聖書のみことば
2014年7月
  7月6日 7月13日 7月20日 7月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神のものは神に
2014年7月第1主日礼拝 2014年7月6日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章13〜17節

<13節>さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。<14節>彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」<15節>イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」<16節>彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、<17節>イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 13節「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」と言われております。ここで、「ファリサイ派やヘロデ派の人」を遣わしたのは誰か、記されておりません。聖書に記された順を追えば、神殿での主イエスの宮清めの出来事の後、主に問うて来た者たちがおりました。それは、サンヘドリンと呼ばれるユダヤの自治の最高法院を構成する大祭司、祭司長、律法学者、民の長老たちでしたから、続けて読みますと、遣わした者とはサンヘドリンの人々だと読むのです。
 サンヘドリンの上にあるファリサイ派の人々と、ここで初めてヘロデ派の名が出てきます。つまり、ユダヤの指導者たちが、こぞって主イエスに敵対している姿が描かれているのです。

 ヘロデ派とはヘロデ・アンティパスに繋がる人々であり、ファリサイ派の人々はユダヤの宗教上の指導者です。彼らは親しい関係の者ではありませんが、主に敵対する者同士として手を組みます。人とは面白いもので、自分の主張によってではなく、共通の敵の存在によって「手を組む」ことができるのです。
 ここに示されることは、それほどまでに、彼らは主イエスの業に脅威を覚えたということです。それほどまでに、主の教えは権威ある者の教えだったのです。主イエスを恐れるがゆえに、手を組まざるを得なかったのです。

 彼らは、主イエスに一つの質問をすることによって「言葉じりをとらえて陥れようとして」と、下心を持ってやって来ます。そのような時の態度はどうかと言いますと、下心があるときには丁寧です。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と、「先生」と呼ぶことはもちろんですが、最大限な賛辞の言葉を送って、主を持ち上げております。
 彼らの言っていることは彼らの本心ではありませんが、しかし、結果として主イエスを証しすることになっております。主イエスは「真実な方」です。なぜならば、「神の御子、神なる方として真実な方」だからです。人は真実を貫くことはできませんが、主イエスは神なるお方ですから真実なのです。
 主イエスに敵対し、主イエスを恐れる者は、主を否定するという形で、主を証しするのです。

 主イエスは「だれをもはばからない方」、すなわち「公平な方」です。公平であること、それは、人にはできないことです。身近な人であればあるほど公平にはなれず、身びいきするか厳しくするかになるのです。けれども、主イエスは公平なお方です。私どもの救いは、神の真実と公平とによっているのです。人を分け隔てせず等しく扱う方は、主イエス、神のみです。この人は駄目だと言わない、その主の在り方が示されているのです。
 人が平等であるということは、神の下にあってのことであることを覚えなければなりません。人には生まれたときから格差があるのですから、人は平等ではありません。けれども、神は人を等しく扱われるがゆえに、神の下にあって、人は等しいのです。
 主イエスは真実で公平な方、まさしくその通りです。

 しかし次の「真理に基づいて神の道を教えておられる」というところは、違います。主イエスは真理そのものなる方です。主が何らかの真理の上に立って教えておられるということではありません。「主イエスこそ、神の御子として救い主である」、それが「真理」なのです。
 「主イエス・キリスト、神こそ救いである」、それが聖書の語る真理です。主イエス・キリスト以外に救いはありません。罪ある者・神に従えない者であるのに、私どもは、主イエス・キリストによって「あなたは、わたしのもの、神のもの」と宣言されるのです。
 ですから、ここに言う真理とは、自然科学における真理とは違います。この被造世界全てを超えての真理です。なぜならば、全人類の救いが、主イエス・キリストにかかっているからです。

 下心ある者たちの言葉が、計らずも、主イエスを証しすることになっております。敵対者がいるからこそ、主こそが真理であり、救いがどこにあるのかが示されます。ただ従うことによってのみではなく、このように敵対したとしても、主を証しするのです。改めて、人とは神を証しする存在であることを思います。

