聖書のみことば
2014年11月
11月2日 11月9日 11月16日 11月23日 11月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神のみぞ知る
2014年11月第5主日礼拝 2014年11月30日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第13章32〜37節

13章<32節>「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。<33節>気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。<34節>それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。<35節>だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。<36節>主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。<37節>あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 32節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と、主イエスは言われます。「その日、その時」とは、どの日のことでしょうか。それは13章のここまでに語られております。「終末やその前触れとしての天変地異がいつ来るのか、それはだれも知らない、知ることはできない」と主は言っておられるのです。
 しばしば、それはいつ来るのか、何が起こるのかと考えて、聖書を読んで調べたり計算する者たちもおります。歴史上にも、その日を特定する者たちがいたのです。けれども、その日を特定することは、その日が来るから悔い改めよと脅しのために語ることになるのです。実際に、特定された日には何も起こらず、人の弁解があったのみです。
 主イエスが言われるのは「だれも知らない」ということです。このことを覚えなければなりません。ですから、私どもはその日を特定してはなりません。特定することは、人の思いに過ぎないのです。

 主イエスは、「天使たちも子も知らない」と言っておられます。まさに、天使が知らないことを人が知る由もないことを強調しておられるのです。神に仕える天使ですら知らない、ここまでは良いとしても、「子も知らない」と言われる。つまり、神の子である主イエスご自身すら知らないと言われる。これは重要なことです。
 神の子は、父なる神と同じ神性を持つお方として神です。父・子・聖霊なる三位一体の神としての交わりをご自身の内に持っておられる、それは交わり(関係)を持つ愛なるお方として三つの位格を持っておられるということです。生ける神であられるゆえに、三つの交わりを持っておられる。ですから「神は愛」なのです。もし、ご自身の内に愛を持っておられなければ、神は外に愛の対象を作らなければならないでしょう。けれども、三位一体の神はご自身の内に愛が完結されているのですから、愛の対象を外に、つまり人を創る必要などなかったのです。それなのに、神は敢えて、愛する対象として人を創ってくださいました。それが「神の愛」の出来事です。
 神はご自身の内に交わりを持っておられるのですから、子が父なる神の御意志を知らないはずはありません。なのに、ここで主は「子も知らない」と言っておられます。それは何故でしょうか。
 終末とは、全く父なる神に由来している、父のみに特化している事柄であって、子はそのことに従う者であることが強調されております。しかも、主イエスは敢えて知ろうとはなさらないのです。自らの思いで知ろうとすることは、父なる神に対する傲慢だからです。

 「知らない」、ではどうすれば良いのでしょうか。神の御意志として、いかなることが起こったとしても、そこでただ神の憐れみを乞うこと以外にないのです。いつ起こっても良い、どうなっても良いのです。ただそこに「神の憐れみが臨むことを祈る」のです。いろいろと詮索して自分で答えを出すということではないのです。その日を特定することは出来ません。私どもにできることは祈ることです。終末は神が定めたもう日ですから、神の憐れみを願う他ないのです。

 ところで「子も知らない」ということで確認すべきことがあります。先ほど、それは子の父に対する従順を示す言葉であると言いました。主イエスは、敢えて「知らない」と言い、「父だけがご存じである」と、「神のみである」と、子としてどこまでも父に従順であることを強調しておられます。父の意志にどこまでも従うことを言っておられるのです。
 このことの頂点が主の十字架です。十字架に付いてまで、主イエスは父なる神の御意志に従われました。十字架は神の意志です。罪人を救うという神の意志です。罪を終わりとし神との交わりを回復させ「罪人を救うため」という神の御意志に、主は忠実に従われました。それが主の十字架、そして受肉の出来事です。
 クリスマスは受肉の出来事です。人を人として救うために「神が人とまでなってくださった」、まさしく「僕(しもべ)の形を取ってまで」の神の子の従順です。受肉、そして十字架こそが頂点です。十字架は痛みと辱めを伴う、そこまでして、罪人の救いのために贖いとなってくださったのです。十字架もまた、神の御意志を貫くための、主イエスの「子としての従順」です。そして更に、罪ゆえに滅びでしかない者に永遠の命の約束を与えてくださった、それが主の復活の出来事です。これら全ては、父なる神に対する「子の従順」によるのです。

 プロテスタント信仰において、信仰者の従順を特に強調した教派は、メソジストとホーリネスです。私どもの教会はその流れを汲みます。主が従順であられたことは、私どもにとっての規範なのです。
 従順がここに示されているのですから、私どもは、神の決められたことに対してもの申すのではなく、従順に従うべきことが示されております。主イエスが神の救いの御意志に従順であられるのですから、「神のみぞ知る」神の御心に従うべきなのです。神の御心を感じられるようにと、私どもには聖霊の働きが与えられております。主イエスの従順は、私どもの救いの出来事なのです。

