聖書のみことば
2014年7月
  7月6日 7月13日 7月20日 7月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 聞け、イスラエルよ
2014年7月第4主日礼拝 2014年7月27日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章28〜34節

12章<28節>彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」<29節>イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。<30節>心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』<31節>第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」<32節>律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。<33節>そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」<34節>イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 ここまでのところで、主イエスは、ファリサイ派やヘロデ派の人々が主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとした、そのような思いを砕かれ、また、サドカイ派の人々の思い違いを正されました。それらのやり取りを聞いていた「一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」と、28節に記されております。

 この律法学者は、主イエスの言葉じりをとらえて問うのではありません。主をやり込めようとする思いではないのです。そうではなくて、主イエスに感心して、敬意をもって問うております。主イエスこそ、真実に律法の本質を教えてくれる方だと感じ、教えを乞う思いで尋ねるのです。つまり、学ぶ姿勢をもって問うているということです。ここに、この律法学者の真摯な姿が表されております。
 真実に問うということは、「聞く」という姿勢をもって問うということです。試すために、あるいはやり込めるために問う姿は、既にここまでに見てきました。しかしここでは、真摯に聞こうとする姿勢が示されております。それは麗しい姿です。聞く者として問う、聞く者であること、それが彼の真摯な姿勢なのです。

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と、彼は主に尋ねました。彼が真摯に聞いていることは何か。日頃から彼がどういうことを求めているかということが、この問いに表されております。彼は、律法の本質をいつも尋ね求めている、ですから、彼の最も関心ある、このことを主に聞こうとしているのです。

 この問いを、主イエスはもちろん受け止めてくださって、率直に答えておられます。
 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」。この箇所は他の福音書にも記述がありますが、このマルコによる福音書には他の福音書と違うことが、まず書かれております。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」という言葉です。
 この言葉は、ユダヤ人にとっては馴染み深い言葉です。「シェーマ、イスラエル(聞け、イスラエルよ)」とのこの呼びかけは、申命記6章4〜6節に記されております。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあるのです。ユダヤ人は、朝に昼に夕に祈ります。これは、そのときに唱和する祈りの言葉、ユダヤ人なら誰もが知り、祈っている、口ずさんでいる言葉なのです。
 そして、申命記には、この後に「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と続きます。このように、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉は、「繰り返し教えよ」と命じられた言葉ですから、彼らは日に三度も祈ったのです。つまりこの言葉は、イスラエルの信仰の基本中の基本となる言葉であるということです。主イエスは、この言葉を第一の掟として教えられました。

 ここで、マルコによる福音書が他の福音書と違っていることは「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」という言葉が記されていることだと言いました。他の福音書では、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが第一の掟である」とあるのみです。マルコのこの箇所に聴くとき、主イエスがここで、単に「あなたの神である主を愛しなさい」と言われているのではなく、「聞け、イスラエルよ」と、まず言われていることに心を向けなければなりません。なぜならば、このことによって、「なぜ、神を愛するのか」が示されているからです。

 新約の世界では、「神がわたしを愛してくださっている、だから愛する」と思います。けれども旧約では、なぜ神を愛しなさいと命じるかと言うと、それは、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」、つまり「イスラエルの神こそが唯一なる主、神であるからだ」と言っているのです。唯一であって、他に神は無いということが、はっきりと言われております。それは、いろいろな神があって、その中のこの神を愛し、信じ、礼拝するということではない、ということです。「この神のみを愛する」と言うとき、それは、人の側の選びによって、たくさんある神の中から選ぶという人間中心なことが起こるのです。
 けれども、ここに言われていることはそうではありません。「神は、この神しかおられない。唯一の神、だから愛しなさい」と言っているのです。エジプトで奴隷の民であったイスラエルを導き出し、荒野での40年を養い、乳と蜜の流れる約束の地へと至らせてくださった神のみが、唯一の神であると、主イエスは教えてくださっているのです。
 他の神々は、人の作った偶像の神々です。他者から見れば、どの神も神々の中の一つでしかないのです。けれども、唯一なる神は一つなる方であること、それは、出エジプトの民としてのイスラエルが神によって確信させられたことです。だからこそ、その唯一なる神を愛し、礼拝するしかないのです。「神はこの神のみ、だから礼拝するよりない」のです。自分でこの神と選んで信じて礼拝するということとは違うのです。

 このことは、とても大事なことです。
 単に、助けてくださった神だから愛するということではありません。旧約聖書が示すことは、「神は唯一であり、真実な神はただお一人である。その神を神として崇い、神を神として礼拝する」ということです。それが「シェーマ、イスラエル」によって教えられていることなのです。

 真実な神によって救われている、救い導いてくださっている、だから礼拝するのです。「神を愛する」ということは、「神が神であられるゆえに愛する」ということと、「救ってくださったがゆえに愛する」という、二重の意味を持っております。けれども、「神が神であられるがゆえに愛する」ことが第一のことです。
 そんなことはないでしょうけれども、私どもは、神に裁かれ、滅びても良いのです。罪ゆえに滅びでしかない私どもに、神は真実に向き合ってくださるのですから、良いのです。そのように真実な神であるがゆえに、私どもは神を愛するのです。そして、滅びでしかない者を救ってくださった神であるがゆえに、そこで一層神を愛するのです。それが、まずここで示されていることです。

