聖書のみことば
2015年2月
  2月1日 2月8日 2月15日 2月22日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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2月22日主日礼拝音声

 主イエスの祈り
2015年2月第4主日礼拝 2015年2月22日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章32〜42節

14章<32節>一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。<33節>そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、<34節>彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」<35節>少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、<36節>こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」<37節>それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。<38節>誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」<39節>更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。<40節>再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。<41節>イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。<42節>立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 今日は35節からです。35節「少し進んで行って」と言われております。それは、3人弟子たちと少し距離を取られたということです。主はゲツセマネに「祈るために」来られましたが、それは弟子たちと共に祈るということではなく、あくまでも一人で祈られるのです。神との親密な語らいの時として、祈りを重視しておられる。しかし同時に、3人の弟子たちにご自分の祈る姿を見せてもおられます。祈りは深い神との交わりの時であることを教えておられるのです。祈りとは、余人を入れない神との深い交わりを頂くこと、それは大事なことだと教えてくださっているのです。
 聖書に語られていることの情景を心の内に思い描けることは、とても大事なことです。この箇所を読みつつ、私どももまた、主イエスが弟子たちと距離を取って一人祈っておられる姿を思い浮かべ、それこそが信仰の姿であることを示され、その御姿に従うのです。
 私どもの信仰の中心にあることは、主イエスを思い起こすこと、想起です。ですから、信仰とは感性の出来事であると思います。御言葉に聞きつつ、その情景を思い浮かべたからこそ、それが絵画にもなり音楽にもなったのでしょう。

 「地面にひれ伏し」とあります。主が神との親密さを示される、その姿勢は、親しいからと言って決して馴れ馴れしいものではありません。地面にひれ伏す、身を投げ出しての祈りの根底にあることは、神への畏敬の念です。身を投げ出しての祈り、それは神への深い信頼に基づいて、ご自身を神へと委ねての祈りなのです。
 人格関係の根底にあることは「信頼」です。祈りとは、人格性の最も中心の出来事であることを覚えたいと思います。主は身を投げ出すほどに、神への信頼をもって、委ねつつ祈っておられる。ここにも私どもに対する示唆があります。
 私どもが祈るとき、神に委ねていることが大事です。決まり文句で祈るということではなく、神に信頼して語らう、そこでこそ、人は人として生きる、人格性を得るのです。

 主イエスは、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られます。「できることなら」というこの言い方に、主が既にこれから起こることをご存知であることが分かります。できないと知りつつ言っておられる。「これから起こることを理解し、本当ならば避けたい。避けたいけれどもできないことが分かっている」ということです。しかしこのことを、主の尻込みと捕らえてはなりません。できないと分かりつつ祈られる。それは、これから起こることが、「できることなら…」と思うほどに耐え難いこと、容易に引き受けられるようなことではないということです。だからこそ「できることなら」と言われる。それほどに深く重く、待ち受けている出来事を受け止めておられることを忘れてはなりません。「苦しみの時」は避けられないのです。
 「この苦しみの時」、この「時」という言葉は、黙示文学において「終わりの日の完成の時」として使われる言葉です。神が出来事を完成なさる時、すなわち「救いを成就なさる時」です。神は「救いを成し遂げる時を定めておられる」のです。
「救いの時」は「喜びの時」でしょう。けれども、主イエスは「苦しみの時」と言われます。ご自身のご受難、苦しみ無くしてはあり得ない「時」であることを、主はご存知です。十字架の死は苦しみの頂点です。その十字架の死をもって、主は救いを成し遂げられる、それが、この「時」なのです。
 神の定められた救いの成就の時、その時は、ご自身が苦しみを担う時であることを知りつつ、主は祈っておられます。十字架の死は、神の救いの成就の時です。十字架によって罪を贖い、終わりとし、救いを完成してくださるのです。ですから、神の救いのご計画に不可欠なこと、なくてはならないこと、それが「主イエスの十字架の死」であることを覚えたいと思います。主が十字架に死んでくださらなければ、私どもの罪は贖われず、救いはないのです。

 十字架の苦しみ、死によって、私どもの罪が贖われる。それは私どもの罪の苦しみ悲しみ、そして死を、私どもに代わって主イエスが引き受けてくださることであることを覚えなければなりません。私どもの罪ゆえの苦しみ悲しみを、主がご自分のものとしてくださる、それがこの主の苦しみの祈り、ゲツセマネの祈りなのです。私どもの苦しみ、罪の代価としての死の苦しみ、その悲しみの深さ、恐ろしさを、主はご自分のものとしてくださっている、それがゲツセマネの祈りです。
 ですから、死に際して、私どもはもはや孤独ではありません。既に主イエスが、死の苦しみを、そのおののきを痛み、ご自分のものとしてくださっているからです。私どもの死の痛み、苦しみの時に、主イエスは私どもと結び合ってくださるのです。
 主イエスはここで、弱さのゆえに苦しんでおられるのではありません。私どもに代わって、私どもの罪の重みに身を震わせてくださっている、それが主のゲツセマネの祈りです。

 改めて思います。「罪を赦す」ということは、「罪あった者の罪を、負う」ということです。「赦す」とは、高みからのことではありません。「赦す」とは、不問に伏すことでもない。「その人に代わって責めを受ける」ということなのです。そしてそれが「主イエスの十字架の死」であることを覚えなければなりません。私どもは、主の十字架を仰ぎ見、主が私どものために痛み苦しんでくださっていることを知って、初めて、自らの罪の何たるかを知るのです。私どもの痛み、苦しみ、悲しみを、主は共にして下さっている、それが主のゲツセマネにおける身もだえする祈りです。主が私どもに代わって責めを負ってくださっていることを改めて覚えたいと思います。
 「この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」とは、過ぎ去ることを望んでおられるということではありません。過ぎ越せないものであることを、その重さを示して下さっております。

