聖書のみことば
2014年10月
  10月5日 10月12日 10月19日 10月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 読者よ、悟れ2
2014年10月第4主日礼拝 2014年10月26日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第13章14〜23節

13章<14節>「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。<15節>屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。<16節>畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。<17節>それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。<18節>このことが冬に起こらないように、祈りなさい。<19節>それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。<20節>主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。<21節>そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。<22節>偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。<23節>だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 主イエスは弟子たちに、14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と言われました。「憎むべき破壊者」とはどういうことを示すのか、「立ってはならない所」とはどこか。
 「憎むべき破壊者」とは、ダニエル書9章27節に用いられている言葉です(「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す」)。BC168年、シリアのアンティオコス・エピファネス王はエルサレムに異教の祭壇を建てました。このことが「破壊者」と言われております。ユダヤ人にとってエルサレムは聖なる地であり、聖なるエルサレム神殿を荒廃させる者として語っているのです。エルサレム神殿を荒廃させる、そんなことはあってはならないこと、ユダヤ人からすれば世も末という感覚です。主イエスは弟子たちに、この感覚を覚えさせながら語っておられます。
 「立ってはならない所」とは、言うまでもなくエルサレム神殿です。そこに破壊者が立つ。エルサレム神殿は、このようにしばしば汚されました。それは単に過去のことなのではなく、「読者は悟れ」と、マルコは「きちんと聞きなさい」と言っております。

 主イエスの十字架の後、ローマ皇帝カリグラ帝は、自身の立像を神殿に建てようとしました。聖なるものに対する冒涜が実際に起こるのです。それゆえに、立像が建ちエルサレムが汚されるならば、世も末であるということを示されるだけではなく、主は続けて「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と、「すぐに逃げよ」と言われます。
 このところは、もっと違う内容が語られているとも思われます。AC70年のエルサレム神殿の破壊は、ユダヤ戦争の末に起こります。その前兆が60年頃に起こる、ローマが戦争をしかけてくる、その前兆があったならば、早々に逃げなさいと言っているとも考えられます。どちらとも言い難く、どちらでも良いかと思います。「読者よ、悟れ」と言われておりますから、主イエスの言葉を基にして、「これから起こることに備えるように」と言われていることを聴けば良いのです。

 不法者が現れ、神への冒涜行為があれば、早々に察知して「早々に逃げよ」と言われる、ここに一つの示唆があります。弟子たちに対して、主イエスは御言葉をもって「理解しなさい、対応しなさい」と言っておられます。そういう意味で「読者よ、悟れ」とは、私どもにとって大切なことです。当時、人々は皆が文字を読めたわけではありませんから、ここで「悟れ」とは、文字を読んで悟れということではない、「聴け」ということなのです。主の御言葉を受けて、事柄を理解せよということです。

 もう一つ、ここで「悟れ」という言葉が気になります。私どもは悟れる者でしょうか。マルコによる福音書が示す弟子の姿は、無理解な者の姿です。主が何度語ってくださっても、何も理解できませんでした。弟子たちの姿は、悟りなき者の姿です。そのような者に対して「悟れ」とはどういうことであるかを知らなければなりません。
 「悟りを開いて救われる」という人も、いないわけではありません。悟りが救いであるならば、それは小乗仏教の世界です。山野での過酷な修行の末に悟る、生き仏と言われる人もいます。けれども、それは私どもに可能でしょうか。もしも悟りが救いであるならば、万人の救いとはならないのです。悟りが条件の救いであれば、殆どの人は救われません。ゆえに、小乗仏教は大乗仏教を必要としました。そうでなければ救いはないからです。

 自らの悟りによって救われるということでなければ、私どもの救いは「外からしか来ない」ということを覚えておかなければなりません。外から救いが来て、そして初めて救われる。救いは、私どもの内にはない。外から、神から来る。それが私どもの救いです。そして、だからこそ私どもは「救い主キリストを必要としている」のです。この世はキリスト(救い主)を必要とし、万人の救いのためにはキリストがなくてはならないのです。
 私どものこの世の状況は、救い難い状況にあります。ゆえに、救い主なしには済まされないのです。それは端的に言えば、「神の憐れみなくして済まされない」ということです。

 今の世界はグローバル化して、一個人では全てを把握できない世界です。殆どの人は時代遅れで、全てを知ることはできない複雑な社会で、そのような中で自らの知恵で自らを律するのは難しいと言えます。ですから、外からの視点を必要とし、そういう視点がなくてはならない。それが外からの、神からの救いを必要としているということです。慈しみと憐れみをもって臨んでくださる、神をこそ必要としているのです。
 だからこそ、私どもに必要なのは「キリストの言葉」です。主の言葉を必要としているし、主の言葉なくして済まされない、それが私どもの現実であることを覚えたいと思います。
 救いなき者として、キリストなくして済まされない。キリストの言葉なくして済まされない。それが私どもの日常です。外からの、神の言葉によって、私どもは、自らのことを、この世のことを知るのです。それが「悟る」ということです。
 グローバル化された世界、しかしその世界よりももっと大いなる世界、外からの視点で見ることです。グローバル化されたこの世さえも相対化して見る、それが私どもの信仰におけるあり方です。「キリスト(救い主)の御言葉によって知る」、それが私どものあり方です。それが「悟れ」という言葉に示されていることです。

