聖書のみことば
2015年8月
8月2日 8月9日 8月16日 8月23日 8月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月30日主日礼拝音声

 キリストと共に生きる
8月第5主日礼拝 2015年8月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第1章12〜30節

1章<12節>兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。<13節>つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、<14節>主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。<15節>キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。<16節>一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、<17節>他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。<18節>だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。<19節>というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。<20節>そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。<21節>わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。<22節>けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。<23節>この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。<24節>だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。<25節>こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。<26節>そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。<27節>ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、<28節>どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。<29節>つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。<30節>あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙1章12節から30節までをご一緒にお聞きしました。
 12節〜14節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」とあります。このパウロの言葉を聞きますと、この時パウロがどこかの町で牢屋に捕らわれていたらしいことが分かります。前にも言いましたが、1世紀の牢屋というのは、今日のように囚人の健康に配慮してくれるというような場所ではありません。運動もさせない、光も当たらない、食事も不十分、そういう場所ですから、パウロの今の状況は、命の瀬戸際にあると言えます。今日生き延びられるか、明日はどうかという日々を過ごしていたわけですから、ごく普通に考えれば、大変な緊張状態にあったはずです。
 ところが、パウロ自身は、自分の生死というものを主イエス・キリストとの関わりの中で考え語っております。「自分の生き死にの事柄が、キリストのためにどういう意味を持っているだろうか」と、牢屋に捕らわれながら、パウロはそのことを考えているのです。もしかしたら、この牢屋の中で命を落とすかもしれない。しかしそれでもパウロは、ここで起こっていることについて考える時、明るい顔で「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と言っています。

 この12節の言葉は、普段はあまり気に留めないところだと思います。もし100人のキリスト者に、フィリピの信徒への手紙の中であなたの印象に残る言葉は?と尋ねたならば、例えば2章6節以下のいわゆる「キリスト賛歌」とか、1章21節の「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉を印象深く覚えておられる方はいらっしゃるだろうと思います。けれども、12節の「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」という言葉を印象深く聞いているという方は、100人の内の1人もいないのではないでしょうか。しかし、この言葉はよくよく考えながら聞いてみますと、実に味わい深く慰めに満ちた言葉ではないかと思います。
 使徒パウロは、牢獄にあって明日には命が取り去られるかもしれないという状況の中で、自分の人生を思い返して測ろうとする時に、自分のこれまで生きてきた歩み、経験してきたことを、「福音の前進」という尺度に照らして考えてみるならば、これは決して無意味なものではなかったと感謝して、喜んでいます。こういうパウロの言葉を改めて聞かされますと、私たちも考えさせられるのではないでしょうか。

 私たちは、日頃はその日その日を生きることで精一杯になっていますから、立ち止まって自分の人生を振り返るというような余裕は無いかも知れません。しかし、何かの機会にふと立ち止まって、「自分のこれまでの人生って何だったのだろうか、どんな意味があったのだろうか」と考えようとする時には、私たちはどういう尺度で自分の人生を測ろうとするでしょうか。自分の人生にどんな物差しを当てて、良かったとか悪かったとか思うのでしょうか。どれほどお金を儲けることができたかという尺度でしょうか。どんなに栄誉ある立場に立つことができたかという尺度でしょうか。どんなに多くの人と仲良く暮らすことができたか。あるいは、どんなにたくさん美味しいものを食べ、美しいものを見ることができたかという尺度でしょうか。そのような尺度で人生を測る人というのは、日本の社会の中で少なくはないと思います。
 自分の人生を振り返って「良い人生だった」と考える人は、いろいろな尺度で自分の人生を測っています。しかしよくよく考えてみますと、そのような尺度というのは、すべて過ぎ去るものだと言えるのではないでしょうか。「今振り返ると、自分は、人生においていろいろな経験をすることができて嬉しい、良かった」と思う、しかしそれらはいずれも過ぎ去っていくものではないでしょうか。そして例えば、私たちの人生において、過去の栄光が大きかったり輝かしかったりすればするほど、今の状況がもしそうでないとすれば、今の状況が惨めに思え、またこれから先は下り坂の一本道だと、ため息をついたりするということも起こるのではないでしょうか。
 私たちは、生まれてから20年、30年、あるいは40年くらいは、肉体も精神も成長を続けていきます。ところが、やがて中年という年頃になると、肉体の成長は止まるようになります。こんなことになるとは思ってもみなかったと言うようになって自分でも驚いたりするわけですが、働き盛りと言われる年代に留まりたいと体を鍛えたり、容姿の衰えに対して手立てを尽くすなど、一生懸命努力をしてみても、やがてどうしようもない程に心身が衰えていくということが起こります。私たちは「生まれて・生きて・死んでいく」、そういう存在である以上、衰えを避けることはできません。自分の健康や名誉、社会の中で自分がどんなに重んじられているか、また何を持っているか、他者から見てどんなふうであるか、そういう物差しで自分を測ろうとする人は、最後には、自分の人生に絶望する他ありません。
 学校では「自己実現」ということを教えます。小学生、中学生、高校生という年代は、どんどん肉体が成長していきますから、「あなたはどうなりたいのか。なりたい自分になれることが良いことだよ。だからそのために努力しなさい」と教えられます。そうすると、大人になっても、どこかで「自己実現」が自分の尺度であるかのように思ってしまうのです。けれども、私たちの人生は、実現して実現して最後まで行ったら、皆最後はお墓の中に入るのです。「自己実現」という言葉は良い言葉であるかのように聞いていますが、しかしこれは決して、人間の一生の尺度にはならない物差しです。むしろ、終わりが近くなるにつれて、自己が実現しないように、しないようにと後ろ向きになってしまう。若い頃には前向きだった人も、人生の最後の方になると、いつの間にかお尻の方から歩いていくようになってしまいます。「昔のわたしは元気だったし、輝かしい経歴もある」と言って過去を見、今の自分の先にあることは見ないようにしてしまいます。私たちは、自分の持っているもので人生を測ろうとするならば、何をどうしたとしても絶望するしかありません。

