聖書のみことば
2014年9月
  9月7日 9月14日 9月21日 9月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 すばらしい石
2014年9月第4主日礼拝 2014年9月28日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者) 
聖書/マルコによる福音書 第13章1〜13節

13章<1節>イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 <2節>イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」<3節>イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。<4節>「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 <5節>イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。<6節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<7節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<8節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」と記されております。主イエスが神殿を出て行かれます。そしてこれ以降、主イエスの神殿の境内での活動については記されません。
 この前のところでは、主イエスは、神殿の境内で賽銭箱を見つめ、貧しいやもめの献金に神への信頼があることを語られました。また、神殿の境内で、主は弟子たちにメシアについて教え、律法学者たちに注意するようにと教えられました。
 神殿礼拝は、イスラエルの民にとって喜びでした。神殿こそは神の臨在の場、恵みの場であると感じていたからです。その神殿から、主イエスが出て行かれる。ここでわざわざ、「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」と記すことで、主イエスが神殿での活動を終えられたことを印象づけております。

 けれどもここでは、主が神殿での活動を終えられたことに止まらず、この後に続く言葉に重要なことが示されております。弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と、神殿は素晴らしいと強調します。しかしそれに対して、主イエスは「そうだね」と相槌を打つのではなく、2節「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、「エルサレム神殿の崩壊」を告げられるのです。
 人々は建物としての神殿の美しさを見ていますが、主イエスが見ておられるのは、神殿の崩壊でした。このことは、神殿における礼拝の終焉を示しております。主イエスは神殿礼拝の終わりを見ておられるのです。

 ですから、ここで主イエスが神殿を去られるということは意味深いことです。エルサレム神殿を中心とした礼拝が終わる、区切りが来る、そのことを誰も知りません。けれども、主イエスが神殿を去られることによって、このことを暗示しているのです。主イエスは神殿での活動を終わられただけではなく、神殿での礼拝の終わりをも告げておられるのです。
 福音書、聖書の御言葉は、過去の恵みを告げるだけではなく、過去の恵みを思い起こさせつつ、私どもの行き着く所がどこであるかを告げております。人は過去に引きずられるものです。しかし、聖書の御言葉は、過去・現在を超えて、その先にある神の国を語っているのだということを覚えたいと思います。

 神殿礼拝の終わりとは何を示しているのでしょうか。神殿礼拝は、羊や山羊、牛や穀物を献げる礼拝で、それはそれらの犠牲を伴う礼拝です。本来、自らの罪は自らの命をもって贖わなければなりませんが、そうは出来ないために、汚れない小動物の血や最上の穀物を献げて贖ったのです。そのような他者犠牲を用いて神との豊かな交わりを持つ、それが神殿礼拝でした。それは、私どもの礼拝とは全く違っております。
 私どもは、「主イエス・キリストの御名による礼拝」を与えられております。神殿礼拝は、神殿での礼拝ゆえに、どの場所ででも行える礼拝ではありません。けれども、主の御名による礼拝は、私どもがどこにあっても、主の名を呼ぶところで、神との交わりが頂ける礼拝なのです。ゆえに、主イエス・キリストの名を呼ぶ礼拝は、場所を問いません。主の名を呼び、崇めるとき、そこに礼拝が成るのです。
 旧約のイスラエルの民の礼拝も、初めから神殿礼拝だったわけではありません。政治的に次第に中央集権化していく中で、エルサレム国家の樹立と共に、神殿礼拝へと移っていきました。元々彼らは遊牧民族ですから、礼拝の場を問わなかったのです。このような歴史の経緯があった上で、主イエス・キリストを通して、再び、場所を問わない礼拝を与えられ、私どもはこの礼拝に与っているのです。

