聖書のみことば
2014年6月
6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 愛する息子を送る
2014年6月第4主日礼拝 2014年6月22日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第12章1〜12節

12章<1節>イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。<2節>収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。<3節>だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。<4節>そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。<5節>更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。<6節>まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。<7節>農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』<8節>そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。<9節>さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。<10節>聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。<11節>これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」<12節>彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

 自分たちこそ権威ある者と思って主イエスに問うた挙げ句、逆に主に問われたことに「分からない」と答えるしかなかった、何ともお粗末な者たち(ユダヤの指導者たち)に、主イエスが譬えでお話しくださった、それが今日の個所です。

 ここでは、譬えは複数であり、隠喩、比喩を内容としております。通常、譬えで語るのは何かを教えるためですが、ここではそうではありません。ここでは、これから起こる主イエスの出来事を隠された形で語っております。言うなれば啓示的・黙示的です。

 主イエスは何を譬えで話されたのでしょうか。
  1節「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。この情景は、パレスチナの地で現実に起こっていたことです。当時、ユダヤはローマの支配下にありましたから、農地はユダヤ人の所有とは限らず、その地には不在地主がいて地元の農夫に管理を任せ、契約を結んで収穫の何割かを納めさせて土地を貸すということがありました。ですから、この譬えは架空の出来事ではないのです。ユダヤ人にとっての日常を用いて、主は語っておられるのです。ゆえに、「ある人」は、ユダヤ人ではありません。
 「垣を巡らし」とは、石積みの垣です。「搾り場を掘り」とは、ぶどう酒を作るためのぶどうの絞り場です。「見張りのやぐらを立て」とは、石積みに屋根を木の葉で葺いた見張り小屋で、収穫時には休憩場でもあったでしょう。ユダヤ人にとって、現実に見慣れた景色なのです。

 2〜3節「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。地主が僕(奴隷)を送ったけれど、農夫たちは僕を袋だたきにし、挙げ句に収穫も納めなかったというのです。こういうことは現実にあったでしょうか。こう語られる背景があったことを覚えたいと思います。ユダヤ人からすればローマに搾取されるわけですから、常にローマに対する反感があり、また収穫は年によって違い十分に収穫できない年が続くこともありましたから、そこでトラブルがあったことは確かです。外国人支配への反感と収穫におけるトラブルがあったことを前提にして、ここまでの譬え話を聞いたユダヤの指導者たちの反応はどうだったかと言いますと、この譬え話に反感を覚えるよりはむしろ、不在地主への反感という意味では、農夫たちに同情的に聞いていたに違いありません。

 けれども、4節以降からはどうでしょうか。地主は2度3度と、またそれ以上に僕を送りますが、農夫に殴られ、侮辱され、あるいは殺されたと言うのです。ここまで主イエスが語られたことは、一体何を示しているのでしょうか。不在地主と農夫のトラブルについてということではありません。そうではなくて「神とイスラエルの関係」について、語っておられるのです。
 ぶどう園の主人(ある人)は、神です。ぶどう園はイスラエルであり、農夫はユダヤの指導者たちを指しております。そして、主人が送る僕とは誰でしょうか。それは預言者です。旧約の歴史において、イスラエルは、神からの預言者の言葉を度々退けてきました。そして、自分たちの耳障りの良い言葉を求めたのです。ここで、僕を追い返しあるいは殺したという譬えは、ユダヤの歴史が物語っていることです。神の御旨に反して自分の思いを優先させ、神の民でありながら神の栄光を表して来なかったイスラエルであることを、主は言っておられるのです。

 「収穫の時になったので」ということについては考えなければなりません。ぶどう園であるイスラエルが収穫の時を迎えるとは、どういうことでしょうか。出エジプトの出来事によって、イスラエルは、奴隷の民であったのに神の民とされました。そういう者として、神の栄光を表し、神に相応しく生きなければならない、そのイスラエルが神に相応しく生きるために、神は十戒を与えてくださり、神を神として生きることを教えてくださいました。神の民が神の民として相応しく神の栄光を表すこと、それがぶどう園の収穫です。けれども、イスラエルはそのような実を結ばず(収穫のときを迎えず)に、どうしたかと言いますと、偶像礼拝によって自らの思いを満たす生活をしたのです。
 しかし、このことはなかなか難しいことです。イスラエルは外国人支配にあったのですから、その影響も受けざるを得ませんでした。ですから、ユダヤ人を簡単に非難できるものではないのです。
 けれども、それは神に対しては赦されないことです。神は罪を裁き、赦しを与えて下さいました。神が完全に徹底して裁き、赦してくださったゆえに、私どもは救われているのです。神の業は、人のいい加減な裁きや赦しとは全く違うことを覚えなければなりません。また、軽々にユダヤ人は駄目だと差別意識を持つことは間違っていることを忘れてはなりません。
  「神に相応しく生きるように、神に立ち返れ」と預言者たちは語り、人々に促しました。御言葉に従って生きるようにと、神は預言者に御言葉を託してくださったのです。

