聖書のみことば
2015年11月
11月1日 11月8日 11月15日 11月22日 11月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月1日主日礼拝音声

 平和の主
11月第1主日礼拝 2015年11月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章2〜9節

4章<2節>わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。<3節>なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。<4節>主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。<5節>あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。<6節>どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。<7節>そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。<8節>終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。<9節>わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

 ただ今、フィリピの信徒への手紙4章2節から9節までを、ご一緒にお聞きしました。
 2節「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」とあります。ここには、当時フィリピ教会の中で起こっていた大変具体的な摩擦の出来事について触れられています。エボディアとシンティケという2人の婦人が反目し合っていたのです。もしかするとこの2人は、人間関係の作り方とか人に対する考え方という点で癖があったのかもしれません。しかし、必ずしもそうではなかったのかもしれません。
 思えば私たちにしても、近しい交わりを持ちながら生きていく、その中で、人間関係に悩んだり苦労したりするということを経験する時があるだろうと思います。一般論として「汝の敵を愛しなさい」とか「隣人に親切にしましょう」というのであれば、私たちは一も二もなく賛成できます。けれども、実際に馬が合わない相手とか苦手な人がいて、その人の前に出てしまうと、私たちはなかなか相手を理解して合わせたり和やかに過ごすことができない場合があるのではないでしょうか。何が上手くいかない原因なのかよく分からないままに関係がこじれていってしまうこともあるでしょう。そして、関係がこじれるというような厄介なことが起こると、私たちはその問題を相手と自分の一対一の問題であるかのように考えてしまい、自分の至らなさは棚に上げて、相手を悪く思ったり、自分は決して譲れないと思うことがあるだろうと思います。

 しかし、キリスト者の場合には、誰かとの関係において一対一になるということは決してないのです。どうしてか。キリスト者はもはや自分一人で生きている存在ではないからです。私たちが「キリスト者」と呼ばれているところにはっきりと表れていることですが、私たちは一人一人が主イエス・キリストというお方に伴われた命を生きているのです。主イエス・キリストが一緒に生きてくださる、だから私たちは「キリスト者」と呼ばれるのです。キリスト者でありながら、キリストと関係なく自分一人で生きているのだと言い張るのであれば、私たちはどうしてキリスト者なのかということになります。私たちは決して、自分の人生をたった一人で生きるのではありませんし、さらに言えば、私たちの人生・私たちの命の主人は自分ですらない。私たちの人生の主人は、洗礼を受けた時から主イエス・キリストなのです。私たちは、「主イエス・キリストがわたしと一緒に歩んでくださる。主イエスこそわたしの主人です」と信仰を言い表して洗礼を受けたのです。

 この手紙の1章1節で、パウロは自分のことを「キリストの僕」であると言い表しています。「僕」は「奴隷」という字が使われています。奴隷であるからには、パウロは一人ではありません。いつも主人が共にいるのです。そして奴隷は主人に従って生きるのです。キリスト者は一人の例外もなく、イエスを主と告白しています。ですから、自分がキリストに仕える僕であるならば、キリスト者同士の間で一対一の関係になることなど、あり得ないのです。互いに対立することはあるかもしれません。対立や反目があったとしても、それでもその2人のキリスト者は、互いに十字架と復活の主イエス・キリストというお方に伴われ、主の僕としての人生を生きている2人であるはずなのです。互いに反目し合っている2人のどちらも、その人のために主イエスが血潮を流し、罪の支配から贖い取ってくださったかけがえのない一人一人なのです。そのことが本当に身に沁みているならば、互いの間を険しい思いが支配するということがあり得るでしょうか。
 しかし、あり得ないと思いつつ、現実問題としては起こり得ることです。そしてそれは、当事者にとってもまた教会全体にとっても大変不幸な出来事です。フィリピ教会では、エボディアとシンティケの間で、そういうのっぴきならない状況が起こっているのです。パウロは主の僕として、この状況にどのように対処するのでしょうか。