 BC70年に、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊されます。そして神殿礼拝はできなくなるのです。では、その後ユダヤ人は礼拝できなくなったのでしょうか。そうではありません。もともと皆が皆、エルサレム神殿へ行けたわけではありませんでしたし、神殿崩壊後は、各町村のシナゴーグ(会堂)での聖書を中心とした礼拝が起こってきます。そのようにして、神は民に対して礼拝を備えてくださいました。それは聖書の御言葉を中心とした礼拝であり、その礼拝を、私どもも頂いているのです。
 他者犠牲による礼拝から、主イエス・キリストの名を呼ぶ礼拝へと変えられた礼拝、それが私どもの礼拝です。そのような礼拝は、場所だけではなく、時をも問いません。神と向き合う時が、主を礼拝する恵みが、昼夜を問わず与えられているのです。
 ですからそう考えますと、主の日の礼拝を守れなくても、礼拝できないということはありません。神の名を呼ぶことによって、家庭で、職場で、旅先でもどこででも、神を礼拝できるのです。そういう礼拝があっても良い。どこにあっても、いつでも、神との交わりが与えられるのです。神が、いつでもどこでも共にいてくださるが故に、私どもが主の名を呼ぶことで、共にいてくださる神との交わりに与ることができるのです。

 神の名を呼ぶこと、それが礼拝です。プロテスタント教会は、このことを重んじました。神の名を呼ぶ、それは祈りの形です。プロテスタント教会の礼拝は、祈りの形の礼拝なのです。宗教改革者たちは、それまでの祭儀礼拝から、祈りの形の礼拝へと整えていきました。
 祈りが礼拝であるとすれば、祈りは個人の思いの陳述に終わってはなりません。神の名を呼ぶことは、神を崇めること、誉め讃えることです。それが私どもの礼拝なのであり、それが祈りの精神なのです。祈るところでこそ、私どもは神を崇めているのです。

 また、場所や時を選ばないだけではなく、キリスト教の礼拝は、たとえそれが小動物であったとしても、それらを犠牲にする必要はありません。他者犠牲を必要とする礼拝であれば、それらを処理するために神殿(建物)を必要とすることでしょう。けれども、私どもの礼拝はそうではありません。
 私どもが御名を呼ぶ主イエス・キリストとは、いかなるお方でしょうか。私どもは、十字架の主イエス・キリストの尊い血潮によって贖われた者としての礼拝を献げることを許されております。罪なきお方、聖なる主イエスの十字架の贖いにより、主を信じる者は皆、清められるのです。もはや、礼拝毎の他者犠牲を繰り返す必要はありません。全く清い主イエスの命による贖いゆえに、繰り返しの犠牲を必要としないのです。
 主に贖われ、信じて聖とされた者として、神との交わりに生きることが許されていることを感謝したいと思います。これこそが、私どもの礼拝です。何ものかの犠牲というおぞましいことをしなくても済むのです。

 この世の世界は、誰かが誰かを踏み台とし、犠牲を強いる世界です。しかし、神自ら命を献げ、神ご自身が痛み、損をしてまでの、神による自己犠牲のゆえに、私どもは他に犠牲を必要とせずに贖われるのです。
 ですから、主の名を呼ぶこと、このことが何よりも大事であることを忘れてはなりません。主の血潮によって贖われた者として、主の名を呼ぶのだということを忘れてはならないのです。
 そして改めて、神殿の崩壊は、キリストの名を呼ぶ礼拝を指し示すものであることを覚えたいと思います。

 ここで、弟子たちは「先生、御覧ください」とありますように、主イエスを「先生」と呼んでおります。弟子たちは何も理解し得ていない、主イエスに自らの救いを見出していないのです。
 しかし幸いなことに、弟子たちは、なお主の弟子であるのです。主イエスが「弟子として覚えていてくださる」ことの恵みを覚えたいと思います。

 弟子は「すばらしい石」と言っております。ここには、人の技術への賛美もあるでしょう。弟子は主イエスに、単に神殿を見て欲しいのではなく、自分の覚えた感動を受け止めて欲しいと思っているのです。そういう思いの弟子に対して、主が告げられたことは、神殿の崩壊でした。
 人は、他者の感動を受け止めるということが大事だと思っております。それは、感動も愛の一つの形だからです。思いを受け止める、それが愛することです。感動を共にすることは愛することです。
 けれども主イエス・キリストの愛の出来事は、単にそういうことではありません。主の愛の出来事は、人が神との真実な交わりに至るようにと導いてくださる出来事なのです。

