聖書のみことば
2014年1月
1月1日 1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 命にあずかる
2014年第4主日礼拝 2014年1月26日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章43〜50節

9章<43節>もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。<45節>もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。<47節>もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。<48節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<49節>人は皆、火で塩味を付けられる。<50節>塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 主イエスは、43節「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」と言われます。これは、手だけではなく、足についても、また目についても言われております。そして共通していることは、「あなたをつまずかせるなら、切り捨てよ、えぐり出せ」ということです。
 この前のところ、42節で「主の弟子たちをつまずかせる者のおぞましさ」を語られた後に、こう言われております。  42節では、つまずかせる者は他者でした。「つまずかせる者は何とおぞましいことか、だから一人の人をつまずかせないように」と言われたのです。

 けれども43節では、つまずかせる者は誰かと言いますと、他者ではなく、自分の手、足、目だと言っております。他者によるつまずきではなく、「自分自身のつまずき」を言っているのです。
 人はよく「人につまずき」ます。しかし、人は人につまずくばかりではなく、人は「自らにつまずきの種を持つ」のです。主イエスは、自分自身のつまずきについて、43節から47節に語られております。単に「片手」と1度だけではなく、「片足」「片目」と3度も言われる。人は人につまずいているようでいて、実は「自分につまずいている」ことを、主イエスは知っておられるからです。

 確かに、他者から悪口を言われ非難されるということもあるでしょう。つまずくのも無理からぬということもあるのです。しかし人は、他者がつまずかせるばかりではなく、自分でつまずくことがあるのです。他者から見れば大したことではなくても自分にとっては大きなつまずきとなったり、また、人の好き嫌いによってもつまずきは起こる、そのことを知っておかなければなりません。

 主イエスがここで、このようなことを話されることには背景があります。主の十字架・復活の後、主を信じる初代教会には迫害があり、また殉教がありました。しかし教会は、迫害する者を恨まず、却って「まったく神に信頼し、神と固く結びついていた」のです。
 何よりも、主イエス・キリストは、この世の権力者や民衆から排斥され、十字架に付けられました。それは、主イエスに非があってのことではありません。罪は、主を受け入れなかった人々にあるのです。しかし主イエスは、十字架において、この世を呪うことはなさらず、却って「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、執りなしを祈ってくださいました。
 十字架というこの上ない辱めを受けつつ誰をも呪わなかった、それは「他者がどうであろうと、なおそこで神に信頼する」、それが「主イエスの十字架の出来事である」ことを示しているのです。父なる神と一つなる方として、主は十字架を引き受けられました。神にまったく信頼し、神と固く結びつくことによって、「救い」をなしてくださったのです。

 「つまずき」とは、神に信頼しきれていないことです。主に真実に依り頼んでいないから、つまずくのです。他者がどうであっても、どう言われたとしても、自分自身が主イエスと結び合っていれば、つまずくことはないのです。
 「つまずき」は、神以外に価値を置いているから起るのです。神ではなく、自分の思いが第一だから起るのです。ですから、「つまずきは自分自身にこそある」ことを知らなければなりません。

 弟子たちが真実に主に依り頼めていなければつまずくしかないことを知って、主イエスは語ってくださっております。「まったく主イエスに従う」こと、「そこでこそ、人は揺るぎない」のです。そして「つまずきが、いかにおぞましいか」を示すために語ってくださった、それが「片手・片足を切り捨てる、片目をえぐり出す」という言葉なのです。
 まさしく、本当に自分で片手片足を切り捨て、片目をえぐり出したとすれば、とてもおぞましいことです。それほどまでに、つまずきとは愚かで醜いことであることを示すために言っておられるのです。
 自らにつまずく者の愚かさを、身の毛もよだつ表現で語っておられるのです。
 神に信頼できず、自分が第一であることが、いかにおぞましく、滅びの出来事であるか。また、いかにその人を苦しめるものかを、主は語っておられます。

 主イエスは時に、人の思いを超えたショッキングな語り方をなさいます。優しく語りかけるばかりではないのです。
 この箇所をただ字句の通りに読むならば、片手、片足がつまずかせるとはどういうことか、考えなければならなくなってしまいます。ただ片目については、マタイによる福音書5章28〜29節に「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」とありますので、その内容から考えますと、「つまずき」とは「情欲をもって見ること」と言えるでしょう。けれども、見るというとき、片目だけで見るでしょうか。両目で見るのが普通ですから、片目だけというのは、おかしいことです。
 そういうことからしても、この表現は、実際に「切り捨てよ、えぐり出せ」と言っているのではなく、それが「いかにおぞましいことか」を言っているのです。

 人にとって、「片手、片足、片目」それはどれも、神が創り、与えてくださった大切な体の部位です。ですから、神はその大切な部位を切り捨て、えぐり出すことを望んではおられません。片手片足の一本はおろか、指の爪一つをとっても、神が創り与えてくださった尊いものであり、少しも損なってはならないことを前提に、主イエスは語っておられるのです。
 「つまずき」は神を第一とせず、自分自身を第一とすることです。ですからここには、「神にまったく信頼することがいかに重要なことであるか」が語られているのです。手も足も目も、私どもにとって少しも損なってはならない重要なものですが、それに勝って「神に従うことが重要である」ことを、主は示してくださっているのです。

