聖書のみことば
2015年11月
11月1日 11月8日 11月15日 11月22日 11月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月22日主日礼拝音声

 聖徒たちからの挨拶
11月第4主日礼拝 2015年11月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章21〜23節

4章<21節>キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。<22節>すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。<23節>主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙4章21節から終わりまでをご一緒にお聴きしました。8月の第1日曜日から4ヶ月かけて、フィリピの信徒への手紙を読んできました。

 ここに述べられているのは、手紙の最後の挨拶と祝福の言葉です。21節に「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています」とあります。新約聖書に収められているパウロの手紙を読みますと、細かな点は少しずつ違っていますが、それぞれの手紙の終わりにはいつも、結びの挨拶の言葉が記されています。この結びの挨拶の言葉を、お決まりの挨拶言葉だろうと受け取ってしまいますと、そこに述べられている内容にはあまり興味を持てないかもしれません。しかし、少し丁寧に聖書を読んでいますと、この挨拶の言葉も大切だということに気づかされるだろうと思うのです。

 このフィリピの信徒への手紙に限ったことではないのですが、パウロの手紙の大部分の文章は、パウロの弟子たちが口述筆記していたのだと言われています。ローマの信徒への手紙16章を見ますと、大変面白いことに、口述筆記していた弟子が他の弟子に混じって自分で挨拶しています。21・22節「わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします」とあります。このように普段は、このティルティオのように、弟子たちが代筆していたのです。
 ところが、パウロはここぞというような大切な箇所や結びの挨拶になると、自分で筆を取って書くということもありました。例えば、ガラテヤの信徒への手紙6章11節に「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」とありますから、恐らくそこから手紙の最後の部分はパウロ自身で書いているのです。活字で読んでいる私たちには分かりませんが、ガラテヤの教会の人たちは、ここだけ筆跡の違う手紙をもらったことでしょう。コロサイの信徒への手紙4章18節にもそういう箇所があります。ですから、パウロは手紙の結びの言葉を口述筆記で書いたり自分で書いたりしました。

 さて、ではこのフィリピの信徒への手紙はどうだったのだろうかと思います。誰がという名前が出てきませんから、この文面だけからは分かりませんが、フィリピ教会の人たちとパウロの間柄はとても親しいものであり、そして牢屋にいるパウロの健康状態のことをフィリピ教会の人たちはいつも心にかけているのですから、そういうことを考え合わせますと、今日のこの結びの挨拶は、パウロ自身が筆をとって書いたと十分に想像できると思います。
 私たちが手紙や年賀状のやり取りをする際に、何気ない挨拶の言葉であっても、その人の人柄が滲んでくるということがあるのではないでしょうか。前任の北紀吉牧師は筆まめで私もよくお手紙をいただきましたが、大変個性的な字ですから、手紙をもらいますと、まるで北牧師がそこにやって来たような感じがします。最近では手紙より電子メールが当たり前となって、情報だけを伝えるというやり取りが多いのですが、しかし、封筒で手紙が届きますと、内容は活字であっても、一番最後に一言、肉筆で添えられていますと、私たちは嬉しい気持ちになるのではないでしょうか。肉筆の手紙には、どこか不思議な力があります。その手紙を書いている人がそこに居てくれる、現れる、そんなところがあると思うのです。
 今日聴いているこの箇所も、ただの結びだと思ってしまえばそのまま読み過ごしてしまうのですが、ここはパウロが肉筆で書いているとすれば、大変力のある、そういう箇所です。残念ながら私たちの活字の聖書では、筆跡が違っているとか、またパウロの筆跡も分かりませんから、結びの部分を読み過ごしてしまいがちだと思いますが、恐らく最初にこの手紙をもらったフィリピ教会の人たちは肉筆で書かれたものを読んだ筈ですから、そうではなかったと思います。フィリピ教会の人たちは、パウロの肉筆を見ながら、そこに記されている一言一言を、パウロが今語ってくれていると感じながら大事に聴いたに違いありません。ですから、今朝は私たちもフィリピ教会のメンバーの一人になったつもりで、この挨拶と祝福に込められているパウロの思いを聞き取りたいと思うのです。