 さて、敵対する者たちが主イエスをひっかけようとした内容は、「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」というものでした。税金問題です。このことは、ユダヤ人にとっては深刻なことでした。ユダヤの納める税金は、ローマ帝国への納税です。自分たちを支配している者に納めるのですから、税金問題は、直接的なローマへの反感をかき立てる事柄だったのです。
 ここで納めるのは人頭税、つまり住民税です。紀元前6年にローマ総督が課した税金で、その際に、ガリラヤのユダが反乱を起こしましたが、鎮圧され、納税の義務を負うことになりました。
 ヘロデ派の人々は納めるべきだとしていますし、ファリサイ派の人々は納めたくはないが納税についてはローマに協力しているのです。熱心党の人々は民衆の支持を得ており、納めたくはありません。つまり、政治に関わる者は、納税が無難だとしていたのです。このような問題があった上での、実に巧妙な問いです。

 彼らは主イエスを恐れていますが、しかし最も恐れているのは群衆です。群衆は主イエスを支持しており、納税はしたくないのですから、主が「納めるべきだ」と答えれば、民の支持を失い、力無い者となる。逆に「納めなくてよい」と答えれば、民を扇動して反乱を起こそうとしていると、主イエスをローマに訴えることができる。このように、どちらの答えであっても、答えてさえくれれば、主を失脚させる、あるいはローマに引き渡せると考えたのでした。
 指導者たちは大変ずる賢いのです。心にも無いお世辞を言い、主イエスはもちあげられて答えると思っているのです。

 けれども、主イエスはというと、15節「彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、わたしを試そうとするのか。…』」とあります。「なぜ、試そうとするのか」と言われますが、それは理由を問うてのことではありません。何と愚かなことを聞くのかと、たしなめて、彼らの思惑のようにではなく答えられるのです。二者択一の問いに対して、その問いを粉砕されるのです。「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。
 デナリオン銀貨は、ローマの通貨です。持って来なさいと言われて、どういうことかと思ったことでしょうが、持って来た彼らに対して、主は問われました。「これは、だれの肖像と銘か」。銀貨には、肖像があり銘があります。デナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスの肖像と、皇帝の説明として「ティベリウス・カイサルは神なるアウグストゥスの子であり、祭司長である」と刻まれているのです。ですから、この銀貨が誰に属するかは明らかです。皇帝のものなのです。彼らは、「皇帝のものです」と答えるほかはありません。

 その答えに対して、主イエスは17節「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。この答えは実に難解です。
 単に「皇帝に税金を納めよ」と、主は言っているのではありません。「神のものは神に返しなさい」と、そのことを主は言っておられます。「神のものは神に返しなさい」とは、「あなたたちは、神のものを神に返しているか」との問いです。
銀貨には皇帝の像があり銀貨は皇帝に属するのですが、それはそれとして、主イエスは、「神のものは神に」と言って「神に属する」ことの大事さを言われるのです。人は、神の似姿(にすがた)です。人は神の像(かたち)です。その「神の似姿であるあなたたちは、どこに属しているのか」と問うておられる。私ども、人が表しているのは、「私たちは神に属する者であると」いうことです。ですから、「神のものは神に返しなさい」と言われるのです。

 単に税金を納めなさいと言っているのではありません。税金を納めるように、神の似姿としていただいている者として、「あなたたちは自らを神の前に、神のものとせよ」と言っておられるのです。これはすごいことです。「自らを神のものとしなさい」と主は言っておられます。私どもは、このことを大切にしなければなりません。
 皇帝の支配は過ぎ行くもの、一時的なものに過ぎません。そうではなく「神の支配の下に生きなさい」と主は言ってくださっております。「神に仕え、神に自らを献げて生きよ」と言われているのです。

 もう一度、考えなければなりません。主の十字架に贖われ、神のものとされている私どもです。だからこそ、自らを神に献げて生きるべき者なのです。
 「神のものとして、神に献げて生きる」、それが私どもの在り方です。このことを、主は語っておられます。主によって贖われ、神のもの、キリストのもとして、神を誉め讃える者として主を証しして生きる。それが私どもの「礼拝」です。キリストのもの、神のものとすること、それが礼拝なのです。このことが、「神のものは神に返しなさい」ということの内容です。

 私どもは、神のものであるにも拘らず、この世に支配されてしまいます。そうではなく「神のものとして生きよ」と主は言われます。単に税金を納めよと言っておられるのではありません。
 私どもに与えられている答えは、「神のものは神に返しなさい」ということです。このことを覚えたいと思います。

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