聖書のみことば
2013年5月
5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 安心しなさい
5月第4主日礼拝 2013年5月26日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第6章45~52節

6章<45節>それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。<46節> 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。<47節>夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。<48節>ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。<49節>弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 <50節>皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。<51節>イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。<52節>パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 主イエスは祈り、群衆にパンと魚を分け与えてくださいました。そして45節「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と記されております。

 なぜ向こう岸に行かなければならないのか、弟子たちには分かりません。それは、主イエスに理由があるからです。また更に、主イエスは御自身で「群衆を解散させられ」ております。既に群衆が去って、弟子たちだけになっていたというのなら、向こう岸に行くことも分かります。しかし、そうではないのですから、弟子たちにとっては、この主のご命令は疑問だったはずです。自分たちの意志に反して、弟子たちは舟に乗ります。「意志に反して」それが「強いて」ということです。しかしこのことは、神学的に重要なことです。私どもになされる神の御業とは、時に「強いられて」のことでもあることを覚えたいと思います。
 例えば、主イエスが十字架を背負ってゴルゴタへの道を歩まれていた時に、そこに居合わせた「キレネ人シモン」は、人々に強いられて主の十字架を担がされました。このことによって、シモンのみならずシモンの2人の子どもも主イエスの十字架の御救いに与ったことが聖書に記されております。
 人は、すべてを知る者ではありません。強いられてこそ、神の恵みを知るということがあるのです。主イエス・キリストは、罪人の重荷を担ってくださいました。その重荷がいかなる重荷か、強いられてしか分からないということがあるのです。人は自分本位ですから、強いられなければ神の恵みを知り得ないのです。自分本位であれば、神と関わりたくはありません。しかし、挫折があり病があり、事故に遭うこともある。そのような苦しみ、悲しみに遭うことは、まさしく望まない重荷を負うことです。強いられて重荷を負うことなく、人は外へと心を向けて助けを求めることはないのです。強いられなければ、人は神へと至らない。それ程までに、人は自分本位で罪深いのです。

 痛みを負うた多くの人が「苦難に遭ったことは幸いだ」と言います。それは、苦しみに遭って、そこで神の恵みを知ったからです。神が重荷を共に負うてくださるから、慰めを受けるからです。ですから、「強いられる」ことのうちに「神の救いの意志がある」ことを覚えたいと思います。人は、自分の思いの中に救いを見出すことはできません。自己中心であれば対立と無理解、交わりの喪失を生むのです。「強いられて」いるところに、神の意図が働いていることを覚えたいと思います。人は、強いられて初めて、自分がいかに自分本位で罪深いかを知ります。しかし、そこでこそ主イエス・キリストの十字架の恵みが分かるのです。ですから、挫折や困難のあることは幸いなことです。
 創世記3章にはアダムとエバによる堕罪の物語が記されております。どうして罪を犯したのかと、神に問われた男は女に、女は蛇に責任転嫁します。その結果、神は蛇と大地を呪われます。そして女には産みの苦しみを、男には収穫のために労する苦しみを与えられます。神は罪なる者に対して、呪いではなく「苦しみ」をお与えになるのです。なぜでしょうか。苦しむからこそ、そこで神を求める。「神を求める者」としてくださっているのです。ですから、苦しみが幸いであるということは、そこでこそ神に至るからです。自ら進んで苦しみを欲することなどありません。自らの意志に反して、強いられて、そこに神の働きがあることを覚えたいと思います。

 主イエスがここで「御自分は群衆を解散させられた」と記されていることに注意して読みたいと思います。このことは、主が自らなさったということを強調しているのです。弟子たちを介してされたことではなく、主イエスが自ら群衆に接してなさったことなのです。このことは大事なことです。群衆は勝手に主の後を追ってやって来ました。何の準備もない所に勝手にやって来たのですから、勝手に帰ればよいと、私どもであれば思うでしょう。しかし、この記述によって分かることは、主イエスが群衆に対しておざなりにではなく、懇ろに言葉をかけて帰されただろうということです。人々は、主から言葉を頂いて、「今日はもうこれで十分だよ」と心満たされて帰って行ったということです。主イエスは懇ろに群衆に接してくださるのです。主から祝福を頂いて、人々は日常へと戻ります。身も心も健やかにされて、日常に帰って行く。それがここに言われていることです。
 私どもは、主イエスの招きのうちにあります。そして、この礼拝において、私どもは「主の祝福を頂いて日常へと帰る」のです。私どもの日常とは「神の恵み、神の慈しみに生きる」ということです。「主イエスのもとに集められ、帰る」こと、それはまさしく「主の恵みと慈しみに生きる日常である」ことを覚えたいと思います。

 46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」と記されております。なぜ先に弟子たちを向こう岸に行かせられたのか。それは「一人になって祈るため」であったことが分かります。しかし、弟子たちには分からないのです。
 「一人で祈る」、それは「父なる神との親密な交わりのとき」です。それは「主イエス御自身が満たされるとき」です。なぜならば、父なる神と子なる主イエスは、思いが一つであるからです。主イエスにとって、祈りとは、父なる神から力をいただくことです。祈りこそが主の力の源なのであり、主は父なる神に祈ることによって、御自身を満たしておられるのです。
 「祈り」とは、私どもにとっても力の源です。アッシジのフランチェスコの逸話の中に、フランチェスコの力の源はどこにあるのかを知りたかった貴族が彼を食卓に招き、同じ部屋で寝て、フランチェスコが一晩中「主よ、憐れみたまえ」と祈っている姿に接して、その日のうちに修道士になったという話があります。何事も無かったかのように朝を迎えたフランチェスコ。一夜の祈りがフランチェスコに次の日の活力を与えたのです。