 まずは、パウロの呼びかけです。21節「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください」とあり、「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」と呼びかけられています。誰か特定の人の名前が挙げられているのではなく、教会の全員に向かっての挨拶です。けれども、名が挙げられていないからと言って、十把一絡げに「全員」と言っているのではないと思います。
 これまで何度も申しましたように、フィリピ教会というのは、パウロにとってはとても思い出深い教会です。パウロが海を渡り、新しい土地ヨーロッパで一番最初にできた教会がフィリピ教会です。その時には、紫布を扱うリディアという女主人の家が最初の教会の集会所になりました。パウロはシラスと共に、リディアの家で、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を町の人々に語って聞かせ、そのようにして教会ができました。フィリピの町で伝道している時には、パウロとシラスは捕らえられ、牢屋に入れられ鞭打たれるということも起こりました。その時に、フィリピ教会の人たちは二人の身を大変心配してくれた、そういう教会です。とても苦労したのですが、しかしフィリピ教会の人たちが支えてくれた中ででき上がっていった教会ですから、パウロは、彼らが自分のことを我がことのように心配してくれていることを感謝していたに違いありません。ですから、教会の一人ひとり、名を挙げ始めれば次々と挙がったに違いないのです。名を挙げれば切りがないので、パウロは一人一人が「キリスト・イエスに結ばれている」ことを、喜びをもって思い出しているのです。

 「聖なる者たち」というのは、相手を清らかな者と持ち上げている言葉ではありません。「聖なる」とは「神のものとして取り分けられている」という意味です。キリスト・イエスに結ばれて、神のものとしてこの世から取り分けられている人たち、主イエス・キリストというお方に出会って、そして主と結ばれることによって、今は神のものとされて生きている人、そういう人です。裏返しに言えば、もはやその人は自分自身が自分の主人ではない。あるいは、この世にある何かや誰かが主人なのではありません。聖徒が忠誠を誓うのは、人でも何かの団体でもない。あるいは自分自身でもない。本当に忠誠を誓う相手は神お一人である。そういう意味でキリスト者はこの世から取り分けられ、聖なる者とされているのです。
 ですから、「聖徒」と言われても、私たちはたじろがなくてよいと思います。「あなたは聖なる人です」などと言われますと、私たちはつい「わたしはそんなに清くありません」と言いたくなってしまいますが、これは本人の敬虔さとか信仰深さとか、立派さ清らかさ、そういうことが考えられていることではありません。自分としてはとても「聖徒」などとは言えない、聖徒の末席にいるのも恥ずかしい、清らかさの点では甚だ心許なく自分は罪人のままだと感じるとしても、そういう者が実は主イエスに出会わされ、「あなたは神のものなのだよ」と言われている、それがキリスト者なのです。
 私たちは本当にキリスト者としてキリストの香りを放てる者でありたいと願いながら生きていきます。しかし、日々の生活ではなかなかそうはいかないかもしれません。恐らく私たちは、一生を通して、神に憧れながらこの地上の生活を生きる。そして本当に完成させられるのはこの地上の生活が終わった果てのことなのだと思いますが、しかし、そういう私たちであっても、今、この地上において「主イエスの十字架と復活の恵みによって神のものとされている」、それが聖なる者の姿なのです。