 さて、エルサレム神殿は、最初の第一神殿は、ネブカドネザル等によって破壊されました。そこで第二神殿が再建されましたが、それは第一神殿ほどの立派なものではなく、人々にとっては嘆きの種でした。
 ここで、弟子たちが見ている神殿は、その第二神殿かと言いますとそうではなく、ヘロデ大王が大改修した神殿です。ヘロデ大王は、エルサレムの大土木事業を成した人です。ローマの属国ではありましたが、承認を得てパレスチナ全土を治める、力があったのです。それは、ダビデやソロモンが治めたほどの大きな領地でした。その威信をかけた大土木工事は、水道の整備、神殿の改修、そして宮殿の建築でした。レバノンの地も治めましたから、全土から資材を集め、技術の粋を結集し、叡智をもって建造した豪華な建物、ヘロデの威信を示す、それが神殿であり、宮殿だったのです。
 その大改修された神殿を見て、弟子は誉め称えました。人の叡智の見事さを示す、その神殿に感動しているのです。そのように感動している弟子に対して、しかし主イエスは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、徹底的な破壊を告げられます。
 主イエスは、先を見ておられるのです。先を見るということは、人の滅びを見ておられるということです。滅びを見るお方として、人の救いを見ておられるのです。
 人の作ったものは永遠ではないことを見ておられる。いずれは壊れ、空しくなることを、主は知っておられるのです。

 私どもは、3.11の出来事を通して知りました。原発事故により、人の手によって作られたものに完全はなく、却ってそれは重荷になることを知りました。ここから、私どもは学ばなければなりません。かつて、公害のデパートとなった日本は、その公害対策のゆえに、技術を向上させました。しかしその技術を過信し、技術に基づいた利益を求めた結果が今の現実です。
 人の作ったものは、ついには空しくなることを忘れてはなりません。それは、建物だけではなく、組織もシステムも同様です。人が作ったものは、必ず空しくなるのです。ゆえに、人は、自分の作ったものの空しさを知っておかなければなりません。そして、すばらしいもの、それはただ神の御業のみであることを知らなければなりません。

 人の過ちに関わらず、神の秩序はなお、揺るぎなくあるのです。季節は移り、大地は収穫を与えてくれるのです。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどには飾っていない」と、御言葉に言われております。どんなに人の作ったものがすばらしく美しかったとしても、神の創造の御業としての野の花の美しさには及ばないのです。そして、神の造られたものこそは、神の栄光を表すものとして麗しく、真実に人に慰めを与えるのです。「すばらしきは、神の御業」なのです。

 ですから、神の造られたものに対して、私どもは、喜びをもって受け止めるべきことを知らなければなりません。その最も身近なものは何でしょうか。神の造られたもの、その第一は、「わたし」です。私もまた、神が造ってくださったものとして、神の栄光を表す器とされているのです。どんなに老いようと、障がいを負っていようと、私どもが神の御業でなくなることはありません。

 私どもは、神の御業です。神が造り、良しとしてくださっているのです。神が良しとしてくださって、今、ここにあるのです。私どもは、神によって麗しくされているのです。神に造られたものとして麗しいのです。ゆえに、私どもは神の御心に生きるのです。それが神の民とされて知る恵みであることを覚えたいと思います。
 一人ひとり、神に造られた者として、感謝をもって受け止める、それが、私どもの人生を豊かにすることを覚えたいと思います。神の秩序こそ麗しいのです。

 人の手で作ったものがいかに美しく立派なものであったとしても、そのことに傲る愚かさを思わなければなりません。自らの手の業に固執せず、そこから解き放たれるものでありたいと思います。

 麗しいもの、それは神の御手のうちにある私ども自身であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

 3節に「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると」と続きます。主は何を思って神殿を眺めておられるのでしょうか。それは次回のこととしたいと思います。

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