聖書のみことば
2014年2月
  2月2日 2月9日 2月16日 2月23日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神が結び合わせる
2014年2月第1主日礼拝 2014年2月2日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第10章1〜12節

10章<1節>イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。<2節>ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 <3節>イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 <4節>彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。<5節>イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。<6節>しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。<7節>それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 <8節>二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 <9節>従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 <10節>家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。<11節>イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。<12節>夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 1節「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」と記されております。「そこ」とはどこかと言いますと、カファルナウムでしょう。主イエスはカファルナウムを出てユダヤ地方に行き、ヨルダン川の向こう側、一般的に東ヨルダンと言われる所へ行ったということです。
 土地勘のない私どもは何気なく読み進むところですが、このことはしかし、主イエスの活動拠点を考えますと、随分違和感のある移動です。聖書の世界においては、大概「ヨルダン川を渡ってユダヤの地に入る」のですが、ここでは逆方向を行っています。ですから、ここにはさまざまな解釈があり、マルコによる福音書の記者がパレスチナ地方をよく知らなかったのではないか、あるいは、一度東ヨルダンに行ってまたユダヤに戻ったのだと言う人などもおります。

 けれども聖書にこう記されている以上、私どもは、「主イエスがユダヤ地方から東ヨルダンに行かれた」ことに何らかの意味を見出すべきだと思います。
 ここに至るまでに、主イエスは既に、ご自身の十字架と復活について2度、3度と語っておられます。ですから、この弟子を伴っての主イエス一行の道行きは苦難への道行きであり、十字架と復活への道行であることが前提にある、ゆえに本来はエルサレムへと向かわれるべきところです。しかし主は、その反対方向の東ヨルダンへ行かれる、それは行く必要のない所に行かれたということであり、それは示唆的なことであろうと思います。
 それは、「主イエスの十字架と復活」がユダヤ人のためだけではなく、本来は対象とならない異邦人の地にも及ぶことを示しているのです。「主イエスの行かれる所」は、「主の救いを必要としている地」であるのです。ユダヤに止まらない、その周囲の地のための、そして引いては私どものための「主イエスの十字架と復活」であることを覚えたいと思います。

 そして東ヨルダンの地で、「群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」と記されております。主イエスの行かれる所に、人々は集まっております。ユダヤの地に限らず、東ヨルダンでも同じことが起っている、それは「人々が主イエスを必要としている」ということです。

 そして主イエスは、「いつものように教えて」くださっております。
 主イエスこそ人々の救いであり、神の言葉こそ人々に救いをもたらすものです。それゆえに、人々は主イエスを必要としており、神の言葉を必要としているのです。主イエスは、そのことを知っていてくださって、人々が集まって来ると、神の言葉を教えてくださるのです。

 「いつものように」とは、心惹かれる言葉です。主は「いつもと変わりなく」御言葉を下さいます。「いつものように」人々に話してくださる、主イエスの慈しみに、いつものように人々は与っております。主イエスの言葉を頂くことは、神の憐れみ、慈しみを頂くことです。「いつものように」主が慈しみをもって人々を包んでいてくださることを覚えたいと思います。
 「主イエスこそ、神の憐れみそのもの」であられます。主イエスは私どもの罪を贖い、救いとなってくださいました。ですから、主の御言葉に聴くとき、私どもは「主イエスの憐れみに、神の憐れみに包まれている」のです。
 今朝もそうであります。礼拝において、私どもは「主イエスを知ること」を得させて頂き、「いつものように、神の憐れみ、慈しみを頂いて」おります。ですから、礼拝に集うことは、「いつもの出来事」として「神の恵みを与えられる出来事である」ことを覚えたいと思います。