 しかしパウロは、決して過ぎ去ることのないものに目を留めて、その尺度で自分を測っています。それは、「キリストの福音」という尺度です。パウロは、自分自身の持っているものの大きさとか、自分がどう扱われているかとか、自分の夢や希望という尺度で人生を測るのではありません。どんな境遇にあってもパウロを見捨てることのない、そういうお方がおられ、その方は陰府にまで下ってきて、地の中にすらパウロを尋ね求めてくださる。そういうお一人の方がおられる、そのことを確かめることで、自分自身の確かさを知ろうとしているのです。「このわたしが何によって確かなものとされているのか。それは、キリストがこのわたしのために十字架におかかりくださり、陰府に下り、そして甦って、今日わたしと共にいてくださることではないか。そういう福音の知らせがこの世界に伝えられていく、そのことの中で自分の人生にはどういう意味があるのだろうか。自分の人生はこの牢屋の中で終わってしまうかもしれない。しかしたとえそうであっても、キリストの福音がこのわたしを捕らえている」。パウロはそう思って、「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った」と言っているのです。

 しかしここで思うのですが、「パウロの身に起こったことで福音が前進している」とは、一体具体的にはどういうことなのでしょうか。よく考えてみますと、これは面白い言い方だと思います。「福音」というものは、「前進したり後退したりする」ということです。日頃そんなことを私たちは考えません。「キリストの福音」をもう少し丁寧に言えば「甦りの福音、十字架と復活の福音」と言ってよいと思います。主イエス・キリストが私たちのために、すべての人々のために十字架にかかって、その苦しみと死をご自分の側に引き受けてくださって、三日の後に甦えられた、それゆえに、死も永久に主イエス・キリストを止めておくことはできないことが明らかになりました。「本当の命の主は、死ではなく神である」、それが福音という事実である以上、私たちは、その福音が前進したり後退するとは考えていないと思います。
 ところが、パウロはここで「福音が前進している」と言っています。私たちが福音を信じている時には福音はあるけれども、私たちが福音を忘れてしまっている時には福音は無いのか……そんなことはありません。主イエスが十字架上で死なれた、その事実は、私たちの心の中にだけある出来事なのではなく、この地上で確かに起こったことです。聖書の中に書いてあるだけではなく、同じ時代のローマ帝国の資料にも書いてある出来事です。また聖書の中には「主イエスの復活」が語られています。「復活」というのは信仰によって受け取る出来事ですから、歴史の資料には「復活がありました」とは書いてありませんが、復活を信じる人が大勢いたという事実は、歴史の資料にも記されています。
 「主イエス・キリストが甦られた」、このことは初めから信じる人も信じない人もいました。しかし、信じない人でも、信じている人がいることを否定することはできません。つまり、自分は主イエス・キリストの甦りを信じない、だから、こんなことを信じる人は誰も居ない、とは言えないのです。現に、主の復活を信じ、甦りの主イエス・キリストによって慰めを受け、勇気を与えられて生きている人たちがいる。世界中にいるのです。日曜日のこの時間に礼拝を守っているのは、私たちだけではありません。日本中の教会が礼拝をしています。世界中で一番早い時間帯に日本で礼拝が守られ、その後数時間してアジアで、次にはインドで、中東で、そしてヨーロッパで、そして最後にアメリカで礼拝が守られます。24時間ずっと、絶えることなく、日曜日には世界中で礼拝が守られるのです。主の復活を信じない人がいても、しかし事実はあるのです。
 ですから、福音を信じない人がいても、福音が無くなるわけではありません。それは、教会が誕生した頃からそうでした。信じる人もいた、信じない人もいた。しかし福音そのものは、信じている人たちによって大事に、二千年の後までも持ち運ばれているのです。