 もし、主の十字架の贖いによってキリスト者とされているという信仰が、目の前で生じている深刻な対立に何の影響も与えないのだとしたら、キリスト教信仰は人間の破れた現実に対しては無力だということを示すことになるのではないでしょうか。仮に、私たちの間に破れがあり反目や諍いがあることを、「それも仕方ない」と諦めてしまうとすれば、キリストの支配は人間の破れの現実に対して無力だと言っていることと同じになると思います。信仰はただ心の中だけの事柄で、苦しみ悲しみの多い人生を生きている人間に対して、その苦しみや痛みを和らげる優しさはあったとしても、現実の生活は何ら変わりがないということになってしまいます。
 しかしパウロは、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と言っています。これは単純に「相手のことを認めなさい」と言っているのではありません。「二人とももう大人なのだから、いい加減に矛を収めなさい」と言っているのとも違います。「主において同じ思いを抱きなさい」、これを逆から言いますと「あなたたちはどちらも僕、奴隷です」と言っているのです。キリスト者同士の一致とは、互いに合わせるとか相手を自分より上に見るとか、そういうことではなく、先ず「主イエスの前に、自分は僕であると認める」ということなのです。
 相手を許すというような高慢な話ではありません。主イエス・キリストに倣って身を低くすることです。「このわたしのために主イエス・キリストが十字架にかかってくださった。わたしが味わわなければならなかった死の苦しみを、主イエスが身代わりとなって耐え忍んでくださった。そういうお方がわたしの主である。わたしは今、その方の僕として生きている」。その「主に倣う」という一点において、「同じ思いを抱く」というところから和解が始まるのだと思います。

 ここでパウロは、「エボディアに、シンティケに」と名を挙げていますから、二人のことをよく知っていたのでしょう。ですから、反目の原因がどこにあるのかということまで分かっていたかもしれません。パウロは、もし牢屋から出られるものならすぐにフィリピ教会に行って二人の感情のもつれを解きほぐしたいと思ったかもしれませんが、そうできないために、フィリピ教会の中で2人の争いに心痛めている人物に、2人への支えを頼んでいます。3節「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」。この2人のために祈り、2人が主の御前に互いに身を低くすることができるように支えて欲しいと、この人に呼びかけています。
 教会の交わりというのは、私たちの心の中にだけあるのではなく、現実に存在しているものです。教会の中で交わりを持って私たちは生きていきます。時には人間臭い出来事も経験するかもしれません。しかし、それだけではないのです。教会の頭なる主が、本当に私たちの主であり王なのだと信じて忠実に仕えるところでは、およそ人間の力では真似のできない麗しい出来事も経験させられるのです。地上の教会には、「人間の破れ」と「主の救い」と、その両方があるのです。歴史が続く限り、教会は終わりまでそのようにして歩んでいくのだろうと思います。人間臭さのゆえに神から見捨てられているかのように見えるこの世界が、しかしそれでもなお、神に愛され大事に持ち運ばれつつ、その神のうちに私たち一人一人は抱かれているのだということを知らされながら生きていくのです。
 エボディアとシンティケが人間臭い破れによってつまずいてしまわないように、主の前に同じ思いを抱き平らな気持ちで生きていけるように祈り支えて欲しいと無名の真実の協力者に頼んでいる、こういうパウロの言葉には、本当に温かな思いが滲んでいると思います。そしてまた、パウロが信頼してこのようなことを言える人が教会の中にいたということも、幸いなことだと思います。

 ところで、パウロがここに言う「主において同じ思いを抱く」とは、実際にはどういうことなのでしょうか。心の中に抱く思いというものが、この2人のあり方を変え、その間柄さえも新しいものに変えてしまう、それは一体どういう思いなのでしょうか。
 パウロは4節に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言っています。「主において常に喜びなさい」と、力を込めて言うのです。「主において同じ思いを抱きなさい」ということは、別の言葉で言うならば「主において常に喜びなさい」、そういうあり方をしなさいということです。それは、自分の思い通りになったから一人で喜ぶということではありません。そうではなくて、「僕が主イエスの御心に適うことを共に喜びなさい。常に喜びなさい」と言われています。

 私たちは勿論、一人一人が自分の人生において抱いている計画や予定があるに違いありません。今日、礼拝を終えて送り出される日々の暮らしにも、皆それぞれに違う計画を持っています。そういう中で自分の人生の見通しを立てて生きていくのですが、しかしうっかりすると、自分の思いや考え通りになって欲しいという気持ちが強くなり過ぎて、その思いが自分の心をすっかり埋めてしまうということもあるのです。
 けれども、考えてみますと、私たちが心に描く予定というのは、僕の予定であり僕の計画です。勿論神は憐れみ深いお方ですから、私たちの予定や計画の一つ一つを軽んじたりはなさいません。私たちがそれぞれに思い描くことが実現するようにと、神は持ち運んでくださる。神は私たちの思いを超えて、私たちの願いを実現してくださることもあるのです。けれども、その実現に至る道筋が常に私たちの考え通りかと言えば、そうとは限らないと思います。神が心に思われることは、私たちの思いを遥かに超えて高いのです。

 「主において常に喜びなさい」と言って、パウロは「あなたがたは主イエスのうちにあることをこそ喜ぶのだよ」と教えています。パウロのこの言葉には、かつて主イエスが弟子たちに教えてくださった言葉が響いていると思います。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられました。マタイによる福音書6章28節から34節までを聞きたいと思います。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
 主イエスは、「思い悩むな」とおっしゃっています。そういう中で何を求めるべきかというと「神の国と神の義を求めなさい」と言われる。国には王国という字が使われていますが、つまり「神の支配」ということです。神の支配に従うこと、それこそが私たちの求めるべきことだと言われるのです。