 また、もし自分の片手が罪を犯したからと言って切り捨てたとします。そうすると自分の大切なものを犠牲にしたわけですから、犠牲にしたもの以上のものを求める、それが人の思いです。それほどまでに、人は欲望の固まりなのです。見返りを求めてしまう、それが人の思いです。献げた、犠牲にしたもの以上の報酬を求めてしまうのです。
 そのような人の思いを、主イエスが知らないわけはありません。ですから、実際に切り捨てる、えぐり出すことが前提の話ではありません。
 そう思いますと、私どもも奉仕をするというとき、自らに強いてなしていないかを考えさせられます。自らに強いてするならば、見返りを求める心を持つことを覚えておかなければなりません。何事も、喜びと感謝をもって自ずとの思いでなすものでありたいと思います。

 ここで主イエスは、弟子たちが自らつまずくことを見越して語っておられます。それはなぜでしょうか。この後、弟子たちが、主イエスの十字架につまずくことを知っておられるからです。弟子たちは主イエスが十字架に架けられたのを見て、散り散りに逃げ去りました。それは、まだ真実に主イエスを知らなかったからです。
 もちろん、イエスをメシアと信じていた者もありました。けれどもそれは、罪の贖い主、救い主キリストとしてではなく、ローマ支配からの独立を目指す政治的な王としてのメシアと思っていたのです。ですから、主は予め語ってくださるのです。
 主の十字架とは何か。 「自らの罪ゆえにつまずかなければならない者を救うための十字架」であったことを、主は「復活」によって示してくださいました。「十字架」こそが「罪の醜さ、おぞましさの頂点」であることを知らなければなりません。
 主の弟子であっても、つまずきでしかない、罪でしかない、しかしそういう者だからこそ、「主の十字架と復活の恵みが必要」なのです。深く深く罪を知るために、この表現のグロテスクさが必要なのです。自らの罪のおぞましさの自覚を促した上で、そこに主の憐れみがあります。
 自らの罪を深く知るゆえに、主イエスに固く結びつくことができるからです。

 続けて、49節に「人は皆、火で塩味を付けられる」と、主イエスは言われます。これはもう、つまずきの話ではありません。とても難しいところです。
 火によってもたらされるものとは何でしょうか。それは、精錬されること、清められることです。また、塩は、献げものを清めるために用いられました。
 ここで言われる「火、塩」は、「迫害」を意味しております。人は「苦しみ、困難を通して、練り清められる」ということでしょう。苦しみ、困難によって、より一層、神に深く結び合わされる、それが清めです。「苦しみは、人を神へと向かわせる」のです。
 「苦しみ、困難」は、滅びることではありません。より深く人を神へと向かわせる出来事です。それは「主の弟子として生きる」ことを得させてくれることです。苦しみ、困難によって練り清められるのです。ただ「主のみ、神のみ」であることを鮮やかにしてくれること、それが「火、塩」なのです。

 50節「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と続きます。
 「塩」は良いものです。さまざまな効用を持ちます。なのに「塩に塩気がなくなれば…」とは難しいことです。塩気のない塩など、考えられるでしょうか。一体、主イエスは何を言っておられるのかと思います。主イエスの譬えによって、人はつまずきます。けれども、主イエスは、「人につまずきをもたらすために」語られるのです。つまずくことによって、神へと立ち返らせるためです。
 「あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい」と、難しいことが言われておりますが、結論は「キリスト者がキリスト者であること」、それが「塩味」であるということです。
 キリスト者がキリスト者でなくなったら、何も意味が無いということなのです。

 そして「キリスト者がキリスト者であること」は、「御言葉に聴き、信仰に生きること」「祈り、礼拝する者として生きること」です。それが塩味を持つことです。
 キリスト者としてこの世に証しを立て、神の国の民とされることが言われております。そして、そこにこそ「平安」があるのです。キリスト者として生きるとき、そこに平安があります。それがここに示されていることです。

 「互いに平和に過ごしなさい」と、主は言われます。キリスト者として「共に御言葉に聴き、共に祈り、共に礼拝する者でありなさい」ということです。そこでこそ、私どもは「共に主の交わりのうちにある、平安のうちにある」のです。「共に聴き、共に祈り、共に礼拝する」、そこで見知らぬ人と共に礼拝するとすれば、何と幸いなことでしょう。共にあることによって、平安を得るからです。

 ですから、礼拝は内輪だけのものではありません。見知らぬ者も共に礼拝する、喜びを持って集えるならば、そこでこそ共に交わる幸いを与えられ、主にある平安に与ることができるのです。

 私どもは、生活の慣れから、知った者同志で教会が立っていると思ってしまいますが、そうではありません。互いに知らない者同志であっても、共に御言葉に聴く者が集う、それが教会であり、そこにこそ平安があるのです。
 そして、それこそが「神の国」であることを、主は言ってくださっております。「つまずき」が、いかに神の国に遠いかを示されているのです。

 「共に聴き、祈り、礼拝する者、神の民とされている者」は、共に礼拝に与りながら、「神の国にある平安のうちに、既にある」ことが示されていることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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