 世も末の出来事が起ったら、「山へ逃げよ」と言われます。山には隠れる場があるからです。そして、15節「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない」と言われます。これはどういうことかと言いますと、部屋の中に行くなということですが、ユダヤの家には家の中に階段は無く、外階段で上へ上りました。ですから、上にいる者は何かを取りに家の中に入らずに、そのまま逃げよということです。家に戻ってはいけないということです。
 16節「畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」とは、身の安全の確保を促す言葉です。「上着」は当時、夜具でした。律法においても、貧しい人を守るために、貧しい人に貸し付けをして上着を担保とした場合には、必ず日没にはその担保を返しなさいと決められていました。そのように上着はとても重要なものですが、それさえも取りに帰るなと言われているのです。

 ここで「取りに帰ってはならない」という言葉は「振り返るな」という言葉が使われております。「振り返るな」という言葉で思い起こすのは創世記19章です。「振り返るな」と言われたのに振り返ったロトの妻は塩の柱になりました。アブラハムの甥であるロトと家族にソドムの町の破滅が告げられ、神がロトと家族を憐れんで救うために「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と言ってくださった時、ロトは「わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います」と、神に対して値切りました。値切ると言えば、18章でアブラハムもソドムとゴモラの滅びについての神との問答で値切っております。いずれも、神は値切られてくださっております。そして、アブラハムの言葉を主が顧みてくださって、ロトは救われるのです。
 仏の顔も三度までと言いますが、人にはとてもできないことです。主は隣人を許すのに「7の70倍許せ」と言われました。神の忍耐は「7の70倍」すなわち、「どこまでも」ということです。私どもがいかに、神の慈しみと憐れみのうちにあるかということです。

 「振り返るな」とは、自らがこれまで生きてきたことへの執着から、後ろに捕われる生き方から解き放たれて、新しく生きよということです。未来を与えてくださる神に信頼して、新しく生きよということです。神が与えてくださる未来に信頼して、振り返るなと言われるのです。
 私どもは日常に埋没する者です。繰り返しの生活が自分のやる気を削がせるのです。そういう生活から、神は導き出してくださるのです。神へと向かう、このことの大切さが語られております。

 神の御名をいただくことは、自分のこれまでの生き方を慕うことではありません。日常への埋没は、自らをパニックに陥れることです。そこを脱して、神は「安全な所に行け」と言われます。キリストの御名をいただく者にとって安全な所とはどこか。それは「キリストの御名のもとにあること」です。まさにそこが身を寄せるべき安全な場なのです。
 埋没するしかない日常にあって、神へと逃れる場を持つことが大事なのです。そこは慰めを得る場です。それは、日常においては、「祈り」です。祈りによって、私どもは日常性から逃れて神よりの慰めを得、神の慈しみを得るのです。祈っていないことは神に向かっていないことですから、神の慈しみを感じることはできません。ただただ忙しくしている、日常に埋没している、それは取りも直さず、「振り返っている」ということです。
 ただキリストに向かうこと以外に逃れることはできません。祈りによって主との交わりを喜ぶ場が与えられていることは、何と感謝なことでしょう。讃美歌においても、日常から逃れて神に向かうことの幸いを歌ったものが多くあります。

 そこで思うことがあります。祈りとは何か。祈りとは、神との、キリストとの語らいです。ですからそれは、私どもの日常の欠けを祈り求めることではありません。神との語らいですから、神の恵みを思い、神の栄光を思うことです。神の恵みを感謝する祈りこそが、神へと逃れる祈りなのです。
 主イエスの御言葉こそ、無くてはならないことです。ですから、御言葉に聴くこと、礼拝すること、これこそ最も慰めを受ける逃れ場なのです。日常に埋没する者として、だからこそ祈り、主の御言葉が必要です。「私どもは礼拝の場を必要としているのだ」ということを改めて覚えたいと思います。それが「逃げよ」ということです。私どもにとっての身の安全の場、それはただ、キリストにのみあるのです。

 16節までは戦争が起こるだろうこととして語られているのですが、17節からは迫害と苦難を示しております。迫害と苦難から逃れることの困難さが示されております。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい」と記されております。「冬に起こらないように」とは、冬は食糧難になるということだと思われます。

 主イエスは、迫害や苦難は無い、とは言われません。迫害や苦難は必ずある。19節に「創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」とまで言うのです。ここで大事なことは、17節、主イエスが「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」と言って、嘆いてくださっていることです。「苦難に遭う者たちに対して、主の慈しみがある」、それが大事なことです。苦難に遭うことを痛んでくださる、そういう神がいてくださるのです。共にいてくださるがゆえに、慈しみの御手を伸べてくださるのです。

 苦難や迫害は起こる、しかし20節「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」と、主が期間を縮めると言われております。 なお、神の慈しみがある、神の守りは不変であることが示されております。

 私どもの日常に、苦しみや悲しみが無くなることはありません。けれども、決して、神の憐れみと慈しみが損なわれることはないのです。キリストにある者の苦しみの期間を短くしてくださると約束してくださっているのです。その神の約束に信頼せよと、主は言ってくださっております。

 神は変わることなく憐れみをもって私どもに臨んでくださる、その神に委ねて生きる、そこにこそ私どもの生き方があるのだということを覚えたいと思います。
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