 そして、このことを明確にするために、主は言われます。30節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。心も精神も思いも力も、それは心の座ということでしょう。哲学的に考えてもなかなか分からないことです。明確に理解できることではありません。つまり「全身全霊をもって神を愛しなさい」と言っているのです。このことは、「愛する」ということが具体的に転換されると少し分かり易くなると思います。大事なことは何か。「神を愛する」ことは「神を信じ、礼拝する」ことに他ならないということです。神が神であるがゆえに神を愛し、礼拝し、そこで神の恵みを思うということです。

 「イスラエルよ、聞け」と、主イエスは言われました。それは「神の民よ、聞け、神を愛せよ、礼拝せよ」と言っておられるということです。そして、その際に、「全身全霊で神を礼拝せよ」と言われております。「全身全霊で、心を、精神を、思いを、力を尽くして礼拝する」とは、素晴らしいことです。それこそが礼拝です。
 このことは、イスラエルだけのことではありません。神を信じ、神の民とされている私どもにも言われていることなのです。主イエスが私どもに、そう言っておられるのです。主がはっきり言っておられることは、「礼拝せよ、それが愛することだ」ということなのです。
 自分の思いを、自分の栄光を求めるのではない。自分の全てを注ぎ出して、神に依りすがり、神の御声に聴く、それが神を愛することです。愛するがゆえに、私どもは、神を礼拝して止まないのです。それが、信じることの中心にあることです。

 昔は、主日礼拝厳守ということが重んじられました。神を愛していたからであります。夕礼拝は、伝道のための礼拝でした。愛するがゆえに伝道したのです。そして、日々に祈りました。愛するがゆえに、礼拝して止まなかったのです。ですから、家庭を開放しての集会を持ちました。自分の都合によるのではなく、ここで、この家で共に御言葉に聴き、祈り、讃美したいと願ったのです。愛するがゆえに祈り、愛するがゆえに礼拝する、それがかつて、よく見られた教会の姿でした。愛宕町教会もそうです。ホーリーネスの流れを汲む信仰によって、いかに神を愛していたかの証しとして、路傍伝道をし、隣人に積極的に伝道しました。それは神を愛するがゆえの尊い姿勢だったのです。
 ですから、私どもの教会は、早朝礼拝、夕礼拝、そして一人のためにでもと金曜礼拝を持っています。ねばならないのが礼拝なのではありません。愛するがゆえに、礼拝せずにはおられないのです。人の都合によらない。神が在すがゆえに、その神を愛するがゆえに神を崇めざるを得ないのです。
 そうでなければ、私どもの信仰は、熱くもなく冷たくもない、生温い信仰です。そして、礼拝とは、私どもにとって愛するゆえのことなのですから、それは喜びであり、明るいのです。どんなに辛い現実の中にあっても、礼拝は私どもを軽くしてくれます。重い人生を歩むゆえに、私どもの重荷、痛みを神が知っていてくださり、慰めを与えてくださっているからこそ、礼拝は喜びなのです。礼拝こそは、私どもの愛が尽くされるところなのです。

 主イエスは続けて、31節「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われます。ここで「第二の掟」というところが、マルコによる福音書は特徴的です。第一の掟と第二の掟の重さに差をつけているのです。他の福音書では、第一と第二は同じような重さであるように言われており、神を愛することと人を愛することとは一つの事であると、偏りがちに聴いてしまうと、神を愛することは隣人を愛することによるのだという本末転倒なことになってしまうのです。実際に、そういう間違いをおかす教会があるのです。
 真実に神を愛すること、礼拝することなくして、隣人を愛することは意味のないことであることを覚えなければなりません。
 神を愛することと隣人を愛することを一つのこととすることは、全く間違っているということではありません。けれども、何よりも大事なことは、神第一を抜きにしてはならないということです。マルコによる福音書は、はっきりと語ります。まず第一の掟は、神を愛すること、神を礼拝することです。神を礼拝する者であるがゆえに、隣人を愛するのです。礼拝することなく、隣人を愛すること、自分自身を愛することはできません。

 現代社会ほど、自分を愛せない時代はないのではないでしょうか。お金が第一の社会では、お金のない自分は負け組、駄目なのです。格差社会で、地位における格差がある。お金や格差が、自分を愛することができない状況を生み出しているのです。
 どのような人でも、その人を神の創られた尊い一人として見るということがなければ、負け組の者は駄目な者だと見てしまうでしょう。お金が無い、能力が無い、だからこの人は駄目だとする、駄目出し社会です。

 しかし神は、主イエス・キリストの十字架をもってまでして、私どもを愛してくださいました。主の十字架を通して、神は私ども一人ひとりを「神にとって無くてはならない一人である」としてくださっているのです。自分を大切な存在だと思えなくなっている者にも「あなたこそ、わたしにとって尊い者」と、神は言ってくださる。神は、独り子主イエスを十字架にかけてまでして、私どもの罪を贖い、救ってくださいました。それほどまでに、私どもの存在を尊いと言ってくださる。それが「礼拝によって知る恵み」です。だからこそ、私どもは、礼拝においてしか自分自身を愛することは出来ません。真実に神を礼拝するからこそ、自分自身を大事に思えるのです。そして、他者を受容することができるようになるのです。

 自分を愛することと、隣人を愛することは一つのことです。自分を愛するとは、神の恵みを知る者に与えられる出来事です。神を礼拝することは、神の恵みを知る者の生き方なのです。

 神を礼拝することこそが第一のことです。そこでこそ、自分を大切にし、隣人を大切にすることができるのです。

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