聖書のみことば
2014年1月
1月1日 1月5日 1月12日 1月19日 1月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 わたしたちの味方
2014年第1主日礼拝 2014年1月5日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第9章38〜42節

9章<38節>ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 <39節>イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。<40節>わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。<41節>はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」<42節>「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

 共々に、この年の最初の主日の礼拝を守れますことを感謝します。皆さんの上に、神にある一年の幸を、恵みと平安を祈ります。

 38節「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」とあります。ここでまず注意すべきことは、ヨハネが主イエスを「先生」と呼んでいることです。「先生」という呼び方は、信仰に基づく呼び方ではありません。信仰に基づいて呼ぶならば、「主よ」となるのです。この時点では、ヨハネはまだ、主イエスを「神の御子キリスト(救い主)」として知っていないということが、この「先生」という呼び方で示されております。
 「主イエスを知る」ということは、主イエスを教師として知るということではありません。「主イエスを知る」ということは、「神の御子キリスト(救い主)」として知ることです。私どもに生き方を教える教師として知るということではなく、「私どもを罪より贖い、神との交わりに生きる者としてくださった救い主として知る」ということ、それが真実に「主を知る」ということです。そのことをあらかじめ覚えたいと思います。
 コリントの信徒への手紙一1章の初めに「…イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」とありますように、キリスト者の一番最初の最も短い主イエスへの信仰の呼びかけは「主よ」というものでした。教会は主イエス・キリストを「主」と呼んだのです。ですから私ども、主イエスを私どもの「主人」として、先立ち導きく方として、先ず覚えたいと思います。
 主の弟子たちも「先生」と呼んでいるので、ついつい流されてしまうところがありますが、この弟子たちは、まだ「十字架と復活の主イエス・キリスト」に出会っていないのです。

 ヨハネは「お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」と言っております。「お名前を使って」つまり「主の御名を使って」ということです。「主の御名を使う」ということは、その人は「主の名を呼ぶ者である」ということですから、これは驚くべきことです。主イエスを信じる者が主の名を呼ぶのは当然のことですが、ここでは、主を信じていないのに主の名を呼んでいるというのです。どういうことなのでしょうか。その人の目的は「悪霊を追い出すこと」でした。
 弟子たちは、自分たちの仲間にも入らないのに、主の名を使って悪霊を追い出す、そういうことをしている人がいるのを知って、それを「やめさせようとした」と言っております。ここで2つ目に注意することは、「主の御名には力がある」ということです。主を信じていない者が主の名を呼んで、悪霊が追い出せたということは、主の御名が大いなる力であることを示しております。

 ヘブライ人にとって、また日本人とも共通する感覚ですが、「名は体を表す」と言います。主の御名をを呼ぶとき、そこに主が臨んでおられるのです。主の御名を呼ぶところ、そこに主が臨み、主が働いておられるのです。主がここにおられ、臨まれ、力をくださっている、それが主の名を呼ぶところ、この「礼拝」です。そして、主の御名を呼ぶことによって、私どもは主イエス・キリストに触れることができるのです。

 力ある主の御名によって、悪霊は退散せざるを得ませんでした。 主の御名を使って悪霊を追い出した者たちは、何を見てそのようなことをしたのでしょうか。多くの人々が主イエスによって悪霊の力から解き放たれ、癒されたのを見たのです。主の御名は権威ある名です。人々をさまざまな捕われから解き放つ、それが主の御名です。

 では、私どもが主の御名を頂くとは、どういうことでしょうか。
 主イエスは、この世の一切の束縛、罪から、私どもを解き放してくださいます。それゆえに、主の御名は麗しく、美しい名であり、私どもの心を癒すのです。私どもは、日々の歩みの中でさまざまな出来事に遭遇し、そこで主の御名を呼びます。痛み、悲しみの淵で、主の名を呼ぶのです。孤独の淵においても主の名を呼ぶとき、そこで力を得、慰めを得、癒され、助けを与えられるのです。

 私どもの一年の歩みは、主の御名を呼ぶものです。そこでこそ、主が力を与えてくださり、慰めてくださいます。大切なことは、私どもに「主の御名を呼ぶ恵みが与えられている」ということです。

 ヨハネは「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言いました。このことが問題です。
 旧約聖書では、十戒において「主の名をみだりに唱えてはならない」とありますから、やめさせようとしたことは間違いではありません。何でもすぐに「神、神」と呼ぶことは呪文になるからいけないとされていたのです。けれども同時に、「悩みの淵で、わたしの名を呼べ」とも言われております。神は、神の名を呼ぶことを許してくださっているのです。
 ですから、ましてや新約聖書においては、主イエス・キリストの十字架によって贖われ、清められ、主の復活によって甦りの命に生かされている、そういう私どもだからこそ、主の御名を呼ぶことを許されておりますし、主の御名を呼ぶことは大事なことなのです。

 ここで、弟子たちが、主の名を使うことをどうして禁じたのかを知らなければなりません。ヨハネは「わたしたちに従わないので」と言っております。それは、後の教会で起こったことが背景になっていることです。同じ仲間に加わろうとしないのに、主イエス・キリストの名を勝手に使うということが起こったのです。
 このようなことは、私どもの思いと共通しているかも知れません。例えば、今の世の中で、「クリスマス」には、キリスト者でなくても勝手に主イエス・キリストの名が使われております。ですから、まんざらヨハネの思いが分からないでもありません。
 しかし知っておくべきことは、主の御名を呼ぶことの行き着く先は、「主の救いに与る」ということです。
 けれども弟子たちは、「わたしたちに従わない、仲間にならない者が、わたしたちに与えられた名を使ってはいけない」と言い、それに対して主イエスは、39節「やめさせてはならない」と言われました。これはとても大きいことです。