 フィリピの町では、迫害を受けたのはパウロとシラスだけではなかった筈です。この町のキリスト者たちは、様々な形の迫害を受けて不利益を被っていたに違いありません。そういう中で、時には、本当に生きていくのが大変だとつくづく感じさせられたこともあるでしょう。もしも神が自分の主人なのではなく、自分が自分の主人であったなら、こんな人生は止めにした方がよいと思うこともあったかみ知れません。しかしどんなに大変な目に遭っても、辛く苦しくとも、今にも心臓が止まりそうな虐げを受けたとしても、しかしそういう生活を送っているその時に、まさにその場所に、「十字架の主イエス・キリストが共にいてくださる。甦られた主が今わたしと一緒にいてくださる」、そういう平安を与えられて生きているのが聖徒たちの姿です。主イエス・キリストは、苦しむ人、辛さを抱えて生きている人に対して、決してよそよそしいお方ではありません。主イエスは、ご自身が私たちのために十字架に向かって歩んで行ってくださる、そういうお方です。そして、そういうお方として、誠実に私たちにいつも伴ってくださる。私たちが辛さによって「もう嫌だ、生きていられない」と思うとしても、なおそこで共に歩んでくださって、「大丈夫だよ。あなたはもう一度、ここから生きて良いのだよ」と言ってくださるのです。
 苦難の中に置かれる時にも、キリスト者は、主にある平安を与えられ、慰められ勇気づけられて生きるようにと、神のものとして取り分けられています。それが、フィリピ教会に集っていた聖なる者たちの日常なのです。パウロとシラスだけが大変だったのではありません。フィリピ教会の人たちも、同じ主イエス・キリストを信じているのですから、世の中からな変わった人たちだと見られますし、それに付随して不当な扱いを受けることも多々ありました。しかしそれでも、「あなたたちは取り分けられている。主イエスが共に歩んでくださる者として特別に生かされている者たちである。そういう、信仰ゆえの戦いに生きているあなたがたに、心からの挨拶を送るのだ」と、パウロは言っているのです。

 パウロ自身は、神のものとして他の大勢の中から取り分けられたのだという思いを強く持っていました。もともとパウロは、清らかでも何でもなかった人です。教会を激しく迫害する急先鋒だったのです。もちろん、その時のパウロはパウロなりに真剣に生きてのですが、しかし、やっていたことは、人を苦しめ、人の命さえ奪ってそれを何とも思わないという生き方でした。ところが、そういうパウロが神に取り分けられたのです。パウロの場合、主イエスのことを知らされて、主を慕い求道したということではありません。本当に不思議なことですが、主イエスの方から迫害者であるパウロのところにやって来て、突然出会ってくださったのです。パウロ自身は、「自分にはそんな値打ちは無い」とキリスト者になってからは思っていたに違いありません。自分から主イエスを求めていたわけではない、それどころか主の弟子たちを苦しめていたのですから、教会から相手にされなくても仕方ないような者なのに、そんな自分が不思議なことに神に取り分けられ、主イエス・キリストに伴われる生活を今送っている。パウロは自分自身のことをそのように思っていますから、フィリピの教会の人たちも、一人一人導かれ方は違っていても、「主イエスに出会っていただいて、神のものとされた」ことは、皆同じだと思っているのです。
 フィリピの教会の人たちが、生まれつき主イエス・キリストを知っていた筈はありません。パウロとシラスがフィリピの町にやって来てくれたからこそ、主イエスに出会わされ、主を信じる信仰生活に導き入れられました。伝えたのはパウロだったかも、シラスだったかもしれません。けれども、出会ってくださったのは主イエスなのです。パウロがそうだったように、フィリピ教会の人たちも一人ひとり、主イエスに出会っていただいて、そして、厳しく困難な生活の中に置かれるとしても、そこで主イエス・キリストに支えられ生きているのです。
 ですから、この挨拶は、パウロと教会の人たちの個人的な親しさというだけの挨拶ではありません。パウロはここで、「わたしはあなたたちのことが大好きだよ。ありがとう」というような挨拶ではありません。「あなたとわたしの間には、キリストがおられる。わたしも今、牢屋の中で、主イエス・キリストに支えられ慰められて生きているけれども、あなた方も同じだ。主イエス・キリストに結ばれている聖徒として、あなたがたも歩んでいる」、その平安と幸いを覚えながら、パウロは「よろしく」と挨拶しているのです。