 私たちの地上の生活には、確かに思い煩いがあります。お金のこと、家族や友人のこと、健康のこと、老後の暮らしのこと、近所付き合いのこと、仕事の悩み、将来のこと、様々なことが私たちを煩わせ、不安や恐れが私たちを虜にしてしまいます。私たちはそういうことに捕らわれて、心がいっぱいになってしまうのです。私たちの上には神がおられ、私たちの生活は地上においても、また地上を超えて永遠に移された後でも、神の義を照り返して生きるべきであるのに、私たちは様々な煩いに心塞がれているうちに、その生き方をどこかに起き忘れてしまうのです。「どうしてここにわたしはいるのか。それは、ここに生きることを通して、わたしが神の栄光を照り返すためである」ことをつい忘れて、まるで自分が人生の主人であるかのように思い、そう思うと自分の思いや願いがぐんと自分に重くのしかかって来て、私たち自身はもとより、共に生きる隣人も苦しめることになるのです。そうならないようにと、主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。あなたは神から命を頂いているのだから、その神の御心に従い、神に喜ばれるあり方に生きるべきなのだよ」と教えてくださいました。

 戻りますが、パウロは6節で「思い煩い」について語り始めます。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。
 パウロは「思い煩いから離れなさい。そして主にあって喜びなさい」と、主イエスと同じことを言っています。主イエスが山上の説教で弟子たちに教えてくださったことを、パウロが聞き取って語っていることが分かります。
 けれども、こういうパウロの言葉を聞くと、戸惑うという方もあるいはおられるかもしれません。「思い煩うな」と言われても、実は「思い煩い」は、私たちがそうしようと思ってすることではないでしょう。私たちの実感からすれば、思い煩いは向こうの方からやってきて、願ってもいないのに煩わされてしまうのです。それなのに、どうしてパウロは「思い煩うのはやめなさい」と、まるで私たちが簡単に止められるかのように言うのかと、そういう反発を覚える方もいるのではないかと思います。誰であれ、思い煩わないで済ませたいでしょう。思い煩いはやってくるもの、だから私たちは気づくと煩ってしまっているのです。
 ここで「思い煩う」という言葉を原文で見ますと、「心が2つに分かれる」という言葉です。自分は神を信じ神に従って生きていくと思っているのだけれども、その一方で、自分の願いや思いがむくむくと頭をもたげてきてしまう、そうすると、私たちの心は分裂してしまいます。神に従っていれば良いのだけれど、それだけでは満足できすに自分の思いも実現したいとなると、私たちの心は二つに引き裂かれて身動き取れなくなってしまう、それがここに言われている「思い煩い」なのです。
 頭の中では、「わたしの主人は主イエス・キリストである」と分かっているつもりなのです。ところが頭の中で分かっていても、そこが難しいところですが、「やっぱりわたしの主人はわたしだ」と思ってしまう、二心の状態、そういうことが私たちにはあるのです。

 世の中には、自己実現のために苦闘して生きることが素晴らしいという考え方もあります。そこにこそ生きるエネルギーがあり、そう生きるべきと教える処世訓はあるのです。そして、そういう生き方の場合、神はおそらく重要ではないでしょう。人生を生きるエネルギーが自分の中にあると思えば、神とは、自分でできない弱い人たちが自分を慰めるために心の中に作り出した発明品だというくらいに思って、神に信頼することはないでしょう。
 では、神に信頼して生きるということは、私たちが自分の力で一生懸命生きるということと違うのでしょうか。多分、そうではないと思います。キリスト者であっても、神に信頼する人であっても、精一杯一生懸命生きていくということはあり得ると思います。牢屋に捕らわれているパウロもそうです。これまで語ってきましたように、明日をも知れない命の状況の中で、それでもパウロは懸命に生きようとしています。そういうパウロにとって、二心の誘惑というものは無関係なものではありません。いえ、パウロ自身が二心あることを語っています。早く主イエスのもとに行って楽になりたいという思いと、困難な地上に止まらなければならないという思いとの二心です。ですから、パウロは「思い煩うな」ということを、自分の経験なしに語っているのではありません。パウロ自身が思い煩いを経験しているのです。