 ある時期に、教会は、数を増やすことが宣教の目的ではないと言いました。確かにその通りです。教会は、キリストの権能を委託されたものとして、人々に「救いの宣言をなす」のです。ですから、教会のなすべきことは人数を増やすことではなく、「人々を救いに与らせること」です。教会に与えられた使命は、一人でも多く救われる者が起こされることを祈ることなのです。確かに数ではありませんが、しかし、一人でも多く救われること、それがキリストの思いであることを知らなければなりません。

 ヨハネの言葉に対して、主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。それは、主の御名を呼ぶことを、主が許してくださっているということです。このことの恵み深さは、主イエスを知っている者だからこそ、キリスト者だからこそ知っていることです。キリストを知らずに主の名を呼んでいる人たち以上に、それがいかに恵み深いことかを、私どもキリスト者は知っております。それは、主イエスに相応しくなければ主の名を呼んではならないというところから解き放たれるからです。十分に主イエスを、救い主を知らなくても主の名を呼ぶことが許されるならば、自分は主イエスに相応しくないと思ったとしても、主の名を呼ぶことができるからです。

 まさしく、主の御名を呼ぶに相応しい者など、どこにもおりません。だからこそ、主を知らない人々に対して、私どもは、主の名を呼ぶことの恵み深さを語ることができるのです。誰もが主の名を呼べる幸いを与えられているのです。

 「わたしの名を使って奇跡を行い、…」と言われております。主の御名を呼ぶときに起こる大いなることは何でしょうか。それは「奇跡」です。神の救いの御業ということで言えば、「罪人が罪赦され、救われ、神の子とされる」ということ以上の大いなる奇跡はありません。私どもキリスト者自身が、既にその神の御業に与っております。主の御名を呼ぶとき、そこに救いの御業が起こるのです。
 そして、「そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである(40節)」と、主は言われます。主イエスは、主の御名を使うことを許した者たちが、今は救いに与っていなくても、将来救いに与ることを望み見てくださっているのです。救いの可能性を、主は残してくださっていることを忘れてはなりません。
 私どもは、すぐにやめてしまう、例えば身近な者の救いをすぐに諦めてしまうということがあります。もちろん、そうであっても主は働き救ってくださいますが、すぐにやめてしまうことは、私ども自らがその可能性を遮断することになるのです。ですから私どもは、主の名を呼ぶことの恵みを、諦めずに示し続けることが大事です。

 では、禁じるべきことはないのでしょうか。「そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と言われます。主の名によって起こることの麗しさを見て、悪口など言えないだろうということです。けれども、悪口を言う場合には別です。主の名を用いながら、悪口を言い、主の名を辱めることは禁じられなければなりません。私どもに、そういう課題は残されているのです。主の名を用いながら主の名を汚す場合には、主の名を語ることを禁じなければならない、それは教会のなすべきこと、心して整えておくべきことです。主の名を呼ぶ恵みを示さず、主の栄光を現さず汚す、そういうこともあるのです。

 けれどもそのことよりも、ここで語られるべき主題は、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」ということです。これは大きいことです。人は、自ら、敵を作ってしまうものです。自分と同じでなければ味方ではない、同じようにせよと迫ってしまう、それが人の思いです。
 しかし、ここで主イエスはまったく逆のことを言われております。敵でなければ味方である、ということではないのです。相当な広い心、寛容でなければ無理なことです。なぜならば、人は、同じでないと安心できないからです。主イエスは寛容な方です。すべてのことを受け入れる用意のある方なのです。それは「自らが敵にならない」ということです。たとえ相手が敵だと言っても、自らは敵とならないということです。
 敵と思う、悪しく思う思い、それはその人自身の責任です。味方をしないから敵だとする、それは、そう思う私どもがその責任を負わなければなりません。

 主のあり方、神のあり方は、人のあり方とは違います。
 主のあり方の根底にあることは何でしょうか。主イエスの十字架は何か。それは、「主に敵する者たちの贖いのため、神に背く者のための十字架」でした。そして、敵である者の救いのために、父なる神は御子イエスを十字架に付けられました。
 それなのに、味方しないから敵とする、それは神の御心に反することと言われているのです。

 私どもは神に対して敵であったのに、その私どもを神は救ってくださいました。このことを深く感じれば感じるほどに、他者の敵となる必要はなくなるのです。「この私のために、主の尊い血潮が流された」のですから、もはや私どもは、他者の敵となる苦しみから解き放たれるのです。
 敵する者の味方となってくださる方が、「自ら敵とならないように」と言ってくださっていることの恵み深さを思います。相手が敵となってもかまわないのです。私どもが敵とならなければ良いのです。主イエス・キリストを仰ぐことをもって、主から慰めを受け、解き放たれれば良いのです。
 主はすべての者の味方になってくださいました。

今日は42節まで読んでいただきました。38節から42節までは一つの区切りであり、キリスト者のあり方を示しております。次週はこの後半から聴きたいと思います。

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