  ところで、パウロはこのように挨拶をするとき、自分は決して孤独ではないのだと言っています。パウロが捕らわれているのは、恐らくローマの町ですけれども、ローマにも信仰を同じくする兄弟姉妹がいて、パウロが書き送ろうとする挨拶に心を合わせてくれていると、パウロは言っています。21節・22節「わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」。
 ローマで捕らえられているパウロの近くに主にある兄弟姉妹たちの群れが存在しています。もちろん、ローマの教会の人たちはフィリピの教会の人たちのことを直に知っているわけではありません。恐らく会ったことはないでしょう。けれども、自分たちも主イエスに出会っていただいた者として、ローマの人たちはローマの人たちなりに与えられた自分の生活の困難さ、戦いの中で、主イエスに支えられて生きている、そのことを喜びながら、フィリピ教会の人たちに向かって「同じ信仰に生きていますね」と挨拶していると言っています。

 そして、そういう中に「皇帝の家の人たち」がいたと聞かされると、私たちは驚きます。「皇帝の家」、そこはローマですからローマ皇帝の家ですが、ローマ皇帝の家にキリスト者がいたとは、どういうことなのでしょうか。「皇帝の家の人たち」と聞きますと、私たちはつい皇帝の家族のことかと思ってしまいますが、実はローマ皇帝の家には本当に大勢の人たちがいて、奴隷もたくさんいたに違いありません。日本の皇室を思い浮かべてみて、天皇がどのような生活をしているかを考えてみると分かりやすいかもしれません。皇居には、何百人もの人が働いていると思います。ローマの時代には、そのようにローマ皇帝の家で働いている人は全員、「皇帝の家の人」です。公的な政治を司る部門にはもちろん、何千人もの人がいたことでしょう。しかしそれだけではなく、皇帝個人の生活を支える、いわば大奥のような所にも大勢の人が働いていて、そしてその多くは奴隷でした。
 ですから、ここで言っている「皇帝の家の人たち」というのは、皇帝の妻とか子供たちということではなく、皇帝の家に仕えている下々の人たちのことです。皇帝の家の人たちの中でも最も下の立場の人たち、奴隷たちが、恐らく牢屋にいる囚人の管理も行っているのです。ですから、捕らえた囚人のパウロと話をする機会が生まれて、パウロを通して福音を聞くということがあったのです。フィリピの人たちはローマの人たちのことを知らないのですから、ここで誰それと書いても本当は分からない筈なのですが、しかしそういう中で、わざわざ奴隷の人たちを取り出して、「皇帝の家で奴隷として働いている人たちがよろしくと言っています」と伝えているのです。なぜここで、奴隷だけを取り出しているのでしょうか。
 それは一つには、この奴隷たちがパウロの身の回りのことに関わっているとすれば、パウロを捕らえている側にもキリスト者がいるのだということを伝えてフィリピ教会の人たちを安心させようとする、そういう意味があったのだと言われています。しかし、恐らくそれだけが理由ではありません。初代教会の人たちの中には、奴隷の身分だった人たちが大勢いたことが知られています。もしかすると、3割ほども奴隷だったとも言われています。
 奴隷の身分の人たちは、自由人のように、自分の考えや思いに従って生き方を決めることはできません。たとえそれが間違っていると思っても、主人の命令であれば、それに従ってやらなければなりません。しかし、そういう境遇で生きざるを得なかった奴隷にとって「人間とは皆罪の奴隷であり、そこから主イエス・キリストの十字架の贖いによって身請けされて、新しくされて生きられるのだ」という福音は、本当に新鮮で力強い教えだったのです。何故かと言えば、自分は罪の生活をしていると思っているからです。自分の本意でなくても主人に命じられればやらなければならない。やりたくない悪い行いに手を染める。主人の果てることのない欲望のために、奴隷は主人の言い成りにならなければならない。そのように生きてきた奴隷にとって、自分が身請けされ自由にされたならば、もう二度と奴隷の生活には戻らないと思っていたに違いありません。今の奴隷の身分はどうしようもないけれども、しかし「あなたは、本当は贖われた人なのだ。身代金を払って自由にされているのだ。そして、あなたはそういう者として、今のあなたの生活に、もう一度神から遣わされ、仕えているのだ」と教えられているのです。自分は皇帝の家の奴隷だけれども、しかしもし皇帝から「神を捨てて、皇帝を拝め」などということを強要されたら、その時には「自分はもう、身請けされた者なのです。本当の主人は皇帝ではなくて、主イエス・キリストであり、神です」と、そのことを命がけで話そうと思っている、それが「皇帝の家の人たち」なのです。
 そういう人たちが、困難な状況の中で信仰生活を送っているフィリピ教会の兄弟姉妹に対してエールを送っているのだと、パウロはここに語っています。