 ここで、「神のみ」ということを覚えなければなりません。「神のみ」という信仰が示されております。それは「神のみを神とする」ということです.神を神として、神に従うということです。「神のみ」とは、「神が全て」という信仰であることを覚えたいと思います。「神のみ正しい」ということが私どもの信仰です。信仰とは、難しいことではありません。けれども、神のみ、神が全てであるということは簡単なことですが、しかし、これ以上に難しいことはないとも言えます。神が全て、ですから説明を必要としない。けれども、だから却って難しいと言えます。簡単だということは、説明を必要としない、つまり相手を説得する必要のないことです。
 私どもはしばしば、聖書を読み、御言葉に気付きを与えられるということがあるでしょう。それは、誰かに説明を受けたから気付いたということではなく、御言葉に示されるということです。言いたいことは、つまり簡単なことほど難しいということですが、私どもが聖書を読むときに大事なことは、神が直接語りかけてくださっている言葉として、私どもが聴けるかどうかということです。

 「神が全て」なのですから、終末においてはなおさらのこと、神に依り頼む他ありません。そこでこそ、神を神として表す、それが終末における私どものあり方です。
 私どもは、この先のことを如何ともすることはできません。明日はどうなるか、分からないのです。地上においてすら、私どもには先が分からない。ましてや、地上を超えたことは「神のみぞ知る」こと、全てを神に委ねるしかないことを知らなければなりません。
 地上の命を終えなければならない私どもです。地上を超えた出来事は、神に依存する他ありません。それが、終末における「神のみ」ということです。死すべき私どもにとって、全ては神に託することです。

 33節「気をつけて、目を覚ましていなさい」と、主は言われます。「目を覚ましている」ということは、何もしないということではありません。私どもは、為すべきことを為さなければなりません。神に全く依存し、信仰を持つ者として、為すべきことを為すということです。

 34節「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」とは、目を覚ましている人には、責任が与えられているということです。いつ何が起こっても良いように、整えておく責任があるのです。
 信仰生活とは、御言葉に聴き、祈り、礼拝する生活であることはもちろんですが、ここで終末について語られていることを考えますと、終末における救いの完成ということを知る者として、教会は「終わりの日の救いを宣べ伝える」という責任を与えられているのです。終わりの日の救いの恵みを語る責任、この世の救いを語る責任が、神より託されているのです。
 私どもには為すべきことがあったのです。「神の救いを宣べ伝えること、終わりの日に全き者とされる恵みを語ること」です。 葬儀の際には、このことを語るべきです。この世にあった時のその人のあり方を讃えることではありません。どんなに悲しいこの世での生であったとしても、死して後、終わりの日の救いにあることを宣言する、それが教会の負うべき責任なのです。終末を覚える者として、私どもは、責任ある生き方をしなければならないのです。
 「主イエス・キリストの受肉・十字架・復活」という「神の救いを宣べ伝えること」、それが「目を覚ましている」という信仰の姿勢です。

 35節「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」。夜の時が4つに分かれて表現されておりますが、それはローマの考え方です。
 ここで示されていることは、「目を覚ましている」ということは、眠らないということを意味していないということです。「いつ来ても良い、だから安眠しなさい」と言われているのです。神に依り頼み、責任を果たして、そして安眠せよ。寝ている間にそれが来ても良いのです。神が全てであって、安眠しているのであれば大丈夫なのです。
 ですから、「目を覚ましている」ということは、「平安、安眠できるという生き方」です。目覚めた生き方というのは、深い眠りを得ることなのです。

 礼拝において語られることは、教会として、私どもの信仰としての目覚めた生き方です。
 私どもは今、終末において規定されている今を生きております。今、それは終末と結びついているのです。今を、終末の規定の中に生きるという生き方です。終末が今という時を規定していることを覚えなければなりません。今があって終末が来るのではない。終末から今を見るのです。
 そうであれば、いつ何が起こっても良いのです。終末という緊張感を持って今を生きる、終末を待ち望むというわくわくした緊張感を持つ、それが私どもの生き方なのです。

 私どもは、終わりの日の完成を目指して今日を生きております。そこに、私どもには希望があるのです。希望、目標を与えられて生きる今日なのです。
 朝毎に、「ああ、また同じ一日が…」と萎えるのではなく、「ああ、今日、終末が来たらいいな」と、わくわくしつつ喜びつつ、今日を生きるのです。そういう意味で、今日死んだとしても嬉しいと思えるならば幸いです。

 終末に対する私どもの信仰とは喜びであることを覚えたいと思います。

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