 このように、主イエスが人々に教えておられたときに起ったことは何でしょうか。2節「ファリサイ派の人々が近寄って、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。イエスを試そうとしたのである」と記されております。ファリサイ派の人々が主イエスに、律法について尋ねたとありますが、ファリサイ派の人々は律法に精通し厳守している人々であり、律法を最もよく知る者ですから、わざわざ主イエスに尋ねる必要のない人たちが尋ねているということです。しかも彼らは、「近寄って」とありますように、群衆と一緒に主の教えを聴いていたのではなく、人々に教えておられる主イエスに質問するために「近寄って」来たのです。その理由は「イエスを試そうとした」のだと記されております。彼らは、主イエスに教えて欲しいと思って尋ねているのではありません。彼らは自分の答えを持っているにも拘らず、敢えて問うのです。それは、主を「試す」ためでした。
 群衆は主イエスの御言葉を必要としていますが、ファリサイ派の人々は必要としていません。「必要でもないのに敢えて尋ねる」、そこに「試す」という行為が潜んでいることが示されております。
 何かを「聞きたい、知りたい」と思う気持ちは真摯なものですが、必要もないのに敢えて聞くことは、相手を試すことであることを覚えたいと思います。またもう一つ、必要もないのに敢えて聞くことは、自己弁護、自己正当化のための場合もあります。

 主イエスは、ファリサイ派の人々が聞く必要もないのに尋ねていることをしっておられます。ですから、尋ねられて、逆に彼らに問われるのです。3節「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われました。彼らが答えを持っていることをご存知だから問い返されるのです。
 モーセは律法を指しております。神はモーセを通して律法をイスラエルにお与えになりました。ですから、主は彼らに「モーセを通して神が与えられた言葉は何か」と問われたのです。その問いにファリサイ派の人々は答えないわけにはいきません。律法の関しては最も良く知っているわけですから、答えざるを得ないのです。人は、知っていれば黙ってはいられない、ついつい答えてしまうのです。
 けれども、主イエスは、知っておられても全てにお答えになるわけではありません。主イエスは、そこにある人の思いは何かを明らかにするために、問うてくださる方なのです。

 4節「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」とは、申命記24章1〜4節に基づく答えです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。…」とあるのです。離縁する場合には離縁状を渡せということですが、その理由は「妻に恥ずべきことを見いだした場合」であって、内容的には女性の権利を守っている律法です。ファリサイ派の人々は、この律法を知っているのですから、「離縁状を書いて離縁を許す」と答えました。知っているのですから、主イエスに聞く必要のないことを聞いたことが分かります。

 ここでもし、ファリサイ派の人々が主イエスに聞きたい思うことがあるとするならば、それは、もう一歩先の内容について問うという可能性はあるでしょう。例えば「妻に見いだす恥ずべきこととは何か」とか「気に入らなくなったとき」とはどういうことか、このことについては律法の専門家の間でも見解が分かれておりましたので、そのことを問うことはできたのです。「妻の恥ずべきこと」は「妻の姦淫においてのみ」と考える人たちがあり、またリベラルな人たちは「妻が食べ物を駄目にしたり、他の者の妻より劣っている」ことを「気に入らなくなったとき」としておりましたから、それはどちらが正しいかと問う可能性もありました。けれども、「離縁が可能かどうか」などと問う必要は無かったのです。

 ここで主イエスは、5節「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。本来「離縁状を書く」ということは、何の理由もなく離縁してはならないからです。そのように、結婚を守り女性を守るための律法であるのに、人は悪賢く「理由を付ければ離婚できる」と離縁状を逆手に取って離縁しようとしたのです。「理由があれば良いだろう」とすり替える、人の罪深さがあります。人は、自己正当化のためであれば理由などいくらでも付けられるのです。このように律法を合理化して考え、本来の律法の心を忘れて、律法を自己正当化のために用いる、そのような人の罪の姿を知らなければなりません。だからこそ、主イエスは深い指摘をなさったのです。

 6節〜「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」と、主は言われます。どういうことでしょうか。神が、男と女に創造され、神が一人の男と一人の女を一体とされる、それは「結婚は神の御心によることである」と示しておられるのです。人の思いによっての結婚ではない、「神が二人を結び合わせ一つのものとしておられる」と示されるのです。
 ここに主イエスの姿勢があります。「結婚とは神の御業、御心である」ことを示し、神に聞くこと、神へと心を向けさせておられるのです。人の付ける理由によらない、「神の御心を畏むこと」こそが大事であることを教えておられるのです。
 ファリサイ派の人々は神へと心を向けておりませんし、結婚を神の出来事だとは見ておりません。

