聖書のみことば
2014年1月
1月1日 1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 つまずきを除く
2014年第2主日礼拝 2014年1月12日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章41〜50節

9章<41節>はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」<42節>「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。<43節>もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。<44節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<45節>もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 <46節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<47節>もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。<48節>地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。<49節>人は皆、火で塩味を付けられる。<50節>塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 主イエスは「はっきり言っておく」と言ってくださいました。宣言してくださっているのです。41節「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われます。

 ここでは「キリストの弟子」と訳されておりますが、これは必ずしもギリシャ語聖書に忠実な訳とは言えません。ギリシャ語では「弟子」という言葉は使われていないのです。ですから、「キリストの弟子」という表現は意訳です。
 いくつかの訳の中には、「キリストであるという名において」というものがあります。「弟子」という言葉は使われておりません。ですから、「あなた方は、キリストの名を負っているがゆえに」という訳が相応しいのかもしれません。
 「キリストの名を負っている、いただいている」ということ、「キリストの名」ということが大事なのであって、「弟子」ということが大事なのではないのです。
 けれどもここでは、「キリストの弟子である」ことと「キリストの名をいただいている」ということは一つであるということを、この訳から受け止めてよいと思います。「キリストの名をいただいている」ということこそが「弟子の本分である」ということを受け止めてよいのです。

 私どもは、この世の生活の中では、例えば学生であれば、教えてくれる恩師があり、その弟子であり、「○○の弟子」という名を記されます。けれども、「キリストの名をいただく者」という場合には、キリストの弟子であっても必ずしも名を記されないのです。「キリストの弟子」は、「この世でキリストを証しした者」として、いずれ消えゆく者です。その代表的な人はバプテスマのヨハネでしょう。ヨハネはキリストを証しし、そして消えていきました。
 ここで「弟子」と訳されておりますが、その弟子が一体誰なのかということは分かりません。誰でもよい、「キリストの名をいただいている者」に対して「一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われております。「主イエスの弟子」とは、「主の名、キリストの名をいただいている者」です。ですから、「弟子」とはまさしく「主のもの、神のもの」なのです。そのことが大事なことです。
 弟子としてどうあるべきかが問われているのではありません。自分の主体はキリストである。自分は自分のものではない、神のものである。神の支配のうちにあり、救いに入れられている。それが「キリストの名をいただく」恵みなのです。神の救い、キリストによる救いをいただいている者、それが主の弟子です。弟子は、キリストの名をこの身に負うているのです。

 私どもは自分のことをどう表すでしょうか。「一人のキリスト者である」と言うこと、それがキリストの名を負う者として相応しいと思います。「キリスト者」という言葉は、キリストの名をいただいている者の正しい認識であり、自分を表す言葉です。
 アンティオケアの教会で、初めてキリスト者は「クリスチャン」と呼ばれました。事あるごとに、キリスト、キリストと言っていたからだと言われております。このことによっても、「いかにキリストの名によって救われ恵まれているか」を覚えることができるならば幸いです。ただ「クリスチャン」という呼び方は、周囲から皮肉られての言葉でしたので、私どもとしては「キリスト者」と言い表すことが最も相応しく思います。

 「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われておりますが、この「一杯の水」ということをどう受け止めるべきか、難しいのです。一般的には「一杯の水を飲ませる」ことを「ほんのささやかな行為」と捕らえ、「ささやかな行為によっても報いを受ける」と解釈します。
 日本では水を得ることに努力を必要とせず、蛇口をひねれば水は出るものと思っておりますが、しかし、当時のパレスチナでは、井戸に水を汲みに行くことは一日のうちの重要な大仕事でした。ですからここで「一杯の水」と言ったとき、それは、「水は手軽に手に入るものではない」ことを前提に言っているのです。
 その日一日、水を飲むためには、多くの人々の労働があります。朝、井戸へ行き、下へ降り、水を汲み、家まで運び、水瓶に移して大切に使うのです。ですからこの「一杯の水」は、人々の「日常を支える水瓶の中の一杯」であると考えるべきだと思います。そのように大切な水の一杯を飲ませてくれた者を「主は顧みてくださる」と聴いてよいと思うのです。たかが水一杯なのではありません。そのような水一杯を私どもが飲ませてもらうとすれば、そこには多くの人々の働きがあり、その人の営みのすべてを受け止め、そのすべてに神は報いてくださる、水一杯に至るすべてに報いてくださると聴くべきではないかと思うのです。