 では、「福音が前進する」とは、どういうことでしょうか。福音を信じる人が増えて、教会に最早入りきれないほどに人が詰め掛けてくる、そういうことが福音の前進なのでしょうか。そういうイメージを持つ方もいらっしゃることと思います。教会の勢いと書いて「教勢」と呼んでいますが、教勢が伸びる、つまり人数が増えることが福音の前進だと考える人がいるかもしれません。
 しかし、そう思って今日の箇所を読みますと、気づきます。パウロは「福音が前進している」と言っていますが、人数のことは一切出てきません。それどころか、ここでパウロの語っていることは、「わたしは牢屋に捕らわれている」ということです。それは、パウロ自身が外で自由に主イエスのことを伝えることすらできない、極めて厳しく制約を受けているということですが、しかしその下で「今まさに、この状況の中で福音が前進していることを知ってほしい」と言っているのです。ですからパウロは、人が増えるということを考えているのではありません。

 では、パウロはどこに福音の前進を見出しているのか、そこが疑問になります。13・14節でパウロは「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」と言っています。パウロは、「今自分はキリストのために牢獄に捕らえられている。そのことが広く知れ渡るようになり、わたしパウロの様子を見た人たち、兄弟姉妹たちが勇気と確信を与えられて信仰に留まっていると思えるようになっている。そこに福音の前進があるのだ」と言っているのです。パウロが捕らえられた、そのことで信者が増えたということではない。そうではなくて、「『パウロという人物が牢獄に捕らえられているのは、主イエス・キリストという方の甦りを懸命に宣べ伝えているかららしい』、このことがパウロの捕らえられている牢獄全体に知れ渡っている」と書かれています。しかしだからと言って、ローマ兵たちが主イエスを信じるようになった、あるいは洗礼を受けるようになったということではありません。もしそういう喜ばしいことであれば、パウロがここに記していてもおかしくないでしょう。しかし記されていないということは、そういうことはまだ無かったのでしょう。しかしそれでも、パウロが牢屋の中で囚われ人としての生活を従順に生きている、そのことは、同信の友であるキリスト者たちに影響を与えないではおかなかったのです。

 パウロは牢屋の中で平然と暮らしていますが、人によっては、もしかすれば同じ状況であればこうはいかないと考えることができます。牢屋に捕らえられていないからキリストへの信仰を公に語っているけれども、しかし一度牢屋に捕らえられれば、「キリストは神ではありません」と言って牢屋から出してもらおうとする人もいるかもしれないのです。死への脅しに屈してしまったり、甘言に屈するということは、あり得る。そのために福音を曲げてしまうことも、私たちにはあり得るのです。もし、私たち自身が牢屋に捕らわれると考えるとどうでしょうか。私たちは果たして最後まで、「キリストはわたしの主である」と言い続けることができるでしょうか。たとえば、看守の甘言によって、「福音を少し曲げてでも、家族の元に早く帰ったらどうだ」とでも言われれば、そういうことには屈してしまうかもしれません。
 考えてみますとこのことは、70年前にこの国に起こっていたことです。私たちの教会は、そういう迫害の中で信仰を守り続けたキリスト者たちから主イエス・キリストの福音を知らされて、そして私たちも今信じる者とされているのです。今日の社会状況下で、私たちが主イエスを「我が主」と信じ言い表すことで警察に連行されることもないということは、本当に感謝すべきことでしょう。しかしそれは、決して当たり前のことではありません。むしろ、私たちは信仰を告白する時に、信仰によって投獄されたり命が脅かされるということがあるかもしれないということを、どこかで冷静に受け止めておかなければならないかもしれません。

 ここでパウロは実際に投獄されていますが、しかし少しも逆上したり慌てたりしていません。牢屋の外にいた時と同じように、不自由な暮らしの中で、しかし福音に慰められ励まされながら、一日一日を過ごしています。どうしてでしょうか。それはまさに、十字架の主イエス・キリストの福音とはそういうものだからです。主イエスを信じたら、私たちの人生はバラ色になるのだと聞かされて信じているのではありません。私たちは、神から与えられた自分の人生をそれぞれに、その人らしく、終わりまで歩んでいくべきことを聞かされています。そういうあなたの人生は、しかし、あなた一人ぼっちの人生なのではない。神があなたの人生をご存知である。自分自身としては覚束なさを覚えたり、弱さ、辛さ、苦しみを覚える時にも、神がそういうあなたのことをご存知で、「そこで生きてよい」と支えてくださるのです。甦りの主イエス・キリストが私たち一人ひとりに伴って与えてくださる勇気とは、そういうものだろうと思います。私たちは主イエスに伴われている、その主イエスを信じて一日一日の生活を歩んで行く、そこにこそ実は「福音の前進がある」のです。