 私どもも、自らに困難を覚えるとき、祈りに祈り、力が与えられたという経験があるのではないでしょうか。疲れているから、祈らないで寝て元気に朝を迎えるということではありません。多くの言葉を必要とはしない。「主よ、憐れみたまえ」と祈るとき、どれほどに神の恵みを感じることでしょう。私どもにも祈りが与えられていることを感謝したいと思います。「祈る」そこには「神の支配がある」のです。祈りにおいて、私どもは神の御力のうちにあるのです。

 47節「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」とは、主イエスと弟子たちが「まったく離れている」ということです。主と引き離されて、弟子たちが孤立している状況を示しております。
 初代教会は、嵐に翻弄される舟に、この世の大波に漂う教会の姿を連想しました。ですから多くは、この世にあって、主に信頼し主が共にいてくださる教会の姿を示す聖書の箇所として用いられるのです。けれども、よく考えてみますと、「教会」とは「主が在すところ」ですから、ここで弟子たちが孤立しているということは、「主が共にいて下さらなければ教会に平安はない」のだということを改めて思わされます。
 大切なことは何か。教会が主の福音を宣べ伝える者として、主の福音に生きていること、喜びにあることです。何よりも、教会がまず主の福音の恵みに与っているということが大事なのです。

 嵐に翻弄される中で、弟子たちは何を見ているでしょうか。風向きを見、波を見ているのです。それは「この世」に目を向けているということです。しかし、そのような者たちを、主イエスは見ていてくださいます。
 人は、見ているものに心を向けているのです。この世の価値観に心を向けていれば、この世の動揺によって、私どもも動揺せざるを得ません。この世の価値観は浮き沈みしますから、それに心を向けていれば、私どもも同じなのです。
 ですから、私どもは「何を見ているのか」を問われております。主イエスは心を、嵐に悩む弟子たちに向けてくださっております。風向きや波に心を向け、主に心を向けられずに悩む弟子たちを、主は見ていてくださるのです。何と有りがたいことでしょうか。にも拘らず、弟子たちには主イエスが見えない、だから平安を失っているのです。
 「神を見る」とは「神へと心を向ける」ことです。人には、神を見るためにこそ心が、目が与えられているのです。この世を見ていれば、神を見ることはできないことを覚えなければなりません。私どもに心を与えてくださっているのは神なのですから、与えてくださった方を見ることなく、平安はないのです。

 そして、48節「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」と記されております。悩む弟子たちの所へと、主は行かれます。しかし「通り過ぎようとされた」とは、どういうことでしょうか。「通り過ぎる」ことが主の意図であったということです。
 旧約聖書において、神がモーセやエリヤを通り過ぎられるという場面がありますが、それは「神が通り過ぎる」そこに「神としての栄光を現される」という考えに基づくものであって、モーセもエリヤも、そこで「神の栄光を見た」のです。しかし、ここでの弟子たちはどうでしょうか。神の栄光どころか、主イエスを「幽霊」だとしか見ません(49節)。主を見て幽霊だと思うということは、主を目では見ているけれども、しかし、主へと心を向けていないということです。主へと「心を向ける」のでなければ、主を見ることは出来ないのです。

 心を神に向けている者は、神の救いを見るのです。主を見ていながら主を見出せない弟子たちであることが、ここに示されております。「神を信じられない」のは、神へと心を向けていないからです。弟子たちが、主を幽霊だと思うということは、私どもにとっての大きな示唆であります。私どもが何を見ているのか、問われているのです。

 50節「皆はイエスを見ておびえたのである」とは、情けないことです。しかし、主イエスはそんな弟子たちに「何を言っているのか!」と怒ったりはなさいません。そのような者たちに「安心しなさい。わたしである」と言って、御自身の存在を示してくださるのです。主が御自身を示してくださる、だから弟子たちは、主を主と知ることができます。そして恐れから解き放たれるのです。

 私どもは、さまざまなことに心奪われております。「忙しい」とは、忙しさに捕われて、心を失っているということです。様々に心奪われているから、忙しいのです。ただ神に心を向けるとき、私どもは解き放たれて、心有る者として生きることができるのです。
 ですから、「忙しさ」にかまけることは、主に心を向けることのできない状態であることを知らなければなりません。
けれども、主イエスは、そのような者に対して「安心しなさい」と平安を下さっております。そのようにして舟に乗ってくださった主イエスに対して、弟子たちは51節「弟子たちは心の中で非常に驚いた」と記されております。先のパンと魚のことも、弟子たちは理解できませんでしたから「心が鈍っていたからである」というこの結論は、何ともとんでもない結論です。
  けれども、そのような者たちと、主イエスは一緒にいてくださるのです。主の十字架と復活を抜きにして、主イエスのことを理解することはできません。ただ、「主イエスが共にいてくださるところに、平安がある」ことを覚えたいと思います。

 様々に捕われ、自らを失う私どもと共に、主イエスはいてくださいます。神が、主が、私どもに心を向けていてくださる。救い主が心を向けていてくださる、そこに私どもの望みがあることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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