聖書のみことば
2015年1月
1月1日 1月4日 1月11日 1月18日 1月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月4日主日礼拝音声

 12人の一人ユダ
2015年1月第1主日礼拝 2015年1月4日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章10〜21節

14章<10節>十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。<11節>彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。<12節>除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。<13節>そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。<14節>その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』<15節>すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」<16節>弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。<17節>夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。<18節>一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」<19節>弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。<20節>イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。<21節>人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 12人の弟子の一人、イスカリオテのユダの登場です。
 10節「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」と記されております。この言葉は1〜2節を受けております。振り返ってみますとそこには、「祭司長たちや律法学者たちが、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」ことが述べられております。「主イエスを捕えて殺そうとしている」、それに対応する形で「ユダがイエスを引き渡そうとしている」、ここは続けて聴くべきと考えてよいのです。

 けれども、この間には、一人の女の話が入っております。主イエスに敵対する多くの者がいる、しかしその中に、主イエスを慕ってやまない一人の女がおりました。そしてそれは、主イエスにとって大いなる慰めでした。
 人は、自分のために心痛め、存在を愛おしむ「一人」を必要といたします。たった一人で良いのです。大勢の理解者がいれば、そこに強弱が出ます。受ける側に距離感が生まれるのです。人にとって最悪なことは、比べることです。大勢いれば比べることになり、そこで人は傲慢になり、比べて不信感を持つのです。人は弱いがゆえに、大勢ではなく、たった一人の支え手を必要とすることを覚えたいと思います。

 神は、私どもの存在を愛おしんでくださるお方です。私どもの弱さに心痛めてくださる。それゆえ、独り子を十字架にまでおかけくださいました。私どもに必要なのは、ただ一人、神のみです。神はご自身が大きな損までして、私どもを愛し、私どもの存在を慈しんでくださった、ただ一人のお方なのです。
 どんなに愛し合ったとしても、人と人とはいずれ別れなければなりません。死して後、虚しさが待ち受けております。しかし、そうであったとしても、甦りの主イエス・キリストを信じる者は、死に際しても存在を失うことはありません。愛する御子イエス・キリストを十字架の死にまで渡し、私どもを救い、永遠の命を与えてくださった神が私どもと共にいてくださる、たった一人のお方なのです。この恵みを、2015年年頭に、まずは感謝をもって覚えたいと思います。
 旧約の歴史の中で、サウルとダビデを思い起こします。ダビデはただ一人、神へと向かい、サウルは多くの人の支持を得ようとして神を失うのです。人は、ただ一人のお方に信頼するゆえに自らの存在を愛おしむことができ、そこでこそ、他者の存在を愛おしむことができるのです。
 一人の女の出来事は、とても大事です。主イエスに敵する者の多い中で、ただ一人、主を慕って止まないこの女の出来事は印象深くあるのです。

 さてここで、ただ「イスカリオテのユダ」ではなく、敢えて「十二人の一人イスカリオテのユダ」と記されております。12人とは、主イエスの12人の弟子です。12はイスラエルにとって大事な数字です。イスラエルは12部族であり、12部族は神の民として、神の御心に生きることを求められた民なのです。しかしイスラエルは従いきれなかった、それが旧約の歴史です。
 イスラエルには、神の御心に従いきれなかった罪と、またそれだけではなく、従ったゆえの罪もありました。従いきれなかったことは、十戒の第一戒、偶像礼拝(姦淫)の罪です。それは、ヤーウェ(神)を捨てて、ということではなく、ヤーウェを信じていながら他の神々をも拝んだという罪です。そこには地理的あるいは政治的な様々な理由もあったでしょうが、ただヤーウェのみとできず、偶像の神々を拝んだ姦淫の罪です。その罪については分かり易いことです。
 けれどもイスラエルの罪は、そのことに止まりません。律法に忠実な者たち、いえ、忠実以上に守った者たちがいたことです。律法を実践することに努めた人々、ファリサイ派の人々の存在は、偶像礼拝の問題より大きな問題でした。それは律法主義という問題です。その内容は、自分で律法の精神を汲み取って、それを規定以上に行ったことです。例えば、週に一度と定められた断食を2度3度行う、10分の1献金も定められた以上にする等、ことごとく自らのレベルを上げて規定以上を実践しました。それは、ある意味立派です。律法厳守のため、安息日規定を守るためにマザダの要塞で殉死さえしたのです。
 そこに言われていることは何でしょうか。神の国の実現のために思いと行いとを実践したわけですが、実はそこに罪があるのです。それは「自分を善とする、正しいとするという罪」です。「神こそ善」それが正しいことです。自分が思いを実践できるとすると、人は自分こそ善であると思う。律法を厳守、それ以上になしたことで、自らを善とし正しいとする、それは神を必要としないところに立つということです。自らを善とし神を必要としないこと、それは、他者を蔑み優越感を持つことであり、他者に対する憐れみを失うことです。自分を善とする者は、他者を必要としません。却って他者を踏み台にさえするのです。
 信仰とは、自らを善とすることではありません。信仰とは「善き方はただ神のみと言い表すこと」です。主イエスを「善い先生」と呼んだことに対して、主は「善き方はただ一人、神のみ」と言われました。「自分は罪に過ぎない、ゆえに神の憐れみを必要としていることを知る」、それが信仰です。自らを善とする、そこでその人は神を必要としなくなっていることを知らなければなりません。
 そして、罪人にとって「神の憐れみを必要とする」ということは、一歩進んで言うならば「神がすべてである」ということです。神こそがすべて、それが信仰の出来事なのです。