 36節「アッバ、父よ」と、主は神を呼ばれました。「アッバ」はアラム語であり、それはユダヤ人にとっての日常語でした。子供が成長に際して、「パパ、ママ」と呼びますが、「アッバ」は、それと同じ幼児語なのです。幼い子が父の膝に抱かれて、父の顔を見ながら「アッバ」と呼ぶ、そういう情景です。それは、保護者なくしていられない幼児が全幅の信頼において呼ぶ、そういう呼びかけなのです。
 このことがどれほど普通のことではなかったかと思います。ユダヤ教において、十戒の第3戒は「主の名をみだりに唱えてはならない」です。ですから、ユダヤ人は神の名を「ヤーウェ」と軽々しく呼ばないように、「アドナイ」=「我が主よ」と読み替えて呼びました。それほどまでに、神の名を尊く敬ったのです。ユダヤ人は、あだやおろそかに神の名を呼びません。しかも神を「アッバ」などと呼ぶのは、主イエスだけ、特別なのです。主イエスはそれほどまでに、父なる神に親密な信頼を持って呼んでおられるのです。それはどういうことかと言えば、「神を親しく近き方とする」呼び方であるということです。ユダヤ人は、神の名を尊ぶあまりに、神を遠くしてしまいました。ですから、主のこの呼び方は画期的なことです。主イエスと神との親密さ、親しさ、それが「アッバ」に示されていることです。
 しかしそれは、それだけに止まりません。「アッバ」と神を呼ぶことを、私どもも許されているのです。主イエスは弟子たちに、私どもに、「天にまします我らの神よ」と神を呼ぶ言葉を、「主の祈り」として授けてくださいました。本来「父なる神」とは、神の御子として、主イエスにのみ許される呼び方です。けれども、主は私どもにも、そう呼べと言ってくださいました。神の子しか呼ぶことの許されないその呼び方を、私どもも許されて呼べる、それは私どもも「神の子とされている」ということです。
 私どもは、「父よ」と神を呼ぶたびに覚えて良いのです。神のものとされていることを、この身を委ねて祈ることを許されていることを、感謝したいと思います。それは、私どもが相応しい者であるかどうかということではありません。ただそうすることを許されているという恵みなのです。主が私どもに与えてくださる恵みとしての呼び方なのです。
 「救い」とは、私ども罪人が「神との親しい交わりを頂いている」ということです。神を父と呼べることは幸いです。それは、救いを頂いているからこその恵みなのです。また、神を権威あるお方とすることにおいて「父」と言うのであって、それが女性蔑視ということではありません。

 主は「あなたは何でもおできになります」と言われます。神への讃美、全能の父であることへの讃美の言葉です。その讃美の上で、主は「この杯をわたしから取りのけてください」と言っておられます。「この杯」とは、「神の定めた苦難の杯、十字架」であることを、主はご存知です。
 「苦難の杯、裁きとしての十字架を取りのけてください」と言われる。この主イエスの十字架の死を、現代社会の視点から考えておきたいと思います。それは冤罪としての視点です。冤罪によって裁かれることは、身代わりの死としての悲惨な死です。主イエスは罪なきお方、その主が裁かれて死ぬ、それはまさしく主が冤罪を死なれたということです。
 冤罪については、キリスト者としての課題として受け止めなければならないことです。冤罪による死はあってはならない、ゆえに日本基督教団は死刑制度廃止を決定しております。冤罪としての死が多くあるのです。冤罪としての死が、どれほど悲しみ深いことかを思います。主イエスは、冤罪としての死を死なれました。主は苦しみを担わずにはいられないのです。
 私どもは、苦しみを担われる主の御姿に、存在を軽んじられた人々の苦しみを思わなければなりません。人の罪を負うての死、それは殺人の代価ということだけではありません。社会の生み出す罪のために死に、また今も死に瀕している人々がいることを、主の御苦しみの中に見なければならないのです。
 その一つとして原子爆弾は、人の罪ゆえに作り出されたもの、そのために罪なき者たちが殺されております。それはまさしく、地に対する呪い、人に対する呪いとして、国家やこの世の権力者たちの罪に他なりません。地の傷み、人々の無念さ、罪なき者として死ぬ者の痛み、苦しみ、悲しみ。けれども、その死を担って主イエスは十字架に死んでくださっている。罪なき者でありながら存在を失わされている者の痛み、苦しみ、悲しみ、そのただ中に主は立ち、まさしくそこに居てくださっているのです。

 主イエスは、冤罪としての死を死んでくださっている、現代社会の罪を負うて立っておられる。罪なく存在を失わされている者たちの、命の救いとして立っておられることを覚えたいと思います。
 「苦難の杯、裁きとしての十字架を取りのけてください」と、主は言われました。その苦しみは誰もが受け止めることのできない痛み、苦しみであることを、主はその嘆きの祈りによって示しておられるのです。

 そして、知らなければなりません。罪なき者としての死の痛み、苦しみの大きさを知るということ、それは、それほどにまで神の救いの御旨は深く、重い、絶大であることを知ることです。ゆえに、主イエスは深く、重く、嘆いておられます。だからこそ、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ってくださるのです。

 十字架は重く、深いのです。その救いは重く深いのです。その重さ、深さを、主イエスの嘆きの深さ、重さによって知ることを許されている、このことを深く覚えたいと思います。

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