタートを、神が与えてくださっています。そして、ここに居る私たちを神はご覧になっておられ、「今ここで、あなたはどう生きていくのか」と、神は注目しておられます。私たちは、主イエス・キリストの御業によって、真実に自由にされているのです。
 ともすれば、私たちは惨めな恨めしい気持ちに引きずられて、それらが私たちの心を支配して、そういうところに繋ぎ止められてしまって、自分の人生はつまらないものだと考えてしまいがちです。神と繋がっていなければ、そうなるのです。罪の尺度で考えていると自分の思いが全てだと思ってしまい、自分の思いに沿わないものは、すべて悪いということになってしまいます。
 けれども私たちは、実は、自分のそういう様々な不機嫌な不愉快な思いの尺度に捕らわれなくてもよいのです。「今日この状況で、神が何をわたしに望んでくださっているのだろうか。神は確かに、この状況のわたしを顧みてくださっている」と信じるならば、私たちは逆境の中でも、しかし、僅かな落ち着きというものを与えられるのではないでしょうか。「確かにわたしは今、逆境の中に置かれている。しかしそれは、わたしが一人ぼっちで立ち向かわなければならないものではない。わたしは精一杯、この逆境において力を振り絞っていかなければならないけれど、しかし、このわたしの命は神がご覧になってくださっている命である。そして本当に駄目だと感じる時には、神がそこで支えてくださっている、そういう命なのだ。十字架にかかって復活なさった主イエスが、いつもわたしの裏打ちとなって、このわたしの人生の一番深いところに共にいてくださる。私たちに先立って苦しみを受け、私たちに先立って歩んでいてくださる」のです。
 私たちは、実は、自分が思うようにならない苦しみの中でこそ、十字架におかかりくださった主イエス・キリストに出会うことができるのです。主イエスが私たちのために十字架を背負ってくださっている。私たちに伴ってくださっている。私たちも、今、自分に与えられている人生をまっすぐに受け止めて、そして、十字架と復活の主イエス・キリストからエネルギーをいただきながら、与えられた日々の生活を歩む者とされる、それこそが、主に従って生きる人間の姿なのです。

 今日の箇所の最後のところで、パウロは、自分自身の姿を指差しながら、主に従って歩もうとするキリスト者を励ましています。17節18節に「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」とあります。パウロがフィリピの教会に、そして私たちに語ってくれていることは、本当に有難いことです。実際には牢屋に捕らわれていて命の保証もないパウロが、そういう困難な状況にある自分自身を指差しながら「たとえわたしの血が流れるとしても、わたしは喜ぶ」と言っています。これは決して、パウロのやせ我慢ではありません。「どんなに心細い時にも、どんなに苦しく辛く、また悔しい時にも、主イエス・キリストがそこに共に居てくださる。だからわたしは喜ぶのだ」とパウロは言うのです。「わたしが経験する悲しみや痛み、それは、主イエスが十字架に向かう道のりで既に経験してくださっていることだ、その主がわたしと共に居てくださる、だから、わたしは力を与えられるのだ」と言っています。
 パウロが牢屋から解放されて、これからいろいろとしたいことができると希望に溢れて喜んでいるというのではありません。「今日与えられているこの生活の中で、今ここにキリストが共に居てくださって、共に歩んでくださっている」と語り、パウロは牢屋の中にあって証しを立てています。このようなパウロの言葉を聞いて、私たちの信仰は励まされないでしょうか。

 私たちは、今日の状況で、牢屋に捕らわれているわけでも、命が危険に晒されているわけでもありません。本当に感謝すべきことです。けれども私たちは、今日それぞれの生活の中にあって、なかなか思うようにならない事情をたくさん抱えていますし、不安や悲しみや痛みをいっぱい持っているのです。私たちは、今の生活の中で、もしかすると「今、自分はこの地上で自分の生活の中に捕らえられている。まるで牢屋に捕らわれているみたいだ」と思うこともあるかもしれません。けれども、そこでこそ、主イエスが共に歩んでくださっているのです。

 パウロが伝えようとした喜び、その喜びを、私たちも聞き取る者とされたいと思います。パウロの喜びは、主イエス・キリストが、いつでもどこにでも居てくださり、私たちと共に歩んでくださるのだという喜びです。どんなに私たちが貧しく惨めになろうとも、決して私たちは神から捨てられることはないのです。
 主イエスが十字架上で、なお父なる神に信頼して祈りを捧げ、終わりまで歩み、死を超えて甦りの命に歩んでいてくださる。だから私たちも、今日の生活の中で、神の命に裏打ちされてこの場所で生きていくことができるのです。
 その喜びが、パウロの中に溢れています。そして、私たちはパウロと同じ喜びに与る者として、キリストの十字架の甦りの出来事に心をあげながら、日々与えられた生活を精一杯にここから歩む者とされたいと願うのです。

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