 「ユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」とありますが、しかし、どうして引き渡そうとしたのか、その理由は語られておりません。これはマルコによる福音書の特色です。共観福音書であるマタイによる福音書には、「『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」(26章)とあり、ユダがお金を求めて主を引き渡そうとしたというニュアンスがあります。けれども、マルコでは、ユダが主を引き渡すことを提案したことに対して、祭司長たちが11節「金を与える約束をした」と言われております。ですから、なぜユダが主を引き渡そうとしたのか、いろいろと理由が挙げられるのです。
 一番よく語られることは、主イエスをイスラエル国家独立のための政治的な指導者として立たせるためというものです。「イスカリオテ」とは「殺害者」というギリシャ語で、政治的なグループである熱心党の人たちは殺害者でもあったため、ユダが熱心党に賛同する者であり、イエスの絶大な力を知るゆえに、イエスを引き渡すことによってイエスが指導者として蜂起することを期待してのことという考えです。それが多くの見解ですが、定かではありません。
 ただ一つ、言えることがあると思っております。考えられることは、ユダが自らの行動を善としたからではないかということです。お金であれ何であれ、何かを満たしたいという目的によらないとすれば、引き渡すという行動自体を良しとしていると考えるよりありません。

 私どもは常々、このユダの行為を「裏切り」と感じております。18節、21節に「裏切り」と記されているからですが、しかし、18節の言葉は実は、裏切りではなく「引き渡す」という言葉です。それを解釈して「裏切る」と訳しました。要するに、聖書は「裏切り」と言っていないのです。ユダは、裏切ったつもりはなかったのではないでしょうか。引き渡すこと、それを良いことだと思っていたのではないでしょうか。
 「人は悪をどうして行うか」を考えますと、最悪のことをやった場合、それは良いことだと思ってやっているのです。その前例は、良いことだと思って教育し最悪になったこと、軍国教育がそうでしょう。今の教育にも同じことが言えると思います。これが善だとして教育する、それは罪の意識なくするのですが、それが最悪の事態を生むのです。まさしく、悪魔の手口は巧妙です。
 日本のプロテスタント教会の第一の指導者である植村正久は、優れた人物で、教会内で何かをしたいという提案があったときに、「それは良いことか悪いことか」と問い、「良いことだ」と答えたことに対して言ったことは「世の中の良いことであれば、それは教会でする必要はない。良いことは世の中がやればよい。善行を勧めることが教会のすることではなく、『あなたの罪は赦された』と宣言することが教会のなすべきことである」と言ったそうです。

 「自らを善とする、そこで過ちを犯す」のです。ユダは善きことと思って、主を引き渡そうとしているのです。引き渡そうと言われた側も、それを受けるためには理由をつける必要がありますから、お金を渡すことで自らの責任を軽くしようとするのです。負い目を負いたくないからお金を渡すのであって、ユダがお金を求めたのではありません。

 ここに示されていることがあります。12人の一人がユダだったということです。12人は新しいイスラエル、すなわち教会です。教会も、自らを善とするならば、神の栄光を表すのではなく、教会自身の繁栄を求めることになるでしょう。ですから、12人の一人がユダであったことは大きいことです。教会が過ちを犯すことを示しているからです。自らを正当化するとき、教会も過ちを犯します。
 教会は神の栄光を表すために、神によって建てられました。私どもは、自らを善とするという愚かさ、罪深さを知らなければなりません。それは、神の御心に反することなのです。
 「ユダは悪である」とするだけではいけません。私どもにはユダ同様に、自らを善とするという思いがあるのです。けれども、そのような者をも、主イエスは弟子としておられます。ユダもまた、悔い改める者として、救いへと招かれているのです。

 さらに、その上で知らなければなりません。そういうユダの思いであっても、この「引き渡す」という言葉の重みを知らなければならないのです。9章で、主イエスが弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と予告しておられます。それは神の出来事として予告されたことです。
 「引き渡す」とは、単に裏切ったということではない。主は「引き渡され、十字架に死に、そして甦られる」、十字架と復活によって「神の救いのご計画を成し遂げられる」ことを含んでいるのです。

 ユダの思いによって神の救いの計画が妨げられるのではなく、ユダの悪しき思いであっても、神はなお用い、救いの御業をなしてくださいました。私どもの如何なる愚かな思いも、神はお用いくださる。愚かでしかない者をも、救いの対象としてくださるのです。

 自分の善ゆえに神が顧みてくださるのだと思うならば、それは傲慢なことです。そうではなく、神の救いの御業に対して低くなれるところでこそ、救いが喜びとなるのです。

 自らが善と思いつつなすことの罪を見なければなりません。けれども、そのように愚かな者をも、神は、救いの対象としていてくださるのです。
 「12人の一人ユダ」は、そのような不遜なる者にも与えられる神の救いの恵みを思うことの糸口を与えてくれている、そのことを感謝をもって覚えたいと思います。

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