聖書のみことば
2014年9月
  9月7日 9月14日 9月21日 9月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 レプトン銅貨、二枚 ⑵
2014年9月第1主日礼拝 2014年9月7日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章41〜44節

12章<41節>イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 <42節>ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。<43節>イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。<44節>皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 3週ほど、同じ箇所から聴いておりますが、今日は漸く「レプトン銅貨、二枚」の話です。

 41節「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた」と記されております。この文章を読みましても特別なことを感じませんが、この情景を思い浮かべてみますと、これは不思議な情景です。「神殿の賽銭箱の向かいに座って人々が金を入れる様子を見る」とは、私どもで考えれば、武田神社の賽銭箱の前に座るようなものですから、どうして主イエスはそのようなことをなさるのかと思わざるを得ません。

 まずは、主イエスのなさることは不思議なことであるということを覚えたいと思います。主は不思議なことをなさってくださるお方なのです。その頂点が「十字架と復活」です。「十字架と復活」、これは人の道理に合う出来事ではありません。「罪人の救いのために」と主イエスがなしてくださった十字架と復活の出来事、これは人に理解できることではありません。神の出来事としてしか知り得ない不思議なことです。主は不思議なことをなしてくださった、それが罪人の救いです。不思議なことであるがゆえの、私どもの救いなのです。
 大体「神の御子でありながら人となる」など、あろうはずがありません。人は、もっと上にもっと良くと高みを目指します。けれども、主イエスの、神のあり方は「低くなる」ことでした。それはまさしく不思議なことです。その不思議があるがゆえに、この世のすべての人が主の救いに与るのです。
 主イエスは不思議なお方です。神なる方が人となられたのです。そこに「神の神秘」があります。神秘ゆえに不思議なのです。

 現代社会は、「聖」という感覚を失いつつあると思います。人間は本来、霊的な存在です。ですから、同じ被造物であっても犬猫とは違うのです。犬猫は祈りません。祈り、礼拝するのは人間のみです。それが人間の特徴なのです。神を礼拝するところで霊性が与えられるのです。
 けれども、霊的な存在であるにも拘らず、聖なるものに対する畏敬の念を忘れていること、それが現代社会の心の闇です。霊的な感覚で他者を見ることができないゆえに、命を尊ぶことができないのです。
 ですからこそ、知らなければなりません。主イエスは不思議なお方です。その神の神秘があってこその私どもの救いであることを、まずは覚えたいと思います。

 41節にあるように、人々が賽銭箱にお金を入れるところを見るとすれば、これは面白いことでしょう。その様から人の思いを読み取るということであれば、主イエスは、何をなさらなくても人の思いを知り得るお方です。
 エルサレム神殿の賽銭箱は、外庭と内庭に13あったと言われております。当時、女性は内庭に入ることはできませんでしたが、外庭には入ることができました。賽銭箱というと私どもは四角い箱を思い浮かべますが、イスラエルの賽銭箱はそうではありません。すり鉢形をしており、そこに投げ入れられたものは見えるのです。この箇所の平行記事がルカによる福音書にありますが、ルカにおける注解書には面白いことが書かれております。賽銭箱の横には金庫があり、そこには祭司がいて、賽銭箱に金を投げ入れる人は、その祭司に金額を告げてから入れたというのです。
 このような献金の仕方をしていたとすれば、これは、私どもの思いと一致しないことでしょう。私どもは、金持ちだからたくさん献げたと思うのです。けれども、金額を告げて献げているとすれば、それは、競い合って献げている、それがユダヤ人の感覚なのです。

 私どもも、昔はよく「献げるところに心があるのだから、痛みをもって献げなさい」と指導されたように思います。金持ちだから余裕はある。けれども、彼らの献げものは、それでもよりたくさんの自分の精一杯をと、人と競うほどに、また痛みを伴うほどに献げたのです。ですからそれを思いますと、主イエスが44節で「皆は有り余る中から入れた」とおっしゃったからと言って、私どもが彼らの献げる様を、簡単に非難することはできません。
 後を読みますと分かりますが、主イエスは、このようにして献げた金持ちを非難してはおられません。そうではなく、それ以上のことをご存知の上で、主は後に、弟子たちに話されるのです。

 さて、このような場面に、42節「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」とあります。これはすごいことです。大勢の金持ちが競うようにして献げている、その所に行って、一番単位の低い硬貨であるレプトン銅貨を二枚、貧しいやもめが献げたというのです。私どもで考えれば2円でしょう。1デナリの1/64と言いますから、大体何十円かほどの額です。
 この貧しいやもめは、何の恐れもなく、レプトン銅貨二枚を献げております。しかし考えてみてください。もしも金持ちと同じように競うように自分の精一杯を献げようと思ったならば、貧しいやもめは、そこに来たでしょうか。金持ちと同じように、痛みを伴うまでの思いが勝って献げようとしていたならば、そこには来なかったことでしょう。

