聖書のみことば
2013年5月
5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 御前で生きる
5月第2主日礼拝 2013年5月12日 
 
小島 章弘牧師 
聖書/テモテへの手紙二 第4章1~5節

4章<1節>神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。<2節>御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。<3節>だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、<4節>真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。<5節>しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

 教区総会に行かれた方は、按手礼式をご覧になったことがあると思います。この愛宕町教会では最近しばしば総会が開かれ按手礼式が執り行われます。
 そこで、教団の正教師試験に合格したものが跪き、そこに出席したすべてのすでに按手を受けた牧師が手を置き、司式者が次のように申します。「・・・聖霊を受けよ。忠実に神の言葉を宣べ伝え、聖礼典を執り行え。アーメン」と。私も今から45年前(1968・11・14)に天城山荘で、按手を受けました。それは厳粛な瞬間でありました。以来牧師として「御言葉に仕えて」まいりました。
 なぜそのことが続けられたかと考えて見ますと、指揮者がいたからです。オーケストラにたとえれば、たくさんの奏者がいて指揮棒を見てただただ自分の音を奏でるように「御言葉を取り次いできた」ということに他なりません。御言葉に聞き従って、また御言葉に生かされて、その務めを果たすことができるのだと思います。御言葉を語るために、何よりも大切なことは、御言葉に聴くことにあるといえるでしょう。 

 この手紙が書かれたころ教会の伝道は、決して楽なものではありませんでした。外からはローマ帝国による迫害があり、内側には異端(グノーシス主義)との戦いがありました。この聖書には、そのような背景があります。内外両面からの圧力の危機的状況に直面していたので、激励の言葉がつづられています。
 形としては、パウロの遺言の言葉になっています。「厳かに命じる」ということが、そのことを表しています。

 1節に、「御前で」と2度繰り返されています。ひとつは、「神の御前」であり、「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリストの御前」です。これは、訳として「・・に賭けて」という意味もあるといわれます。
 「信仰」は、パスカルがパンセで「信仰とは一つの賭けである。(中略)もし君が勝てば君はすべてを得る。もし君が負けても君はすべてを得る。だからためらうことなく神はあるという側に賭けなさい」と言っているように、信仰は、「賭けだ」というのです。「イエス・キリストに賭けて生きる、キリストの御前で」ということは、キリストに自分を賭けて「キリストに委ねて」ということになりますから、「御前」と「キリストに賭けて」とは同じ意味になるわけです。
 マルチン・ルターの最後の言葉は、「わたしはキリストの乞食だ」という言葉だと言われています。「キリストからの恵みで生きる者」だということでしょう。また内村鑑三は、死の3ヶ月前に、側近(天達文子)に「僕が死んだら、人々はいろんなことを言うだろう。偉人だとか、何とか。そしたら書いておくれ、僕が十字架にすがる幼児に過ぎないことを・・・」と言ったといわれています。キリストにすべてを賭けて生きたことを示しているような言葉ではないでしょうか。「御前で生きる」ということは、「キリストにすべてを賭けて、委ねて生きること」に他なりません。

 次に、「その出現とその御国とを思いつつ・・」ですが、出現はキリストの受肉ではなく、ここでは「再臨」のこと、「御国」とは「終末のときの神の国」を現しています。(新しい天と地のこと・・ヨハネの黙示録21:1〜4)18節の「ご自分の国へ救い入れてくださる」という国です。
 聖書の終末論は、非常に楽観的なものです。それはヨハネの黙示録の21章から22章を見ると、そのことがわかります。
 つまり、再臨とは、神がキリストにおいて完成してくださる出来事です。どのような形での完成かは、私どもにはわかりません。しかし、神がすべてを約束通り、責任を持って完成させてくださるということに賭ける以外にはないのです。
 最後の審判とも言われていますので、何か不気味に聞こえますが、悲観的なことではないことだけは確かです。「神は最善をなしてくださる」という信仰です。神はすべてのものを御国へと招いていてくださるのですから、心配することはありません。

 ヨハネの黙示録21章1〜4節を見るとそのことが良くわかります。ここには2つのことが示されています。
 「1. 神が共にいてくださる。神の幕屋に神と人とが共にいる」ということ。そして「2. 神が涙を完全に拭い取ってくださる」ということ、「死も、悲しみも嘆きもない」と書かれています。
 先ほど告白しました使徒信条の最後の部分を見ますと、「かしこより来たりて、いけるものと死ねるものとを裁き給わん。われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、永遠の命を信ず」となっています。
「身体のよみがえり」も、どのような状態であろうと、最後には神が完成してくださるということを示していることです。

 そして、このことに賭けて生きること、それを「宣べ伝える」ことを命じているのです。それは「時が良くても悪くても」です。時代がどう変っても、状況に左右されないのです。若いテモテに対して、伝道者としてこのことを伝道することが使命であると伝えているのです。

 そのためには「とがめること、戒めること、励ますこと」が時には必要になります。そのことをかなり厳しい言葉で書いています。
 3節以下は、いわゆる異端的なものに対しての戒めです。この手紙が紀元90年前後、組織的にキリスト者に対する国家的な迫害が始まる前であったと思われますが、そのことをわきまえて、対処の仕方、また心構えを伝えています。
 人間は、自分に都合のいい事だけを聞く傾向があります。 作り話(テモテ一1:4)異端的なものに引っ張られてしまうことから、本当にキリストの福音に生きる者の生き方は、「身を慎む(ネフェ)こと」だといっています。それは「まじめに冷静に生きること」を意味しています。
 つまり、テモテに対して、異端に負けずに福音宣教に励み、その務めを全うするように勧めています。厳しい迫害が来ても、忍耐を持って、福音を伝えることに専念すること、そしてその福音に賭けたのだから折が良くても悪くても、迫害があっても、その福音を伝えていくように励ましています。

 今日、わたしたちは目に見える迫害を経験していません。したがって心が鈍くなっている状況にあるかもしれません。しかし、このような時代にあっても、身を慎み(目覚めて)、あの信条に示されている「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリストに、すべてを委ねて生きる者でありたい」と思います。

 5節に「どんな場合にも」、福音宣教に励み、勤めを果たしなさいとありますが、それは2節の「折が良くても悪くても」と同じで、状況によって意気消沈したり、心弱くなったりせず、福音を冷静に、身を慎み、宣べ伝えることを勧めています。

 聖霊の助けにより、私どもがこのように生きることを勧めています。
 エフェソの手紙に、次のような言葉があります。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4:30)
 「キリストに賭けて、御前で生きるすべての者」に「聖霊が注がれて」います。あの聖霊降臨の日に、そのことが起こりました。そして、弟子たちは語りだしたのです。キリストの十字架の死と復活を。そのことを語らせるのは「聖霊の導き」です。そのことが「御前で生きる」ことです。

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