 キリスト教とはどういう宗教かと問われて、ある牧師が語っています。キリスト教と聞くと、世間ではイエス・キリストという人の教えた教えだと思っている人がいる。それはしかし正しくない。また、イエス・キリストから人生論とか人生観を学ぶと思っている人もいる。それも正しくない。本当のキリスト教とは、「あの十字架に死なれた主イエス・キリストがわたしと共に歩んでくださるということだ」と。主イエス・キリストがわたしと共に歩んでくださり、その主イエス・キリストは最後に必ず私たちのもとを尋ねてくださって、すべてを完成してくださるのです。今この地上では、私たちには、様々な誘惑や闘いがあって思うように生きられないとしても、最後には、主イエス・キリストが私たちを神の元へと連れて行ってくださる、私たちが神を褒め称え讃美する生活へ至るところにまで連れて行ってくださる、それがキリスト教なのです。
 まさにパウロは、牢屋の中で、不自由な中で、様々に欠けている中で、しかしそこで、キリストと共に寝起きし、どんなに辛さ苦しみ痛みがあっても、取り去られることのないキリストが共に居てくださると信じています。たとえここでパウロが命を落とすとしても、主イエスは陰府の中にまでパウロを探し求めて下ってきてくださり、パウロを連れて神の元へと引き上げてくださる、そういう希望を持ちながら、パウロは、今日を充実して生きています。

 そういうパウロが「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と呼びかけているということは、私たちにとって、とても有難いことではないでしょうか。私たちは、信仰のゆえに牢屋に捕らわれているわけではありません。しかし日々の暮らしの中で、私たちは、一人の例外もなく、どこか不自由なところがあるのです。自分の思い通りに、何でも自分にとって喜ばしくできているという人は居ません。皆一人ひとり、私たちは、状況は違っても、不自由さの中に捕らえられて生きています。肉体の痛みであったり、自分の将来に希望を見出せなくて、まるで牢屋に捕らわれているかのように思っているかもしれません。将来のことを考えるとあまりに息苦しいので、もはや先を見るのは止めて、今の自分の手近にある楽しみばかりを追いかけているという人も、この世の中にはたくさんいると思います。
 私たちは皆、一人ひとり状況は違いますが、どこかで限界を感じながら生きています。しかし、そういう私たちに対しても、パウロは牢屋の中から呼びかけています。「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。「なぜならば、福音の前進とは、甦りの主イエス・キリストがわたしを訪れてくださっていることだから。主がわたしと共に歩んでくださっているから。まさにこの牢屋の中で、キリストがわたしと共に歩み、福音は前進している」と。

 この世界の中には、主イエスが経験なさらなかった苦しみも、主イエスがご存知でない悲しみも無いのです。私たちの生活の隅々にまで、主イエスはやって来てくださるのです。旧約聖書の創世記16章にアブラハムの家から逃げ出したハガルとイシュマエルの話が記されています。ハガルは、女主人であるアブラハムの妻サラに辛く当たられて、幼いイシュマエルを連れてアブラハムの家から逃げ出します。逃げ出したものの、逃げ出した先で行き詰まり、命も危うくなるのです。ところが、そこで神に出会うのです。そして、自分の生活のすべてを神が見守ってくださっていることを知ります。16章 13節に「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである」とあります。あなたがこんなところにまで、わたしに伴っていてくださったとは知りませんでした。あなたがわたしを見守っていてくださったことを、今知りました。ハガルはそう言って、神を「エル・ロイ」と呼びました。
 「以前には、神がわたしの側におられるなんて知らなかったけれども、実は神はずっとわたしに伴っていてくださったことを知るようになった」、そういう経験を私たちも持っているのではないでしょうか。そして、まさにそういう時に、そこが「福音が前進している現場」になるのです。そして私たちは、以前よりも更に、主イエスに確かに伴われているのだという確信を強められ、恐れることなく勇敢に御言葉を信じ、また伝える者へと変えられているのです。

 今日ここから始まっていく、私たち一人ひとりのそれぞれの場面、その一つ一つに主イエスが伴ってくださる、そのことを確認して、もう一度ここから歩みだしたいと願うのです。

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