 けれども、パウロが仮に「生きなければならない」と思って力んでみても、それで本当に踏ん張ることができるのかどうか。パウロが牢屋の中で、それでもなお「生きよう」と思うことができているのは何故かと言えば、「このわたしを、ここで用いようとしてくださる神がおられるからだ」という所に立っているからです。
 自己実現のために懸命に頑張る姿は美しい、それこそが人のあり方だという人は大勢いますが、しかしそれは、足場が無い中で、自分で力んでいるだけだと思います。私たちが本当に踏ん張って力を出して生きていくためには、踏ん張る地面が必要です。土台が必要なのです。「わたしは今、ここで支えられているから、ここに立って精一杯生きる」、そういう地表が必要なのです。主イエスを通して語りかけてくださる神が、このわたしの日々の生活の揺るぎない土台として居てくださる。その神がわたしのために備えてくださる今日の生活の中に立って、神に従って神に喜ばれる人生を精一杯生きる、パウロはそのように生きているのです。
 私たちは人間であって、神ではありません。神でない者が、自分で自分の拠り所になることなどできません。私たちは、自分で頑張れば何でもできると思いがちですが、決してそんなことはありません。却って、自分が弱ってしまった時には、自分が自分の拠り所にならないということを経験させられるのです。私たちは無力で、自分の弱さや小ささを経験させられます。しかし、そういう時にも「拠り所となってくださるお方がいる」そのことに気づかされて、私たちは、その方が与えてくださる今日の生活を、もう一度ここから歩むのです。

 5節でパウロは「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」と言い、そしてそれに続けて「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言っています。自分の決心で思い煩うのをやめなさいと言っているのではありません。「主イエスがすぐそばにいてくださるのだから、その土台に立つならば、思い煩わなくてもよいのだ」と言っているのです。
 ですから、思い煩わなくなるということは、私たちが人生経験を積むとか、修行して悟りを開くというようなことではありません。あるいは、襲ってくる不安や恐れに自分の精神力で打ち勝つということでもないのです。むしろ、自力で打ち勝とうとすればするほど、自分の弱さを思わざるを得ないでしょう。辛いものはどこまでも辛く、嫌なものはどこまでも嫌なのですから、心の強さで乗り越えるなどということではなく、本当に私たちは弱い自分でしかないけれども、しかしそんなわたしを主イエスが共にいて支えてくださって、ここで生きるのだよと生活を手渡してくださっている、そのことを信じることです。

 主に依り頼むと言いながら、すぐに自分の思いが頭をもたげて思い煩いの状態になりがちな私たちが、思い煩いから離れてまっすぐに神に信頼して生きていくために、ここでは具体的に2つのことが勧められています。
 一つは「神に感謝して生きる」というあり方、もう一つは「自分の求めているものは何であれ、神に祈り願って生活する」というあり方です。繰り返しますが、信仰とは、決して私たちの心の中に止まっているものではないのです。私たちの信仰は、私たちの生活の中に表していくものです。
 神に信頼し、神が今日の生活を与えてくださっていると信じるために、私たちは、神から与えられている恵みを数えて感謝して歩んでいくこと、それが確かにされる一つの道です。そしてまた、必要だと思っているけれども、今無いもの、私たちは、それを神に願い求めて良いのです。
 もし私たちがそういう生活を抜きにして、心の中だけで主イエスを信じてキリスト者でいようとするならば、私たちの心は二心ですから、自分の思いで主イエスに繋がっていることなどできよう筈はありません。さらに言えば、自分の心というものは、自分を裏切るところがあります。主に従っていたくても、すぐに違う思いが芽生えてしまうのです。
 けれども、私たちが本当に主イエスの僕として生きようとするのであれば、私たちは日々の暮らしの中で、感謝しつつ生き、必要なことを願い求めて生きるべきなのです。神に感謝し神に祈って生きること、それが主イエスの前で身を低くし、主の喜びに生きる人間の姿なのです。

 その上で、最後にパウロは、8節「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と言っています。一つ一つの意味を考える必要はありません。ここに記されていることは、キリスト教に特化したことではないでしょう。キリスト者でなくても、良いことだとされる事柄です。キリスト者として生きるということは、この世から出て行くということではないのだと、ここに教えられていると思います。
 私たちは、キリスト者だから、この世の中の特別なセクトになっていくのではありません。そうではなくて、この世にあって、一緒に生きて、良いと思うことを共に喜んだり感動したりして生きていきます。そして、そのように生きていくことで、神の慈しみに満ちた御栄光をこの地上に照り返す者とされていくのです。
 私たちの信仰生活の中心には「キリストの御業に膝を屈める」ということがあります。パウロは、今与えられている牢屋の生活の中で、主イエスが土台となってくださっているのだから、精一杯生きようとしています。それと同じように、私たちもまた、今日の生活の中で「キリスト者とされ、キリストが共に歩んでくださっている命なのだから、その生活を精一杯生きる」のです。

 私たちは、今日ここに置かれているそれぞれの生活の中から、主イエス・キリストに従って生きる志しを、もう一度新たにされたいと願うのです。

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