 この譬えで、3度も主人が僕を送ったことは重要なことです。僕は農夫に殴られ、侮られ、殺されました。たとえ神の民であったとしても、いかに罪深いか、また残虐で悪質な者であるか、「神の民の罪深さ」が示されおります。
 しかしその一方で、そのような人の罪深さにも拘らず、神は忍耐を持って、その都度、立ち返らせようとして下さっております。この神の忍耐ということが大事です。神の寛容、神の慈しみは深いのです。そしてそれは、十字架の出来事へと繋がっていきます。
 一方で、人とはどうしようもない者であることが示され、しかしまた一方では、そのような人の罪に神が忍耐してくださることが言われております。神の慈しみ深さを受け止めなければなりません。到底、人にはできないことなのです。

 そして6節、「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」と言われます。「愛する息子」は、独り子としての息子であり、それは必然的に御子イエス・キリストを示しております。「主イエスこそ神の御子である」ことを強く示唆している言葉です。
 「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」とは、罪深い者たちに対して、神は忍耐もって「人が自ら神を尊べるようになるように」と働きかけてくださっていることを示しております。人が自ら神を神として尊べるようにと、神が愛する息子を送ってくださったのですから、ここで人は「神さま、ありがとうございます」と言えれば良かったのです。
 神は、人が自ずと立ち返るようにと招いてくださっております。神は人を裁くのではありません。神が願って下さっていることは、人が立ち返るようにということです。それが、神が愛する息子を、御子イエスを送ってくださったということです。

 このことは、旧約においても示されていることです。ノアの箱舟の出来事を思い出してください。地上に悪がはびこり、神は、一部を除いてそれを一掃されました。神は「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われました。そして「わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と言われるのです。これは不思議な言葉です。悪を裁いても切りがない、それで、なおかつ人を守ると言ってくださっている、それは主イエス・キリストを送ってくださることと繋がっているのです。神は人を、裁きによって立ち返らせようとはなさらないのです。

 6節「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」。主人(神)は、人が自ら主人(神)を尊ぶようになるようにと、愛する息子を送ったのだと、主は言っておられます。

 7節「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』」とは、こんなことはある訳がありません。こんなことをすれば、主人は農夫を捕らえるはずですから、相続財産が農夫たちのものになるはずはありません。ここで示されていることは何でしょうか。神の恵みの出来事は、自分の力で得るものではないということです。「神の恵み」は、あくまでも「与えられて受けるもの」です。このことを覚えなければなりません。

 「殺してしまおう」とは何とも悪質ですが、しかし、それだけではありません。8節「そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」というのです。神の御子主イエスを十字架につけて殺し、そして、外に放り出して放置した、すなわち葬らなかったということです。葬りをしないことは人の尊厳を損なうことであり、葬りをしないとは不遜なことです。実際にユダヤの指導者たちは、自分たちの手を汚さず、主イエスをローマの総督ピラトの手に渡して殺しました。同胞を異邦人の手によって殺させるとは、血も涙もないことです。

 9節「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」とあります。ここに、一つのメッセージが語られております。神の恵みは、ユダヤの指導者たちが主イエスを拒んだことによって、ユダヤ人以外に、「異邦人に与えられた」ことが示されております。神の恵みは終わらないのです。終わらず、ユダヤ人だけにではなく、異邦人に与えられるようになっていったのです。このことが示されております。
 ユダヤ人の指導者たちは、神を拒むことによって、神の恵みを異邦人に伝える者となっております。人は、拒むことによっても神に仕えることが許されるとは、何と大いなることでしょう。

 その上で、主イエスは更に、10節「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』と言われました。
 当時は、柱の土台石が親石です。「家を建てる者の捨てた石」とは、イスラエルをイスラエルとして建てるために仕える者、それがユダヤの指導者たちですが、その彼らが捨てた石、つまり殺した者である主イエスこそ、新しい親石となったということです。
 十字架の出来事は、ユダヤ当局の罪深さ、真実に神に仕えられなかった救い難さを用いて、まさに神が新しいイスラエルを立てられたということです。
 主イエス・キリストの十字架によって、人々の罪は裁かれ、贖われました。そのことを私どもが信じることを通して、新しいイスラエルが立てられるのです。人の罪の極みに、救いの極みがあるのです。

 主イエスは「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか」と言われました。これは、ギリシャ語聖書で語られておりますから、そこでは詩編117編です。私どもが読んでいる新共同訳聖書では、詩編118編です。22〜23節「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。 これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」、この箇所を主イエスは彼らに示されました。

 11節「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。神のなさったこと、十字架による救いの出来事は、「不思議な業」だと言われます。それは、人の理解を超えた業です。ですから、人が理解するかどうかということが問題なのではありません。この業は「信じるかどうか」であることが示されております。主は、理解してから信じなさいとは言われません。「不思議な業を不思議として受け入れよ、そこに恵みがある」と示しておられます。神の救いの恵みと、それを受け入れられない人の救い難さが示されております。罪人に対して、なお、慈しみ深い神。神は罪を終わりとしてくださいました。全き裁きと全き赦し、それを私どもは「アーメン」と受け入れる他ないのです。

 12節「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」。ここに至って、ユダヤの指導者たちは、主イエスが「あてつけ」で語っておられることに気付きました。そして、主イエスに殺意を抱いたのです。
 けれども、彼らは「群衆を恐れ」ました。自らを権威ある者と思っていながら、人を恐れるとは、何と情けない者でしょうか。彼らは救いを自ら捨てたのだと言われております。

 彼らの主イエスに対する敵対心、自尊心、そのような人の深い罪をも用いて、神は救いをなしてくださいました。このことを感謝をもって覚えたいと思います。
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