 主イエスの話には「やもめ」が度々出てきますが、「貧しいやもめ」という言葉は、それがどういう者であるかを示しております。「貧しいやもめ」は貧しいのですから、それは、お金を頼りにして生きることのできない人です。お金に生活の基盤を置けない人なのです。そして「やもめ」とは、未亡人のことです。夫を失った人です。当時、人権を認められていたのは成人男性だけですから、女性は成人男性と結婚して初めて主婦としての権利を守られました。つまり、結婚によって保護者を得たのです。しかし、やもめはその保護者を失っている、人権を失っている人、つまり人を頼りにできない人なのです。
 「お金も人も頼りにできない人」、それが「貧しいやもめ」という言葉に示されていることです。地上において一切の頼りを持たない人、そのような人が神殿にやって来て、レプトン銅貨を二枚献げている、それはどういうことなのかを知らなければなりません。
 注解書はいろいろな解釈をしておりますが、二枚ということを強調して、1枚でも良かったのに2枚献げた、それが誉められたと、よく言われます。
 けれども、44節「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と、主イエスは言われました。どうでしょうか。私どもが、この貧しいやもめがレプトン銅貨を二枚入れるのを見て、それがこの人の生活費の全てかどうか、分かるでしょうか。私どもには、この人が何枚銅貨を持っているかなど、その献げる様子を見ていたとしても分かりません。けれども主イエスは、レプトン銅貨二枚が、この貧しいやもめの持っている全てであることをご存知です。主は、この人が自分の全てを献げたことをご存知なのです。

 私どもが知らなければならないことは、自分の持てる全てを献げた人が「貧しいやもめ」であったということです。「貧しいやもめ」は、お金にも人にも頼れない、ただ「神の憐れみによってのみ生きる人である」ということです。神にのみ寄り頼む人、そうするしかない人、しかしそれは同時に、「神の憐れみによって生かされているという実感を持った人」であったと思います。そういう実感を持っていた、だからこそ、持てる全てを献げることができたのです。
 ですから、この人の献げものは、神への要求としての献げものではありません。神への感謝としての献げものです。神の憐れみが自分を支えていることを、彼女は知っております。だからこそ、他者の目を気にすることなく、臆することなく神の前に行き、献げずにはいられなかったのです。
 自分の生活の全てが神のうちにある、恵みのうちにある、そのことへの感謝、それがこの貧しいやもめの献げもの、レプトン銅貨二枚です。

 大勢の金持ちのように競って献げることには、落とし穴があります。それがたとえ痛みを伴うほどに一生懸命な献げものであったとしても、人はそこで報酬を求めてしまうのです。一生懸命であればあるほど、献げた以上の神の報酬を、どこかで望んでしまうのです。それは、神への脅迫と言えます。功績主義は、神を脅迫することであることを覚えなければなりません。功績主義は、その結果、苦しみを生むことになり、その苦しみを自分が負うことになるのです。それが一生懸命に自分でなそうとすることの落とし穴、苦しみです。

 貧しいやもめの献げものは、感謝と喜びの献げものです。ですから、金額の大小は関係ないのです。献げること自体が恵み深いことなのであり、喜んで献げること自体が感謝になるのです。「今こうして在るのは、神の恵みです」との思い、それが貧しいやもめの献げものに込められている思いです。

 主イエスはこの様子を見ておられ、そして、43節「弟子たちを呼び寄せて」言われました。主は、金持ちややもめに対して言っておられるのではありません。弟子たちに言われました。そして、「人の生活の全ては、神によって成り立っている」のだということを示してくださっております。
 間違えてはなりません。決して、持てる全てを献げて無になれという脅迫ではないのです。そうではなくて「神の憐れみによって喜びに与っている。だからこそ、自分の全てを献げることができる」、このことが示されていることを覚えたいと思います。

 「主イエスの弟子、主に従う者とはどういう者か」ということが、ここに示されております。それは「主の恵みのうちにある者」ということです。主の憐れみによって自分の生活の全てが支えられているのですから、悔い改めと感謝に生きる、それこそが弟子の姿です。

 先にも言いましたように、ここで、主イエスは金持ちの献げものを駄目だとはおっしゃっておりません。金持ちが駄目でやもめは良いというような、そういうことではないのです。そうではなくて、「私どもの日々のうちに神の慈しみと憐れみを見る」こと、それが「主にある豊かな、霊的な生活である」と言ってくださっているのです。

 現代を生きる私どもは、これからますます、格差の中で貧しさを生きることになっていくと思います。けれどもキリスト者は、それでもなお、「主のある恵みに満たされて、感謝のうちに、霊的に豊かに生きることができる」ことを覚えたいと思います。
 この貧しいやもめの姿こそが、キリスト者の姿です。神にのみ寄り頼み、神によって満たされて生きる、その恵みを共々に感謝したいと思います。

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