 そして、最後にパウロは、フィリピ教会に対して祝福を与えています。23節「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」とパウロは祈っています。「主イエス・キリストの恵み」というのは、私たち人間の内側から独りでに湧き上がってくるようなものではありません。「キリストの恵み」ですから、主イエス・キリストからだけ来るのです。主イエス・キリストから受ける恵みですから、外からやってくるのです。どうやって来たのでしょうか。パウロがフィリピの町にやってきて福音を宣べ伝えた時に、フィリピの人たちは、パウロを通して、主イエス・キリストに出会わされました。そして、主イエスに出会うことを通して、主イエス・キリストの恵みを与えられたのです。パウロは、フィリピ教会に最初に与えられた恵みが「あなたがたの間で保持されて、さらに豊かにされていくように」と願っています。
 御言葉に聞いて、そこにおられる主イエス・キリストと深く交わる、そのことを通して、私たちの上にキリストの恵みはいよいよ豊かにされていきます。御言葉に聞き、それを信じて生きる生活から離れてしまうと、私たちの心の中に雑草のようにある様々な思いがどんどんと繁ってきてしまいます。それはどなたでも経験しておられることと思います。礼拝の直後には、心新たにキリスト者として生きようと思うけれども、週も半ばになると、違うものが心の中に育ってしまうことがあります。それは、私たちが出来の悪い人間だからなのではありません。人間とは、そういうものなのです。人間は自分の中に罪の根をいくらでも生やしているのですから、私たちは御言葉に聞いて、自分がどんなに弱い者なのか、過ち多き者なのかということも繰り返し繰り返し気づかされていないと、知らず知らずのうちにとんでもない思いが育ってしまうのです。そして、そういう思いが育った先には、自分の思いが叶うことが恵みなのだという、とんでもない思い違いしてしまうことになります。自分の思い通りにしようとするとき、それは自分には良くても、周りの人は大変な思いをしてそれに付き合わなくてはならなくなるのです。

 パウロは、自分の中から出てくる自分に都合の良いものが与えられるようにと願っているのではありません。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの上に満ち溢れるように」と祈っています。
 もともとは、罪の奴隷でしかない私たちです。しかし、そういう私たちが主イエス・キリストに出会っていただき、主イエスの十字架と復活を知らされて、励ましを与えられ、慰めを与えられ、勇気を与えられて、新しい生活に歩んでいくのです。
 私たちは、昔とは全く違う者として生きるように招かれています。その恵みの中にある営みが、どうか強められ、勇気を与えられ、励まされますように、そういう心からの挨拶と祝福が、この手紙の終わりには述べられています。

 私たちもまた、この世にあって、いろいろなしがらみがあったり、大変な思いをするときがあるに違いありません。あるいは、自分自身の中に育つ様々な暗い思いによって奴隷暮らしを余儀なくされてきた、そういう者たちなのです。
 しかし私たちは、そこから主イエスに出会っていただき、「あなたの罪は赦されている。あなたは、わたしの十字架によって清められている者なのだ」という言葉を聞かされて、もう一度、新しく生き直すように招かれている者たちなのです。

 私たちを身請けして贖ってくださり、救い出してくださった主イエス・キリストを見上げて、主イエスの御言葉に耳を傾け、ここからもう一度歩み出したいと願うのです。
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