 もちろん、「ささやかな一杯の水に報いてくださる」と聴くことも麗しいと思います。けれどもそれだけではなく、井戸から汲み上げ、運び、水瓶に移された、その一杯の水に至る人々の営みのすべてを、過程を、神はご存知であって、慈しんでくださって、受け止めてくださって報いてくださると聴きたいと思うのです。
 私どもの業が顧みられるとき、こうしたああしたということが顧みられる以上に、その背後にある様々な出来事、営みが神に覚えられ、顧みられているとするならば、それは、神が私どもの日常のすべてに、慈しみ、憐れみを垂れていてくださるお方なのだということを示していると思います。

 そしてここには、キリストの名をいただく者に対してした業は、主イエスに対してした業として、神は覚えてくださるのだということをも併せて覚えたいと思います。キリストの名をいただくということは、何とすごいことかと思います。私どもキリスト者に誰かが何かをしてくれたことは、神に対してしてくれたこととして覚えられると言うのです。これは、私どもにはできないことです。私どもにできることは、せいぜい御礼を言うことぐらいですが、神は、してくれた者の背後にある生活のすべて、営みのすべてを祝してくださるのです。素晴らしいことです。キリストの名をいただいていることの麗しさを思います。ただ神の一方的な恵みのゆえに、私どもはキリスト者なのです。

 そして、42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われます。ここに、「キリストの弟子」とは何かということが、もう一つの仕方で示されております。
 「これらの小さな者」とは、子どものことではありません。「キリストを信じる者」のことです。キリストを信じる者は、小さな者なのです。このことを、自分を謙虚にする者と考えてはなりません。謙遜にへりくだる者が小さな者だと考えてはならないのです。
 今の世の中は、自分を大きく見せたい、目立ちたいと考える時代です。大きく見せることは、自分の存在を確かにする手段なのです。けれども、聖書は、自分を大きくすることを良しとしません。自分を大きくすることの罪は、神を小さくすることです。それは、神に対する傲慢です。そして、へりくだることも傲慢の裏返しであることを忘れてはなりません。

 日本人の元々持っている信仰は「普通信仰」です。目立つと攻撃される、だから普通にしていれば大丈夫だと、どこかで思っている、そこには大きな罪の問題があります。普通であることが良いはずはありません。いろいろな事柄は起るのです。他の人に起った不幸は、普通にしていたら自分には起らないということではないのです。普通であっても、尊大であっても、あるいは卑屈であっても、どう生きていても、大災害は降り掛かります。普通だから大丈夫なのではないのです。
 普通信仰では、神は関係なくなります。普通にしていれば大丈夫だ思っていることは、錯覚であることを知らなければなりません。また、尊大であれば自力で何とかしようと思いますし、卑屈に生きることは神の創造の業を辱めることです。

 「神によりすがるしか術のない者」、それが「小さな者」です。その者には「神がわたしのすべて」となるのです。神に全く信頼する者、それが小さな者です。このことが大事なことです。
 キリストに従う者、それが主の弟子です。神に信頼し、よりすがる者、それゆえに「小さい者」と言い表わされております。人に頼るのではありません。「ただ神にのみ頼る、すがる」、そのような人こそ、神を表し、神を大きくしているのです。それは、神の義の内にあるということです。

 けれども、このことが最も難しいことです。委ねることをやってみて、その難しさが分かるということが大事です。だからこそ「主の十字架なくしては済まされない」ことが分かるのです。ですから大事なことです。
 神に全面降伏する、白旗を揚げる、まったく神に委ねる、それは「主の十字架を示されて」しかありません。神の圧倒する恵みに打ちのめされて初めて、人は全面降伏するのです。
 神は、ご自身を犠牲にしてまで、御子の尊い血潮を流してまで、私どもの罪を贖い、赦してくださいました。この圧倒する神の恵みを目の前にして初めて、十字架による恵みの出来事によって初めて、「神に全くすがる」ということがあり得るのです。

 キリストを抜きにして、自ら小さくなろうとすると問題が起こります。恵みに圧倒されて初めて、恵みを恵みとして知るのです。それ以外にない、神以外ない、それが私どもの信仰です。
 神以外にない、そういう小さな者をつまずかせる者、「つまずかせる者」とは、「神から遠ざける者」ということです。そのような者は「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」という主の言葉は、当時の人々を恐怖に怯えさせる言葉です。
 「大きな石臼」とは、ろばがひくような大きな臼です。「海に投げ込む」、ユダヤ人にとって一番忌まわしい死に方、それは溺死でした。つまずかせる者、すなわちキリストの恵みにある者をキリストから遠ざける者、その者は、何とも無惨でグロテスクな、そのように目に遭う方が、しかしまだましだと言うのですから、このことは、キリストにあることの恵み深さがどれほどのものであるかが示されているということです。

 今改めて、神が御子を十字架につけてくださってまで、私どもを神のものとしてくださることの恵み深さを覚えたいと思います。
  神の恵みに圧倒されている者にとって、神はすべてです。
  神にすがるしかない、それが私どものキリスト者の信仰の中心であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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