 またここで、「結婚し夫婦となる」という出来事は「父母を離れて」と言われていることは尊いことです。なぜならば、親子の関係、絆は簡単に切れるものではないにもかかわらず、その親子の絆以上のものとして夫婦の絆が重んじられることが示されているからです。「夫婦の関係」とは、人間関係の中において第一義的な最も大事な関係であることを知らなければなりません。
 一体となる、一体性は共同体を作ることです。ゆえに、結婚によって形づくられる「家庭」を、神は「神聖なもの」としてくださっているのだということを覚えなければなりません。
 ファリサイ派の人々は人としての理由付けに心を向けていますが、主イエスは神の御心に心を向けておられます。結婚は人の理由が優先するのではなく、神の意思に基づくものですから「結婚生活は神の意思に対する服従である」のです。そして更に、夫婦の絆とは血縁よりも濃いものであることを示される、これは重い言葉であります。このように主イエスが、一人の男と一人の女として「二人は一体である」と言われたことから、キリスト教では一夫一婦制を重んじております。

 更にまた、夫婦ということにおいて、この言葉は大きな意味を持っております。神の創造された一人の男、一人の女として、夫婦は互いに尊い存在です。神によって与えられた存在として、それゆえに、互いは「神の恵み、神の賜物である」ということです。人の好き嫌いによらないのです。もちろん、互いに惹かれ合うことはより良いことですが、そのことにおいても「思いをくださるのは神である」ことを知らなければなりません。「神が与えてくださる恵みとして相手を受け取る」べきことを、「神が結び合わせてくださった者同志である」ことを、主イエスはここで示してくださっております。
ですから、人は、人の理由によって結婚を解消してはなりません。

 けれどもここで問題となるのは、現実には離婚があるということです。このことをどう捕らえたらよいのでしょうか。神学者カール・バルトは、「キリスト教倫理」という著書の中で、この点について語っております。
 その前に少し説明しますと、結婚を最も重んじているのはカトリック教会です。プロテスタント教会の秘蹟は「洗礼と聖餐」の2つですが、カトリック教会では、結婚も秘蹟(サクラメント)です。ですから、例え地上で離婚したとしても、既に神が結び合わせた者として天に届けられている結婚は、解消はできないのです。
 プロテスタント教会では、離婚はあり得ることです。ただし、人の理由によっての離婚は、その結婚を神が定めた神聖なものとしていないことになるがゆえに認めません。どこまでもどこまでも、その結婚が神の御心であると信じ服従し、苦労を繰り返し、その果てに、互いに「この結婚は神の御心ではなかった、自分たちの思い込みだった」と知った時には、離婚してもよいのです。いえ、その場合には、神の御心ではないのですから、その結婚は解消されなければならない、とバルトは記しております。それほどまでに結婚を重んじることは、神の御旨と畏こむ姿勢であり、ゆえに離婚は、痛みをもって覚えるべきことであります。

 ここに示されていることは、大変重い出来事です。主イエスは、結婚の中心にあることは「神のご意志である」と導いておられるのです。離婚できるかどうかが問題なのではありません。「結婚とは、信仰の出来事である」ことが示されているのです。結婚は、人の理由やそのことによって得る利益によらないのです。

 10節「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた」とあります。主イエスがファリサイ派の人々にお答えになったことを、弟子たちは理解できませんでした。ですから、主は、11節、12節と、なお教えてくださっております。 しかし、この部分は9節までと内容が違っております。そして注意すべきことは、12節「夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」という言葉は、元の律法には無いということです。離縁状というのは、あくまでも夫が書くものだったからです。このことは、後の教会の状況が反映しているのだと言われております。そして、現代においては一般的なことです。

 そのことはそのこととしまして、私どもは、主イエスが教えてくださったこと、「神の御旨としての結婚である」ということに思いを馳せたいと思います。その神の御旨、神の御心に従うことはまさしく私どもの信仰ですから、「結婚もまた信仰の出来事である」ということの重さを示されているのだということを覚えたいと思います。

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